・世代を越えて】 太平洋戦争中、名古屋の東山動物園の園長らは、上野動物園の「かわいそうなぞう」とは違い、命がけでゾウを守り抜いた。 戦後、そのゾウを見たいという子どもたちの願いにより、国鉄は特別仕立ての「ぞうれっしゃ」を走らせた。 その実話をもとに名古屋の藤村・清水先生によりつくられた親子の合唱組曲が「ぞうれっしゃがやってきた」です。 1986年の初演以来、国内外で何百回も歌い続けられ、両親も晩年人生をかけてこの公演に尽力したのですが、その思いが姪っ子に引き継がれて、本年6月松戸の公演で実現。 それを東京新聞さんが、千葉版で何度も取材・掲載してくれました。 2019年に母が亡くなったのは、奇しくも大きな公演の前日。 9ヶ月前に亡くなった父が「一緒に冥土でぞうれっしゃを見たいからこっちに来い」と呼んだに違いないと話していました。 そんな両親にとって、姪っ子がブランクを経てこの歌を歌ってくれることは、何にも増して嬉しい報せだと思います。 長くなってしまい恐縮ですが、リンク先の記事もぜひご高覧ください。 #ぞうれっしゃ #平和 |
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・【ぞうれっしゃと親の話】 1986年の誕生以来、実に34年間日本全国はもとより世界でも歌われ続けている親子の合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」。 先日の戦争展 in 江戸川で、叔母からのたっての依頼で、このぞうれっしゃについて話をさせていただきました。 親でありながら一人の人格として私を尊重してくれたので、両親自慢にならないことを心がけて資料を作りました。 命がけでゾウを守り通した名古屋東山動物園の園長さん、飼育員さんと、平和を願い、子どもたちの未来を信じてこの合唱劇を作った先生方、今も続けている人たちのことを、少しでも知ってもらえたら嬉しいです。 |
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(2019.04.05) ▽申し込みは下記へ 頒 価 600円(税込み) (郵送費は別) 〒302ー0011 茨城県取手市井野4417ー1 西村 方 Eメール::infoアットnishimuraichirou.com(アットを@に変えて) ▽編集後記 1978年に発足した現代ルポルタージュ研究会は、同人誌として『たたかいのルポルタージュ』を発行してきた。しかし、2011年に15号を出してから、何回か次号をとの声の上がったときもあったが、メンバーの高齢化もあって原稿が集まらずしばらく休んでいた。 それでも今回は、永年にわたり当研究会の顧問をしていただいた柳澤明朗さんの死去にともない、1周忌の頃となる5月に「柳澤明朗さんと共に歩む会」を主催しようとなり、それにあわせて16号を出すことになった。 そのため4月には完成させることにし、そこから逆算して2018年10月、12月、2019年2月の3回合評会を開き、それぞれの作品を持ち寄って活発に意見交換させてもらった。 こうして完成させたいくつもの作品を、飯島信吾さんの協力で《1部》「編集者として、家族として ・追悼 柳澤明朗さん」《2部》「いま・ここに――『ルポの力』」に編集してやっと形になった。 柳澤明朗さんの教えの1つは、ルポルタージュの書き手として、社会の動きに正面から向きあい、そこにある事実を書き続けることである。当ルポ研は沖電気争議団と一緒に歩んできたこともあり、「安心して人間らしく働ける職場を目指して」は、沖争議の貴重な闘いが今も継続していることを明らかにしている。 一人でも多くの方に16号を読んでいただき、柳澤明朗さんと同行二人する方が増え、ルポルタージュの世界がさらに広がることにつながれば幸いである。(西村一郎) ▽目次 《1部》 編集者として、家族として・追悼 柳澤明朗さん (以下、《一部》はPDF版で読めます) 同行二人~これからも柳澤明朗さんと共に~ 西村一郎 自らの「生」を生ききった父と母 柳澤史樹 ◇柳澤明朗さんのアルバム 柳澤明朗さん ありがとうございました 藤村記一郎 われらの先輩・柳さんを偲んで 石井次雄 孫からのお礼 柳澤清香 子どもたちに「平和を!」の人生 横田 静 灯のこころを大切に 平野好英 柳澤さんの想い出 加茂和子 柳澤さん、ありがとうございます 上田裕子 柳さんが書き残したメッセージ 飯島信吾 ◇柳澤明朗さんの主な編集・企画した出版物 《2部》 いま・ここに――「ルポの力」 (以下、《二部》もPDF版で読めます) だれもが人として尊重され、人として生き、 人として働きたい=非正規社員との歩み= 相原幸雄 被災地・南相馬で共に生きる 西村一郎 「住み慣れた地域で最期まで自分らしく」の試み 小川 緑 書き残すことの大切さ 私とベトナム物語 小松みゆき 「お墓にひなんします」~続く原発関連自殺~ 西村一郎 「反骨の島」と風力発電 西 正和 |
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『三菱帝国の神話』 (今崎暁巳著、1977年) | 『松下王国の神話』(橋本・中山著、1978年) |
