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協同組合の研究者であり、協同労働という働き方に平和な社会づくりの基礎を見る富沢賢治さん(日本協同組合学会元会長・一橋大学名誉教授・協同総合研究所顧問)。 戦後、学校の先生の言うことや世の中の考え方が180度変わり、人が信用できなくなり、自分探しの旅へ。そして、人のために創造的な仕事をすること、労働を自分のものにすることの大切さを発見し、そこに確信を持つまでの苦悩などをお聞きしました。(本紙 本田真智子) |
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■爆撃から守ってくれた祖母の姿が人間観に ●川遊び中、機銃掃射にあい草むらに逃げ ▼浜松の母の実家に疎開 ――お生まれは何年ですか? 私は、1936年(昭和11年)1月26日、埼玉県の与野(現さいたま市)で生まれました。敗戦の時は小学4年生、9歳。 家族は、父、母、兄の4人。7つ上だった兄は、15歳の時に予科練(海軍飛行予科練習生)に志願して行ってしまいました。予科練はみんなの憧れだったのです。しかし、海軍精神注入棒というバットみたいなもので年中叩かれるから、うちに帰ってきてお風呂に一緒に入った時、お尻が真っ青だったのを覚えています。 父は国鉄(現JR)に勤め、方々転勤しました。私は、生まれた与野の記憶はまったくありません。 ――戦争中はどこで? あの頃、米軍の爆撃を避けるために都会の子どもたちは地方に移住しました。集団疎開(学校ごとの疎開)と縁故疎開がありました。私は、国民学校(現、小学校)の1年生の時に、母の実家の静岡県浜松市に縁故疎開をして、1年生から4年生の夏まで、祖父母の家に暮らしました。 私は、祖母に育てられた「おばあちゃん子」。祖母には子どもが7人いて、一番下の子と私が3つしか違わなかった。祖母は自分の末っ子のような感じで、私をすごくかわいがってくれました。おばあちゃんに感謝。 小さい頃、病気ばかりしていて、すごく弱かったのですが、田舎に行ったらとたんに健康になっちゃって。子どもは自然の中で過ごした方がいいですね。 不思議なのは、学校に入ってから敗戦までの、教室の中での記憶がないことです。九九やイロハも、ちゃんと習ったのでしょうが。 教室の外の記憶はあります。学校では豚を飼っていました。糞尿の中に足をつっこんでする豚小屋の掃除がいやでしたね。また、農作業もしました。田植えは、ヒルがいたのと、屈んでやるので腰が痛くなった記憶があります。 浜松に移った当初の半年間ぐらいは、話し言葉が違うので、いじめられました。同じ方言を話すようになると、いじめがなくなりました。 ▼逃げ惑うのが日常 ――空襲にあったことは? 日本軍の施設があった浜松は、米軍のターゲットのひとつでした。米軍の航空母艦が近くまで来て、そこから飛行機をどんどん飛ばします。近所に爆弾を落とすので、よく防空壕の中に逃げ込みました。 爆弾が落ちてくると、祖母は、自分の子どもたちではなく、孫の私を抱きかかえました。寝ている私を、全身でカバーしてくれました。それが私の人生観を決定づけました。自分を犠牲にして人を守る人がいるのだ、と。 祖父母の家は浜松のまち中ではなくて、田舎の方にあったのですが、そこまで艦載機が飛んで来て、機銃掃射をします。飛行機の上から人が見えるから、狙って撃ちます。 私も狙われて、逃げまわりました。飛行機の狙撃兵の顔は私から見えっこないのですが、なにか鬼のような顔を見たように感じました。裏の川で泳いでいた時にも機銃掃射があり、そばの草むらに逃げ込みました。あの時は、もう死ぬかと思いました。 戦争が終わってからも3、4年間は、飛行機の音が聞こえると、体が反応して自然に震えてきちゃうんです。今は、平和な時代だから飛行機の音が聞こえてもなんでもないのですが、昔は本当に怖かった。 私たちは、戦うというより、一方的にやられている、逃げ惑っているというのが、日常でした。死んでいる人、足がちぎれてうめいている人。今でも、その光景が鮮明に目に刻み込まれています。 玉音放送は覚えていません。夏休みで、悪童どもと遊んでいたのかもしれません。戦争が終わったと実感したのは、毎日のようにあった爆撃がなくなった、飛行機が飛んでこなくなった、という日々が続いてからでした。 ともかく気持ちが楽になりましたね。 ●片脚失い戻った兄は戦争の話しなかった ▼墓地前で人をおどかし ――戦後の暮らしは? 母が迎えにきたのは、戦争が終わってすぐでした。