電話でのお問い合わせは048-964-1819
〒344-0023 越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101
ご用命は“NPO障害者の職場参加をすすめる会”へ。
◇長期不況で地域の困窮や孤立が深まっている現状に対し、雇用と福祉の狭間の身近な仕事おこしを目的に、福祉施設利用者や在宅の障害者の社会参加を兼ねて、本人たちによる定期的な事業所訪問や困窮者等をまじえたグループ・アルバイトを実施し、その経過をホームページやシンポジウム、コミュニティ・カフェ等で発信し、先進地の見学・交流も行って、共に働くすそ野拡大をする事業を推進。
2019.12.25
すいごごカフェ12/25~2/5 1時半のゲスト
12月25日(水)松島 篤志さん(自然栽培農家)
「自然栽培と体の話」
自然栽培とはどのような農法なのか。自然栽培農家の考える体と健康についての話をします。食について楽しく考えましょう。
1月8日(水)藤崎 稔さん(わらじの会代表) 「こころがさびしくて」
入所施設ではなく地域で介助者を募り生活して間もなく30年目。その出発点は?現在までの介助関係の推移は?「こころがさびしくて」とは?「藤崎菊子」とは?
1月15日(水)
高瀬 勇さん(就労移行「世一緒」)
「統合失調症との出会い」
「精神分裂病」と呼ばれた病が「統合失調症」と言い換えられたことによって何が変わったのか、変わらないのか―長年、病者とされた人々に寄り添ってきた立場から
1月22日(水)
野口 雅晶さん(特例子会社勤務)
「自分の道をふりかえる」
職業訓練を経て特例子会社へ、新聞にもとりあげられ…この道どこに続く?いまどこにいる?すいごごカフを知り思った。自分も語り、問われてみたいと。
1月29日(水)
野島 久美子さん(埼玉障害者市民ネット代表)
「介助者を育てる・育てられる」
ヘルパーとは公的制度として保障されているかどうかに関わらず常に人間。だから人間として向き合わねば。30年余りにわたり他者を育て・育てられた日々を明かす
2月5日(水)
清水 泰代さん(生活クラブ越谷くわい支部)
「生活クラブと子育て」
ピープルファースト(知的障害者である前に人間だ)にならえば「親である前に人間だ」。川があり町があり村があり他者がいて生活が。そこで子育ての希望と壁とは?
2月12日(水)
宮部 幸絵さん(ケアシステムわら細工職員)
「なぜ障害者の介助を」
ふつうの会社員で音楽サークルで余暇を楽しんでいた日々から重度障害者が地域で生きる介助に関わりさまざまな障害者、介助者の関係の調整役に変身した回路とは
2月19日(水)
黒田 正巳さん(職場参加ビューロー世一緒)
「露天商と市民活動の日々」
少年期の九州の通勤寮、成人し埼玉へ戻り就職した企業でのパワハラ、退職を経て、出会った露天商での厳しいがやりがいある仕事、また市民活動での関係の広がりは
▽会場は1/22以外はハローワーク越谷向かいの職場参加ビューロー世一緒(048-964-1819・要7回コール)。
1/22はせんげん台西口・イオン並びの就労移行支援「世一緒」(048-971-8038)。
◆すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ
時間は13:30~15:00。なお1/15と2/19は、仕事おこし懇談会inこしがやと連携して「Lunch Cafe どっこいしょ」が12:00から。ワーカーズコレクティブ「キッチンとまと」のカレー(コーヒー付き)300円で(食数限定なので要予約)。
どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。 048ー964ー1819(世一緒)
◇(山下浩志のfacebook・ブログより)
◆2019年12月の“すいごごCafe”
2020.01.26
▽「逝きて還る――わらじの会という地域を耕した人々のメモリー」――[2019年12月04日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年01月23日]
●水谷淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
今日はわらじの会周辺で亡くなった人の話を短い時間でします。
順番に、新坂光子(てるこ)さん。2000年に妹の幸子さんが。私が障害者の人とつきあったスタートが光子さんと幸子さん。そしてきみ子さん(姉妹とは別の家)。
新坂姉妹は自分でかがんでずりずり動けたんだけど、検査入院を数ケ月してベッドで足を伸ばしっぱなしでいたので、退院後足が曲がらずかがめなくなったため、ずって動けなくなった。姉の光子さんは脊髄小脳変性症がどんどん進行して、褥瘡が毎晩ものすごい痛いと泣いたりして、手術したらということで最後は堀之内病院のICUに入り、みんなが交代で付き添った。
その後ずっと関わっていたのは原明子さん。明子さんと和久さん夫妻は、いずれも聾学校の教員。娘の有(みち)さん(右上の写真)は、常に体位交換や痰の吸引が必要な重度の障害をもって生まれた。重度だからこそ、自宅に近い幼稚園や小・中学校で、近所の子どもたちが一緒にいるところで育てようと考え、その通りにした。明子さんは乳がんでほとんどしゃべれなくなった。家族はいよいよダメだという時に救急車を呼んだ。そうしたら救急隊員が、明子さんの隣に横になっていた重度の娘さんの方を運ぼうとして、違うこっちだって教えた。いったん救急車に乗ったが、もう呼吸をしてないということで、主治医に連絡したら、もう1回家に戻してくれればそこで死亡診断書を書くからということで。最後まで自宅にいて、娘さんと一緒に寝ていた。
88年には橋本克己君のお父さん(上の写真右端)が亡くなった。白血病で独協に入院していた。山下さんが付き添っていたりした。
その翌年は新坂幸子さんという光子さんの妹さん(左上の写真右)。やっぱり脊髄小脳変性症が進行していた。そして、乳がんがあるとわかった。かなり大きくなっていたので治療をどうするかの話になったが、何もしないのが一番長生きするのではという判断になった。わらじの会で20人くらいで相談したら、みんなで頑張るかという話になって。訪問看護や社協のヘルパーにも加わってもらって、亡くなるまで1年2カ月、かなりの人がボランティアとして関わった。
自宅で寝ていたら、平野さんから電話があって、幸子さんが本家に帰ると言い張るので、あんちゃんが迎えに来たという。あんちゃんは救急車を呼ぼうとしていたが、今更病院に行っても医療的にはやることがないと説明したら納得してくれた。そして、オエヴィスから50mくらいの本家までの道を、みんなでふとんごとかついで歩いて行った。本家にしばらくいてからまたオエヴィスに戻って、それで看取った。1年半付き合ったので、その時は半分はほっとした。
その後は糸賀美賀子さん(右上の写真)が脳幹出血で亡くなった。千間台のアパートで倒れ、自分でSOSの電話をしてきて、119番にもかけていた。駆けつけると間もなく救急車が来て、かかりつけの市立病院に緊急搬送され、ICUに入院したが、そこで亡くなった。
2008年には山野内さん(左上の写真右)。亡くなる3年前からもんてんに入居していた。ビールを飲んで部屋に戻っていびきが変だという電話をもらって、行ったら息していなかった。独協に運ばれて、救命救急で調べたら心臓肥大がものすごくて。車いすに乗っているから苦しかったはずなんだけど、体を動かさないからあんまりわからなかったんだろうなと思う。
2010年に橋爪静佳さん(右上の写真)が39歳で亡くなった。卵巣がんで、腹水がたまっておなかが膨れていた。いくつか病院を当たったんだけど、知的障害が重いというので、どこも受け入れてくれない。それで住んでいたオエヴィスで往診を受けながら、最終的にそこで亡くなった。びっくりしたのは、痛み止めはあんまり使ってないんだけど、亡くなる10日くらい前まで動けていたこと。その間に、腹水がきれいになくなった。
新坂きみ子さん(左上の写真)は会った当時はものすごく喋ったりしていたんだけど、脊髄小脳変性症が進行して、喋れなくなってきて、食事もだんだんミキサー食になって、たんの吸引も必要になってきた。2013年頃、目も見えなくっていたが、耳だけ聴こえていた。悪口はわかった。活動で外出するのが大好きで、あっち行ったりこっち行ったりして、ずっと普通の生活をしていた。12月にふっと亡くなった。
その1カ月後に吉田昌弘さん(右上の写真)。脳幹出血かな。職場参加をすすめる会の事務局会議でここ(世一緒)に夜来て、その帰り越谷駅から自宅がある一ノ割駅まで電車に乗って降りたとき、既に電動車いすがふらふらしていて、駅員が心配してついて言ったら途中で倒れたということで、救急車で運ばれて入院後亡くなった。
その年の越谷の花火の時には新井豊さん(左上の写真左端)が亡くなった。新井さんは脳性麻痺で動きが激しいので、首から足とか痛みがすごくて食事もとれなくなって、本当に大変だった。独協に転院したが亡くなった。
2013年から2014年に新盆を迎えた人がものすごい多い。私も平野さんも年だから家で看取ることはなくなってきてるんだけど。家で看取るというのはかなり覚悟がいること。
野島:私はみんな懐かしいです。みんな思い出があって、幸ちゃんもきみちゃんも。(橋爪)しーちゃん(右上の写真)が亡くなる前に学生と鬼怒川温泉に行って来て、裸になってゆったりつきあって、何もわかんなかったの。それで鬼怒川から帰ってきて、お腹が腫れてると聞いて、それでおかしいと言って病院に行って。
きみ子さんは、谷崎さんと3泊4日行って来たんだよね。それできみちゃんが様子がおかしいというんでもう1泊増やして。私と中山さんは早く帰ってきて、なんとか無事にきみ子さん帰ってきたけど、あの時谷崎さん大変だったんだよね。(上の写真は新坂きみ子さん=右端=の住む生活ホームもんてんを訪れたヨーロッパのピープルファーストの人々)
谷崎:夜になると熱出すんだよね。その時便利なんだなと思ったのがゴム手袋。伸び縮みするやつに氷水を入れると手の形だからすごいフィットして。
水谷:変温動物だと思っていた。
山崎:昌弘さんは倒れた当日の事務局会議に来た時に、ミスタードーナツのお菓子を持ってきたら、誰かが珍しい、何か起こるんじゃないのと言っていたらほんとにそうなって。
野島:事務局会議に行く前にも越谷で倒れたんだって? それを、たまたま通りがかった県大卒業の学生さんが見つけて、助け起こしてくれて、それから事務局会議に行ったらしい。帰りは一ノ割でおトイレと言って、駅員さんが、蛇行運転だって気にして見ていたら、転んだらしくって。私もびっくりしたよ。私のほうが年上なのに、順番が違うじゃないかって思った。ショックだったよ。みんな思い出があるよ。オエヴィスの介助に入っていた共栄短大の学生たちは、新井さんが駅まで車で迎えに来てくれて、オエヴィスに送ってくれるのが楽しみだったって言っていた。糸賀さんとは私はよくケンカをしていたしね。さっちゃんもてるこさんもよく昆布を売っていてね。
山崎:以前、市民プールを作るということで、市として障害者団体に意見を聞きたいというので、こばと館を利用している障害者団体の会議で相談したら、野沢さんはわらじの会で出ますって言ったの。出てくれたんだけど、会議の中で、「どんなことを希望しますか」と訊かれたら、私はプールなんか入りたくないって言ったんだって(笑) 、野沢さんとは思い出がいろいろある。
内野:静佳さんは、私が知った頃には、挨拶すれば顔を下げる感じで。平野さんが、しーちゃんの頭の中にいろんなことが入ってると言っていたけど、そういうふうには思えなかった。お母さんがヨーロッパ旅行から帰ってくるって日、静佳さんはエンジンの音でわかって、喜んでるのがこちらにもわかった。しーちゃん1人置いてっちゃって悪いわね~って言っていたら、お母さんが帰ってきたら瞬間、しーちゃんがお母さんに怒っちゃって。しーちゃんをずっと置いてけぼりにしたのよって話しをしていて悪かったってお母さんに謝った。お母さんも静佳さんに謝って、そしたら収まった。
萱場:しーちゃんと野沢さんと貴美子さんと昌弘さんと山野内さんは介助にたまに入っていて。食事、入浴で。思い出がすごく深い。
内野:幸子さんと介助に入っていた前さんという人が東武動物公園に行った時の話。うちの真未も行きたいって言って。そしたら幸子さんがいいよって言ってくれて、連れていってくれた。お世話になってるんだなあという思いで、幸子さんのことは忘れない。幸子さんは私の家にも何度か寄ってくれた。(上の写真:向かって左前・幸子さん、左後・前さん、右・水谷さん)
山崎:糸賀さんが、駅で改札からホームまで階段を降ろしてくれる人を待っていた時、手伝ってもいいかなと思って言ったら、きっぱり断られたの。落っことされたら嫌だからって、女の人はダメだったみたい。そのきっぱりさが潔かったので印象に残っている。
樋上:糸賀さんが定期的に介助者探しをやっていたが、毎晩入ってくれそうな人に電話をかける。糸賀さんの下請けで樋上がかけることがあって、1回30円でやっていた。1年くらい毎月やっていて、一晩10人くらい。そのうち久しぶりに樋上君から介助を頼まれたけどしょうがないから今回やってあげるわというのも2,3人いてくれて。
水谷:この時代は、夜になるとみんな介助者探しをしていた。みんなえんえんと電話かけていた。
野島:先に先に決めていかないといけない。1年が早いよ。幸子さんの気持ちがよ~くわかるよ。
水谷:実家にいる時なんか私と平野さんは痛いと言われれば呼ばれて、体勢変えて家に戻るとすぐまた呼ばれて。おしっこだって呼ばれて。待っててっていうともらしちゃうぞって脅されて(笑)。まだ苦労は変わらないの?