『ドキュメント東京電力 その栄光と影』(山本忠利, 渡辺利夫, 正木浩三、労働旬報社, 1980年7月) |
『ドキュメント 日本航空』(今崎暁巳著、1982年9月) 2019年3月23日 (土):日本航空で「勇気をもって闘った」――小倉寛太郎さんに続いた人物(土井清著) |
『関西電力の誤算 上』 (大谷昭宏事務所関電争議取材班、労働旬報社, 2002年7月) |
『関西電力の誤算 下』 (大谷昭宏事務所関電争議取材班、労働旬報社, 2002年7月) |
『どぶ川学級』(須長茂夫著、労働旬報社、1969年) | 『続 どぶ川学級』(須長茂夫著、労働旬報社、1973年) |
『どぶ川学級 完結編』(須長茂夫著、労働旬報社、1975年) |
『友よ! 未来をうたえ 日本フィルハーモニー物語』(今崎 暁巳著、労働旬報社、1975年) | 『友よ! 未来をうたえ 日本フィルハーモニー物語<続>』(今崎 暁巳著、労働旬報社、1977年) |
『新世界へ 日本フィルの旅たち』(今崎 暁巳著、労働旬報社、1984年) | 「映画 日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章」(監督・神山征二郎、1981年9月) |
・昨日(2019年5月18日)、「柳澤明朗さんとともに歩む会」(元労働旬報社社長)が、池袋の「日本労協連(ワーカーズコープ)会議室」で開かれた。 背後の横断幕の墨文字は、畏友・松澤常夫さんが書いたものだ。 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/index.html 柳澤社長と交流のあった、40数名の方々が参加して、「柳澤さんと奥方のなれそめ、家族模様、社会的活動」のパワーポイント上映、「ぞうれっしゃがいく」のピアノ演奏付き合唱や「合唱組曲この火を永遠に」の一部独唱、そして参加者の想い出、家族からのお礼のことばなど、「“熱い"柳(やな)さんらしい」、人間味あふれた集いだった (クリックすると大きく見られます) ・呼びかけ人 清水則雄(作詞家)、藤村記一郎(作曲家)、三輪純永(うたごえ新聞編集長)、横田 静・井之下勝彦(神奈川ぞうれっしゃネットワーク)、高橋晴雄(元ちばコープ理事長)、富岡 豊(下町人間の会事務局長)、中屋重勝・浅利 正・松本謙司(沖電気争議団)、飯島信吾(元労働旬報社編集部)、江森百合子(柳澤明朗さん義妹)、柳澤史樹(柳澤明朗さん三男)、上田裕子・小川緑・西村一郎(現代ルポルタージュ研究会) |
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みさなんへ 多くの人々の願いに反して差別や貧困がはびこる日本の社会において、柳澤明朗さんの鋭い目線は常に弱者の立場にあり、事の本質をえぐりだして共に手をたずさえ変革していこうと熱く呼びかけていました。基本的人権を無視した沖電気による大量解雇に対する合理化反対闘争もあれば、音楽で平和を求める人々をつないでいく「ぞうれっしゃがやってきた」や「この灯を永遠に」の全国的な運動でも、輪を拡げるため先頭に立って柳澤さんは奮闘されてきたものです。 どんな難しい課題にも仲間を信頼し、かつユーモアをもって正面からぶつかってきた柳澤さんの情熱は、これからのさらに変動する社会の中で生きていく私たちにとっても大切なものです。 そこで柳澤さんの1周忌に合わせ、柳澤さんの熱い想いをけっして忘れることなく、これからも共に生きていく姿を、参加者で確認し合う有意義で楽しい場にします。 ぜひ1人でも多くの方のご参加をお待ちしています。 ・日時 2019年5月18日(土)14時から16時頃 ・会場 池袋 日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会会議室:下の地図参照 〒170-0013東京都豊島区東池袋1丁目44-3池袋ISPタマビル8階 ・会費 1人1,000円(柳澤明朗さん特集のある現代ルポルタージュ研究会編集『たたかいのルポルタージュ16号』込み) 会場でいただきます スケジュール 開会挨拶 歌 「ぞうれっしゃよはしれ」 献杯 各自の発言:「私が柳澤明朗さんから受け継いだもの」 閉会挨拶 ・お願い 日本酒の好きだった柳澤明朗さんと、よろしければ飲むお酒の持参をお願いします ・呼びかけ人 清水則雄(作詞家)、藤村記一郎(作曲家)、三輪純永(うたごえ新聞編集長)、横田 静・井之下勝彦(神奈川ぞうれっしゃネットワーク)、高橋晴雄(元ちばコープ理事長)、富岡 豊(下町人間の会事務局長)、中屋重勝・浅利 正・松本謙司(沖電気争議団)、飯島信吾(元労働旬報社編集部)、江森百合子(柳澤明朗さん義妹)、柳澤史樹(柳澤明朗さん三男)、上田裕子・小川緑・西村一郎(現代ルポルタージュ研究会) ・申し込み先 参加される方は、5月11日までに下記へ氏名をご連絡ください。 西村一郎 〒302-0011 茨城県取手市井野4417-1 infoアットnishimuraichirou.com (アッとを@に変えて) ◆「柳澤明朗さんを偲ぶ会」(2018年7月8日、横浜市立大学にて)開かれる。 ◇柳沢史樹さんのfacebookで発信[2018年7月9日 12時発信 △柳澤明朗さんを偲ぶ会に参列し(西村一郎活動日誌:ブログ」、2018-07-09) △「うたごえ新聞」(2018年9月10日号) |
