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イギリスに来て一カ月あまりたちますが、日本の春闘はどうなったかと気にかかります。当地に来るまえから私が指摘していたことですが、わが国でもイギリスでも構造不況期に入り、大企業での首切り「合理化」がすすむなかで、日本では労働組合、とりわけ民間大企業の組合が指導権を握る単産で、労資協調的傾向が強まり、組合は首切り「合理化」に抵抗しようとしないので、労働組合運動は全体として沈滞し、ストライキ闘争は件数も参加者も減り、さらに労働組合員数そのものが減少していく傾向にあります。ところが、イギリスでは日本よりももっとひどいサッチャー内閣の金融引締め策のもとで、失業が戦後最高の数に達しているばかりか、内閣自体が公言しているように、秋までにさらに失業がふえ、ケンブリッジ大学の経済研究グループの予測するところでは、こうした政策がつづくかぎり、失業者数は一九八五年までに四五○万人にも達するだろうといわれていますが、こうしたきびしい状態のもとで、いや、そういうきびしい状況にあればこそ、労働組合はその多くが職場労働者のイニシアチプのもとに、はげしいたたかいをくりひろげています。
もとよりきびしい条件のもとで、組合運動の一部に後退がみられないわけではありません。後退の一例として目立つのは、運輸一般労組(TGWU)につぐこの国第二の巨大組合である合同機械労組(AUEW)です。一九六七年いらいはじめて七八年に右派が指導権を回復し、それと同時に、資本とたたかう方向を失い、指導部の方針を批判した組合専従の首切りを強行するなど、日本の右派組合によくみられる思想的、政治的差別政策がまたまた首をもたげてきています。もっとも首を切られた専従醤記は、裁判所に訴えでてたたかい、組合側が完全に敗訴するという、これまた日本の一部組合を思いださせるような結果が生まれていますが。
また一九六○年代後半に、いま述べた合同機械労組をふくめてすべての組合が思想的・政治的差別政策をやめたときに、ただ一つだけそうした政策をとりつづけた電機・電子組合(EETPU)も、いまその右翼的傾向をいっそう強めています。
TUCの総評議会は、五月一四日を統一行動日とさだめ、サッチャー内閣に政策転換を迫り、次期選挙で労働者と人民のためになる勢力を勝利させるための第一歩として、この日の行動に全力をあげて参加することを、傘下全組合に呼びかけています。この呼びかけは大きな反響を呼び、右傾化しつつある合同機械労組をふくめて、ほとんどすべての組合の執行部の支持をうけていますが、EETPUの執行部だけはこの行動日に反対しているばかりか、執行部に批判的な立場をとる二○○○人の大支部の権利を停止し、さらに昨日(四月一一三日)は、左派指導下にある、五○○○人の組合をもつこの組合妓大の支部に、権利停止の処分を加えています。
しかし、そうした傾向が一部にみられるにせよ、この五月一四日に設定された統一行動日のたたかいにもみられるように、組合運動は全体としては労働者の権利を守るためにたたかいを強め、そうすることによって組合員をふやしています。五年前にようやく一○○○万人に達したTUCの組合員数は、いまでは一二一三万人をかぞえていますし、そうしたなかで組合運動は、例外的な時期を除いてはかつてこの国にふられなかったような政治的色彩を強めています。
イギリスのほうがはるかに古い、したがって停滞的・後退的要素を強くもった資本主義であるというちがいを別にすれば、資本主義経済の同じような循環局而にありながら、日本の労働組合運動とイギリスの労働組合運動とのあいだに、どうしてこれほど大きな対応のちがいがでてくるのでしょうか。
組合の基礎組織と行動様式
そうした点を明らかにするための一つの作業として、労働組合の基礎組織のあり方とそこからでてくる行動様式のちがいを比較研究してみたいと私は考えているのですが、そうした意図をあるイギリスの学者――この人は労働問題の専門家ではないのですが――に話したところ、「イギリスの労働組合と日本の労働組合とはまったく別のものだ。日本の組合はカンパニー・ユニオン(御用組合)ではないか。歴史的・社会的背景もちがい、組織のあり方もまったくちがうのに、比較研究などできるはずがない」と、問題にされませんでした。
たしかに日本の企業別組合を御用組合と割り切ってしまえば、そういうことになるかもしれません。しかし、日本の組合運動の歴史と、またイギリスをふくめてヨーロッパ諸国の組合運動の歴史、とりわけ最近十数年間におけるその変化をふりかえってみると、日本の企業別組織を御用組合とだけ割り切るわけにはいかないことは明らかです。
そのことは、日本とちがって企業の枠をこえた地域支部をもち、産業別・地域別の組織原理にもとづいて組織されてきたヨーロッパ諸国――もとよりイギリスをふくめてのことですが――の労働組合組織が、独占資本主義のいっそう発展した段階である第二次世界大戦後の状況、とりわけ六○年代に、なんらかの形で職場を基礎に企業別の組織と行動を発展させなければならなかったことを思えば、いくらか明らかになるように思われます。
日本の場合は、組合運動は独占資本主義段階に入ってようやく一定の力をもって発展しはじめたのであって、とりわけイギリスのように、資本主義がこうした発展段階に達する以前に、手工業の熟練職人たちが企業の枠をこえて職種別・地域別にその組織と組織をささえるモラルとを発展させるという歴史をもたなかったのですから、どうしても企業別の団結が優先し、組合の組織形態も企業別組合の勢ぞろいとしての産業別組織の形をとるようになったのではないでしょうか。そして、この組織形態からくる弱点――企業別の団結と組織原理が優先し、組合に真に階級的な性格を保障する企業の枠をこえた地域別・産業別の団結の原理が後方におしやられるという弱点――がおもてにでてくれば、組合はとうぜん企業意識に支配される労資協調主義的傾向をもつことになります。
日本に学ぶイギリスの資本家
以上のような仮説をたてて、逆にイギリスの労働組合運動を見なおしてみると、かなり 興味ある事実が発見できそうです。
「日本の組合とは社会的・歴史的条件からいってまったく別のものだ」とイギリスのあ る学者がいったイギリスの組合運動の場合も、もし資本の側が発達した独占資本主義段階 に生産の技術上の変化などによって生まれてくる職場の新しい諸条件をたくみに利用し、また日本の労務管理方法などに学ぶことによって、イギリス労働組合運動のなかに歴史的 に形成されてきた「企業の枠をこえた地域別・産業別の団結」のための組織と意識を弱め ることに成功した場合には、いったいどのような結果が生まれるでしょうか。
「日本の労務管理方法に学ぶことによって」と私は書きましたが、ついでに言うなら、ヨーロッパ諸国の資本家と為政者たちは、早くから日本の企業別組合が資本の発展にとっ ていかに有利であるかに注目しています。そのことは一九七二年の「OECD対日労働報告書」をみても明らかですし、「日本の高度経済成長を可能にした最大の功績は企業別組合によってつくりだされた日本的労資関係である」とまで極言するイギリスの学者もいるのです。そして本年四月には、ロンドン大学で「在英日本企業の人事管理の発展」に関する会議も開催されていることを思えば、それは十分にありうることなのです。
しかし、直接日本の経験に学んだかどうかはいまは問わないことにして、イギリスの資本がとにかくそうした労務管理方法をたくみに実施することができ、労働者と労働組合がそうした方法にのせられた場合にどのような事態が生まれるかについては、イギリスの労働組合研究者のあいだですでに調査がはじめられ、一定の結論がでてきているように思われます。
そうした調査の一つとして私が興味をもって読んだのは、ラスキン労働組合調査団がだした『作業組織に関する職場委員の手引き』(注:The Shop
Stewards’ Cuide to Work Organization’’)です。それは、各種産業にわたり小企業から大企業にいたるまでの五つの企業における事例調査の報告、しかもいずれの場合も、労働組合側と企業側の双方について聞き取り調査をおこなったうえで分析をすすめた結果の報告であり、それは職場委員と労働組合にたいする警告の書となっています。
結論を先に言うと、資本の側がそうした政策をたくみにとり、成功した場合には、イギリスの労働組合運動にとって伝統的な多数組合制(いくつもの組合が同一企業の労働者を組織していること)や地域別・産業別、もしくは地域別・業種別の団結の原理(そうしたいくつもの組合に分属する労働者が、企業の枠をこえて団結し行動すること)が否定され、イギリスの組合にも日本の企業別組織とそっくりの傾向がでてくるということです。
そうだとすると、イギリスの労働組合と日本のそれとはまったく別のものだなどとはいえなくなると同時に、日本の企業別組合組織についても、どこにその重大な組織的欠陥があるのか、深く反省する必要がでてくるように思われます。
企業別組合組織の欠陥
ラスキン労働組合調査団がおこなった五つの企業での事例研究に共通してふられるのは、まず第一に、新しい施設の導入にあわせて新しい作業方法を採用するのをきっかけにして、資本の側の新しい対組合工作がはじまっていることです。
第二に、新しい作業方法をとり入れるさいに職場委員や職場労働者にさまざまの提案をおこなわせ、いかにも労働者側の意見を十分にとり入れて作業方法を民主的に改善するような形をとりながら、最終決定権は経営側が確保していることです。つまり、みせかけの「参加」の方法がとられているのです。
第三に、そのさい出来高払いの賃金を職務評価にもとづく時間制賃金にきりかえるなどしながら、その時点では一時的に大幅賃上げをおこなって、労働者と組合側を満足させていることです。
こうして、作業方法の改善に労働者がすすんで協力し、企業の収益を高めるならば賃金もふえるのだという意識を労働者にうえつけます。そして、さらに企業内に独自の福利施設をもうけ、労働者をできるだけ企業内に封じ込めるような政策がとられています。
ある企業は――ここは組合に組織された労働着が少数しかいなかったのですが――いくつかある組合のうち最大のものとクローズド・ショップ協定まで結びました。組合は、企業内の全労働者を組織化することができるというのでこの協定を受けいれました。
しかし、以上すべての労務政策が実は組合の企業内化をすすめることを目指していたように思われます。そして数年をへたのち、どのような結果があらわれたでしょうか。
報告書が明らかにしたところでは、これらの企業では組合員がしだいに企業の収益問題にのみ関心をむけるようになり、地域の組合組織にたいする関心を失っていきました。職場委員がいかにやっきになっても、職場労働者がそのような状態ではどうにもなりません。そして、そうこうするうちに労働者は、自分たちと同じように企業の収益にだけ関心をむける仲間のなかから職場委員を選出するようになっていきました。
そして企業内収益にもっぱら関心をむける労働者――企業意識にとらわれた労働者とその組合は、数年間のあいだにつぎつぎと首切り「合理化」案を受けいれることになり、気がついたときには、企業内で働く労働者の数は半減し、組合もその組合員数を減らしてい
たというのです。
ラスキン労働組合調査団はこの結果にもとづいて、労働組合がより正確な民主的統制の政策をもたなければならないという点にその警告の焦点をあてています。
しかし、日本の労働組合運動にとっては、この調査結果はまず何よりも企業別組織の弱点克服の方策と努力の必要性を訴えているように思われるのですが。(一九八○・四・二四)
労働組合組織の特徴
さてこれまでイギリスの春闘攻勢の印象にはじまり、イギリス労働組合会議指導による五月一四日の全国統一行動、銀行・保険関係労組の動向などについて書いてきましたが、今回は、イギリス労働組合運動全体の組織の特徴――日本の組合のそれとばかなりちがった組織構造――と、そこからでてくる組合の行動様式のちがいについて、のべてみます
高い組織率
イギリス労働組合運動の第一の特徴は、組合組織率の高いこと、しかも労働組合中央組織が労働組合会議TUCに統一されていることです。
日本の組合組織は民間の大・中規模企業労働者と公企体、公務員に集中し、労働者階級の三分の二を占める小・零細企業の労働者がほとんど組織されていません。このため、組合組織率は三十数パーセントのところをゆきつもどりつしています。しかも組合のほとんどすべてが企業別に組織されているため、この三十数・ハーセントの組織労働者のなかには、組合員としての自覚をまったくもたない労働者や反組合的な職制までがふくまれているので、この三十数パーセントという数字すらそのままには受けとりがたい一面をもっています。
これにひきかえ、イギリスの組合組織率は現在五○パーセントをこえています。
しかも組合員の大部分は企業の枠をこえてつくられた全国組織に属しているのですから、組合員としての自覚のない労働者や反組合的な人が組合員になっている例は、日本よりもはるかに少ない――いや例外的存在といってよいでしょう.