野島:変わらない。
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◆2019年11月の“すいごごCafe”
2020.01.10
▽「靴工場で少年は大人になり世界へ旅立った――いま世界の転換の時に」――[2019年11月20日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年01月03日]
●浅井武夫さん(㈱ニューオタニ社員)
中学卒業後19年ゴルフ靴工場で
小学校4年生のとき蒲生に引っ越してきた。中学は越谷南中の特殊学級。中学を卒業してから小林ゴルフという靴製造会社に勤めた。中学校の実習で知って、障害者枠で入社したのが平成3年3月。本当は4月からだったけど、すぐに入りたくてしょうがなかったので卒業して一週間後すぐに就職した。それから19年間お勤めしてゴルフ靴を作っていた。
かかとをまとめて作る人、機械で削る人、のりで接着する人とか部分部分に一人ずつ工程が分かれていた。
からだを張って技を覚えた
初めは工場内でパートのおじさんと一緒に、プライマーを竹ブラシで本底に塗る作業をしていた。作業をしていると、シンナーのにおいと、有機溶剤の油のにおいがして、「なんでこんなにくさい」とは思っていなかったが、マスクを口にしていても体に健康被害がないか少し不安だった。
ときどき、プライマー有機溶剤の油が目に入ると、目のまわりや目の中が赤くいたくなり、作業中に台所に行って顔のまわりを水で洗ったりした。その時は本当に、自分の顔が赤く、熱く痛くはれたが、病院へ行かなくても目薬をしてなおった。
また、ハンマーという道具を使って、機械でガチャってやると出る釘を、お客さんが靴を履いた時に足に刺さらない様に打つ仕事もした。釘が曲がっちゃった場合や、どうしても取れない場合はペンチで取って、またつぶす。大工さんの釘はもっと長いけど、靴に使われているのは針というか、画鋲みたいな細さ。
今は釘を使わない機械がほとんど。あとは皮を伸ばすためにワニで引っ張る。皮はいろんなのがあって、牛皮、鰐皮、カンガルー、豚、ダチョウの皮とか。今はほとんど釘は打たない。ノリでつける靴。
小錦やジャンボ尾崎の靴も作った
最後は刷毛を使って掃除して磨いたり、ノリ塗りをする。ウエスを使って汚れを落として。色が落ちた場合は絵の具みたいなのを使ってちょこっと直したり。どうしても傷になっちゃったり色剥げがある場合は作り直し。
小錦の靴を作ったことがあるが、その時は木型が大きかった。ジャンボ尾崎さんとか、東尾理子さんの靴を作ったことがある。オーダーシューズも作っていたし、お店に出す靴も作っていた。ほとんどは松坂屋、三越、松屋、伊勢丹とかのデパートに出していて、あとはゴルフショップだった。
いじめた人、世話してくれた人、でも倒産
僕のことをばかにする人がいて、結構いじめられた。中には手を出してきてお金をくれと言われたこともあった。給料をもらうたび怖くて上司の人に預けてた。そんな中、斉藤さんという上司と19年間ずっと一緒に勤めさせてもらったが、家族の相談に乗ってくれたり、面倒を見てくれた。家が近かったので、残業の行き帰りは車で送迎してくれた。斉藤さんがいなかったら小林ゴルフを勤めあげられなかった。
厳しい靴業界だが㈱ニューオタニが生き残れるよう
今、私は春日部市の豊野工業団地内にある(株)ニューオタニという靴底メーカーで働いている。仕事内容は「リーガル」というメーカーの靴底づくりの作業。毎日午前8時から午後3時まで仕事を教えてもらいながら、私と、会社の仲間の障害者3人と尾谷英一社長と、社長の奥様と、ごきょうだいなど、一緒に働いている。
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このところ景気が悪くなり、浅草内では10数軒、同業者が廃業となり、倒産をして浅草町内では少しずつさびれている。私が前の会社にいた時から半分ぐらいつぶれたなと思う。靴屋さんとして非常に残念だ。今、働いている会社もいつか同業者のように倒産・廃業になってしまうのか私には分からないが、それでも
(株)ニューオタニが生き残ってくれるように、毎日頑張って皆様と一緒に働いている。
職場、趣味、家族、世一緒
最初はいろいろできなくて、塗装の吹き付けの先生が毎日来てくれて教えてもらったりした。今でも間違えることがあるが、その時の社長は怖い。不良品ばっかり作っても売り物にもならないし。どの業界でもそうだと思うが、簡単に飯は食えないと実感している。自分なりに私も家族と一緒にこれからも頑張っていきたい。明日も330足作る。
趣味は卓球バレーで、ニューオタニのチームは強い。もう一つの趣味は社会、歴史が結構好きなので、電車に乗って1人でいろんなところに行く。幕末が結構な趣味(笑) 。
あとは家族で遊びに行ったりする。今も母と暮らしている。妹の紹介で世一緒を知った。そこから今の仕事場のニューオタニにもつながった。
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2019.12.30
▽「わらじの会ホームグラウンド・武里団地に生まれた子供だった私」――[2019年11月13日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年12月18日]
●小松久美さんの語り(地域活動支援センター・パタパタ職員)
11月13日(水)のすいごごカフェゲスト・小松久美さんは、現在地域活動支援センターパタパタの職員。わらじの会で働くようになってからは、まだ3年だが、実は生まれてからつい最近まで、わらじの会のホームグラウンドといえる武里団地で暮らしてきた。わらじの会と武里団地について、はじめに筆者から簡単な説明を。
初期のわらじの会は団地の自治会や保育所父母会のメンバーがかなりいたが、小松さんは団地自治会が酪農牛乳の共同購入のセンターとして立ち上げた牛乳センターを遊び場にして育った。ここは北地区集会所に隣接しており、同センターがなくなった現在も、バザー向けの提供品を集めるスポットのひとつになっている。
また、小松さんが小3の年から中3くらいまでのわらじ大バザー会場は、ずっと武里団地中央商店街広場’(現在カスミストア駐車場)だった。バザーの物集めの最大の拠点は、会発足以来ずっと武里団地だったが、会場はそれまで越谷だった。しかし、1991年から6年間、団地商店街のご厚意で、週末の広場を全面的に使わせていただいた。かって、大繁盛していた同商店街が、周辺のスーパーに客を取られ、週末も閑散としてきたことも背景にあるだろう。
団地自治会の消費生活運動から生まれた会牛乳センターも、小松さんの子ども時代には、既にかっての盛りを過ぎていた。同センターをステップにして埼玉みどり生協が立ち上げられ、大場にセンターを建てた。同生協はその後、首都圏生協連に加盟し、さらに生活クラブ生協に変わった。
しかし、子どもたちはすごいなと思う。閑散とした商店街だろうが、高齢化した住人達だろうが、盛りを過ぎた牛乳センターだろうが、子どもたちは遊びの世界に組み込んでしまう。世界のすべてがそこに凝縮されるかのように。
かっての団地自治会はかって「子どもたちに第2のふるさとを!」と謳ってきたが、自治会の加入者も減ったいまはあまり聞かない。しかし、小松さんの語りは大人たちのイメージとは異なる形であれ、そこがまぎれもなく子どもたちの「ふるさと」になっていることを伝えている。
ここまでは、筆者のコメント。以下、すいごごカフェ当日の小松さんの語り。
どこに行っても遊ぶ場所と友達には困らなかった
私は母のお腹にいる時に越してきてからずっと、団地の一街区(団地の入り口)に住んできた。すぐ近くに自治会の牛乳センターがあった。いつまであったのかは覚えてない。漏電で火災になったと噂があったが、いつの間にか更地になり今は駐車場になっている。
団地の人はよく牛乳センターを利用していた。ストーブの灯油を買ったり、自治会費を集めたり。牛乳だけじゃなくて明治のアイスとか中華まんを取り扱っていた。冬はストーブを囲んで井戸端会議をしているイメージ。
幼稚園も団地内に3つくらいあって、どこがいい? と聞かれて自分で選んだのを覚えている。牛乳センターでさらに幼稚園の親同士のつながりも増えた。団地内の配達を母がやっていたので、手伝いで弟と一緒に1リットルを一生懸命運んだのを覚えている。
今カスミストアがある団地センターには中央商店街があって、駄菓子屋やスーパーがあった。
どこに行っても遊ぶ場所と友達には困らなかったし、外に出ればどんどん知り合いが増えていった。お肉屋さんで揚げ物買って買い食いしたり、駄菓子屋で10円のゲームをしたり、商店街に入り浸っていた。
親子連れが多かった。あの頃は弟と喧嘩していたら怒られたり、買ったものを公園で食べてたら怒られたり、近所全体で大人が子供を見ていた時代だった。よくも悪くも、団地の人はおせっかいで押しが強い。
小学校1年生の時、団地の階段のところに手すりがあるが、壁と手すりの間にはまったことがある。子連れのお母さんが見つけてくれて、知らないおばあちゃんちをピンポンして、出てきたおばあちゃんが油を塗ってくれた(笑) レスキュー隊に助けてもらったが、その時の野次馬の人たちに元気かと今でも聞かれる。あの時の子ねって言われるのが今は恥ずかしい。
夏はみんな窓が開けっ放しなので、毎日夕飯時には誰かが怒られている声が聞こえる。おじいさん、聞こえてますか⁉ って声が夜中の1時頃に聞こえていたのは怖かった。
▽全文は下記のブログへ。
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2019.12.30
▽「やまゆり園とすいごご」――[2019年11月06日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年12月17日]
●澤 則雄さん(映画制作者)
やまゆり園とすいごご――あの事件を問う映画を製作し全国で上映・感想会を続ける澤さん なぜすいごご常連に? 2019.11.6 @世一緒
テレビ制作の現場退職後、やまぼうし・伊藤さんと出会った
現在67歳。昭和27年、北海道で生まれた。苫小牧で高校を卒業して、最終学歴は遠洋漁業大学中退。23歳の時に東京の三崎というところでマグロ漁船に乗り、その後東京でフリーターに。
テレビの大道具のアルバイトをしたことからADの職種を知り、おもしろそうだなと思ってADになった。26歳の時契約社員になって、実際に正規の社員になったのは35歳。
フジテレビの子会社で、日本で一番大きな制作会社。大卒じゃなかったので、まず下の下の子会社の社員になってから出向という形で正社員になった。最後は副部長。24時間テレビのアシスタントをやったこともある。65歳で定年退職した。
その後、フリーで仕事をしていたところ、NPO法人やまぼうしというグループと知り合った。紹介ビデオを作ってくれと言われたのが最初。
同法人の伊藤勲理事長といろんな仕事をするようになって、当事者運動が盛り上がっていることを知った。障害者当事者の歴史を映画を観たりして自分でもにわか勉強をし始めた。いろんな当事者にも会いに行った。
その中で、やまゆり事件に対して僕自身は何を考えたらいいのかなと考えるようになり、50分の映画を製作した。その映画のことを4分程ニュースに取り上げてもらったので見てもらいたい。
(事件を追ったドキュメント『製作者の思い~生きるのに理由はいるの?~』と題するニュース)
生産性ということ――自分も同じと思った
この事件に関心を持ち始めたのは事件の1年後。風化するのを危惧している。
一般社会の人たちはどう受けとめているのか、考える材料を集めた。
植松被告と接見したが、礼儀正しい好青年だった。どちらかというと気弱な青年だが、罪の意識はない。彼の中では正義感。それがこの事件のある種恐ろしいところだ。殺害された入所者19人は今も匿名のまま。
作品は富山を含め全国19か所で上映し、その都度参加者との議論の場を設けている。答えが出なくても、この事件についていろんな立場から意見を言い合うのが大事だと思っている。
キモは何かというと、障害者をどう思うかだと感じている。植松被告は、一般社会の中で障害者は役に立たない、障害者(心失者)は不幸しか生まないと言う。無責任かもしれないけど彼に賛同する声はある。障害者が世の中からいなくなった方がいいと思うに至った彼の動機は解明されていないが、もしかしたら日本の多くの人が思っているんじゃないかということを示唆した。自分も植松と同じ根っこを持っているかと思った。
中学・高校で勉強し、会社に入れば能力主義。そうやって生きてきて、競争原理ってなんだろうと思うと、生産性という言葉に辿り着き、ふりだしに戻る感覚に襲われた。