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第1回(2003.5.24) [PDF(第1回から第3回)へ] こんにちは! ――“にんげん” ――人間が人間として生きる権利=人権のルーツ・近代市民革命探検の探検をご一緒に。 ――肥大化しきった疎外に対して人間回復をしていく協同・共生の可能性を求めて 等身大に学び、解き明かす近現代・未来――現代の疎外の状態、原因と、質を解き、人間回復をしていくための協同、コミュニティーの可能性を追究するために 第2回(2003.6.28) 近代3つめの89年――1889年明治憲法体制の意味・機能 第3回(2003.7.26) “歴史上初めて”の第一次世界大戦と戦後世界体制 第4回(2003.8.00) [PDFへ] ファッシズムへの道とその運命――誕生と克服していく人類の英知 第5回(2003.9.20) [PDF(第5回から第8回)へ] ファッシズムのしくみ・体制(その1) 第6回(2003.10.25) 大東亜共栄圏の思想 ファッシズムのしくみ・体制(その2) 第7回(2003.11.22) 戦争と侵略の天皇制ファッシズム国家 第8回(2003.12.20) 第二次世界大戦――原因・正体、口実、事実、基礎データ 主な憲法改正案年表・有事体制関連年表 第9回(2004.1.24) [PDF(第9回から第12回)へ] 第二次世界大戦 基本的性格――原因・正体、口実、事実、基礎データ 第10回(2004.2.28) 敗戦――解放期に立てられた世界・日本の国家形成の基本性格 第11回(2004.3.27) 第二次世界大戦後の世界秩序=冷戦の45年――どのような秩序か。なぜ、どのようにして体制はつくられ、なぜ崩壊していくのか。日本はどうからむ? 世界史・日本のポイントとなる事件を追って。 最終回(2004.5.22) 診断書――7つの大病に冒された現代社会――資本主義社会の賞味期限切れの証 ――病原は自身の体内から発生。なぜ、どのようにして。 どう解決するかの処方箋――病原を除き、資本主義社会をどう乗り越えるのか。どんな未来社会が描けるのか。そのキーはなにか。 《追加》 [PDF(追加第1回から第2回)へ] 憲法・教育基本法体制とは? その価値・意義。なぜ、どのようにして――人類が獲得した 21世紀づくりの指針 第1回(2004.6.26) 憲法・教育基本法体制の歴史的大転換の状況、本質、争点 なぜ、なにを対抗軸とした対決か。 第2回(2004.8.28) 憲法・教基法体制破壊の論理と予定される人間像・社会像 ――「公」による個の否定。なぜ、どこにむかって統合するのか。震源地はどこか。 ――軍事大国、グローバルメガコンペティションに勝ち抜く担い手づくり。 人格、人権の空洞化のマインドコントロールを通して愛国、公・国際協調、人的支援に統合。 ▽以上の文章・テキストは、「現代ルポルタージュ研究会」の会議で配布されたもので、会員の小川緑さん(山梨県北杜市在住)から提供されました。 |
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19歳以上の人生なし 護国の“英霊”となり靖国神社へ――村中の期待を一身に受け ●2001年11月23日 23:43 **若者の自分発見の旅をともに……<ぞう>シナリオ原案あらすじ ●執筆時期不明 現代における人間疎外の事実・性質・原因をどうとらえるか その回復の事実の発見とルポ・表現の可能性 ●2000年9月21日 私の残日録 または残本録 戦後50年の評価といま、何を記録するのかへのヒント ●1995年1月28日 「事実とその表現」についてのノート ●1994年9月3日 事実の発見、とらえ方 ●1994年1月30日 事実を構造的にとらえる 現代ルポルタージュ研究の課題――現代ルポルタージュ研究会 ●1992年7月25日 ▽以下の文章・テキストは、「現代ルポルタージュ研究会」の会議で配布されたもので、会員の小川緑さん(山梨県北杜市在住)から提供されました。 |
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――【進むために残す価値】
昨日開催された「父を偲ぶ会」は、生前お世話になった方や親族含め139名もの方にお越しいただきました。
認知症で5年、末期がんが見つかり亡くなるまでの約半年を親族で乗りこえ、一つの区切りが完了しました。
ジャーナリスト・編集者として生涯をかけて共に本づくりに関わった方々のお話や、50を過ぎてからの父に最高のセカンドライフをプレゼントしてくれた合唱組曲「ぞうれっしゃ」「この灯を永遠に」、トランペッター松平さんの献奏などもあり、予想してはいたものの、大きく時間を超過しながらも大成功に終わりました。