もとより企業内組合がまったくないわけではありません。公務員、銀行や民間大企業のホワイト・カラーのうち、主として第二次世界大戦後に組織された職員層は、企業ごとに組合をつくっている場合があります。しかしこれも多くの場合、日本の企業別組合とはちがいます。というのは日本の企業別組合はその企業もしくは事業所の全員組織ですが、イギリスの場合には、公務員や銀行、大企業の労働者と下級職員は企業の枠をこえた全国組織に組織されており、上・中級職員の一部が企業内組織をつくっているにすぎないからです。この後者の企業内組織の多くは、イギリス労働組合会議(TUC)に加盟していません。
TUCの加盟労働者数
では総組合員数――一九七六年に三四○万で、現在はもっとふえています――のうちTUCに加盟している組合員数はどれくらいでしょうか。
一九七六年にイギリスの総組合数は四六二、総組合員数は一二四○万でしたが、このうちTUCに所属していたのは一一三組合一一○三万六○○○人(一九七九年には一二一三万人)で、組合数にして二四パーセント、組合員数にして八九パーセントでした。この数字からわかるようにTUCは組合員の約九○パーセントを組織しており、TUC非加盟の組織は、そのほとんどがさきに述べた上級職員の特殊な組織か、もしくは、組合員数が数百ないし数千の特殊な職業別組織(クラフト・ユニオン)であり、したがって組合運動のいわば周辺に存在する、分散した組織とみてよいでしょう。
また次のような数字もこの間の事情を知るうえに参考になるかもしれません。一九七六年のイギリスの総組合数四六二のうち、半数以上は組合員数一○○○人以下の小組合で、組合員数の八八パーセントまでは組合員数五万人以上のわずか三九組合に所属していま
す。これが組合運動の中心勢力であることは言うまでもありません。
以上の数字を七九年の日本の組合数三万四一六二、組合員数一二三八万、組織率三二・六パーセントと比べ、また組合員数の三六パーセントが総評に、一七パーセントが同盟に、一○パーセントが中立労連に、○・五パーセントが新産別に分属し、このいずれにも加盟していない組合員が四○パーセント近くを占めるという状況をみるとき、イギリスと日本の組合運動のちがいの一半がはっきり見えてくるのではないでしょうか。
企業の枠をこえた組織
第二の特徴は、すでに述べたことからでも想像できると思いますが、組合運動の主力が、企業の枠をこえてつくられた組合であることです。この企業の枠をこえた組織にはさまざまの型があるのですが、第一は職業別・地域別につくられた職業別組合、第二は地域別・産業別につくられた産業別組合、それからほとんどあらゆる職種、産業の労働者を組織している一般労働組合に大別することができます。
そして一般労働組合は、あらゆる産業に組織の手をのばして、いまでは巨大化し、それに対応してかつての職業別組合の一部も同じような傾向をたどっているところから、こうした組合を“多業種労組”(コングロマリット労組)などとも呼んでいます。その典型は、そのなかに一二の産業別部門をもつ運輸一般労組(TGWU、二○七万)、一般自治労組(GMWU、九六万)、四部門をもつ合同機械鋳造労組(AUEW、一七○万)です。この三組合だけでなんと四七三万の組合員をもっていますし、TGWUにいたっては、それだけで全国中央組織に近い形態と力をもっているといえましょう。
なぜ企業別組織の形をとらなかったか
では、なぜイギリスでは日本とちがってこうした企業の枠をこえた組織が発達し、今日なお力をもっているのでしょうか。
最大の理由は、一九世紀の六○~七○年代にイギリス労働組合運動が確立し、運動をささえる伝統、意識、習慣が形成されたことにあるものと思われます。
この時期にはイギリスではすでに産業革命――工業の主力を、手工業から、機械と動力を使州する工場制工業へと変えた、あの産業革命――を世界にさきがけて終了し、工場制工業が確立していたのですが、当時の機械はまだ今日のような精度をもたず、大量生産も不可能であったので、工業製品をつくるのには、全労働者の一五パーセント前後を占める熟練工が生産工程で決定的な役割を演じていました。そこで労働組合は、一つの工業地帯で働く同一職種の全熟練工が寄り集まって、自分たちの最低賃金と労働条件をきめ、これを雇主にみとめさせる組織として発展したのです。
したがって組合はとうぜん職種別・地域別の組織としてつくられ、これが結集して全国組合をつくりました。そのうえ、同一企業内で働いていても半熟練工や不熟練工は組合に組織されないのですから、企業別組織ができようはずはありません。
しかし、ここでかんじんなことは、こうしてつくられた組合は、企業意識にとらわれることがなかったことです。いくら企業が赤字だと言っても、それは組合や組合員の関知するところではなく、組合は、一定熟練をもった労働者にそれ相応の賃金を支払えない企業からは組合員をさっさと引き揚げたのです。
こうして企業の枠をこえて団結し、同一職種や同一産業の労働者の賃金・労働条件を守る――これが労働組合だという意識・常識が、労働者のあいだにひろく根づきました。
二○世紀に入る頃から、それまで組合に組織されなかった半熟練工や不熟練工が一般労働組合に組織されるようになり、これが巨大組織へと発展していきました。しかし、この間も一九世紀以来の職業別組合は強固に存続しつづけたので、一般労働組合は職業別組合にとってかわるのでなく、それと併行して存在することになりました。
そこで一つの大工場を例にとってみると、この工場の労働者のうちさまざまの職種の熟練工は、それぞれの職業別組合に属しており、半熟練工と不熟練工は一般組合に加盟することになりました。これでは、日本式の一企業もしくは一事業所の全員組織としての企業別組合は成り立ちようがありません。そして、一九世紀以来の組合常識からいって、一般組合もとうぜん企業の枠をこえた組織として発展することになりました。
職場労働者が組合の主人公
イギリス労働組合運動の第三の特徴は、今世紀の六○年代から七○年代にかけて職場組織がめざましく発展し、組合運営が職場労働者を主人公にした民主的なものに大きく変わってきていることです。
このことは、巨大企業労組出身の少数幹部が産業別組織や全国中央組織を牛耳り、職場労働者の発言力と自主的行動がますます封じられてきているように思われる日本の労働組合運動とは、まったく対照的です。しかしこの点を説明するためには、少々の歴史的回顧が必要です。
イギリスでは誰でも知っているように労働組合運動がもっとも早く発展した国であるうえに、イギリス資本は強力な財力をもっていましたから、支配層は組合運動にたいして、少なくとも最近までは、きわめて柔軟に対処してきましたつ
一八七○年代には近代的な労働組合権をほぼ全面的に承認しました。組合運動を承認し、全国的な産業団体と全国組合とのあいだの自由な交渉によって労働条件をきめることこそ、労使関係をもっともよく安定させる方法だということが、支配層と政府の常識になりました。二○世紀にはいって、不熟練労働者を組織する一般労働組合が発展すると、資本と政府の側は、組合幹部に政府の審議会に参加させるなど、さまざまの特権を与えて、これを労資協調主義にひきいれました。こうして、企業の枠をこえてつくられた全国組合の指導層は、いわゆる“穏健派”、つまり右派が握るようになりました。
一九二○年代から四○年代にかけて、こうした組合指導者は、各組合で独裁的ともいえる少数支配を確立し、左翼反対派の動きをきびしく封じ込んできました。イギリス労働組合運動はどうしようもないほど右翼的だといった印象がつくりだされたのは、主としてこの時期のことです――と言っても、ときおり、たとえば一九二六年の大ゼネストのような激しい闘争が下から吹きあがったことは事実です。
ところが一九五○年代からしだいに、そして六○年代から七○年代にかけては加速度的に、イギリスの労働組合運動の支配と運営に“転換”が起こったのです。右派幹部による上からの少数支配から、職場労働者の職場組織を中心にした民主的運営への転換が。そしてそれと同時に、言うまでもないことですが、運動は、それまで考えられなかったような戦闘性を示しはじめました。
転換がどうして起こったか
この一大転換はどうして起こったのでしょうか。
まず第一は、戦後の新たな革新的技術の導入にともなう職場の労働力構成の変化(熟練労働力が不要となり、半熟練・不熟練労働者が生産過程でいっそう重要な役割を演じるようになる)、それにともなう企業側の人事管理方法の変化(出来高払制から職務評価による時給、日給制への移行など)などです。各企業ごとにちがった機械が入り、ますますちがった労働環境のもとで労働者が働くようになったときに、中央の少数幹部が業者団体とのあいだでとりきめる全国協約だけでは、職場労働者の要求をとうてい満足させることはできなくなりました。そこで職場労働者は自分たちの代表=職場委員を選出し、全国協約を最低の条件としつつ、これに上積みするたたかいを自主的に開始しました。職場には、さまざの全国組合に所属する労働者――それば数組合からときに十数組合にもおよびました――が働いていましたが、これらの労働者は組合ごとにか、数組合ごとに職場委員を選出して、職場の職制と交渉するとともに、さらに工場全体では職場委員会やその連合委員会をつくって、工場側代表と交渉しはじめたのです。
第二に、五○年代から六○年代にかけては、ほぼ完全雇用状況にあり、そのうえイギリスでも経済成長がつづいていたため、企業の側は新規労働者をもとめてたがいに競争していました。このため、職場労働者が団結してたたかうと、企業の側はあるていど譲歩しないわけにはいかなくなり、譲歩をかちとると、これにはげまされて、組合運動内では組合員がますます職場委員会運動をかため、ひろげることになりました。