しかし、上映会を重ねるごとに、単に植松被告だけの問題ではなく、生産性ということの中で人間を区別しているという意見が出てきた。
自分はガイドヘルパーになって1年経つが、送迎や入浴など介助する中で、生活感を実感してこなかった。事件を考える中で、そこにいる障害者たちが生きているという姿を見てこなかったなと思った。
障害のある人たちの暮らし、地域の他の人たちの暮らし、向き合うことから
最初に職場参加の会で上映会をした時、参加してくれたほとんどの人が障害者と介助者だった。障害者の生活を知ろうと思いヘルパーをしていたが、障害とどう向き合ってきたかはなかなか踏み込んで聞く場はない。
そこですいごごカフェに通うようになった。参加していく中で、障害を持った方とどういうふうに暮らしてきたかと、家族の方に話を聞けるようになったのが一番大きなこと。
全国で開催してきた映画上映後の感想会も、このごろ少し変わって来た。
最初は、一番問題なのは匿名報道であるとか、巨大施設の性格とか、制度の問題が多かった。
しかし、上映会を重ねるごとに、障害と向き合うために、健常者はどうするのか? 支援するということで克服できることなんだろうか? 障害者差別というのはあるが、それはなんなのか? 一人一人向き合ってきたのか? という話し合いに変わってきた。
これからも多くの人の感想を聞かせてもらいたいと思っている。
障害のある人たちがどういう積み重ねをしてきたのか、いろんな形で僕たちが知らないと。そしてもっと早い時期に一緒に暮らす体験をしていかないといけないと思う。その中で自分たちの思考や感情の経験を積み重ねていかないと、地域で暮らそうという掛け声だけで終わってしまう。
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◆2019年10月の“すいごごCafe”
2019.12.30
▽「娘と一緒に街を拓く――障害のある娘と音楽と地域」――[2019年10月30日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年12月16日]
●山﨑泰子さん(NPO職場参加をすすめる会代表理事)
前回のすいごごカフェで話したことはかおるが生まれる前のことだった。今日はかおるが生まれてから31,2年間の中で一緒に生きてきた、暮らしてきた中の出会いを話そうと思う。
いつかは追いついて育つと思っていた母だった
かおるは1987年2月に生まれた。3300gもあって、元気な女の子と言われた。ミルクを飲まなくて体重が増えなかったが、あやせば笑ったし喃語も出ていた。
当時の私は、新星日本交響楽団というオーケストラのバイオリン弾き。自主公演の時には保育室も設けていた。車いすの人も入れるように席を用意したり割引料金などもやっていて、35年前だったけど画期的だった。かおるが生まれるまでは続けていた。
でも、3カ月頃に呼吸が荒くなった。軽い肺炎で入院したが、点滴治療を受けて治ったはずなのに呼吸状態が改善されなかったので検査をした。なぜその症状が出るのかはわからなかった。吸引機を家で使わないとだめだということで、帰って来た。
東京の城北の病院に1歳半過ぎてリハビリに通うことになったが、泣いて全然ダメ。あとで考えればいつかは歩いたんだろうなと思うけど親としては必死だった。療育という言葉は知らず、いつかは追いついて育つと思っていた。
あけぼの幼稚園(越谷)を紹介されて、2歳で入った。かおるは新しい場面に全然慣れないから、1つの部屋から出ただけで大騒ぎするので1年半泣き通し。
5歳でたどたどしく歩くようになり、みのり学園に行った。ボランティアが見つからず結局、私がついていた。
あけぼの学園は肢体不自由で歩けない人が通う。みのり学園は知的障害が通う施設。今は一緒になっている。
昭和54年の養護学校義務化までは障害の重い子供たちは学校行かなくていいですよという時代だった。みのり学園には18歳までの障害児がいた。みのり学園はコンクリートの上に絨毯が敷いてあるだけで寒かった。粗相はするので、床が掃除しやすいようにコンクリートにしてあったようだ。
当時越谷養護学校、春日部養護学校ができ、その先が必要ということでしらこばと職業センターができた。
あたりまえに暮らす家族・本人と出会い、カルチャーショック
あけぼの学園では、越谷ふれあいの日という市内の障害者施設・団体が参加するイベントが6月の第一日曜にあるが、それに保護者が出なくてはいけなかった。
視覚障害や聴覚障害の団体とか、特別支援学校とか市役所の障害福祉課とかが参加していた。かおるが3歳の時初めて私も参加したが、カルチャーショックを受けた。
みんなあたりまえに子育てしている。今みたいにバリアフリーじゃないから、この段差をどうするかとかいろいろ話し合いがあった。
障害者が生きていくのにこんなにバリアがあるのかと。私が知らないことがあまりにも多いなという印象だった。
みんなで助け合って催し物をやることになった。当時は車いすであちこち行かない時代だったから、ほとんど当事者はあまりいない「ふれあい」だった。
反省会をしたときに頭にきたのは、児童福祉課のケースワーカーが「ふれあいと言いながら市民があまり参加しなかった」と言ったこと。
わらじの会の障害者・新井豊さんが怒って、誰とふれ合うの? これじゃいつまでたっても健常者のふれあいの日だって。その翌々年から毎年出た。障害を前面に出すぞと思った。
音楽をツールにいろんな障害者、家族他と出会って来た
私自身はバイオリンをずっとやってきた。新しく作られた中央市民会館1階の市障害福祉センターこばと館は障害者がいっぱい集まるところにしたいというので、音楽活動も目玉ということだったが、講師料も高いから山﨑さんやってよと言われ、1992年の終わりくらいに始めた。
障害のある人と音楽活動をするのは手探りだったが、2週間に1回でも行き場所があるというのは嬉しいという人がいっぱいいた。
耳をふさいで窓ガラスにへばりついてる子もいたが、私がバイオリンを弾かないといつのまにか弾いてくれと意思表示をするようになった。
音楽をツールにしていろんな人と出会った。
普通の家族として暮らしていきたいなと思う。今までもどこに行くにも連れて歩いていた。周りの人とも今みたいな付き合いがおもしろいなと思っている。親として苦労も多かったけど、地域の中で生きてきて、これが私の暮らしかな。
「職場参加」、わらじの会と出会うべくして出会う
なぜ職場参加の活動と出会ったかというと、当時、中央市民会館で不定期に夜に開かれていた「共にまちを拓くべんきょう会」に参加したのがきっかけ。
べんきょう会に通っているうちに就労支援センターを作るということで、運営委員会を作るので入ってくれないかと山下さんに言われ、新しい経験を出来るならいいかと、よくわからないままに参加した。
そこから真剣に「働くってなんだろう」と考えてきた。
今日話しながらふりかえって、わらじの会の活動の歴史と並行しながら、私もいろいろやっていたんだなと思った。
私もせんげん台に住んでいたらわらじの会の中にいたんだなと思ったりする。
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2019.12.30
▽「精神障害と戦うのをやめた日」――[2019年10月23日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年12月16日]
●松丸和弘さん(NPO法人まつぼっくり代表)
世一緒でも、前にしらこばとの花壇の整備などをやった。あるNPO準備会のスタッフをやった時、進捗具合が悪く、それならNPOを自分で作ってみようと思いまつぼっくりを作った。
私の生い立ちと青春
自分がおかしいなと思ったのは小学5、6年だが、あんまり記憶はない。20歳の時に日本医科大学で診察を受けた。今の病名は強迫性障害で、最近になって双極性障害という病名も増えた。
割と勉強はできた方で、大学もストレート。サラリーマンならなんとかなるだろうと思ったが、すごく難しい。よくあれだけ勤め上げたなと思う。自分の感情をコントロールしながらやっていける人々は尊敬に値するが、私は上意下達にものを言われるとむかつく。
病気になっていたが、誰も理解してくれず、ポテンシャルが崩れるとモチベーションが上がらない。障害者雇用なんてなかったし、会社に行くのが憂鬱だった。その後中途採用で入ったところが、一流企業ではなく、上からは気に入られたが、いじめもあった。2社で計5年サラリーマンをやったが、うまくいかずやめた。
バブリーな時代とその果てに
その後、バブル最終期に起業した。天井とかの下地を作る職人さんを軽鉄屋さん、軽天ボード職人という。石膏ボードなどを使う。その工事を請け負う会社を作り自分が取締役になって、一時期は非常勤を入れて120人使っていた。
有頂天になり青年会議所に入会。遊びが大好きな金持ちと友達になり、会合とか遊びに引っ張られて現場にも出ず、会社の統制もとれなくなった。10年余りでアルコールと精神的なキャパを超えて、会社を倒産させてしまった。
なんで自分がこんな病気で無駄な時間を費やして、他人の3倍くらい疲れながらやらなきゃいけないのかと、親を怨む気持ちと、病気さえなければという気持ちが50過ぎまで残っていた。
病気が始まり連鎖してゆく
蛇口はしめた? 電気は消した? のすべてにおける確認癖が、自分の病気の入り口だと思っている。手を洗う、風呂に入るなど日常的な所作は自分の中でルーティンがあって、ちょっとでもずれると気持ち悪くてしょうがない。自分の中で分析が始まり、自分が納得するまで20~30分繰り返す。1日24時間あってもぜんぜん足りず、たいしたことができず非常に疲れる。
生家では父がアルコール依存症で、酒を飲まないと手がふるえていた。レストランをやっていたがお皿も運べなくなり、40歳前で隠居してしまった。僕は一日中お酒を飲んでいる父を責めた。父は、昔はこうだったと過去の栄光にすがって、僕たちはむなしい泣き言を毎日聞かされた。食事する部屋が1つだったので、みんな精神的におかしくなった。
もっと後になってからはパーキンソン病の母の面倒を見るため、母と同居した。
母が亡くなったあと、世帯の生活保護も消えて、日払いのアルバイトじゃないと生活していけなかったが、僕にはできなかった。見せしめでみんなの前に出されたこともあるし、帰らされたこともある。
病気を友として共に生きて行ける世界を
その時はまだ復活できるのではという思いがあったが、20年以内にあなたが完治するような薬とか治療法は絶対にできませんと担当の医師にはっきり言われた。自分の好きなことを見つけて病気と仲良く共生する道を選んだらどうかと言われ、それもありかと。完治に関しては時間切れでも、過去にすがるのはやめて自分の人生を楽しく生きようと思った。
人が喜ぶ顔を見て自分が満足感を得るというところがあったので、人のために今の自分が何ができるか考えて、今の障害者問題とか世の中の理不尽さとか日本の矛盾、そういうのを徹底的に変えていくような事業をやっていきたいと思い始めた。最終的な目標は世界のあらゆる偏見をなくす、意識改革をしたいなと。
最近早期療育がはやっているが、科学の進歩、医療の進歩があるからなんともいえないけど、いいとこだけ伸ばしていけばいいんじゃないかな、受け入れちゃいなさいと思う。
精神科の薬についていえば、僕はピタッと合う薬はなかった。何千何万の組み合わせがあって、鬱の方なんかはそれが合うと一気に治ると言っているが、僕の周りは年々辛くなって、呂律も回らなくなったという人もいる。
本当だったら脳で自然に調整するものなのに、薬で出させてるんだからどこかで副作用は出るんだと思う。
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2020.01.10
▽「職場参加のための職場開拓とは――黎明期から関わってきた」――[2019年10月16日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年12月18日]
●内野かず子さん(NPO法人障害者の職場参加をすすめる会事務局)
10月16日(水)のLunch Cafe どっこいしょ&すいごごカフェのゲストは、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会事務局の内野かず子さん。「会計の内野さん」としてしか知らない人も少なくないと思うが、実は当会初期からの実習や就労のための職場開拓の名人なのだ。
実際、越谷市障害者地域適応支援事業の実習職場は、いまでも内野さんが開拓したものがけっこう残っている。そのいわば黎明期の活動はどんなものだったのか?