遠くは愛知や栃木から来てくれた方もいて、改めて父が人との繋がりに真剣に向き合っていたのかを知る機会になりました。
私も親族を代表し、父の生涯を綴ったスライドを発表。
とにかく人を笑わせ、叱咤激励することが好きだった父の、幼少から青春期と、認知症を発症してこの世を去るまでのパートを重点的にお話しさせてもらいました。
私が人の生きざまを記録する自分史の活動をライフワークとして一昨年からはじめましたが、オフィシャルで発表する作品が父になるとは、予想だにしませんでした。
時間のないなか、母が膨大ななかから選ぶ写真をスマホで撮影し、ストーリーと併せて作成するという手間のかかる作業。
しかし参加してくれた多くの方から「知らなかったお父さんの一面を知ることができてとても嬉しかったです」と言ってもらえて、本当に作った甲斐があったと感じました。
祖父母や幼少時、学生時代や母との出会いなど、そこに確実に存在していた人々の営みをまとめる作業を通じて「たまたま父はこうして多くの人に知らせる作品になったけれど、人の一生とは、それが誰であっても、その記録をかけがえのない宝として大事にしてくれる人がいる」と確信しました。
未来を信じてその実現に向けて進むことは最も大事。
しかしだからこそ、これまで誠実に生きてきた人の生きざまを残し、伝え、再び未来の実現にむけて紡ぎ直すということの価値があるのだと、心から感じることができたのです。
お越しいただいた方々、何度も打ち合わせして計画してくれた方々、機材を貸してくれたり、撮影をしてくれた方に、心から御礼申し上げます。
今ごろ天空の父は、この繋がりを笑いながら見ていることと思います。本当にありがとうございました。
○2018年5月
◇呼びかけ人代表=竹中博美(金沢区年金者組合元支部長)
呼びかけ人(五十音順)=石井次雄(旬報社元社長)、江森百合子(合唱団この灯元団員)、小熊暁子(楽しい歴史講座代表)、加藤誠(神奈川県教育運動センター事務局長)、上島和男(片吹団地自治会元会長)、岸和三郎(金沢区生健会会長)、高浦福子(新婦人神奈川県本部元会長)、田村登(金沢区革新懇代表世話人)、大黒春江(金沢区平和のつどい実行委貝)、藤村記一郎(ぞうれっしやの作曲者)、丸茂信行(金沢区9条の会事務局長)
新緑のさえわたる五月を迎え、ますますご健勝のことと存じます。
この度、私たちの友人、先輩である柳澤明朗さん(84歳)が4月5日に逝去されました。柳澤さんは「ぞうれっしやがやってきた」の合唱運動、労働旬報社代表取締役、ジャーナリストとして労働運動の先駆的提起、金沢区「平和のつどい」、片吹団地自治会長、金沢区の革新懇などの運動を取り組んでこられました。
柳澤さんは東京、神奈川を中心に命の大切さと文化創造運動を通じて若者たちに「未来への希望」を語り続け、多くの人達に感動を与えてきました。
わたくしたちはここに、「柳澤明朗さんを偲ぶ会」を下記のように開くことにしました。お忙しいなか、ご都合お繰り合わせのうえ、ご出席くださいますようお願い申し上げます。
「記」
・日時 2018年7月8日(日)、午後1時半開場 2時開会
・会場 横浜市立大学シーガルホール1階の生協食堂
京浜急行金沢八景駅から徒歩8分
△横浜市立大学正門を入り時計塔まで100m直進し、きらに50m進み、突き当りを左に曲がるとすぐ右側に、シーガルホール内の生協食堂があります。
・会費=3000円
・その他= ①当日は平服でおいでください。
②同封のはがき、FAX、メールなどで6月20日までに,出欠のご 返事をお知らせください。
③柳澤明朗さんへの思い出などひと言メッセージをお寄せください。
・連絡先=田村(事務局)
TEL 090-4028-2187
FAX 045-781-8912
丸茂(事務局)TEL090-1509-4843
メールnmarumo@gmail.com
http://www.fun-site.biz/blogs/yanagisawa/?p=3348
◇今崎ルポの目線とその土台
彼は早大仏文卒業後、労働組合運動に出会い、2年たって労働法の専門の知識を身につけて運動に参加したい、「共生・協同の社会を」と思うようになったからといって、大学院の法学研究科労働法専攻に入ってきた。
当時の労働法ゼミは野村平爾教授、沼田稲次郎都立大教授、松岡三郎明大教授という労働法学会の3巨頭が教授陣、助教授、講師などの野村教室の先輩がキラ星の如く並ぶゼミの1学年下に入学してきた。これが以後50余年、人生をともに創っていく友、著者と編集者として歩むスタートだった。
なぜ、こんなことを書くかというワケを一言。彼が文学だけでなく労働法を専攻したことと今崎ルポの方法論とか、ルポを構成していく事実・現象を捉えていく視点、実際に起きた事件・現象の正体や問題点の把握、双方の正当性・口実を論じる形での記録づくりの手法を駆使する今崎作品の方法などに深い関係があると思うからだ。