そして、こうした動きは多かれ少なかれほとんどすべての組合で発展しました。六○年代前半までは、全国組合の指導者はこうした動きに冷淡であるか、もしくはこれを押さえにかかっていました。イギリスのストライキの大部分が組合非公認のいわゆる・山猫ストで、全国ストはほとんどないというのがこの時期までの特徴でした。しかし六○年代後半から、すでに下部で起こりはじめていた“転換”がはっきりと表面化し、イギリス労働組合運動全体におよんでゆきました。
ジャック・ジョーンズと運輸一般労組
そのきっかけとなったのは、TUC傘下の最大の組合で、かつては右派の拠点といわれていた、運輸一般労働組合の転換でした。六○年代末にジャック・ジョーンズがこの組合の書記長になり、彼の組合理論――七○年代の組合はかくあるべしという彼の理論を大胆に実行に移したのでした。彼の理論というのは、今日の労働組合運動は少数幹部の中央指令型運動であってはならないというのです。
職場の要求、職場の状況をもっともよく知っているのは職場の組合員だ。だから職場組織をそだて、職場労働者の自主的なたたかいを軸にして組合を運営すべきだ。こうしてこそ、労働組合は民主的で階級的な組織となりうるし、最大限にその力を発揮できる。これが彼の理論でした。
今日では、職場委員が組合の地区委員にもなり、職場委員会の議長が組合の全国執行委員もかねるというように、組合はいちじるしく民主化され、それとともに、イギリスの組合運動に長いあいだのこっていた思想的差別政策(たとえば共産党員は役員にはなれないといった規約や内規など)もなくなってきています。
イギリス組合運動のなかではいま右派と左派がはげしく指導権争いをしていることはたしかです。右派は労働党右派系、左派は労働党左派と共産党系の統一勢力といわれますが、しかし指導権争いはそれぞれ政策をかかげて公然とおこなわれ、そこには日本のそれほど陰湿なものが感じられません。
そして最後につけ加えておかなければならないのは、イギリス労働組合運動では、企業の枠をこえた組合の組織構造と、企業内の職場労働者の自主的組織とがたくみに結びつけられているために、組合員は企業意識にとらわれにくく、しかも職場を基礎にした組合活動が展開しやすい組織形態がつくりだされているということです。私はこうしたイギリス労働組合運動のあり方のなかに、日本の運動への大きな示唆がふくまれているように思うのですが。 (一九八○・七・二四)
発達した職場組織 (ショップ・スチュワード shop stewards)
前回はイギリスの労働組合のあり方が、職場組織の発展によって、どのように大きく変化しているかについて書きました。今回は、それと若干重複するところがあるかもしれませんが、こうした職場組織がどうなっているかについて、お伝えしようと思います。
以前には、イギリス労働組合の基礎組織は地域別につくられた組合支部であり、その指導者は支部書記と支部長でした。ところが、今日では、規約上はたじかに支部が組合の基礎組織ということになっていますが、実際には、職場の組合員たちが自主的につくりだした職場組織が事実上の基礎組織になり、今日のイギリス労働組合運動の力は、主としてここからでてきています。
この職場組織を代表し指導しているのが、職場委員(ショップ・スチューワード)です。
しかし、すべての組合が、職場委員をショップ・スチューワードという名で呼んでいるわけではありません。もともと自主的に成長してきた組織なのですから、呼び名がまちまちなのは当然のことです。印刷工組合では「ファーザー・オブ・チャペル」、製図工組合では「連絡員」、ホワイト・カラーの場合は「職員代表」などと呼んでいます。
また、産業や職種のちがいに応じてその発展の度合いにも差があります。たとえば農業労組ではまだ職場組織ができておらず、地方公務員組合の場合にはようやく成長期に入った段階にありますが、しかし今やその発展は組合運動全体にほぼゆきわたっていると言ってよく、金属産業労働者の九五パーセント、事務労働者の八八パーセント、流通部門労働者の七八パーセントまでが、職場組織にくみこまれています。そして一九七一年の推定では、全イギリスで二五万から三○万におよぶ職場委員が選出されており、七三年にはこれが組合の存在する全経営の八○パーセントで活動しているものと推定されています。
はじめ全国組合の指導者はこうした組織の発展をみとめようとしませんでしたが、前回述べたとおり、六○年代後半から認めないわけにはゆかなくなり、多くの組合が規約のなかに職場委員に関する条項をもうけるようになりました。しかしその機能や選出方法については、ごく少数の組合を例外として、一般には、はっきり規定していません。選出は職場集会で挙手でおこなわれるのが普通です。
それでは一体、どういう労働者が職場委員になるかというと、自分ですすんでその役を買ってでるのはごく少数で、その他は職場組合員に「おしつけられて」委員になるものと言われていますが、この「おしつけられて」委員になった人のうちには、「工場が危機に直面した」、「人気がある」、「たまたまそうなった」など、さまざまの人たちがふくまれています。しかし全体として、職場労働者に信頼されている人が選出されています。
一九六○年代半ば頃の調査では、その典型は、「四五歳の熟練工で、会社内でも組合でも『出世』する気のない労働者」だとされていましたが、その後の調査によると、もっと若い層が選出されるようになっており、最近、シェフィールドの機械産業労働者についておこなわれた調査では、四○歳以下がその半数を占めていたといわれます。
その活動
職場委員がその存在と活動について企業側の承認をかちとるだけでなく、活動に必要なさまざまの権利や施設を獲得すれば、それだけ委員の活動が効果をあげることは言うまでもありません。
ではどのようなものを獲得しているかというと、①新規雇用者のリストを会社に提出させる、②職場集会を開くのに必要な場所を工場内に認めさせる、③職場委員会室、電話、コピー施設、④組合費のチェック・オフ、⑤職場委員活動のために職場を離れる権利(有給で)などです。
ここで若干の注が必要と思われます。はじめ職場委員の主要な活動は組合員の獲得と組合費の徴収でした。しかしいまでは職場でチェック・オフの権利を獲得し、またクローズド・ショップ協定がひろがった結果、職場委員の役割は職場交渉と組合員の掌握に重点が移っています。公務員や公企体労働者の場合にはほぼ一○○パーセントチェック・オフがおこなわれ、民間企業の場合も、運輸一般労組(TGWU)を例にとると、組合費の七五パーセントまでがチェック・オフで徴収されています。
職場委員が職場で賃金交渉の先頭に立つのは当然ですが、このほか残業、首切り、職場の衛生と安全、企業年金などの問題で職場労働者の要求をもとに企業側と交渉します。さらに、運動がもっとすすんだところでは、企業の合併、投資、首切り問題などで銀行、国有産業の代表や議員、大臣などと交渉するという例もでてきています。
また職場でのいわゆる世話役活動もあります。たとえば家族に病人をかかえた労働者に特別の休暇を与えるよう企業側と交渉します。また職種のちがいで労働者のあいだに対立がおこった場合にこれを調整したり、他企業の労働者との連帯活動を推進することも、重要です。
では企業側と交渉する場合にどんな戦術をとるのか。もっとも一般的におこなわれているのは、職種、作業グループ、工場ごとの賃金・労働条件を比較し、すすんだ条件のところに追いつくよう交渉することです。そして先例をつくり、これをテコにしてさらに先に進むというやり方です。
職場交渉というと、職場の監督者と交渉するように聞こえますが、今日では職場委員はむしろこれをとびこして上級管理者との交渉をすすめることに力を注いでいます。
職場委員のタイプ
職場委員の活動については、七○年代に各方面で実態調査がおこなわれました。その一つに、ウォーリック大学の労働組合調査グループの研究がありますが、その報告によると、職場委員にはいくつかの型があります。
第一は、組合運動の原則を身につけ、組合員からも信頼されて、職場労働者をひっぱっていくような、いわゆるリーダー型職場委員です。かれらは原則を身につけているだけでなく、休承時間には職場労働者の誰とでも話をし、ジョークをとばし、ゲーム(チェスなど)もすることで、職場労働者の全員に親しまれ信頼されていると同時に、こうしているあいだに、組合員の要求や意識の程度を敏感にとらえてゆく能力をもった人たちです。
第二は、原則によって行動し、リーダーシップを発揮するのでなく、職場労働者の平均的な意見に従っているだけの職場委員です。
第三は、状況しだいでどのようにでも言動を変える、信頼のおけない職場委員です。
第一の型がもっとも職場委員らしい、また成果をあげることのできる職場委員です。
このリーダー型職場委員は、民間企業の現場にもっとも多く、事務労働者や公務員では第二の型の比率がふえることも、調査の結果明らかにされています。
職場委員のすべてがリーダー型であるわけではなく、第二、第三の型をふくんでいることは、職場組織が企業内の組織であるだけに、重要な問題をのこしています。
というのは、リーダー型職場委員でさえ、ときには経営側との交渉に深入りしすぎて、組合員から浮きあがり、企業側のとりこになって、職場労働者の利益を裏切る例もでてきているからです。
そして、今日では民間企業だけでも、五○○○人、公務・公企体をふくめると一万人以上の常任職場委員(有給で、仕事をはなれ、職場委員の仕事に専念する。その大部分は、職場委員でつくられる職場委員会の代表)がいるといわれるだけに、職場労働者がうっかりしていると、企業側が手をまわして、職場委員会と組合とを切りはなし、これを企業側のとりこにしてしまうという可能性は、おおいにありうることなのです。
工場別職場委員
さて、いま、職場委員でつくられる職場委員会という言葉を使いましたが、各職場で選出された職場委員たちは、事業所や工場ごとに職場委員会をつくります。そして事業所が大きく、職場委員の数が多い場合には、職場委員会でその執行部を選出し、そのうちの一人もしくはいく人かが常任になります。