内野さんの話に入る前に、当時の状況を知らないほとんどのみなさんのために、簡単な解説を加えておこう。
「障害者就労支援」の流れと「職場参加」の流れの成り立ち
2001年度に県は障害者団体の連携した提言を受け止め、重い障害者も含めて地域で共に働き、共に生きて行くための道を探るべく「障害者職業開拓推進事業」を実施した。県育成会が受託し、社団法人埼玉障害者自立生活協会をはじめとする全県的な団体が事業に参加した。
この事業は市町村や学校、地域の企業等を、障害者団体から選ばれた職業開拓推進員が訪問し、調査と啓発、情報収集を行うことが目的。県全体を5地区に分け、東部地区ではわらじの会から内野さんら2人の推進員が出て、他団体と共に活動した。
県全体としては半年間で事業を終えたが、わらじの会では少ない予算を倹約して、その後も継続した。
その中で、越谷市では現在も続いている障害者地域適応支援事業(福祉施設等を利用する障害者が施設職員等の支援を受けて、市役所等公共機関や地域の企業の職場で実習を行う同市単独事業。障害者が地域に適応し、地域が障害者に適応することをめざす。)のモデル事業が2002年度に実施され、内野さんたちは同事業による職場実習を行える職場開拓に地域を回ることになってゆく。
一方では県や市レベルだけで事態が進んでいたのではなく、2001年に厚生省と労働省が一緒になって厚生労働省が発足し、福祉と雇用の連携が進んだことや、2004年には「障害のある人の『働きたい』を応援する共働宣言 ~共に働き・共に生きる社会づくりを目指して」が「障害者の就労支援に関する有識者懇話会」から発せられ、それらが同年の「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」と相まって、ついには2006年施行の障害者自立支援法へという流れがあった。
その国レベルの流れと並行しながらも、埼玉県及び越谷レベルでのオリジナルな流れがあったことをおさえておきたい。内野さんもそこにいたのだ。以下は内野さんの話。
県障害者職業開拓推進事業の開拓員として
私には知的障害があるいま39歳の次女がいる。当時、リサイクルショップぶあくで障害者の方々と店番をしていた。私は当時「職場参加を語る会」の常連で、第3水曜日の「語る会」にはずっと参加してきた。それで開拓員にならないかと勧められた。
職業開拓員の仕事は、自分の考えていた営業とはちょっと違った。障害者雇用のことも知らなかったが。山下さんがいろいろ情報が集まる回路を作ってくれた。罰金を払っても障害者は雇いたくないという事業主もたくさんいたが、仕事に応じて事業所の方にもお金が支給されるトライアル雇用なら雇ってくれるところもあった。これだったら事業主の方は資金繰りが助かるかなとか、わかってきた。障害者の方はずっと頑張ってきているが、職場の方も歩み寄って、両方が歩み寄ることで障害者就労が変わっていった。
生協の班長会で、本部にこういうこと働きかけをしていると話したら、生協には障害者担当という人がおり、役所に行ったりしている人で 要望をいろいろ聞きますよと言われ、知り合いになった。生協でアルバイトの募集があって、日曜にチラシが入っていた。障害者担当の人に会った時に、募集してましたねと言ったら、もう決まりましたと言われた。本当に働きたい人はすぐ電話をくれるのだという。
うちに帰ってから、今度は月曜の朝9時から電話連絡しようと心にきめた。給料が安いところと、遠い所はダメかなとわかった。自転車で行けるか、安い交通費で行けるところ。チラシを見て、楽しそうにやってます、というところを狙って、練習のつもりでやってみた。すると、いいですよと連絡が来た。月曜の9時から15分くらいは私のおしゃべりの練習時間になった。
あの頃は。鈴木商店の社長さんが代表でとか、県立大の先生もいてとか、そこからトークを始めるわけ。ダメですと言われるときも多かった。あまり電話してアポを取ると、自分も動くのが大変になるしで加減しながら続けた。
越谷市障害者地域適応支援モデル事業の立ち上げ
山下さんの「弁当持って職場に行って、職場の人と障害者が一緒に弁当を食べるといったことからでもいいんですよ」という言葉をまだ覚えている。まずできるところからの「職場参加」だと、腹をくくって出かけた。
越谷の養護学校にも行った。いま世一緒でサポーターとしてかかわってくれている宇都木さんが進路担当の先生としておられて、いろいろ教えてくださった。
大川ホームセンター(現スーパーバリュー)に行ったときは うまく話せなくて、結局実習ということですか?と向こうから言ってくれて、まだ私のおしゃべりはまだまだだなあと思い知った。
それから、市立図書館に行って、いいですよと言われた。市の農業技術センターにもいいですねと言われた。ゴマのような小さな種をいっぱい蒔く仕事みたいなのはいいかもしれませんねと、すぐオッケーをもらった。よし今度は一般の会社と思った。
ヨーカドーに行ったときは、私の職業開拓員の名刺のところに県のマークが入っていたので。相手の方も普通のおばさんではないと思った
のかどうか、協力させていただきますと言われた。生協の大型店も「いいですよ」と言ってくれた。
市の職場はまだ2ケ所だけだったので、老人福祉センターけやき荘に行ったらOK。同じくくすのき荘もOK。
相棒の開拓員の人もサティ(現イオンせんげん台店)とか開拓してくれた。
そうやって実習職場が決まり、地域適応支援事業のモデル事業が始まった時、わらじの会の障害者が市役所で実習している様子がテレビに出た。彼のお母さんが「まさかうちの子が実習でネクタイをつけて行くことになるとは。」と涙を浮かべて言っていたそうだ。
その一方、せっかく受け入れてくれる会社もあるのに、障害者は失敗したらすぐ施設に戻れないということで、親が出さないことも多かった。それに、重度の方で、本人は実習したくて毎日練習していたのに、親からはあまりにも重度なので世間にさらしたくないと言われたこともあった。最終的には仕事に行けたのだが、私ももしかしたら同じかなと考えさせられた。
職場参加で四季折々の風を職場へ、地域へ、家の中へ
当時、せっかく職場実習のために開拓していただいてきた仕事を、実習する施設がみつからなくて、施設の内職作業に回すこともあった。
アルミホイールの会社でシルバーさんと一緒にやる仕事や、寿司屋さんの出前のとき、お箸や醤油やお皿をセットにする仕事や大川ホームセンターの仕事もそうせざるをえなかった。まあ、施設と交流できたからよかったかなとは思うが。
職場実習に参加したことをきっかけにつきあいができた団体・施設同士で、わらじの会が音頭を取って、「ちゃぶ台会議」と称して交流会を開いた。職員も利用者もとても新鮮だった。
実習先で職場の人が障害者の趣味が映画とカラオケと聞いて自分たちと同じで驚いたという話を聞いた時は、失礼でしょと腹立たしかった。振り分けられて養護学校に行っちゃった人も少なくなかったが、やはり小さいころから一緒の学校に通って知り合うことはとても大事だと感じた。多少トラブルもあるけど社会に出て行かなければだめだなと思う。
うちの娘・真未も、当時近所のミニコープ店で職場実習させてもらったことがある。初めは緊張していらっしゃいませが言えなかったが、半年くらいで言えるようになった。
商品の補充はできなかったが、手前の商品が出ていくと、順番に前に出すという作業を、おいでおいでと言いながらやっていた。1回1時間ほどやった。
実習を辞めて半年以上経った時に、又来てくれないかとレジ打ちの方から声をかけてもらった。しかし、本人に伝えると「お金が出ないから嫌だもん。」と言った。とはいえ、そうした仕事を経験した後、家の中で今までやらなかったことを、やるようになったりもした。社会参加することで刺激をもらってよかった。
職場開拓の姿勢は、障害が重いから難しいとか軽いからみつけやすいとかいう発想ではなく、私の場合は地域にこういう仕事があったからあの人にどうかなという感じで考えている。
それまで施設や病院とか家にこもっていた人の職場参加を手伝ってきて、働きに行けばお金がもらえるから生活環境が変わるのを見てきた。新しくできることが増える。今まで単純作業しかしてなかったのに、職場に行くことで服を気にしたり楽しそうだ。
結果として、うちの娘のように一時的な職場参加で終わる場合もあるが、それでもやってみる値打ちは十分あると思う。
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2019.10.21
▽「精神科病院で働いて」――[2019年10月09日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月16日]
●畔栁聖治さん(グループホームテレサ・NPO法人精神障害者の自立生活をすすめる会の代表)
若き日の病気と回復の過程からつかんだ脱病院の暮らしの基盤を語るー畔栁聖治さん 2019.10.9 すいごごカフェ
今日話したいこと
春日部にあるグループホームテレサ(NPO法人精神障害者の自立生活をすすめる会)の代表をしている。精神病院で40年くらい働いた。32年ぐらい、精神科のケースワーカーをやった。そういった経過で感じたこと、わかったことを今日お話ししたい。
自分自身の病気と回復の過程の中から
なぜこういう仕事に就いたかというと、私自身も病気だったから。
高校3年から大学くらいが最悪だった。
神経症に当たるものだと思うが、具体的な症状としては不安感、焦燥感、強迫観念、フラッシュバック、不眠。
近くの内科に行って精神安定剤をもらったが、具合が本当に悪い時だけ飲んだ。
どうしたかというと、夢日記を3,4年毎日書いていた。自分の病状をつぶさに書いた。
そうすると自分の病気の傾向と対策がなんとなくわかってくる。
一番回復につながったのが、どんなになってもこれ以上は悪くならないというのがわかるようになったこと。それで、かなりよくなった。
その体験は僕の中ではとても貴重で、あるがままの自分でいることができたかなと思った。
客観的に見て、病気を自分の中で体験的にわかっていく。
実は今でも薬はお守りとして持っているが、そういうふうに回復してきた。
体が寝ちゃうので心も寝ちゃう
大学では、サークルで精神科の病院に泊まって患者さんと一緒に生活した。
夜間大学に行って、日中は精神病院で看護助手として働き始めた。
同時に山登りが好きだったので、大学時代はあまり行けなかったけど仕事するようになってからは山登りをするように。
体をものすごく酷使するのが良い。9~10時には寝ちゃう。
精神的に疲弊していても強制的に体が寝ちゃうのですっきりするし、いろんな障害があったとしてもリセットされる。
こりゃいいなと思って続けたら、あんまり深刻にならなくなった。
後に、この自分自身の回復過程は、森田正馬という人の森田療法と通じているなと実感した。
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2019.10.21
▽「娑婆も地獄もトラウマもある地球がいとおしい!だからホノルマラソンへ行きます!」――[2019年10月02日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月18日]