野村ゼミは『旬刊・労働法律旬報』別冊に毎号数本掲載される「労働判例」がテキスト。そこには、私たちが、まだその実際を経験したことのない、労働組合や労働者の権利の実際・運動・法的問題点が満載されている。また目が覚めてしまうばかりの「人間らしく生き、働く権利」が凝縮・集約された条約や国際労働運動の成果・判例も読み学習していく。国際常識の権利の到達点と日本の労使関係、権利のすさまじいズレなどがみごとにわかったりする。
沼田先生の最初の授業の時のこと。「君たちは自治会活動や平和運動などの学生運動に経験があるのだと思うし、労働法のゼミを選択してくれたが、このゼミは戦前の旧憲法時代には無かったのだ。戦前がなぜ、どんな体制・土台かを解明する文献一覧を書くから読んでくるように……これらの文献は、新憲法体制であったからこそ存在したゼミの意味をとらえるためにも不可欠だ……」と宿題を提起。大きな黒板いっぱいの文献を書き上げていく後姿に身がしまる想いがした。今思うと、他学部から来た今崎君歓迎のメッセージもこめられた授業だったのかと思ったりする。
こうして今崎作品のメインテーマ「人間らしく生き働く」典型的な権利やその事例などの国際労働運動の成果や条約も学び、身につけていくなかで、作家として自信をもって現場取材をする前提・視点がつくられていったのだと思うのだ。
◇“自由”がある家庭での育ち――今崎ルポの土台のひとつ
今崎ルポのもう一つの要素に、夫妻の家族・家庭の要素があると思えてならない。
鰺坂真・上田浩・宮田哲夫・村瀬裕也編著『日本における唯物論の開拓者――永田廣志の生涯と業績』(2008年8月30日、 学習の友社)の永田先生の一人娘が今崎夫人の則子さん。本書に「父・永田廣志の思い出」で「治安維持法下で」、「戦中の暮らし」などを書いている。今崎君は、企画や原稿の良し悪しを夫人に語り判断してきた癖がある。私に企画を持ち込むときに「則子が企画も原稿もいいといってるからな」と及第点を受けていることを根拠にして、私に原稿を読むことを頼むのがしばしばだった。
今崎君のおかあさんの静枝さんは作品集も出している作家。日本の第2回メーデーに初めて5人の女性が参加したときの一人だと、彼は誇らしげによく語っていた。
お父さんの義則さんは日本の金鉱山での珪肺症の研究・開拓をしていった医師で、金鉱山の労働者の集団検診のシステムをつくり取り組んでいった方。この山陰の民医連・出雲市民病院の院長だった父上が、1960年3月に過疎化日本一の島根県の三瓶町志学に「三瓶診療所」を設立し地域医療にとりくんできていたが、高齢と病気がちの父上の後継を決意した長男の正生先生が、長年の高校教師を退職し、39歳で東邦医科大を受験して合格、夫人・子どもの3人で上京して医学部を卒業した正生先生が診療所を引き継いでいき、今日になっている。今崎君が、日本の近代のなかで、デモクラシーや個の権利など、両家とも、“自由があった家だったんだよな……”と語っていた。
正生先生が県の教員組合で役員をされているときに、さまざまな指導をうけながら今崎家に長期に滞在させて貰って、勤評闘争の実態・意識調査をさせていただいた。後に群馬県の都市でも、大学院の民法専攻で今は「9条の会」などで一緒の、今崎君の長年の友人の古屋孝夫君も参加して、群馬の私の家に3人で合宿して調査に取り組んでいった。
勤評闘争が最後までもりあがっていた闘争の共闘団体、群馬民擁連の金子満広副代表に、意識調査の対象分会を紹介していただいて調査ができたのだが、これが「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」や今崎作品『人生つねに始発駅 人間金子満広』の元衆議院議員の金子先生との最初の出会いでなかったかと思っている。
◇すべての作品を貫く人間讃歌――共生の社会・人間関係を紡ぎだすルポ
『競争と共生』……内橋克人さんの提起。
「競争の原理は分断です。分断して対立させ、競争させる。……共生は連帯と参加と協同を原理として食料、エネルギー、介護など人間の基本的な生存権を大事にする。FとEとCを自給し、消費するだけでなくそこに雇用をつくり出す。その価値観の下で新たな基幹産業を創出し持続可能な社会に変える」――市場万能、競争至上の新自由主義経済に異議を唱え、「企業破壊、社会の絆が断たれる」と警告する内橋論(『朝日新聞』OPINION 資本主義社会はどこへ。2009年2月23日)。
この指摘の時に今崎君が以前、著書で書いていたことを思い起こす。「高橋ちば市民生協理事長が『どぶ川学級』の著者・須長茂夫さんの“子育て、人づくり”の一緒に育ち発達するという思想から、人と人をつなぎ、結ぶ“ごいっしょに”という、生活協同の新しい理念、用語ををひきだした事実は、大変示唆にとんでいます。すなわち、人間の成長そのもの、人間そのものを、生活協同の運動、事業のまん中にすえたということです……」(『生活 ごいっしょに』エピローグ。1990年3月15日刊。今崎著)。
指摘されるように、極限にまで組み立てられた分断・競争社会にストップをかけ、協同して生きる活動・社会づくりの活動のまっただなかに飛び込んで、今崎君自身が生協の配達車にも乗ったりして、生活の、女性の、子育ての、教育の、平和のとりくみの現場のただなかにとびこんでいってとりくむなかで、本書や作品群が創られていったのだと思う。