これでは日本の企業別組合とあまりちがいはないのではないかと思われるかもしれません。しかし大きなちがいは、イギリスの場合、第一に、企業内労働者がいくつもの組合に分属していること、第二に、組合とは企業の枠をこえて団結する組織だという意識が組合員のあいだに伝統的に深く根をおろしていることです。そのため、その可能性をはらんでいるとはいえ、日本の企業別組合と同じにはそう簡単にならないものと言えましょう。
しかし、そうであってさえ、なお組合中央部は、はじめこうした工場内の全組合をふくめた工場別職場委員会の形成にきわめて警戒的でした。だが、今日ではこうした職場委員会組織はあたりまえのことになっています。そして、組合運動の原則をわきまえたいわゆるリーダー型職場委員の指導によって、委員会と企業の枠をこえた組合の活動とが結合されているのです。
最初に、今日のイギリスの労働組合運動では組合支部組織の重要性がへり、職場組織の重要性がましていると書きましたが、今日では、企業や工場が巨大化したため、各組合とも工場や事業所内に支部を設ける傾向が強まっています。職場委員はこの支部活動の中核になると同時に、その多くが組合地区委員を兼任していますが、こうしたことが、職場委 員会の企業内化=経営側との癒着(ゆちゃく)を防止するための組織的保障になっているものと言えましょう。
企業別連合委員会
工場内で職場委員会がつくられるのは今日ごく一般的なことですが、最後に、今日では多数の工場や事業所をもつ企業で、職場委員会の企業別連合委員会もできています。そして製造業では半数以上の工場の職場委員が同一資本のもとにある他工場の職場委員と何らかの形で連絡をもっています。
なぜこうしたことがすすんだかと言えば、説明するまでもなく、多工場をもつ企業では、工場ごとに交渉していたのでは、結局本社に最終決定権を握られて交渉が思いどおりにすすまないからです。他方、企業の側でも、フォード自動車の場合にみられたことですが、組合中央の常任との交渉を回避するため、すすんでこうした企業別連合委員会との交渉を求めるという例もありました。
フォードのねらいが、こうした連合委員会の企業内化、組合中央からの切りはなしにあったことはもちろんですが、たしかに企業別委員会ともなれば、組織もさらに巨大化しそれだけ組合員から浮きあがる可能性もつよまるはずです。
しかしフォードの場合、資本の側のねらいははずれました。イギリス内二三工場でつくられた連合委員会は、企業別セクトにおちいることなく、他の自動車産業企業の職場委員会と連絡をとりつつ、自動車産業の経営に関して労働者側の対案を作成するという方向にすすんでいます。
以上、イギリス労働組合の職場組織の現状について概観しましたが、労働組合運動で何よりも大切なことは、さまざまな見解をもつ労働者が、職場を基礎にして、資本や特定の政党から独立した、真に自主的な組織をつくることであり、そのために、自覚ある労働者――リーダー型活動家が、いかに意識的に活動するかということであるように思われます。 (一九八○・八・二四)
労働運動と「民主的対案」
労働者側の民主的対案
七○年代にはいって世界資本主義経済の構造的危機が表面化するなかで、西欧の発達した資本主義のうちでもっともその危機のあり方を典型的に示したのは、イギリスであったように思われます。
これまでの経済・政治構造をそのままにしていたのでは、もうイギリス経済は成り立たない、どうしても長期的見通しにたった根本的な改造が必要だという認識は、資本=保守党の側にも労働者階級=労働運動の側にも、はっきりとあらわれてきました。
そのせいでしょうか。日本では「戦略」(ストラーテジー)という言葉は、変革をめざす労働運動の側(それも一部にかぎられてのことですが)では使われても、自民党や資本家は使いません。しかしイギリスでは、保守党=現サッチャー政権も資本家も政策(ポリシー)という言葉よりは「戦略」という言葉を好んで口にします。これにたいして労働運動の側がこの資本の利益にそった政治・経済構造再編の戦略に対抗して、労働者と国民の利益にそう民主的・社会主義的な経済戦略を展開するのは当然のことですし、またそういうものを明らかにしないかぎり確信をもって闘争をおしすすめることができないところまで、危機はふかまっていると言えましょう。
労働者側のこの対案は一般的に「対 案 的 経 済 戦 略」AES(オルターナティブ・エコノミック・ストラーテジー 注⑴)と呼ばれています。しかし少々日本ではなじみのうすい言葉と思われますので、私なりに意訳して、ここでは「民主的対案」と呼ぶことにしましょう。
民主的対案の作成は、七○年代の初めから労働運動のあらゆる段階ではじまっています。危機に直面した基幹産業の職場企業段階では、たとえば「ルカス・エアロスペース」工場のショップ・スチューワード委員会やレイランド自動車工場の連合ショップ・スチューワード委員会、ヴィッカースやIWCモータースの労働者が、企業の縮小ではなくこれをイギリス労働者と人民の利益のために発展させる対案をつくっていますし、労働組合は労働組合で、運輸一般労組(TGWU)、公務員労組(NUPE)をはじめいくつかの組合中央がそうした対案を作成し、労働組合会議(TUC)もたとえば 「マネタリズムの危機とTUCの対案」(一九八○年)を発表しています。
そのうえ、こうした労働者と労働組合のなかからでてきた動きをとらえて、それを理論的に裏付け仕上げる活動が、さまざまの傾向をもった学者のあいだではじまっています。その中心になっているのは「社会主義経済学者会議」(CSE)でしょう。思想的潮流から言えばフェピアン主義の流れに立つ人や、ケインズ学派左派からマルクス主義者にいたるまで、また政治的に言えば、労働党左派から共産党などの系統に属する人びとが、協力して理論化の作業をすすめています。もっとも、左派と呼ばれる勢力のうちで、トロッキズ ムの影響下にある社会主義労働党系(注⑵)の理論家は、民主的対案を日和見主義ときめつけていますが。
注⑴ Alternative Economic Strategy
注⑵ 社会主義労働党は、党員数四~五○○○人、共産党は約二万八○○○人といわれています。
保守党と労働党右派の「合意の政策」
展開されているさまざまな「民主的対案」は、主張する主体のちがいに応じてニュアンスに多少のちがいがあるのは当然のことですが、ここでは、全体に共通して言える大きな枠組みを紹介しましょう。しかし、そのまえに、こうした対案を必然化するイギリス経済の“危機”とはどこからでてきて、どのような形をとっているのかを知っておいていただく必要があるでしょう。
イギリス経済の危機はすでに一九世紀末からはじまっていました。国内で蓄積された資本は一九世紀末からより有利な投資市場を求めて国外植民地へと流出し、国内工業力は一九世紀末にすでにアメリカ、ドイツに追いこされ、第一次世界大戦後はいっそう停滞する傾向にありました。しかし第二次世界大戦まではそのぼう大な植民地がイギリス資本主義経済の支えになっていました。
第二次世界大戦後、事態は一変しました。戦争をやりぬくために対外投資のかなりの部分を失ったうえ、植民地体制は崩壊しました。それまで国内産業への投資がおろそかにされていたため、イギリスの基礎産業はまったく衰退していました。
しかし、六○年代末まで、イギリスの経済危機が今日ほどまでに表面化しなかったのは、次のような条件があったからです。
⑴一九四七年の冷戦開始による急速な再軍備が特別の需要をつくりだしたこと。
⑵植民地体制の崩壊はいっきょにおこったのではなく、じょじょにすすんだし、植民地が政治的に独立したのちも、イギリス資本はなおそこで安価な資源と労働力を利用することができたこと。
⑶西ドイツ、日本などの国際市場への進出は六○年代までおさえられており、発展途上国の工業もまだ未発達であったこと。
⑷そのうえ、世界資本主義経済が全体として高度の成長をつづけていたため、イギリスの経済も他国に比べてテンポがおそかったにもかかわらず、なお成長する条件をあたえられていたこと。
また、こうした基礎条件のうえに立って、イギリス資本主義経済を維持していくために、次のような政治=支配構造がつくりだされたことも、みておく必要があるでしょう。それは一口で言うならば、「ケインズ=ビヴァリッジ主義的合意の上に立つ労資協調主義体制」です。その内容は、①資本=保守党の側は、広範な社会保障政策(ビヴァリッジ案による)と完全雇用政策(ケインズ主義理論により、インフレの危険をおかしても国家の財政投融資を大々的にすすめることで有効需要をつくりだし、完全雇用を維持する)を認める。②その代わり労働党と労働組合の側は、資本の基本的な利益を傷つけるようなことはしない、といったものでした。
事実、一九四五年成立した労働党内閣は「揺りかごから墓場まで」の広範な社会保障政策を実施しましたが、それは保守党のチャーチル戦時内閣がすでに約束していたものでした。炭鉱をはじめ鉄鋼、その他の産業が国有化されましたが、それはイギリスを社会主義に変えるものではなく、イギリス資本にとって投資の魅力がなくなっていたこれらの産業
に、多額の国家予算(税金)をつぎこんで、その生産性を引き上げ、イギリスの資本主義的企業に安価な燃料と原材料を供給するためのものでした。労働党はいかにもこれが社会主義的政策であるかのように宣伝しましたが、それが事実でないことは、国有企業の理事会の大部分が資本の代表で構成され、労働組合の右派幹部で資本の側に厚く信用されている人物が一人か二人それに加わっただけで、国有産業の運営には労働者や労働組合や人民はまったく発言権をもっていなかったことをふれば、明白です。また労働党内閣が倒れ、保守党内閣が成立した場合、政策に若干の手なおしがあったとしても、国有化政策そのものが否定されることはなかったのです
「合意の政策」の基礎の崩壊とサッチャーの政策