●石井隆司さん(車いすのとらさん)
物心ついたらポリオ、父はいず母も出て行った
1950年2月東京足立区生まれ。生後ポまもなくポリオに。現在は、世界で99%は撲滅したと言われているけど、2週間くらい前、フィリピンで2人の子に発生した。日本では1960年が一番ポリオが発生した。
ぼくは小さい時から靴を脱いだら歩けない。当時、自分より年上のポリオの人に会ったことがない。世の中に障害を出さないでかくす人が多かった。
5歳で猩紅熱。10歳で草加で交通事故に遭い3日間意識不明に。12年前はがんの末期。心筋梗塞も起こしてニトロを毎日貼っていた。そういう状況で、人生歩んで来た。
物心ついた時には両親が離婚していたので父親を知らない。素晴らしい母は再婚したのはいいんだけど、再婚したと同時に家を出た。子どもを置いて出ていく。子どものことを考えない。その後も一番下の弟が、結婚もせずにいちばん苦労した。つい二日前も殺そうと思ったほど。いま88歳。家から出ないでいて、義理の妹・弟も寄り付かず、寂しいから電話が来る。どうしようもない親といえばそれまでだけど、私を生んでくれたから素晴らしい女性。
なのでおじいちゃんと住んでた。おじいちゃんがタオルを温めて足にあてがって、もんでくれた思い出がすごく残っている。
虐待・無関心・いじめ・大事故・切り捨て
その後家に戻って、再婚した父と一緒になった。地獄だった。父親からの暴力。本当の子供じゃないから。子どものころ、家族でご飯を食べた記憶がない。
農家だったけど貧乏だった。小学校に入っても、田んぼの中で遊んでた。学校に行くといじめられるから。でも母親は無関心で、子ども心に家庭の幸せとは何かなと思った。
小学校5年の時、親戚のお兄ちゃんが映画(片岡千恵蔵の地獄の底までつきあうぜ)に連れてってくれるということで足立区から自転車で二人乗りして、草加で事故に遭った。当時、新聞にも載った。観光バスがトラックと正面衝突した。バスの運転手も片足切断。映画を見に行かなければとトラウマになった。
さんざんいじめられていた金子君という子に、裏門で待ち伏せして砂を顔面にかけた。目に入ったものだから先生にさんざん怒られて。でもそれ以上にいじめられたのがくやしくて、やってしまった子供の頃の思い出。
6年生では家が半分になっちゃった。知恵がないと物って簡単に持ってかれてしまう。
学校は、中学1年の1学期までしか行ってない。八潮で母親が再婚した。その実家の物置に住んだ。弟と妹と含めて6人で。
中学を辞める前にマラソン大会があった。走りたいという思いがあったので。100m行ったか行かないかというところで先頭に抜かれた。先生からもう走らなくていいよと言われた。子ども心に、もう人前では走りたくないとトラウマになった。
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2019.11.09
▽「『悪さはやったが不良じゃない』って? ある脳性まひ者の何気ない日々」――[2019年09月18日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月23日]
●萩原秀司さん(ぶあくのハギィ)
バカな俺の生誕 園長先生のスピード違反
母親に生まれたときの事を聞くと、俺は逆子で左腕を骨折しながら生まれてきたそうです。
、、、で生まれてから泣く事もなく息をしてなかったみたいで、院長先生が俺の尻を何度も叩いてやっとうぶ声を上げて、母親と院長先生がホッとしたのがバカな俺の誕生で、、、それからしばらくして、俺が脳性まひだとわかったそうです。
で幼稚園の頃の事を何となくしか覚えてなかった俺は、母親に聞いてみたら幼稚園の年長になるまで歩く事が出来なかったらしく、膝と膝をくっ付けてべたっと座ってたのが多かったみたいで、よく友達が膝の上に乗って俺をイジメてたんだよ~って聞いたんだけど、まったく覚えてなく、あと何かある? って聞くと雨がスゴい降ってる時に、下駄箱から友達みんなの靴を外に放り投げて先生にスゴい怒られてたよって聞いて、ふぅんそうなんだぁ、俺はプールで溺れて熱出して園長先生の車で運ばれてる時に、スピード違反で警察に捕まってた事ぐらいしか覚えてないわぁって、幼稚園の話は終わり。
自転車の小学校時代 悪さやった中学時代
で小学校に入り、補助輪付きの自転車に乗る事を覚え、外で友達と遊ぶ事がふえていったそうです。自分がギリギリ覚えてるのが小学三年生ぐらいからで、勉強に自分が出来るようなら体育もしてた気がします。
ちょうどそのぐらいに、自転車の補助輪を外して兄貴二人に乗れるまで手伝ってもらった記憶がかすかにあります。自転車を自由自在に扱えるようになると外で遊ぶ友達もふえ、外が暗くなるまで遊んでました。
そして中学に入り、初めの頃は学生服を着ると少し大人になった気分になり、勉強も真面目にしてたんだけど、黒板に書かれたのをノートにうつしていると、うつしきれない内に消されるってのが何度かあって、勉強する気がなくなって、授業中は寝てるかエロ本見てるか隣の女友達と話してました。中学二年になると、遊ぶ友達もどっとふえ、まずタバコを覚え、万引きを覚え、酒を覚え、色々な事を覚えていきました。
カラオケボックスに缶をくわえて友達がやって来て、「アンパンやる?」の言葉で少しシンナーにも手を出し、高校生になる頃には悪さは大体やりました。
養護学校トイレにびっくり すぐチクる同級生
高校は普通校と養護学校を受けました。普通校は見事に落ち、宮代養護学校に行く事に、養護学校に行くとビックリする事がいくつかありました。
まず廊下です、廊下の半分がじゅうたんになってて、転んでも痛くない様になってた事です。
あとトイレがドアじゃなくカーテンだった事に、ビックリを通り越して理解出来なかったです。匂いはだだもれだし、入ってるかどうかロックも出来ないし、クソするのも落ち着かねぇなぁって思ってると、クソしてるヤツとカーテンのすき間から目が合うし、、、。
次にビックリしたのが校庭です。学校の校庭ってイメージは細かいジャリがちりばまった土のイメージだったんだけど、養護学校の校庭は粘土を固めたざらついた、転んでも大きな怪我をしない様になってた事です。
中でも一番ビックリしたのが障害者の性格です。友達と思って気を許してタバコ吸えば、次の日には先生にチクるし、自分より弱いヤツには強気だし、ズル賢く先生の前では良い子ぶるし、人をバカにするしで今まで回りにいなかったヤツが多くて、養護学校には友達と呼べるヤツがいませんでした。
帰れば友達と酒、タバコ 免許拒否され悔し泣き
でも俺には中学の頃の友達がいたから、帰れば後輩が盗んできた原付をノーヘルで乗り回したり、友達んちで酒、タバコしながら夜の一時二時までゲームしたり、楽しい日々が流れて。
やがて友達みんなは普通に原付の免許をとり、バイトを始め、だんだんと遊ぶ日もへって、俺も原付をとりたいと母親に言うと、じゃあ鴻巣に免許とれるか聞きに行ってみる? って事で、鴻巣に母親に付き合ってもらって、原付の免許をとりたいんだけどって聞きに行きました。
原付バイクを倒した状態から起こす事や、ブレーキかけるタイミングを調べたりして、一通り出来るか免許センターの人に見てもらうと、いちおう自分では出来てたつもりだったんだけど、「危ないからやめた方がいいよ、バイクは事故したら怪我じゃなく死ぬ事もあるからね」って言われ、俺が「死んでもかまわない」って言うと、「君だけじゃなく相手も死ぬ事があるんだよ?」って言われ、「んなもんバイクじゃなくても死ぬ事何でもあんべよ!」って言っても、「ダメだダメだ」で納得いかないまま家に帰りました。
「寝る」って自分の部屋に入って、タオルを噛み締めて声を殺して悔し泣きをしばらくしてました。
なんで俺は障害者? でも東園教習所があった
回りの人が普通に出来る事が出来なくて、悔し泣きとか自分自身に対してムカついて泣いたりは何度もあったんだけど、死んだ爺ちゃんに「男が簡単に泣くな」ってしょっちゅう言われてて、小学高学年ぐらいからは、悔しい事があってもムカつく事があっても、変な話し親戚の人が亡くなっても泣く事がなかった。
なのに、バイクの免許の時は友達みんなとつるめないって思いと、何で俺は障害者なんだ? って思いで涙が止まらなかったのを覚えてます。そして高3になり、毎日ボーッと過ごしてました。
そんな時、先生から「車の免許とる気ないか?」って聞かれて、即答で「ある」と答えて、3カ月東園っていう教習所の寮に入る事に。それを中学からの友達に言うと「おう、んじゃみんなで集まって飲むべ」ってなって、その頃は携帯もなかったので話す事も出来ないから「3カ月元気でな」って友達の言葉に泣きそうになったのを覚えてます。
(つづく)
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2019.11.09
▽「就労移行支援「世一緒」の現場から 職場実習を通して通勤・就労の介助を考える」――[2019年09月11日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月28日]
●佐藤秀一さん(職場参加ビューロー世一緒の障害者スタッフ、就労移行支援「世一緒」を利用)
もともと職場参加ビューロー世一緒の障害者スタッフで、就労移行支援「世一緒」ができてからその利用を始め、来春3月で早くも利用期限の2年になるがまだ就労に結び付いていない佐藤秀一さんが、8月に高齢者施設O園の清掃業務の職場実習を行った。9月10日のすいごごカフェでは、佐藤さん本人と就労移行支援「世一緒」の支援員・大塚さんと谷崎さんから、その報告を受けながら考えた。
ここでは介助付き通勤、介助付き就労ということも課題としてあがってきた。いま木村さん、舩後さんが国会議員となったこと等をきっかけとして厚労省が検討し始めているのは、重度訪問介護を就労時にも使えないかということであって、片マヒで言語障害もある佐藤さんの障害は重度訪問介護の対象にならない。現に佐藤さんが外出に利用しているのは、移動支援のヘルパーだ。
ずっと働き続け障害が重くなっても働きたい佐藤さんがやっと職場実習
佐藤さんについては、昨年9月にもすいごごカフェのゲストとして話を聞き、このブログにもまとめを載せた(工場労働が好き、障害は重くなったけどー佐藤秀一さん)ので、参照していただきたい。 https://yellow-room.at.webry.info/201809/article_5.html
その時と重複する部分もあるが、まずは今年のすいごごカフェでの佐藤さんのトークから。
世一緒の当番をやりながら、せんげん台の世一緒に通っている。小学校の時に入院して、脳腫瘍の手術をした。中学校卒業と同時にとび職を2,3年やったが、ある時3階くらいの足場にいるとき地震に遭って降りられなくなり、助けてもらったが高所恐怖症になり、仕事を続けられなくなった。
入院した時同じ病室にいた友達の紹介で、靴の製造会社ハルタに入社した。流れ作業で靴の艶出しを担当した。10年くらい勤めたが、不況の影響でリストラされた。