◇人間ドラマ・人間関係ルポ
1962年10月から4年間、大好評だったテレビ「判決」でシナリオ作家の一員として参加したのが彼のデビュー。しかし番組への政府・自民党などをはじめとした「偏向番組だ」の干渉が繰り返されて、1966年8月10日の番組を最後に放送は中止となった。その後、『コブだらけの勝利』(1969年刊)でルポの最初の単行本を出版、以後35点の単行本(共著も含む)と70点以上のエッセーという業績を残して、昨年(2010年)12月に旅立っていった。
いま、「無縁社会」とか「絶縁社会」とかが語られる。これは人間の絆・共生にかえて、お互いが人間の尊厳で結ばれ響き合って絆を結ぶのではなく、友人もふくめて、他者を競争の相手としてのみにしてつくられていく企業社会・人間関係がうみ落とした産物だ。
これに対して今崎作品が貫くものはまったくちがって、家庭も地域も、仕事のなかでも描かれる人間讃歌。すべての作品で、「ご一緒に人生を創っていこう……」と呼びかけ、出会いを創り、絆を結び、共生が創りあげていく人間社会・人間関係が生みだすすばらしい営みを描く作品群だ。
激動・激変をしていく時代・社会で生じる人間疎外への人間回復の取り組みのルポ群であったり、日フィルなど文化、マスメディアからの作品、官公労中心から民間、とりわけ日本の企業社会に最大の特色である極少数の大企業のもとに何階層も重ねられたピラミッド型中小企業群社会、町工場、地域でのたたかいのなかで生まれてくる、人間らしい労働の回復、人生づくりの現場からのルポ群であった。
傷ついたモデルや不当な人間扱いを受けた労働者たちが、作家・作品との出会いをとおして、自分や友人たちの素晴らしさを発見し、希望・夢をもって歩み出す人間ドラマ・ルポ群だ。
◇取材魔の方法
作品づくりに関係することだが、彼の感性にひっかかったり、気がかりな情報に出会った場合、私を企画に巻き込むための説得にくる。「魅力があるんだな……この人物……」。彼独特の感覚で捉えた、相手の人間丸ごとの魅力を懸命に言い張り、おしてくる。そして企画書をまたもとぼけている。
「それでどうした……」。いつものように、なぜ、なにを描き、読者に届けたいんだと追求すると、取材魔の彼が録音した日フィル団員の200時間のテープをあんたが聞いてめぼしい人物を決め、その取材をしながら決めようよ……とか、長崎造船の430人の取材とか……にまきこまれていく。
彼の目をつけた人物の家庭にもおしかけて取材していく仕掛け・ワナをかけてくることになるのだが、日フィル企画では、山本武司宅にまず連れて行かれた。家に入ると、天井の3カ所くらいにあるすごいスピーカーから音楽が流れ続ける。何回訪ねても同じだ。いわば、お客さんがきているのにな~と思い、「いつもそうなんですか」と聞くと……「これは私の空気ですから、子どもたちにとってもね……」という。父上もオーケストラの有名な演奏者とか。しゃくだけれど、帰りには「日フィル企画をしないようなら人間じゃねー」とゴーサインをだしてしまう。
そんな場面にとまどったり、楽員のよごれた小さな下宿にいくと、天井からバイオリンが紐でつるしてある。「天井につるして置くんですか」と聞くと、「置くところがないからね……」という。そして「あれ、いくらぐらいだと思いますか」とからかうようにいう。「いまなら4億円くらいはしますよ……」。3度の食事も満足にできないような状態の争議団の家にある宝物に驚くばかりだった。
◇作品の思い出……別掲の作品群の案内板
1 『日フィル』と、ともにあゆみながら。
今崎君の凄いところは、解散・解雇にさらされたオーケストラが、これまでの殿堂で「音楽を聴かせてやる」からぬけだして、市民とともに創りあげていく12年にわたる新しい音楽運動のなかで再建していくとりくみを、文字通り、全国を共に歩きながら……、『友よ!未来をうたえ』(正・続)、『新世界へ――日本フィルの旅立ち』3冊で刊行。映画化もされ、世界に発信されていく。
そのときに今崎君の位置は、著者というよりは、日フィルと市民が生みだした新しい音楽運動の担い手そのものの一人として、全国に展開されていく各地の市民のコンサートづくりのとりくみにも率先して参加しながら、描いていく現場ルポということだ。
彼の作品の特徴は、このように、取材というよりは「俺たちは人間だ。人間扱いをせよ……」とたたかう一人ひとりの争議団員とともに生き、あるいは日本フィルの活動のど真ん中に参加しつつルポしていくことではないかと思う。こうして音楽家・音楽が描き出す人間讃歌・人間変革に感動の連続の作品がうまれてくるのだ。
2 『ドキュメント日本航空―国民の翼をめざして』・単行本。また、これに関連した取材、企画などを描いた『日航機事故の深部と労使問題―「ドキュメント日本航空」を書き終えて』(「賃金と社会保障」特集=労務管理のあり方と事故など見事な記事・1983年)、日航問題の単行本と雑誌評論、日航機事故の深部と労使問題など、今日の日本航空問題をも解明する作品群などいいものあり。