こうした協調体制で息つぎをしたイギリス大資本は、この間にも海外市場へと進出しつづけました。「イギリスは資本集中=独占化のおくれた国」というひどくまちがった見解が日本の一部にありますが、とんでもないことです。イギリスは現在アメリカにつぐ世界第二の巨大多国籍企業の支配下にある国ですが、この巨大資本は国内市場よりも魅力のある海外市場へと資本をもちだし、国内産業、国民経済の利益を少しもかえりみなかったのです。
このような状態のもとで、政府の多額の財政投融資にもかかわらず国内産業の発達がますますおくれをとることになったのもふしぎではありません。そしてその否定的な結果が、七○年代の世界的な構造不況の到来とともに、はっきりと表面化しました。
資本の基本的利益にそってつづけられた赤字予算による産業国有化と一般的な財政投融資政簸は、破局的なインフレと通貨不安にみちびきます。所得政策で、これまで以上に労働者に負担をかけることで、この危機をのりきろうとすると、労働者側のはげしい抵抗をまねきました。というのは、すでに述べたように、六○年代に労働組合運動のなかで、職場を基礎にした労働者の自主的運動と組織が確立し、労働組合はもはや労資協調主義幹部のなれあい政策には容易についていかない状況になっていたからです。
保守党と労働党右派ならびに労働組合幹部のケインズ=ビヴァリッジ主義的合意の「政策」の成り立つ余地は、七○年代に入るとともにくずれてしまったのです。
そこで、この「合意」を放棄して、まっ先に攻撃にでたのは、保守党=資本の側でした。イギリス労働者が一○○年来もっていた労働組合の諸権利をいっきょに否定しようとした「一九七一年労使関係法」の施行がそれでした。しかしこれは労働者側のめざましい反撃で、七四年までに挫折、撤廃ということになりました。
第二段の攻撃が、いまのサッチャーのマネタリズムの政策で、それは、①失業よりもインフレ克服が先、②つぶれる企業はつぶれたがよかろう、③社会保障よりも自助によるべきだと主張し、失業を意識的に増大させることで労働者の闘争力をうばい、労働条件を後進国なみに引き下げることによって、イギリス国内市場を資本にとって魅力あるものにしようというのです。
民主的対案の内容
これにたいして労働者の側は次のような対案をつくりあげつつあります。すでに国有化されているもの以外の大企業を五○ないし二○○さらに国有化する。これらの国有企業はもちろんのこと、他の大企業でも、労働者と労働組合の経営参加=民主的統制を強化する。銀行・保険業も国有化し、資本の海外への流出を防止し、貿易を国家の統制下におく。
こうして資本の犠牲において、国内産業への国家投資をすすめる。
こうしたやり方が、いままでの労働党内閣の政策と決定的にちがうのは、まず労働者・人民の犠牲でイギリス資本主義経済を維持しようというのではなく、資本の犠牲のもとに、国内産業を復興し、労働者と労働組合の職場組織の下からの自主的・民主的統制をおしすすめる点にあるのですが、もとより全国的経済計画が必要ですから、これはそうした各企業、工場のそうした組織の代表と政府側の協議のもとにすすめることになります。
また、これまでのような労働党右派内閣のもとでこうした政策がとれるわけはないので、労働党内外の、真に民主的な経済政策を追求しついには社会主義にまですすむことを目指すあらゆる勢力を結集して、大衆的なたたかいを展開しつつ、労働党左派内閣を樹立しなければなりません。
そのためには労働党の党規約を改正し、これまでのように議会労働党が党大会や執行部のきめた政策を無視して労資協調政策をおしすすめることができないようにします(このための規約改正が、すでに八○年一○月の党大会でかなりの程度すすめられていますし、その結果、党内の極右派が労働党を脱退する動きがでてきています)。
こうした民主的対案をおしすすめる政府は、真に開かれた政府でなければなりません。そこで、国防その他の国益を理由に秘密事項をつくるのではなく、すべてを国民に明らかにし、その討議によって政策をすすめることになります。
日本でこのような議論を聞かれたならば、およそ絵に描いた餅のような話と思われるかも知れません。しかし、イギリスで生活していると、現実的な主張と感じずにはいられません。少なくともそれは、失業者を三~四○○万つくれば労働組合は闘争力を失い、実質賃金は格段に低下し、社会保障制度も切りくずすことができて、その結果イギリスが資本にとって魅力的な投資市場となり、イギリス経済は自然に復興するなどと考えているサッチャー内閣の中心人物の主張よりは、はるかに現実的な主張でしょう。
というのは、第一に、現代のイギリス経済は、多国籍企業の形をとるイギリス独占資本の支配する独占資本主義経済、しかも戦後三五年国家の巨額の財政投融資があってはじめて政治的にも経済的にも維持されてきた国家独占資本主義経済なのですから、サッチャーのマネタリズムにもとづく戦略が有効に働く余地はきわめて少ないというべきでしょう。そして第二に、いったん獲得した諸権利――労働組合の権利、生活水準、社会保障など――を、働く人民は容易にすて去るものではないし、人類の歴史のうえではそれはつねに拡大されてきたのですから。したがって、戦後ケインズ・ビヴァリッジ的「合意」のうえに立ってつくられた福祉国家体制が矛盾を露呈した場合に、そこから逆もどりし、歴史の歯車を一○○年もまえにまでまきもどそうとする政策こそ、非現実的であり、そこから前進することで危機を克服しようとする戦略こそ、現実的なのではないでしょうか。
(一九八○・一・二七)
▽13/04/15➡16.05.26(本文をスキャンして、このページでも読めるようにした)
イギリスのショップ・スチュワード――イギリス労働組合運動における職場組織と職場委員
掲載誌:研究資料月報 / 法政大学社会労働問題研究センター、法政大学大原社会問題研究所 、(通号 278) 1981.08(PDF版)
現在(2013年)の労働組合組織率は、「17.9%(前年比0.2ポイント減)と、昭和22年の調査開始以降、過去最低を更新した」と報じられているなかで、その労働組合員の7割が大企業社員・公務員だ。
その大部分は連合加盟の単産だが、ヨーロッパのように複数の産業別組織が地域にあるわけではなく、職場における労働条件の交渉や人員配置について、だれがになっていくのか――日本の組合活動家も、昔は勉強していたようで、今はあまり聞かれなくなった。それは団体交渉や労働協約闘争がなくなった組合しか見えていないからだ。
1800万人に及ぶ非正規労働者をどのように組織するか、これが時代のテーマだし、「大企業官制高地論」を昔から信じていなかったが、未来に「新しい産業別・地域別のユニオン」ができることを期待している。
これからは、地域を軸に職場に攻め上るしかない。
その暁に登場してほしい話がこの論文だ。
中賢さんは『現代労働組合組織論』(1979年刊)を書いているが、それ以後にイギリスにおける職場レベルの担い手=ショップ・スチュワードshop stewardについて、大原社研の室報に書いているので、ここに再現したい。
柱立ては、
プランにおけるスチュワードの組織
◆以下が本文です。
イギリス労働組合運動における職場組織と職場委員
中 林 賢二郎
Ken CoatesとTony Tophamは、1980年に刊行されたTrade Unionism Britainの中で、イギリス労働組合運動における職場委員と職場組織について、つぎのように書いている。
「最近、組合の常任書記長やTUCの役割が浮彫りになってはいるが、労働組合運動は、あいかわらず、自主的な、パート・タイムの組合代表の活勤に依存するところが大きい。以前には、労働組合運動の基礎は地域支部であり、中心的役員は支部の書紀長であった。今日では、組織ならびに活動の焦点は職場であり、中心人物は、通常ショップ・スチュワードと呼ばれる職場組合員の代表であって、その役割は、プラント・レベルで組合員の利益を代表することにある」。
以下、この書により、今日イギリス労働組合運動の基礎となり焦点となっている職場組織と職 場代表についての概要を紹介しよう。
職場代表のすべてがショップ・スチュワードと呼ばれているわけではなく、印刷業では“ファーザー・オブ・チャペル“、製図工の間では、“連絡員”‘ホワイト・カラーの場合には“スタッフ代表”などと呼ばれている。また、農業労働者の場合にはそうしたものがなく、ホワイト・カラーのあいだではそれは巣立ったばかりであるが、全体としてみれば、職場代表の選出は一般的におこなわれており、金属産業では95%、事務労働者88%、御売・小売業者労働者の場合 は78%までが、それを選出し、1971年におけるショップ・スチュワードの総数は25万人 及至30万人と推定されている。
その歴史
職場代表の任命はなにも今日突然はじまったものではなく、1860年以降、炭鉱、鉄鋼産業の一部、ガス産業などにそうしたものがでてきていたが、スチュワードの組織が数のうえでも力量のうえでも注目されるようになったのは、第一次大戦期、とりわけ機械工業と軍需工業においてであった。
大量失業をみた戦間期にはそれは衰退したが、1930年代に入ると、再軍備にともなう需要増をまっ先に反映した空機産業で復活し、第2次大戦中には、しばしば軍需生産促進のために工場内に合同生産委員会が設置されたことと結びついて、主要製造工業で顕著な発展をみた。そして戦後は、完全雇用状況がつづいたため、職場労働運動は衰退することなく、強化されていった。
1950年代から1960年代中葉にかけての、ショップ・スチュワードによるインフォーマルなプラント・レペルでの交渉の発展は、世間の注目をひき、とりわけ雇用主の敵意を買った。