秋には東京に戻り、日暮里の小学校に入りました。 焼け野原で、水と食べ物がないのが一番困りました。 父が国鉄勤めだったので、"谷中"(やなか)の官舎に入りました。そこに何家族も、何人も同居して、いろんな人が出入りしていました。 谷中の墓地の前に我が家があったので、夜中に人が通ると、とつぜん木を叩いたりして、驚かしました。ほとんどの人は、死人を多く見ているので、恐怖のあまり「うわ~っ」と言って逃げていきました。そういういたずらをして楽しんだことを覚えています。 谷中にいたのは半年くらい。5年生になる春に、埼玉県の大宮に移りました。その時は、国鉄官舎の長屋に入り、軍隊から戻ってきた兄も一緒に住みました。 兄は、片脚になって帰ってきました。すぐ写真店で働きましたが、障がい者なのでフルにはなかなか働けません。何度か仕事を変わり、最後には岡山の染物屋の娘と結婚しました。しかし、その生活もうまくいかず、すごい苦労をしたあげく、60歳代で亡くなりました。兄は戦争の話をしませんでした。嫌な経験だから、話したくなかったのではないでしょうか。 今更言っても仕方がないのですが、戦争がなかったら、兄も違う人生を歩めたのではないでしょうか。すごく悲しいです。 ■人の言うこと180度反対になり自分失う ●抱えていた問題は私だけのものではなかった ▼人を信用できなくなり ――戦争中、教室の中の記憶がないというのは? 教室で何を学んだのか覚えていないのは、それまで教えられていたことが、180度ひっくり返ったからかもしれません。 戦争中は、「いい兵隊になりなさい、お国のために戦争に行きなさい」と教え、戦争が終わると「戦争は悪い」と、同じ先生が言ったら、おかしく感じるでしょう。 教科書だって新しいのがないから、前の教科書の都合の悪いところを墨で塗って使う。教室も少ないから、二部制で校庭などでも教えていました。 民主主義教育になっても、先生が生徒を殴るのはしばらく続きました。私たちも悪かった。先生なんか信用していないので、いろいろ悪さをしました。 先生の言うことも世の中の考え方も180度変わって、私は人を信用できなくなりました。人というものが分からなくなり、自分自身に対しても自分が分からなくなりました。 中学、高校、大学時代、自分に自信がなく、自分の立ち位置が分からない、アイデンティティ欠如の状態でした。一番ひどい時は、ものを食べることに罪悪感があり、身体も精神もおかしくなりました。 人と会うのが怖い。自分が何者か分からないから、人と何を話していいか分からない。太宰治の『人間失格』などに同感していましたね。生き残っていて申し訳ない、そういう感覚を強く持っていました。 中学、高校、大学とミッション・スクールに行き、神と自分との関係をはっきりさせたいと思いました。私は神を追い求め、教会をいくつも転々としました。しかし、納得できないので、洗礼は受けませんでした。 大学を卒業して、高校の先生になりました。しかし、自分がはっきりしないわけですから、ろくな先生にはなれません。 これはいかんなと思っているうちに、国際基督教大学の卒業論文を指導してくれた先生に呼ばれて、大学の助手になりました。けれども、まだ自分がはっきりしません。この大学にいるためにはクリスチャンになったほうがいいよと言う人もいるので、よけい反発したりしました。 職場にいづらくなるし、本格的に自分探しの旅をしようと大学院に入りました。自分なりに考え直さなければと、当時はやりのマルクスの勉強から始めました。 ▼論文が評価され変わる ―― なぜマルクスを? 1960年の安保闘争当時、私は国際基督教大学の助手でしたが、この闘争の基本的な思想にマルクス主義があったので、それをきちんと理解しないとだめだと考えて、勉強しだしました。 初期のマルクスから読み始め、『経済学・哲学草稿』まで読むと、目からうろこが落ちたという感じがしました。『経済学・哲学草稿』が、私の考え方の整理に大きく役立ちました。 私は大学院生の頃、キリスト教の論文を多く書いていましたが、マルクスがキリスト教とどういう関係があったかということを調べて論文に書いたら、経済思想史学会に認められました。 私がかかえていた問題は、自分だけのものかと思っていましたが、そうでもないと理解したのは、その時です。自分の仕事が社会に評価されると、自分がやるべき仕事はこういうことなのかと、すこし見えてきました。自分が何か仕事をして、その仕事を人がどう評価するかが分かると、その人と自分との関係がつながってきます。そして、自分の立ち位置が分かり、自分のアイデンティティがはっきりしてくるのです。 