3 東京争議団関係。技術革新が人間疎外に直結する労働の質も形も激変のなかでの人間らしく働く状態のルポ群。重厚・長大から軽薄・短小、IT時代への出発のなかで、日本フィルや沖電気をはじめ争議団の「人間疎外の回復」「人間らしい労働を」を求めてたたかうルポ――沖電気『なにをみつめて翔ぶのか――沖電気指名解雇をこえて』、報知新聞・印刷のたたかいの連作各種がある。そこでは戦後の企業社会の変動・労働現場の変質・変化のもとでの人間が見事に描かれている作品群。
4 生協と一緒に3年連続したイタリア訪問など国際的な連携活動を通して、文化で、くらしのなかで――日本よりGNPのはるかに低い国の見事な豊かなくらしの事実にふれ、「豊かさとはなにか」「文化とは」などを根底から問いかけ提起していく作品群。共生・協同の典型的先進国の事実をルポし続けている。
5 日本の生協もまた、すさまじいまでの発展、なぜか。くらしのなかで、地域のなかで、子育て・教育・平和の問題で絆結んで、「競争をこえた共生・協同」にとりくむ、各地の生協を中心に進められた単行本と評論。本も評論もすぐれたものが多数あり。
6 『いのちの讃歌』……2歳の時の脳性小児麻痺が原因で、左足指しか動かない重度身障者の木村浩子さんが、座敷牢にとじこめられて育つなかで文字を憶え、短歌をつくり、足指で絵を描きつづけてきた彼女が、軽いがやはり障がいを持つご主人と結婚されて出産となってきたときの物語。障がい者の見方、発達論など人間の発達観・論をリードし、問いかけていく絶好の題材・問題提起の書でもあった。
「こんな重度身障者の出産は世界に例がない」……と出産がせまるなかで病院から受け入れられなかったときに、民医連・医療生協の福島病院が受け入れてくれて無事出産し、子育てに取り組むルポ。
担当の江森看護師からの連絡で今崎君ととんだ。その江森さんに今崎君の偲ぶ会の連絡をしたときに、「私は今崎先生が人間というものを捉えるときの人生の師でした。人間として、医療の仕事にいる私が患者と向き合うときの姿勢、かかわり方を浩子さんに向き合う今崎先生の姿から本当に学びました」と語ってくれた。
足指でようかんを切り、皿をふき、楊子をそえて、皿を押してくる浩子さんの歓待に、今崎君はまことになにもなかったように羊羹を食べていった。私はどうしても手が出なかった。浩子さんが大笑い。「社長さんは正直だね。いいんだよ……」といって、みんなで大笑いした。ひっくり返るほど恥じた。
作品とこの事実は、世界に先駆けて先進的に取り組まれていた日本の障がい者の発達論――人間論の根底ともいえるところから、テレビ局はもとより各関係者・専門家集団がいっせいに研究会などをして、取り上げてくれた。
7 『明けない夜はない』の映画化……村山ひでさんの3冊シリーズの最初の出版。何人かの監督や作家の先生方から映画化の話がきたが、山形県教組が教組の企画で映画化を大会決定してくれた。山本薩夫監督・伊藤プロデューサーのゴールデンコンビで話が進む。シナリオを依頼された飲めない今崎君も、毎度参加してしゃべったり、山形県に取材したりして深めていった、実に楽しい時間をすごした。
第1稿があがり提出されたとき山本監督のOKがでない。結局、書いては直して7回書きなおしたときに、山本監督が他の映画をつくることになり映画化の夢は消えた。今崎シナリオの他に4本、計11本のシナリオがシナリオ作家から寄せられたが、監督のOKがでなかった。かなり激しく論議を重ねてはきたが、夫の逮捕投獄や結核で喀血したり、河原に建てた掘建て小屋で「水あがった」と泣く子どもと泣くひでさんが、なぜあんなに明るいのか、生まれつき、童女の様な……ではなくて、立体的に、映像で……というのが要求だった。
戦前の治安維持法体制や軍事大国のひどさも、怖さもくぐった監督たちの指摘はわかりつつも、ひでさんの明るさと暗さの葛藤・変革が映像化できない苦闘のなかで、映画化の夢は消えた。才能と個性あふれる作家たち、表現者のすさまじいまでの葛藤をみた。
8 モデルのみなさんの人物伝・人生伝
『人生つねに始発駅 人間金子満広』(1990年)
『人生いつも素人―弁護士 尾崎陞の挑戦』(1992年)
『北の砦――ルポルタージュ 鳥生忠佑と北法律事務所』(2009年)
◆2011年6月 5日 (日)、「今崎暁巳さんを偲ぶ会」が開催され、当日、参加者に寄贈された追悼文集の『今崎暁巳さんと私』(A5判、132ページ)より。
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野村先生の初めての授業の日、研究室に呼ばれて紹介されたのが彼との出会い。以後、五〇年余、仕事も人生も二人三脚で歩む友の誕生だった。それは生涯変わらずにあったのだが、思わずひきこまれてしまう人なつっこい少年のような笑顔で握手してきたことが忘れられない。
だが、その彼がまれにみる読書家・研究家で、哲学・社会科学の基本文献をドイツ語で読みこなし身につけていたなど、ドイツ語を、授業の時も普段の会話でもよく使う沼田先生と生き生き話していることはあったが、そこまでの学識を身につけていたことには全く気づかなかった。