それは賃金ドリフトならびにプラントごとの非公認ストライキの頻発に密接な関係があるものとされ、こうした観点に立って、1964年には、ドノヴァン卿を委員長にして、「労働組合と雇用主団体に関する王立委員会」が設置された。この委員会のもとでおこなわれた調査やそれ以前の1960年におこなわれた調査いらい、ショップ・スチュワードの性格、機能、活動などにかんする統計が蓄積されはじめた。
この間、1960年代後半に、労働党内閣の所得政策にともなって生産性協定の締結が普及した。それは、ショップ・スチュワードをフォーマルな交渉手続きの中に取り込もうとする経営側の戦路でもあったが、その普及はスチュワードの数の増大と機能の多様化を促進することになった。また、刑事罰でプラント・レベルのイニシアチヴをおさえこもうとする試みは、あいついで失敗した。労働党内閣は1969年に準備したそうした法案の上程をあきらめなければならなかったし、保守党内閣が制定した「1971年労使関係法」は、74年に廃止されざるをえなかった。そして、1974~79年の労働党内閣の下での立法には、ショップ・スチュワードを法的に保護し、その役割を拡大するものが含まれていたが、それはちょうど、失業増大と企業合同の進展により、首切りや会社の投資政策が重要な問題となり、ショップ・スチュワードにとって新たな活動分野が開けてくる時期にあたっていた。
こうして、この数十年間、経済的・政治的・法的環境が変化するにつれて、ショップ・スチュワード・システムはこれにうまく適応し、成長をつづけてきた。
組合とショップ・スチュワード
ショップ・スチュワードは.自然発生的に生まれたのちに組合規約にとりこまれたものなので規約はその機能や任命について詳細に規定していないことが多い。この点での例外は電気電子労組EEPTUで、この組合の規約は.ショップ・スチュワードは地域の常任役員ならびに全国執行委員会の統制下におかれると謳っている。また一般自治労組GMWUの規約は、ショップ・スチュワードはスト指令権をもたないと述べ、合同機械労組AUEWのようなクラフト・ユニオンの伝統をもつ組合は、スチュワードは組合地区委員会の形式上の統制下に入るものと規定している。しかし大部分の組合の規約は、「ショップ・スチュワードが任命される」と述べているだけで、その任命方法にはふれていない。普通それは職場で挙手によって選出され、再選をさまたげない。多くの組合の規約は、その役割についてもはっきり定めておらず、組合員の獲得と維持の役目について述べているだけだし、その人数についても規定していない。しかし1950年代末以後の調査では、平均して組合員50~60人に1人になっている。また規約は、職場民主主義と支部から上の組合上部機関との関係についてふれていることも稀であるし、組合支部とは別にスチュワードが召集する職場集会についても、ふれてはいない。近年、EETPUや公務員組合NUPEが、特定の産業もしくは部門のスチュワードの公式の全国集会を開くようになったことは事実である。が、集会は諮問機関の地位にとどめられ、組合の政策決定機関の中にくみこまれているわけではない。
一部の組合では。支部の書記もしくは委員長が、通常ショップ・スチュワードの果す代表的機能や交渉機能をひきうけている。公務、パス、鉄道、港湾のうちの国有化された部分がそれである。
一般にショップ・スチュワードは、組合員によっておしつけられたものが多く、自らすすんで引受けるものは少数である。
機械産業と印刷業でショツプ・スチュワード・システムは最も早く発展したが、それは、これらの産業では多数の工場があり、それが、それぞれ特色ある経営方法をとっているため、職場交渉によらなければならない分野が広範に存在したからである。これを先駆として、1940年代と1950年代に他の製造業から民間部門の筋肉労働者の大部分にそれはひろがっていった。例外は建築産業で、ここでは1964年になってはじめて雇用主がスチュワードを認めた。NUPEも1960年代に入ってショップ・スチュワードを導入し、1969年に地方自治体の、1971年に国民保険局の承認をかちとったし、地方自治体のホワイト・カラーを組織する全国地方自治体職員組合NALGOは、1973年になってスチュワード・システムをとりいれた。ただ地方自治体の場合は.少数の労働者グループが地理的に分散して働いていること、郵便や国鉄では伝統的に中央集権的管理方法がとられていることが、プラント・レベルの組織とショツプ・スチュワードの機能の発展をさまたげている。
ショップ・スチュワードが獲得した諸権利
近年、諸組合とTUCはショップ・スチュワードに便宜を供与させようとして、雇主に対する働きかけを強めてきたし、1975年雇用法と1974年職場衛生安全法はこの運動をパック・アププする面をもっていた。TUCが提唱してるのは、新規採用労働者名簿の提供、組合問題について新入労働者に税明する場所、机、文書保管施設、電話、タイプライター、複写機、告知板、作業中に組合員に協議したりショップ・スチュワード委員会を開くための室、組合の仕事をしたり組合学校や組合の会蟻に出席するための有給作業免除をスチュワードに与え、組合費のチェック・オフをおこなうこと、などである。そして、スチュワードの仕事をし、組合学校に出席するための有給作業免除の権利は、すでに法律で保障されているし、その他の要求も広くかちとられている。
歴史的に言えば、初期のスチュワードの役目は組合員の獲得と組合費の徴集であったが、クローズド・シロップとチェック・オフ・システムの普及で、そうした役目を果す必要はなくなっている。
現在のショップ・スチュワードの任務
現在のショップ・スチュワードの役割は、①組合員を代表し、交渉すること、②組合の通信・連絡、の2つに大別される。
B・Partridge(The Activities of Shop Stewards、Industrial Relations Journal・ vol8、No4、1977~78)は.これをさらに次のように細分している。
①作業グループのスポークスマン、②組合とグループのあいだの情報伝達係、③不平・不満に関するささいな交渉、④楕報の収集⑥他のグループならびに経営側との連絡、⑥グループの団結をかため、交渉力を強化するための指導、⑦政策決定、③上級経営者との正式な交渉。
ドノヴァン委員会の調査によれば、調査対象にえらばれたスチュワードの50%以上が賃金と労働時間について定期的に交渉しており、さらに25%がときおりこれらについて交渉していたし、超勤について定期的交渉をおこなっているものは2/3、余剰人員、停職、解雇、雇入れ、新規の機械と新規の職務、作業のペースと質などについて定期的に交渉しているものは、20~30%であった。
製造工業や民間部門一般で戦後ショップ・スチュワードがプラント・レベルの賃金交渉をもとにしてその影響力を強めたことは確かであり、1976年のW・Danielの飼査(Wage Determination in lndustry)によると、製造工業では賃金の交渉にあたるものの90%が半常任活動家(すなわちショップ・スチュワードのたぐい)であり、プラントが賃金決定の最重要レベルになっている会社は、全体の53%を占めていた。公共部門では全国レベルでの賃金交渉が支配的で、ショップ・スチュワードがこれに影響を与える余地はもともと少いし、民間部門でも、労働党内閣が1975~78年にとった賃金抑制策は、プラント・レベルでの賃金問題をめぐるスチュワードの活動の余地をせばめたが、しかしショップ・スチュワードはいまや賃金問題以外の分野へとその活動範囲を拡大している。余剰人員、職の保証、情報公開、環境、保健、安全、企業年金などの問題がそれであり、さらに会社の政策決定への労働者代表の参加を要求する問題も、少くとも産業民主主義にかんする討議の議題にとりあげられはじめている。
ショップ・スチュワードのタイプ
数多くの調査から、ショツプ・スチュワードにはさまざまのタイプがあることが知られる。通常、経験の浅いものがそうであるが、一部のスチュワードは、グループが明らかにした苦情のスポークスマンの役割を果しているにすぎない。これに対して、意識的に戦略をうちだし.イニシァチヴをとる積極的なスチュワードもいる。経験が長ければ、それだけこうしたリーガーシップを発揮する傾きがある。
ウォーリック大学の社会学者Batstone、Borastone、Frenkelらは実態調査にもとづくその共著Shop Steward in
Actionの中で、スチュワードを“リーダー”、“リーダーの卵”“ポピュリスト″、“カウボーイ”の4つのタイプに分けている。“リーダー”は、必ずしもコンヴィーナーや上級スチュワードであるとは限らないが、広範な網と職場組織をもち、管理職に対して“強力な交渉関係″をうちたて、ショップ・スチュワードのヒエラルキーの頂点にくらいしている。そして組合員と組合の利益について長期的観点をとり、慎重ではあるが強力な交渉者であって、もっともうまくいっているスチュワードである。“ポピュリスト″とは、組合員の直接の要求を反映するだけのもの、“カウボーイ″は、転職きわまりなく、どうなるか予測しがたい人物である。
だが“リーダー″も経営側にふみこみすぎて、組合員からきりはなされることがある。その結果は組合員の“反乱”であり、リーダーの“譲位″である。こうした“反乱”の可能性は、上級スチュワードの官僚化を防止する保障である。
1966年にはすでに約1/5のスチュワードが、同一プラント内のスチュワードたちの召集責任者(コンヴィーナー)や議長の役をつとめる、上級スチュワードになっていた。彼らは平均して組合員350人に1人の割で選出されている。民間製造業だけで常任コンヴィーナーの数は、1966年の1000人から1976年には5000人になり、イギリスの組合運動全体で3000人しかいない組合常任役員の数をはるかに上回っている。
スチュワードの戦術