自分を取り戻すためには人のために何かを創るという仕事が必要だということが、分かってきました。 自分のために、また、人のために創造的な仕事をするということがいかに大切かということを学問的に追究することが、その後の私の研究課題になりました。 その研究成果をまとめたものが私の博士論文『唯物史観と労働運動――マルクス・レーニンの「労働の社会化」論』(ミネルヴァ書房、1974年)です。 ■労働を自分のものにする実践と出会う ●仲間と協力し働くことでよい社会が ▼命を賭けた仕事に ――「労働の社会化」論とは? 人間にとって、労働がどういう意味を持っているのかという問題を考えたいと思います。労働者が資本家の意思のもとで労働すること、労働が自分のものではなくて資本家のものになっていることを、労働が疎外されていると言います。そして、この労働疎外は、自己疎外、人間疎外とつながります。つまり、労働が自分のものとなっていないと、自分自身も失われ、人間としての生き方も失われてしまいます。 労働を自分のものにする。それこそがワーカーズコープの基本思想です。労働を自分の労働にするためには、多くの場合、仲間の協力が必要です。協同して労働することによって、人とのよい関係ができ、人間の社会化が進み、よい社会がつくられます。 そのようなプロセスを明らかにするのが「労働の社会化」の理論です。「労働の社会化」論からすると、ワーカーズコープは人間社会をつくっていくための一番大切な組織です。 私がイギリスのワーカーズコープの歴史と現状を勉強していた1984年頃に、「中高年雇用・福祉事業団」の組織者である中西五洲さん(労協連元理事長・故人)たちと出会いました。私は「皆さんのやっている事業団の活動は、国際的に見るとワーカーズコープの活動ではないですか」と指摘しました。中西さんたちも、「そうか」と言って、納得してくださったようです。1986年には「中高年雇用・福祉事業団全国協議会」の全国総会がワーカーズコープ組織への発展を決定しました。 こうして、私の研究してきた「労働の社会化」という理論が、ワーカーズコープという実践の場を確保できたのです。この理論と実践の結びつきは、私にとって人生最大の喜びとなりました。 ワーカーズコープの研究は、私にとって、命を賭けた仕事となったのです。 絶対に戦争をしてはならないからこそ ▼営利企業だけではだめ ――「安保法制」反対運動にも参加していますよね? 「九条の会」などに参加して活動しています。最近では呼びかけ人となって、5月31日の集団的自衛権反対1万人埼玉集会を成功させました。 いまだに生き恥をさらしている私の中では、第2次世界大戦は終わっていません。言いたいことも言えずに死んでいった多くの人がいるのに、自分が生き残って悪かったなという思いが強くあります。 大学生になって勉強すると、なんで日本が戦争せざるを得なかったか、だんだんと自分なりに理解できてきました。戦争に反対するのは、ものすごく大切です。しかし、それはいわば対症療法です。対症療法ではなくて、根本的な治療として、戦争をしないですむ社会をつくらなければなりません。そういう社会をどうやってつくっていくのかが、すごく大切です。 ひとつ例を挙げれば、武器を作る製造業者にとって戦争は大もうけの手段です。常に方々で戦争が起こってもらわなくは困る、ということにもなりかねません。したがって営利企業だけに経済活動を任せておくのは問題です。 ワーカーズコープのような、社会問題を解決するための非営利・協同組織をどんどんつくる必要があります。非営利・協同組織のセクターを拡大強化して、国家と営利企業をコントロールするくらいの力をつけていく運動が大切です。 戦争を起こすような流れに反対していくとともに、戦争を起こさないですむ社会をつくっていく運動を強化する。その両方でがんばらないとだめです。社会づくりの仕事を根気強く日常的にやっていくことが必要です。 ▼戦争は人をおかしく ――今の時代、感じていることを。 今の自分をつくったのは戦争です。いやおうなしに、ものを考えさせられました。自分が自分のことをわからないのは、苦しい。そういう状態に追い込まれたのは、戦争があったからです。 戦争は人間をおかしくするから、絶対に戦争を起こさせてはいけません。 戦争を起こしたい利益集団がいるし、それと政治権力が結びついています。放置しておくと、そういう勢力はどんどん巨大化していきます。だから戦争に向かうような動きがあれば、それに反対する。これがすごく大切です。 戦争を起こさせないために憲法九条があります。平和憲法を軽視する勢力には、徹底的に反対します。