その後3年間、ハローワークに通って求職活動をしていた。草加のハローワークでフナショクのパン工場を紹介されて就職。汚れたトレーの掃除を担当した。8年ほど勤めたが、工場が遠くに移転することになり、通いきれないので退職した。
40歳ごろ、犬や猫の餌を作る会社でアルバイトした。学校給食の残飯をまぜる仕事だったが、臭くてやめた。
越谷にもハローワークができたので相談に行ったら世一緒を紹介され、それから当番などで活動している。脳梗塞を2度やり、障害が重くなったこともあるが、前のように仕事に就くことができないでいる。
今日は8月にやった職場実習の話をする。春日部市の特別養護老人ホームO園で、掃除の実習をした。
掃除の内容は、イスをテーブルの上にのせて、掃除機をかけてからモップをかける。水拭きもした。ベランダもやった。
通うのがいちばん大変だった。今回はだめだったが、いい経験をさせてもらった。
介助付きの通勤・就労の公的制度の必要性を痛感した
就労移行支援「世一緒」支援員・大塚さんより
佐藤さんが仕事をするにあたっては、介助がないと厳しいと思っていた。
特に行くときの交通手段。バスを降りてから歩く道が想像以上に厳しかった。歩道がなく、側溝にもフタがないところが多く、万一そこに倒れていたとしてもわからないような所。私が歩くと7,8分だが、本人が歩くと2、30分かかる。歩くだけで仕事の半分以上のエネルギーを使ってしまう感じだし、だれかついてないと危ないという感じがした。
仕事中もふらふらしたり、よだれが出ているときは、疲れているサインなので、休みを取りながらやった。そう考えると、介助付きでないと仕事はできないという感じだった。
4日間実習した後、佐藤さんに聞いたところ、「仕事は十分できた」という感想だった。実際、あそこはワンちゃんもいる施設で、その毛などもたまっていたのがずいぶんきれいになったと思う。佐藤さん自身、ふだんより力を入れてきれいにしようという感じがあった。
厚労省の方針で仕事中の介助はまだ認められていないが、法制度が変われば佐藤さんの仕事はもっと増えてくると思う。
「一人で仕事するのが当たり前」というのがこれまでの常識だが、あの暑い時も歩いて実習やふりかえりにも行ったのは、それだけ執念を持っているからだと思う。周りの補助が必要な場合はそうした制度がほしいと思う。
ひとつの社会参加なんだと思えば、やりたい人にはあらゆる補助を考えてやれるようにすべきだ。
立場の弱い人が社会に参加していくことで、O園を利用している高齢者たちの社会参加も考えられるのかなと思う。
管理職・同僚がいる職場の中の佐藤さんはちがった
同支援員・谷崎さんより
1日目に大塚さんが掃除を手伝った時に事務長さんが「休みながらでもいいから自分でやってほしい」と言われたというので、2日目に私が付いた時「休みながらでもいいよ」を言ったのを事務長さんが聞いていて、「そんなに休みながらじゃ、他の人も時給でやっているんで」と言われた。
帰り道で私が「時給半分でもいいかな」と佐藤さんに言ったら、「だったら俺は(週2,3日でなく)毎日働く」と言った。1ケ月にいくらほしいという気持ちがあるようだ。
ただ、「それ何に必要なの?」と訊いたら、「えーっ?それ10万もかかる?」というような内容だった。現実的に計算してみて、目標を具体的にしてはどうかと思った。
2日目はイスをテーブルに上げ下ろしするのを手伝ったが、最後の日は「私は手も足も出さないよ」と言ったら、全部一人でやって時間内に全部終わった。職員さんに声をかけるのも自分でやった。向こうの職員さんも、彼が何を言っているのかわかってくれた。「
介助者をどう育て、どうつきあって働いてゆくのか
世一緒ファシリテーター・日吉さんより
実習の様子を聞くと、世一緒当番をしているときは掃除もずいぶんいいかげんな感じがするが、O園で実習した時は緊張感をもって働いたように思う。佐藤さんの中でちがいがあったと思う。
大塚さんが言われた介助を入れて仕事をするという問題、介助者をどう育て、どうつきあって働いてゆくのか、やはりそういうことを考えていく必要があると思う。
介助者におまかせになってもまずいし、どこをやってもらい、自分はどこをやるのか。実際やってみないと身につかない。
せっかく佐藤さんは働きたいと言ってるんだから、今後とも一緒に考えてゆきたい。
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2019.11.09
▽「一人暮らしという宇宙の旅路で重度障害の私は」――[2019年09月04日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月25日]
●友野由紀恵さん(世一緒金曜当番スタッフ)
子どもの頃から施設が全世界だった
元々、私はずっと施設暮らしだと思っていて、一人暮らしなど考えてなかった。東村山の養護学校の寮に3年間いて、それから整肢療護園に中学までいて、そして越谷養護学校高等部の寮に移った。
寮の生活で外に出るときは家に帰るときだけ。それもきょうだいが怪我したりすると、帰りたくても帰れないので、みんなが帰っても寮にいた。
私は小学5年生の時、国際障害者年のポスターのモデルになった記憶がある。山下さんがそのポスターを探したいというが、もうずっと昔のことなので、みつからないんじゃないかと思う。
父はタクシーの運転手をしていたが、父の思い出は海に一緒に行ったという記憶しかない。あと、私はきょうだいが皆、男ばかりで、その中の女一人。その私が一人で子どもの施設に入れられて泣いているので、父が「そんなに泣いてるんなら、家に連れ帰ろう」と。それが父のやさしさだが、母が「由紀恵のために、鬼にならなきゃダメ」と言ってるのを聞いた。
養護学校でも高等部まで寮にずっと入ったままだったから、父が亡くなったのもずっと後から聞いた。
母が越谷養護学校にバイクで向かう時、交通事故に遭い、一回だけ自宅に戻ったが、その後亡くなったという話を後になって聞き、母の時に初めて葬式に出た。
養護学校を卒業した時、それまできょうだいと過ごしたことがなかったので、「きょうだいと過ごさせてほしい」とわがままを言って、わらじに入る前の3年間、自宅で暮らしたのを覚えている。
地域で暮らすって こんなことだった
活動の傍らアパート探しをした。けっこう疲れた。不動産屋に、「あなたは一人で住むんですか? 誰か入ってくれるんですか? 火は自分で使うんですか?」とよく訊かれた。「介助者を入れて、火は自分では使わないから大丈夫。」と答えたが、なかなかOKにならなかった。
今の借家も、出るときは元に戻さなくちゃいけないと言われている。私の場合、玄関から入るのでなく、車いすから縁台の広いところに移り、そこから這って家の中に入るように直している。風呂場のスノコと手すりとトイレの手すりも付けた。
昔の大袋駅は階段と開かずの踏切があり、なかなか渡れなかった。私ともう一人女性障害者が大袋に住んでいた。駅のホームの途中に臨時の出入り口ができたり、やがて新しい駅になってエレベーターができた。
今の家は大袋の踏切やバイパスの近くにあり、うるさいが、前よりは眠れるようになった。
生活ホームから出る準備をしているときは不安で泣いたりしていたが、いまは大袋に移ってよかったなと思っている。隣に男の人が引っ越してきて、タオルを持ってきてくれて、「引っ越しの挨拶だな、引っ越してくる人いるんだな」と思ったりする。
今はきょうだいに連絡を取っていないが、連絡ないのが元気な証拠かなと思う。昔、兄が倒れた時、お金を送ったりしていた。今は兄は働けなくて、病院通いで、弟二人が働いているそうだ。向こうは向こうで無事に過ごせているようだ。時々、弟が、バイクに乗って来たりしている。生活福祉課の人が時々来て、「きょうだいと連絡を取っているか」と訊くので、取ってますと答えている。昔うちの兄と弟も、私とは別の施設にいて、それから母が兄と弟を引き取って暮らしていた。
兄が、去年、浅草から大袋まで歩いて来たらしく、泊まるところがないということで、私の留守中に借家に来てそこから私の携帯に電話をかけてきて、「お前のうち開いてんぞ」、「だれか来るかもしれないから、開けてある」、「早く帰ってきて」というやりとりをして、家に帰った。
その時、介助に入ったのが、世一緒の元障害者スタッフの新井さんで、びっくりしながらもう一人分の食事を作ってくれた。その兄から「金を貸してほしい」と言われ、次の日「私どうしたらいいかなあ」と介助者に相談したら、「きょうだいでも金貸すのはよくないだろう」と言われた。兄は金も薬も忘れて来ていたので、実家の弟にバイクで届けに来てもらった。
介助者たちと私の人生
朝はわら細工スタッフでもある村田さんに毎朝来てもらい、食事とか私の送り出しをやってもらっている。はじめは生活支援センター苞で週2回という話になっていたが、私のほうで毎日来てほしいと頼んで来てもらっている。村田さんとのつきあいは、もう25年。村田さんは前に生活ホームもんてんの職員だったので。お金の管理なども、いろいろやってもらっている。
ほかには、介助者の一人から「マンションの鍵を閉められて、泊まるところがないから泊めてほしい」と言われて、泊めてあげたことがある。亡くなったKさんも泊めてあげたことがあった。Kさんは息子さんが同じ学校だったので、「ボランティアをやらせてほしい」と言われ、5歳の時から亡くなるまで、40年間つきあいがあった。
県立大学の学生が、10人~15人で1ケ月毎のシフトを組んでくれていて、夜7時から9時に毎日来て風呂介助などをやってくれる。重度訪問介護の資格を取るために、わら細工の研修を2回受けてもらわないといけない。新しい介助者を募集するために、入学式や卒業式にチラシを持って出かけてゆく。毎年3月にはわら細工で、卒業を祝う会もやっている。
学生の介助者が、卒業のために病院の実習に行くと私の介助に入れなくなるから嫌だと言う人がいるんで、「卒業できないと困るから行きなさい」と言ったり、テストの時に「手のエネルギー下さい」と言われたりする。
世一緒の元スタッフの新井さんがこの前、介助の時間に来なかったので電話したら、「風邪を引いたから行けません」と言うので、その時は代わりの人がいたからいいけど、いつもそうはいかないので、「前の日でも電話ください」と言った。今は新井さんは手帳に書くようにしているという。新井さんには、他の人が入れなくなったときに代わりに入ってもらったこともある。
やはり世一緒の元スタッフの山崎さんには日曜に介助をお願いしていて、先日は彼女の誕生日でもあった。
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2019.11.09
▽ニューギニア島における太平洋戦争時の戦闘―――[2019年08月19日(月)の模様、2019年10月21日にUP]。
●倉川秀明さん(有機農法生産者)
8月19日(月)せんげん台の就労移行支援「世一緒」で、いつも「世一緒」に有機栽培の野菜を供給していただいている生産者の倉川秀明さんをゲストに招き、すいごごカフェを開催した。テーマは「ニューギニア島における太平洋戦争時の戦闘」。太平洋戦争とは何だったのか、ニューギニア島での戦闘を軸に考えたひととき。