ショップ・スチュワードはその目的を遂げるために、経営側との交渉のさいには各作業グループや各プラントのあいだの賃率や条件の格差を利用し、判例や先例をつくり、自分が代表する仲間に対しての公正な待遇を主張する。彼らは、その多くがインフォーマルなものである経営側との交渉手続きについての取りきめをもとにして活躍し、しばしば、現場の管理者(監督)をとびこえて、上級管理者と直接に接触する。彼らは一定の分野、とりわけ超勤、労働移動、レイ・オフについては組合側だけでの一方的な統制をおこない、クラフトマンの場合には、徒弟と縄張りについて組合が一方的にきめた規則をまもる。彼らは慣習、慣行と、先例によってつくりだされた不文律のまもり手なのである。
交渉ならびに苦情処理にフォーマルな条文化された手続き用いることに対するショツプ・スチュワードの感度は二面的である。組合がはるかに弱体であった時期につくられたこれらの手続きは、過去10年間に改善されるまではきわめて不満足なものであって、解決は長びき。交渉手続きの最初の段階をすぎるとしばしばショツプ・スチュワードは除外され、手続き変更については経営側が一方的に発議権をもち、そこで扱われる問題の範囲もせまかった。ドノヴァン委員会のあと、TUCと諸組合はこの改革に力をいれ、交渉手続きのあらゆる段階にショツプ・スチュワードを参加させ、遅滞をなくし、現状維持条項を挿入し、手続きの範囲をひろげようとした。そして多くの産柔でこの方向での大福の前進がみられた。
合同協議制とショップ・スチュワード
労使合同協議制は、労働組合の交渉からはきりはなされた、みせかけの労働者参加を与えておいて、実際にはすべての決定権は経営側の手にのこしておくために、かつて経営者が好んで用いた方法であるが、戦後ショップ・スチュワードの発展により、衰退もしくは変形した。
W・E・J・McCarthyは、ドノヴァン委員会に提出した報告書The Role of Shop Stewards in British Industrial Relationsの中で、次のように述べている。
「ショップ・スチュワードによる交渉と合同協議機関との関係については、二つの意見を提出 することができる。第1に、プラントの協議会は有力な職場組織の発展にたえて存続することはできない。それは交渉のための委員会にならざるをえず、さもなくば、ショップ・スチュワードのボイコットにあって使用不能となるだろう。第2に、ショップ・スチュワードは、いわゆる“矛盾しかつ共通する利益”の問題を処理するための別個の制度的措置には同意せず、自分たちが参加しながら決定権をもたないような協議会は、交渉機関のまずい代用物にすぎないものとみなしている」。
合同協議制が存続している場合には、ショツプ・スチュワードの代表によってそれは労働者側にとりこまれる傾向にある。
W・Brown、R・Ebsworth、M、Terryの最近調査(“Factors Shaping Shop Steward Organisations in Britain"、British journal of I.R..vol・Xvl.No2、july l978)によると、500人以上の雇用者をもつプラントでは、80%の合同協議会の労働者側スタッフはショップ・スチュワードで占められている。このことは、労使関係ならびに産業民主制における代表はすべて労働組合機関だけをつうじてだされるべきだという労働組合の主張の根拠を強めるものであり、また産業民主制に関する1976年のブロック委員会の調査でも受けいれられたのである。
プラントにおけるスチュワードの組織
ショップ・スチュワードがつくりあげている権力の基礎は、プラントごとにちがう。スチュワードが3人以上の小プラントは別として、常任スチュワード、スチュワード委員会、スチュワード自身によるスチュワード執行委員会の選出などをもつ、ショツプ・スチュワードのある種の組織とヒエラルキーが発展している。
1973年の調査によると、スチュワードの半数はスチュワードの定期会議をもっている。位階制的組織はプラントに10人以上のスチュワードがいる場合に出現する傾向にあり、500人以上の雇用者をもつ事業所の50%には常任スチュワードがいる。
“リーダー″型のスチュワードは主としてショップ・スチュワード委員会をつうじてその指導力をかためている。
1966年以後プラント・レべルでの多数組合制は若干後退のきざしがみとめられるとはいえ、それはあいかわらずごくあたりまえのこととなっている。戦後の初期には組合は、組合間の合同ショップ・スチュワード委員会は“私的”な組合を発展させ、本来の組合からきりはなされた自治組合になるとして、これに批判的であったが、今日プラント・レベルでは組合はこうした組織に対してはるかに寛容になっている。そしてこうしたところでは、組合のプラントの場合よりもスチュワード組織が一層発展した位階制的性格のものになっていることが多い。
スチュワードの権威の最も明白な基礎は、職場組合員である。作業グループは職場の組合組織からは自律のものであり、それはショップ・スチュワードの選挙区とも必ずしも一致してはいない。
だからスチュワードは自分が代表するグループの信頼と支持を得るより意識的に努力しなければならない。この努力がいつも成功するとは限らないのであって、自動車産業の調査は、労働者が外部の組合だけではなく自分たちのショップ・スチュワードをも無視してストライキをした、“二重の非公認スト”現象を確認している。
最近におけるスチュワードの数の増大ならびに彼らが組合員と会合するための施設の改善は、スチュワードがグループの気分を正確に反映する可能性をたかめているし、自律的なグループの圧力の存在は、スチュワードの官僚化の不断の阻止要因になっていることは明らかである。だが“リーダー”スチュワードの役割がいかに卓絶したものであるにせよ、制作決定は究極的には作業グループとともにおこなわれなければならないのであり、いつも必ずそのメンバーに自分のやり方を望めさせることのできるショップ・スチュワードは、ごく少数である。
職場における関係がインフォーマルなものであること、慣習ならびに慣行、手続と制裁の利用、合同協議制、ショップ・スチュワード委員会、多数組合制、テクノロジー、グループの圧力など、ショップ・スチュワードの権力の基礎とあり方は、さらに2つの要因によって条件づけられる。それは経営側の役割と団体交渉制度である。幾つかの調査によって確かめられたことであるが、プラントの経営者は組合の常任役員よりもショップ・スチュワードと交渉する方を好んでいる。戦後におけるショップ・スチュワードの発展は、一部は紛争を職場で解決しようとする経営側によって促進されてきたのである。だが、少くとも筋肉労働者に関する限り、ショツプ・スチュワードに対する経営者側の態度は大プラントでは決定的なものではない。経営側による促進とならんで、経営側の反対もまた、強力なスチュワードの組織をつくりだしているからである。
筋肉労働者の管理者は、他の管理者との権力闘争を有利にするために、有力な“リーダー”・スチェワードとのあいだに強力な交渉関係をうちたてたがる。しかし、スチュワードが目標をプラント・レベルの問題の統制に限定しているならば、そこで経営側の特権を押えることに成功しても、より広範な会社の政策への影響力を欠くため、労働者は経営者と対等の力をもつことはできない。
また賃金に関する団体交渉が全国的・全産業的レペルに中央集権化されている場合には、ショップ・スチュワードは賃金問題で中心的役割を演じにくい。公共部内でスチュワード組織の発展が任位にあるのは主としてこのためである。
賃金支払方法もまたショップ・スチュワードの役割に影響する。製造業における戦後初期のショップ・スチュワードの発展は、出来高払制の賃金について不断に交渉してきたことによる。1960年代後半から経営側はスチュワードの力を弱めようとして、多くの産業で出来高払制にかえて時間制賃金を導入した。プリティシュ・レイランドのように、一部でこの試みは成功したが、しかし多くの場合、時間制になってもスチュワードは出来高払制のときにやったと同じように賃率について交渉をつづけたし、また今日では、職場での賃金交渉が存在しない場合にも強力なスチュワード組織が発展している。
組合との関係
ショツプ・スチュワードの発展のためには、組合によるその支持と承認、継営側の政策からの保護が、必要不可欠である。組合はスチュワードに助言と指導を与え、教育のためのコースを準備し、政策決定のための便宣を供与している。組合の諸原則は、スチュワードをイデオロギー面で強化するのに役立っている。他方、スチュワードなしには、労働組合の運営と団結は崩壊するだろう。だが、AUEWやNUPEは別として、ショップ・スチュワードと組合の支部ならびに上部の委員会とのあいだの結びつきは、規約よりもむしろスチュワードの個人的な結びつきによるところが大きい。通常、組合支部をうごかし、組合の上部の委員会で活動しているのは、活動的なスチュワードの中核部分であり、組合支部が地域支部からプラント別支部へと移行する傾向はスチュワードと組合構造とのあいだの関係の緊密化を促進している。
だが、1972年にスチュワードの2/3は地域の役員との接触が困難だと報告しており、組合の常任役員が少いこと(全国で約3000人)は、この点での改革をおくらせている。しかしながら、ショップ・スチュワードと組合常任役員の関係は、1950年代以後、質的に大きな変化をとげた。組合常任のプラント外における権域は低下し、そのスチュワードとの関係は多くの場合より民主的なものになった。これは、一部はスチュワードの自律性増大の結果であるが、また一部は組合指導部の意識的な政策によるものである。例えばTGWUのジャック・ジョーンズは、常任委員会スチュワードの要求にもっとこたえる必要があると主張し、その後継者モス・イヴァンスも同じ路綴を主張している。