※『日本労協新聞』(2015年8月15日号、No.1060) (PDF版)(こちらをクリックしてください)
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・私の研究者生活――「労働の社会化と社会的経済」
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編集人:飯島信吾
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UP 2012年07月15日
更新 2015年08月15日
協同組合憲章[草案]がめざすもの
編著者 2012国際協同組合年全国実行委員会
富沢賢治他著
家の光協会
2012年4月
定価:本体600円+税
「2012年国際協同組合年公式ホームページ」に協同組合憲章草案を決定しました、お知らせ。
▽2012.09.25追加(本ページ)
『西暦2000年における協同組合――レイドロー報告』(日本協同組合学会訳編[富沢賢治監訳]、
日本経済評論社、1989/11)
▽2012.09.29追加(別のページ)
書評:『アメリカ資本主義と労働――蓄積の社会的構造』(東洋経済新報社,1990年4月,定価4,300円)、富沢賢治、「大原社会問題研究所雑誌」第393号(1991年8月)
▽2012.09.05追加(別のページ)
書評 キース・フォークス著、中川雄一郎訳『シチズンシップ―自治・権利・責任・参加、富沢賢治、いのちとくらし研究所報第37号、2012年1月
○シリーズ「『非営利・協同Q&A』誌上コメント(その4、最終回)」、いのちとくらし研究所報第36号2011年9月
○シリーズ「『非営利・協同Q&A』誌上コメント(その1)」、富沢賢治、八田英之、坂根利幸、司会:石塚秀雄、第33号2010年12月
特集:経済と社会の危機への対応、○座談会「経済危機問題と非営利・協同事業組織のあり方」角瀬保雄、富沢賢治、坂根利幸、司会:石塚秀雄第、いのちとくらし研究所報第27号2009年6月
特集:行政と非営利組織との協働(1)、○座談会「行政と非営利・協同セクターとの協働について」。富沢賢治、高橋晴雄、窪田之喜、司会:石塚秀雄
「非営利・協同総合研究所いのちとくらし発足にあたって」、富沢賢治、いのちとくらし研究所報準備号、2002年10月
▽2012.09.01追加(別のページ)
東日本大震災後の非営利・協同組織の課題、富沢賢治、「いのちとくらし」第39号2012年8月
▽2012.08.16追加
座談会
非営利・協同入門 (特集 問われる共済の意味)、角瀬 保雄、富沢 賢治、中川 雄一郎 [他]、いのちとくらし研究所報 (18)、 2―18、
2007―02―28
▽2012.08.03追加
福祉社会におけるコミュニティとアソシエーション、富沢
賢治、聖学院大学総合研究所紀要 (16)、
102―145、1999
▽2012.07.26追加
ワーカーズコープと社会的経済、富沢
賢治、協同の発見、132号、2003―7
東京に空がない。日本に社会がない、富沢
賢治、協同の発見、147巻7号、2004―10
▽2012.07.20追加(別のページ)
労働運動とアソシエーション――現代の連帯のあり方、富沢
賢治、 角瀬保雄 、 坂根 利幸 [他]、いのちとくらし研究所報 (24)、 2―22、
2008―08―31
協同労働という働き方 (特集新しい働き方を考える――協同労働、社会起業家の可能性)、富沢 賢治、労働調査
(479)、 4―8、
2009―09
▽2012.07.17追加
レイドロー報告の衝撃、富沢賢治、協同の發見、2000.9
、No.100
社会的経済の広がりと現代的意義、富沢賢治、『協同の發見』、2000―8、No.99
▽2012.07.15追加
[講演原稿]国際協同組合年と生協の役割(埼玉県生活協同組合連合会、2012年3月15日)
▽「現代と協同」研究会からのご案内
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堀越芳昭のHP
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早川征一郎のページ
小越洋之助のページ
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2015.08.15
ワーカーズコープ、非営利・協同の組織を広げて力をつけ
戦争しない社会をつくる