彼が亡くなったときに、やはり川﨑君と中大の同期で生涯の友、水野勝東洋大教授の話で「中央大学の学術部哲学会で哲学、社会科学の基本文献をドイツ語で購読する指導をしていた横井先生に一年の時からハードに鍛えられて、原典学習をして身につけていたんですよ」と聞かされ納得した。
沼田著作集を担当していた石井編集長(当時)が、著作集の月報をまとめるとともに、それに沼田先生の一文、沼田夫人、川﨑君、石井君、私の感想を新たにつけて製作した『聴松団欒』に、次のように書いていることを思い出した。
「……先生自ら三〇年余にわたって書きつづけられた全著作、単行本五〇数冊、論文二五〇余で、大学ノート八〇頁余の著者目録……」の話だ。
そのちょっと前に、沼田家にいったときだと思うが、すでに会社を退職していた川﨑君も編集作業にアルバイトで参加要請をしてあったので、著作集の話になったとき、沼田先生の作品のほとんどを川﨑君がもっているといいだし、先生がびっくり、すっかり感激して喜んだ顔を思いだした。
私たちの学んだ当時の早大大学院は野村早大教授、沼田都立大教授、松岡明大教授の労働法学会の三巨頭が教授陣、島田助教授以下に佐藤、中山、籾井、竹下先生などの高弟が綺羅星のごとく並ぶのだが、この先生方が私と川﨑君の生涯の仕事となる労働旬報社の中心的執筆陣となっていただくことになるわけ。
なかでも沼田先生家との絆が彼の人生づくりそのものに与えた影響を鮮明に思い起こす。敢えて「家」というのは、沼田先生のみならず奥様も一緒での深い深いおつき合い、交流が院生の時からあるからだ。
沼田家の夏休み中恒例行事になっている別荘生活のときの留守番とか、先生の一年余にわたるドイツ留学の間の留守番などをはじめ、住み込みで先生の膨大な研究資料、蔵書の整理など、日常的な生活での出入り自由、泊まり込んでの交流が奥様をして、「沼田の教え子というよりは、弟としか思えません。家族の一員です」といってくださるような絆で結ばれていたことを思い出す。
なぜ、これほどまでに沼田のトノに(殿様。私がつけた沼田先生の渾名で、私たちの先生への思いが表現されているといい、けっこう使っていたのだが。奥様はいやだわ~といって笑っておられたが……)忠誠を誓い、心から尊敬していたのかと思ったときに、川﨑君の人間的良さ、才能を発見し、そんな交わりをされたのが沼田先生だったことに思い当たる。
なにより、あたかも「若き“哲学青年”同士」のようなお互いの尊敬と話し相手への共感、哲学論争をしたり、学説に抵抗したりして楽しんでいた。先生の哲学を理解していたことが伝わっていたのではないか。その際のドイツ語の駆使、また、それぞれの違いがあるが家族などの原爆体験での共通した想いも絆の土台のひとつにあるのかもしれない。彼はトノの励まし、評価に自信をもって生きるバネをもってきたような気がする。
こうして育てられた彼は、「人間の尊厳」づくり・実現に人生のすべてをつぎこんで生き抜いたのだと思う。沼田先生ご夫妻を「人間の尊厳論」のリーダーとすれば、その実現に奔走する実践者のように思えてならない。
解雇や不当な差別が行われる場面をいち早くつかんで、その現場になにをさしおいてもとんでいって、人間回復の取り組みをいっしょにしてきたのだった。彼の人間哲学の師とあおぐ先生に出会うと、すぐにその先生の家に住み込んだり、近くに住居を移し起居をともにしながら学ぶ常習でもあった。「実践論・矛盾論」の訳者の松村一人先生と大学院の仲間で研究会をはじめ、沼田先生との対談を企画したり、ついには自宅に住み込んでいくとか、川﨑君らしい思い出を残してくれている。「廣島県原爆被爆教師の会」の石田明会長などとの交流など、川﨑君の人間性がつないでいった本当に多くの師や友人に恵まれていたことを思い起こす。
最後に、会社が経営困難になったとき、「労旬の灯を消すな」と株主や多くの執筆陣の先生、読者、業者の皆さんの協力体制をつくる最先端にたって、社の継続・発展への道をきりひらいていったときの川﨑君の取り組みに、心からのお礼を述べておきたい。 (元労働旬報社社長)
(柳澤明朗著、1994年)
(2011年)
(2011年)
(松川事件対策協議会、
1964年)
(若林繁太著、1978年)
(橋本・中山著、1978年)
(高野不当解雇撤回対策委、
1977年)
(野村・宗像・宮之原編、
1968年)
(今崎暁巳著、1977年)
(須永茂夫著、1969年)
(広島県原爆被爆教師の会、
1969年)
(仲本正夫著、2005年)
ディーセントワーク』
(牛久保秀樹著、2007年)
(今崎暁巳著、1970年12月)
(今崎暁巳著、1979年5月)
(今崎暁巳著、1981年6月)
(今崎暁巳著、1969年7月)
(今崎暁巳著、1970年6月)
(今崎暁巳著、1982年2月)
(1970年6月)
(1971年)
(1976年3月)
(今崎暁巳著、1975年9月)
(今崎暁巳著、1977年11月)
(今崎暁巳著、1984年6月)
(今崎暁巳著、1980年3月)
(今崎暁巳著、1982年9月)
(今崎暁巳著、1984年2月)
(今崎暁巳著、1985年12月)
(今崎暁巳著、1984年5月)
(今崎暁巳著、1990年3月)
(村山ひで著、1969年)
(今崎暁巳著、1978年)
(今崎暁巳、1993年)