かって「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」という言葉があったそうだ。
倉川さんは、1990年から1992年までの2年間JICAの専門家としてパプアニューギニアに派遣された。派遣されたところは、国立ソゲリ高校(パプワニューギニア国内最初の高校。1975年創立。)首都ポートモレスビーから42km、標高600mの高原の村の中になる全寮制高校。第2次世界大戦に、最前線の野戦病院として建てられた。戦後に当初は建物をそのまま高校として利用することとなった。
倉川さんの前回のすいごごカフェでは、パプアニューギニアの熱帯雨林を大伐採企業から守る人々の話をしていただいた。
「死んでも帰れぬニューギニア」とは、ココダ・トレイルの戦闘に由来する言葉だという。
ココダ・トレイルは第2次世界大戦中に日本軍が南岸にあるポートモレスビーを攻略しようとして、北海岸から陸路山越えをして侵略した経路で、ココダ~オウワーズ・コーナー間が直線距離で60km、歩行距離では90kmある。最高地点のベラミー山頂付近は標高2300m(オーウェンスタンレイ山脈)。歩行時間にして40~50時間、 通常で5~7日かかる。
ここでの戦闘の経過は以下。
1942年7月21日 陸軍横山先遣隊と海軍上陸部隊がラバウルからギルワに上陸。
9月16日 最終到達地点イミタリッジ、イオリバイワ。同日撤退決定。(ここまで2ケ月弱かかっている)
~12月 ギルワ、ゴナなど北海岸に撤退、そして部隊はほぼ全滅。一部は北方へ転戦した。
けっきょく 日本軍の投入人員 11400人で、戦死者 約8000人となった。
倉川さんは、1990年9月29日~10月4日、5泊6日 オウワーズ・コーナー → ココダを歩いた。同行者はソゲリ高校生徒6人だった。その行程の画像を投影しながら、語る倉川さん。画像は30年近く前の倉川さん、あたりまえだが若い!
ちなみに、太平洋戦争中のニューギニア島全体での犠牲者は
日本軍 投入:東部ニューギニア 16万人
西部ニューギニア 4万人
合計 20万人
帰還者2万人、死者18万人
連合軍側死者:オーストラリア軍 8000人
アメリカ軍 4000人
パプワニューギニア人 4~5万人
そして倉川さんは問いかける。
なぜ平和な国、土地であったニューギニア島で外部の人が来て戦争をすることが許されるのか?
なぜ何の咎もないニューギニア人たちが戦争に巻き込まれて死傷しなければならないのか?
なぜあらゆる戦地で現地の人々は、何の咎もなく戦争に巻き込まれて不幸な目に遭わなくてはならなかったのか?
なぜ多くの日本人(兵士・民間人)は、縁もゆかりもない土地で死傷しなければならなかったのか?
人の生命や幸福を、自己の目的に利用する少数の者と利用される多くの者ができるのはなぜか?
軍部の独走を許した原因は何か?
軍隊とシビリアン・コントロール。
民主主義は万能か?
民主主義から独裁者は生まれる。ポピュリズム。レイシズム。
独裁者が生まれる国家のシステム、独裁者を作らせないシステムの構築とたえざる点検作業。
地球規模の資本主義経済の活動(グローバリゼーション)、多国籍企業、飽くことのない欲望の拡大と追及。
戦争に正義あるいは正当な理由はあるか?
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2019.11.09
▽「黄金の午後から喪失の黄昏を経て ひきこもりが発酵させた他者・社会を語る」――[2019年08月07日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月22日]
●塚田正行さん(世一緒に来始めた人)
8月7日(水)のすいごごカフェのゲストは、」塚田正行さん。肩書は「世一緒に来始めた人」としておいた。あらかじめ「街の風に身を委ねて」と題し、次のように勝手に書いておいた。
「失われた十年(二十年)―さまざまな職場を巡ったのち、いつしか『ひきこもり』とみなされ、母の知人、相談機関を経て、世一緒へ漂着。旅路の風景と思索を語る。」
マンモス団地の団塊ジュニア世代
当日、塚田さんは、6ページのレジュメを用意して、語ってくれた。その1ページ目の最初の言葉は、「団塊ジュニア世代」。レジュメにはこの言葉の解説をはじめ、当時の諸事件など時代背景をていねいに解説してくれてあったのだが、ここではあえて略す。塚田さんの両親は、新潟県の「落人部落」といわれた土地の出身だという。
塚田さんが生まれたのは東京の下町・葛飾区青戸。1973年。4人目の子どもで、上3人は女の子。両親はおろそうかと考えたという。長女は10歳上で、自分を抱いて近所中を走り回り、よく落とされたと後に聞いた。高熱を出すとひきつけ、救急車を呼ばれたという。幼いころの記憶は、ひよこを飼っていて、猫に食べられたこと。風呂は外に出ないといけなかったこと。なめくじがはっていたのを覚えている。父はおとなしい性格だが、毎晩酒を飲み、怒ると手が付けられなかった。でも、なぜか自分には怒らなかった。
一家は、1977年に武里団地に引っ越してきた。5階で富士山が見えた。翌年、幼稚園に入った。毎朝泣いていると、隣の女の子が一緒に行こうと誘ってくれた。近所で自分は年上の方だったので、小さい子のめんどうをみた。(そのころ生協の灯油を配っていた人が山下さんだったと、ここへ来てから聞いた。)
小学校から中学校時代は、絵をかくのが好きだった。友達にリクエストに応えて描いた。学級委員に推薦されたりもした。当時、姉たちは定時制に入って働きながら、家に金を入れてくれた。でも三女が非行に走り、父とケンカして家出したりした。母について一緒に警察に行ったこともある。そのうち、長女と三女は家を出て暮らし始め、両親と次女と私の4人暮らしが長く続いた。
この時代、少年ジャンプは黄金期で、アニメ、ガンダム、ファミコン等、最盛期を体験した。当時と比べると、21世紀に入ってからはゲーム機の技術やアニメ絵の進化はあっても、内容は新鮮味に欠け、衰退していったように感じられる。
中学では先輩との上下関係がない帰宅部で通した。高校受験では第一志望は不合格になり、二次募集で商業系の学校に合格した。高校では簿記の資格を取った。朝の支度が出来ても外に出られず、1年間に50日ぐらい欠席した。
卒業後東京の商業系に専門学校に進学した。サプライズが好きで、ズームイン朝の後ろを歩いたりしていた。グランドの広場に石灰を使って文字を書いたりもしていた。その後いろいろあって、専門学校は中退した。そのため、就職活動の大変さを経験していない。
失われた20年のワーキングプア、ひきこもり
そこで、幼児期から続いていた「学校へ行く」という流れが途絶えた。気分を変えたかったので、長野県茅野市にあるリゾート施設で、夏に働いた。その後自宅に戻って、大学の通信制で幼稚園コースに入った。工事現場の整備員のアルバイトも並行してやった。その後、1994年、健康食品の会社の事務の仕事をした。
そこもしばらくして辞めた後、人材派遣会社の営業、住宅リフォームの訪問営業などやった。都内を歩き回ったら靴の皮がべりっとむけて、すぐやめた。
1997年に、防犯器具の会社に入った。電話でアポを取り、客の所に行く。1週間で客が取れたが、その後取れなくなり辞めた。1997年8月、派遣会社に正社員の待遇で入った。茅場町にある会社が派遣先だった。コンピューターのオペレーターをやった。25、6歳になっていて、そろそろ自分も正社員のうちに結婚したいと思ったが、そのうち不景気になって、登録型の派遣になった。何ケ月かは「リフレッシュ休暇」で仕事がない。参議院議員会館、かんぽ事務所……NECのLモードには開発段階から携わったが、所詮派遣の立場。悔しい思いを抱くようになり、そのうち働くことを拒否した。(第1次引きこもり開始)
その前に、1999年に長女が35歳でがんで亡くなった。そして母にも同じがんが発症したが、高齢のため進行せず、手術して治った。
この頃から社会はだんだんフリーター、派遣などワーキングプアが増えて、結婚しないで親と同居する人が増えて行った。かくて20世紀は終わり、「第3次ベビーブーム」は来ないことになった。
21世紀になったが、自分はひきこもっていたので、家でネットばかり。なんでもダウンロードできる状態になっていた。まだ法整備がなされていなかったので、上映中の映画とか、最新のゲームにアクセスできた。外に出なくても、金がかからずに遊べる状態だった。これまでTVや新聞を通して持っていた常識が崩れて行った。
9.11以降、この世界はおかしいなあと感じていた。「アメリカの自作自演か?」、「アメリカの中央銀行も民間の銀行だ」などなど、TVでは知ることができないことを、ネットで知った。そのころ金の歴史について考えることも多くなり、ミヒャエル・エンデの「モモ」には感銘を受けた。2005年までひきこもりは続いた。
2005年にアルバイトを再開した。住宅販売の看板持ちをやった。動かないですむのがいい。世一緒に来て知り合った癸生川さんも、この時期に看板持ちをやっていたと聞いた。会っていたかもしれない。
自分としては、外に出て木になったような感じがしていた。夏だとセミが止まるし、雨だと雫の音がスローモーションのよう。雪の日にもやった。東越谷3丁目の交差点でよく座っていた。あの弁当屋さんに歩いて行った。たまに電車で帰るときは世一緒の前を歩いて駅に行ったんだなあと、後で思い出した。当時は、おかしな名前だなあと思っていた。
2011年に武里団地の1-1が建て替えになるというので、1-3へ引っ越した。近くなので顔見知りばかりだった。2012年、看板持ちの会社から施設内の警備もやらないかと言われ、東京駅の大丸の施設警備をした。浜松町の事務所もあったが断った。
第2次ひきこもりで体内に発酵してきた他者、社会
2013年、長らく病気でいた父が亡くなった。その4年前に胃がんで胃を3分の2切除したが、2012年に肺がんが発覚し、進んでいたから助からなかった状態。その1ケ月後の命日に、自分がめまいで倒れ、谷中耳鼻科に通った。家族の状況と自分の病気で、第2次ひきこもりに入る(2013~2018年)。
母も高齢になって、下半身が夜になるとむくみ、家事手伝いをするようになった。仕事もしていないから、手伝いに気が向いた。
2018年、また団地の建て直しのため、6街区に引っ越し。生活圏が変わった。散歩するようになり、前々から母親が団地内の第6地域包括支援センターに「相談した方がいいよ」と言われていたので、第6包括に行ってみた。あとで地域包括支援センターは高齢者が対象とわかったが、事前に調べていくより自分の足で歩いて、いきなり入っていくのが楽しかった。あらためて考えると変だが、その時はほかの人の力を借りなかった。ボランティアから始めたいという気持ちが強くあった。人に会いたかった。
すぐに仕事をする気にはなれず、日課がほしかったので、ボランティアの活動を紹介してもらったが、連絡がなかった。その後、知人から紹介された越谷らるごに行ってみた。月2回座談会を開いているが、もっと多くそういう機会をほしいと思い、また第6包括へ行った。そこから生活支援センター「えん」を紹介され、そこに世一緒のサポーターでもある長谷川さんがいて話を聞き、せんげん台の就労移行「世一緒」にふらっと行ってみたのがここに来た経過。