ショップ・スチュワードと組合常任のあいだの関係は産業によってはなはだしく異なり、スチュワードが常任に全く依存しているものから、ほとんど全く自律しているものまであるし、双方のあいだに緊張関係もあるが、少くとも60年代には常任の4/5はスチュワードに対するその影響力について満足を表明していた。
70年の調査では、交渉で組合役員が重要な役割を演じていると考えるショップ・スチュワードは1/3にすぎず、2/3のスチュワードはこれまでよりももっと多くの接触を常任役員とのあいだにもつことを望んでいる。
公共部門ならびにホワイト・カラー職員のスチュワードは。製造工業のそれよりも組合常任役員に依存する傾向が強いが、両者の関係に主として影響するのはプラントの規模である。大プラントでは、スチュワードは財源もあり、コンヴィーナー、スチュワード委員会、諸施設をもつため、コンヴィーナーは熟練と経験の点で容易に組合常任に匹敵できるようになる。だから、プラントの規模はその他の諸変数を上回る重みをもつことになるが、この枠内で組合常任役員は、プラントのスチュワードの自律性をそだてるような交渉のやり方を促進もしくは阻止することによって、スチュワード組織の発展を左右することができる。
スチュワードのイニシァチヴに対する個々の組合の態度は別として、TUC全体としては、1950年代以後、スチュワード組織に対する政策は、権威主義的なものから許容的なそれへと変わり、ついで70年代には民主的態度へと移った。TUCが最近公式にだしている組合員教育必携は、スチュワードに、他のプラントの仲間との連携を強化して、企業別委員会をつくることまでも奨励しているが、それは、そうしたイニシァチヴを非難した1960年の声明の起草者にはとうてい考えられなかったことである。
ショップ・スチュワードの企業別組織
以上はプラント・レベルにおけるショップ・スチュワードについての慨要であるが、今日重要になり注目されているものに、多プラント企業の職場代表の連合組織である。イギリスではとりわけ60年代に企業合同による資本集中がすすんだため、これらの企業におけるスチュワードの連合委員会の発展は不可避であった。そして今日では全製造工業の半数におよぶ会社のスチュワードが、同一資本の他の事業所のスチュワードと少くともなんらかの会合をもっている。
多プラント企業では、プラント・レべルでだけで交渉していたのでは、大超分の重要な決定を企業のトップの経営陣の自由にまかせることになる。したがって、経営側はスチュワードの活動をプラント・レベルに制限しようと努めるだろう。だがプラントごとに到達闘争がおこなわれると、経営側は、ブリティッシュ・レイランドの場合のように、これに代える会社レベルでの交渉をおこなうことを考慮することもありうる。また、一部の会社は、初めから会社別交渉をおこなうことによって、全国組合の常任役員とだけ交渉しようとはかった。フヵードがとったのは正しくこうした戦術であった。しかし過去20年間に組合毎の改革がすすんでいたため、実際にはショップ・スチュワードが会社レペルの全国豹交渉に参加することになった。こうした協約交渉に対する会社側のロジック全体が、会社レベルでのスチェワード組織を発展させる傾きがあり、企業ごとのショップ・スチュワードの連合委員会は、戦後の機械、自動車産業ではきわめて普通のことになっている。今日そうしたものとしてきわだっているのは、ブリティッシュ・レイランド、フォード、ダンロップ=ピレリ、ルカス・エアロスペース、ヴィッカースなどのそれである。
ルカスのスチュワード組織はとくに興味深い。1960年代に合理化と首切りの脅威に対応して設立された連合委員会は、4年がかりでその成熟した機能と構造を発展させた。それは会社内のスチュワードと労働者に数多くの助言をおこなったが、そのうちには企業年金や科学・技術に関するものがある。それを有名にしたのは“会社経営政策の対案”の研究・発表で、労働者の意見聴取、詳細な商業上・技術上の検討をへて、社会的有用性をもとに一連の新しい製品の生産を提案した。この作業のゆえに委員会はノーベル賞の候補にあげられた。それは最近・北東ロンドン・ポリテクニクと一緒にCentre for Alternative lndustrial and Technolagical SystemSを設立した。合理化と首切りに反対して生産物に関する対案をつくったものとしては、このほかヴィッカース、パーソンズ、クライスラー社などの連合委員会がある。
残念ながら、連合委員会はたえずプラント別セクショナリズムにおびやかされる。それはしばしば会社内の職の脅威に応じてでてくるのである。だが会社にその存在と交渉機能を盟めさせるなら、こうした組織上の困難も克服されるだろう。
連合委員会は、組合の役割を拡大させる機会をつくりだすものであると同時に、その内に問題をかかえてもいる。関心を会社の問題に集中させることによって、それをこえた、全産業的もしくは階級的な忠誠と団結を無視する危険がでてくるのである。この意味で、旧来のクラフト的セクショナリズムを新しいセクショナリズムでとって代らせることになりかねない。しかし、いまなおショツプ・スチュワード組織がすぐれてプラント・レペル的性格をもち、また巨大なコングロマリット企業で会社レペルでの経営側の力が圧倒的に強いことを考えるならば、これらの“問題”の増大は、ショブプ・スチュワード組織が、低いレベルから高いより有効なレペルヘと発展しつつあることのしるしというべきであろう。イギリスだけで23工塙をもつフォードで、会合をもち、交渉し、会社の政策決定をコントロールするという目標は、せまいセクショナリズをこえたものである。大会社でのショップ・スチュワード連合を拡大しようとする努力をつうじて、国際的連携や多事業所企業での連携を含めて、高水準の戦略構想もうまれてくるのであって、フォードのイギリス諸工場の指導的コンヴィーナーの経験は、そのことを示している。
自動車工業全体についての対案の展開への多事業所企業からの参加の例は、The lnstitute for Workers‘ Cnntrolの自動車グループにみられ、クライスラー、ヴォクソール、フォード、ブリティッシュ・レイランド、ウィルモット・プリードンの代表が参加している。
またこの他の産業では、コヴェントリー・工作機械委員会がある。それには当該産業の5大会社のショップ・スチュワードとコンヴィーナーが参加し、この産業にかんする独自の報告書をまとめた。Rychard Hymanなど、一部には連合委員会の発展をみてその官僚主義化の危険を指摘するものもあるが、会社の枠をこえ、あるいは全産業や一産業部門全体にわたって、この種の労働組合共同のイニシァチヴを組織する可能性は、会社レベルに連合委員会があってはじめていちじるしく強められるのである。
▼インターネット上では「職場委員」や「ショップ・スチュワード」で検索すると以下のような紹介文が出てくる。
世界大百科事典内のショップ・スチュワードの言及.
【職場委員】より
…労働組合役員のうち,みずからも就業しながら一般組合員と日常的に接して活動しているものの呼名。名称は組合によってさまざまであり,役割も組合組織の構造によって異なっている。イギリスのショップ・スチュアードshop
steward,アメリカの苦情処理委員会の委員committeemanなどがこれに相当する。
イギリスで労働組合がクラフト・ユニオン(職業別組合)として組織されていた時代には,組合員が多くの事業所に分散していて,組合業務は地域組織ごとに遂行されていたので,組合費の徴収や加入の勧誘あるいは労働条件の監視など,職場の活動は一般組合員の中の有志が行っており,これがショップ・スチュアード。
…産業別組合は欧米では一般に全国組合として組織されているが,その末端組織は職場におかれ,具体的な労働条件がここで交渉されている。労働者の具体的な労働条件は企業の労務管理と密接に結びついているため,日常的に使用者と折衝することが組合活動の重要な要素であるが,それを担っているのはショップ・スチュワードshop steward(職場委員)と呼ばれる活動家であり,しばしば独自の活動を起こして本部と対立している。
《参考》『ショップ・スチュワードの世界 : 英フォードの工場活動家伝説』(ヒュー・ベイノン著 ; 下田平裕身訳、鹿砦社, 1980.10)
『新資本主義の幻想――労働運動からの諸問題』、(J.キャンベル著、中林 賢二郎訳、 1959年1月、合同新書) | 『世界労働運動の歴史・上』(労働旬報社 1965年7月) | 『世界労働運動の歴史・下』(労働旬報社 1965年9月) |
『労働運動と統一戦線』 (労働旬報社 1969年1月) |
『労働組合入門』 (労働旬報社、労旬新書、 1974年) | 『統一戦線史序説:1914-1923 インタナショナルにおける統一と分裂の論理』(大月書店、1976年1月) |
『イギリス通信―経済危機と労働運動』(学習の友社、1981年9月) | 「企業別組合と現代労働組合運動の組織論的課題『日本の労働組合運動』(第5巻、大月書店、1985年6月) |
Kenjirou Nakabayashi
(法政大学社会学部教授時代)
現代労働組合研究会のHP
労働組合・ユニオンの動向
それぞれの労働運動史・論 1
それぞれの労働運動史・論 3
それぞれの労働運動史・論 4
労働組合・労働問題の本
ユニオンショップを超える
連合を担う人たち
全労連を担う人たち
全労協をになうひとたち
インフォーマル組織の過去・未来
編集人:飯島信吾 ブログ:ある編集者のブログ 企画・制作 インターネット事業団(本メールにご連絡ください) ◇本ページは、ご家族の了承を得てすすめています。 UP 2012年04月29日 リニューアル 2020年09月05日 更新 2020年09月05日 更新 2020年09月10日 更新 2021年05月05日 |
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