せんげん台から越谷の世一緒を紹介され、来てみたらちょうど水谷さんがゲストで話しており、前に谷中耳鼻科で診てもらった先生だった。2018年12月20日のこと。
自分がひきこもっている時も、人と会うことは嫌ではなく、家族とも話をしていた。早く仕事をしろとか言われたこともなかった。家族が認めてくれたので、部屋に閉じこもっている形ではなかった。精神科にも行ったことはない。
現在、職業には就いていないが、社会には参加している。どうしたら心の底から働きたいと思う気持ちがわいてくるか、わからない。いまこんな状態でも、水曜に日吉さんの介助、木曜に革細工の助手としての仕事をしている。社会に出ても、内面はひきこもりの状態と変わらない。長びくとまずいのかなとも思う。
でもそういうひっこもりの人にも何か可能性があるのではないかと思う。どうすれば村を災害から守れるかとずっと考えていた「三年寝太郎」みたいに。
アリの社会でも、常によく働くアリと働かないアリがいて、前者が疲れると後者が代わって働くことで社会を保っているという。ニートも働く準備段階としてみていただければと思う。
また、ウォールデンの「森の生活」とひきこもりを比較するのは申し訳ない気もするが、自分も部屋の中で、ほんとうの豊かさを探すことを選んでしまったのだと感じる。
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2019.10.08
▽「旅は道連れ 人から人へ」――[2019年07月31日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年10月07日]
●手話の旅人(荻野好友さん)
ろう学校を転々とした子ども時代
1949年11月14日、新宿区若松町で5人兄弟の末っ子として生まれる。
3才で病気になり、国立第二病院に入院した。マヒが残った。
5才で立川ろう学校の幼稚部の寄宿舎に入った。3年後、新宿ろう学校の小学部に通った。
その時事故に遭い、ケガをした。1年位経ち、ビルが建つので廃校になり、杉並ろう学校に転校した。
兄とケンカしたので、千葉ろう学校館山分校の寄宿舎に入った。
そこで中学に上がり、中退した。手のことで、先生や友達からいじめを受けて、中学部を途中で辞めて、新宿の家に戻った。
施設で暮らし働いた青春時代
その後、戸山サンライズで手話の勉強をしていた。母の知り合いと一緒に、葬式で飾る、竹の花輪を飾る仕事を流れ作業でやったりした。
1968年に芝浦更生館のダンボール科に入った。平日は寄宿舎で、土日は家に帰った。空港から見える所で、モノレールがうるさかった。
1972年、世田谷更生館に移った。ダンボール科だけでなく、鉛筆を作るなど、いろいろな科があった。友達も多くいて、沢山交流した。
芝浦も世田谷もどちらも手話会があり、ろうあ者と聞こえる人で一緒にサークルをやっていた。世田谷更生館には、近所にあった梅ヶ丘学園の人達が沢山入ってきた。入ってきた人から悪口を言われたこともあった。
毎年、品川で三笠宮夫妻を招いて、ボウリングの全国大会が開かれ、障害者が全国各地から集まった。有名なプロボウラーの矢島さんら沢山の選手も来てサインをもらった。
当時から映画を観るのが好きで、ゴジラやフ―テンの寅さんシリーズやトラック野郎、舟木一夫の映画などをよく観た。東映、東宝、松竹、日活、大映の映画を沢山観た。大映はガメラが好きだった。
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2019.10.06
▽「病気とは 医療とは 薬飲まず働く日々からの発信」――[2019年07月24日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年09月18日]
●以前はトリプルワーカーで現在はダブルワーカー(天野美和さん)
事前のポスターでは「トリプルワーカー」と紹介していたが、冒頭「現在はダブルワーク」と訂正された。そのポスターに「今は薬を飲んでいないが、病気が出ないわけじゃない。それとどうつきあうか苦労している。障害者が働く現実は厳しいものがあるが、それに負けない心構えを語る。」と記してあった。
これを書いたのは、就労移行支援事業所「世一緒」の高瀬さん。前に勤務していた南埼玉病院で、天野さんと出会った。
8年前まで大きな子どもだった
天野さんが抗精神病薬を飲んでいた8年前の記憶を語った。子ども3人に家事を全部任せて、大五郎という焼酎を飲んでいた。そのくらいの記憶しかない。若いころから自分が正しい、自分がやってることにまちがいはないと思って生きてきた。実際はわからないことだらけだったのに。ほんとに子どもだった。
それが躁鬱を経験して、1年半入院して、40歳近くなって、あんなに休んだことはそれまでなかったんじゃないか。「天野さんいつも寝てるよね」と病院で言われたくらい寝ていた。
退院しても、いろんな人がいるよという感覚までいけなかった。OTの人に、なんで?なんで?と連発していた。「色鉛筆でもいろいろあるでしょ。いろんな人がいるから、いろんな考え方あっていいんです。」と言われた。でも、いろんな人はいるが、それにどう対処していいかわからず、眠れなくなった。家事も完ぺき主義で、手を抜けと言われると「なんで?」。「こんなに悩むんなら、薬飲んだ方が楽なんだけど」と言ったら、「だめです」と言われた。
薬を飲まず働く天野流スタイル
OTに課題として挙げられたのが、「食事」、「育児」、「掃除」……のうち、「食事を決まった時間に食べましょう」と言われたが食べない。今日も食べて来てない。そして「まず掃除をやめましょう」と言われ「ええっ?!」。無理のないペース配分をつつがなくできるようになったのが、5年位前のこと。
7年間南埼玉病院で治療を受けていて、働けそうだなと思った時、その会社に、いまこういう治療を受けていますと言ったら、かまいませんよと言われて働き始めた。一切他人と関わらなくてできる仕事がDM便。ブツを家まで持ってきてくれて、無言で空容器を回収してくれる。2年位それをやって、それから他人と関わる不安がなくなり、かれこれ8年位そこの運送会社とつきあった。障害者手帳は返納した。
人間関係のトラブルでそこをやめ、別のところで昼間働き、いまダブルワークをしている。昼間のところは障害者がいない。夜の職場は障害者がいて、その人は健常者と同じ失敗をしても「障害者だから」と言われる。ハローワークでは、障害者手帳を持っている人はあくまでも障害者なので、正規は100%ありませんと言う。
8年間勤めた中で、未払い賃金が10万位。挙句の果てには「あなたの仕事が遅いから」と。新越谷からレイクタウンの間を自転車で走ると20分くらいかかるところを私は10分で移動していたのに、ノロマとかグズと言われた。社会保険が変わった時給料がぐんと少なくなったので辞めた。がんばっても報われないことは、社会にいっぱいある。お金はあるに越したことはないが、欲を増すと長続きしない。
今でもOTのところに行って、話をしている。そして気分をリフレッシュしているので、うつの症状が出ずにいられている。基本的にこもっているのが合っている性分だから。そんな私がお金のために働いている。
薬を飲んでいなくても、人間だれしも悩みはある。聞いてくれる人がいることは大切。もう8年、月に一度たわいのない話をするために、お金を払って通っている。その人のところに通って憂さ晴らしをしているから、ダブルワークを続けられている。
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2019.10.06
▽「風の又三郎がアルバムをめくり始めるとき」――[2019年07月17日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年09月12日]
●世一緒のポスティング職人(佐藤景子さん)
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
世一緒のポスティング職人だった
7月17日(水) キッチンとまとのカレーとコーヒーをいただきながらおしゃべりするLunch Café どっこいしょ の後に開かれたすいごごカフェのゲストは佐藤景子さん。
一昨年創刊した「世一緒NOW」の呼びかけを読んで、世一緒の火曜日当番をするようになった。出会いは彼女が母と越谷市障害者就労支援センターに相談に訪れた時。すぐ就労ということでなく、とりあえず本部事業である世一緒のグループワークのうち、ポスティングをやりたい、しかし花壇整備作業や仕事発見ミッションなどはしないとはっきりしていた。
ポスティングひとすじで、ポスティングがあれば必ず参加し、一通り終わったら、次はいつ頃あるか確認を忘れない。しかし、ポスティング以外の活動はきっぱり断る職人気質。
世一緒当番に応募しひらかれてゆく世界
そんな彼女が当番の仕事として、世一緒NOWや職場参加ニュースを、市役所のいろんな部署や中央市民会館、さらには産業雇用支援センター内の諸機関へ配達に回ったり、サポーターと共にキッチンとまとの弁当配達に出かけたり、時にはしらこばと水上公園管理事務所に毎月の実績報告書類を届けたりするようになった。
越谷市民まつりや産業フェスタへの出店や定期総会で前に出て活動報告したりもしている。そして、そして、ついにすいごごカフェのゲストトークまでひきうけた。
発展途上にある彼女のこれまでの人生を、この日自ら語った。
生まれたのは1974年。私と連れ合いが、東京から埼玉に引っ越してきたころ、彼女は生まれたのだなあと思い、わらじの会発足前に「総合養護学校をつくる会」で出会った障害のある子どもたちやそのきょうだいの顔を思い浮かべた。
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2019.08.12
▽「筋肉少々帯 戦え!何を⁉ 人生を!」――[2019年07月10日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年09月01日]
●坂西勇輝さん(パタパタに週3回通っている)
通常学級で 自分以外は敵だと思った
全身の筋肉が劣化していくデュシェンヌ型筋ジストロフィーという病気。現在、大袋で一人暮らしをしながら、パタパタに週3回通っている。
小学6年から車いすに乗るようになり、その前は誰とでも仲良くしていたのに、自分以外は敵だと思うようになった。仲のいい友達もいたが、自分は障害者で相手は健常者なのだと、自分から線引きしてつきあっていた。今思うと恥ずかしい。できないことを介助してほしいと頼めるような関係を作れたらよかったと後悔している。
学校では支援員だけに介助をしてもらっていた。年上の人と話すのは楽という感じもあった。昇降は給食用エレベーターを使った。特に楽しい記憶もなく卒業した。
中学に上がるとき、教委に相談したら養護学校を探したらどうかと言われ、母が私に養護学校でもいいかと聞いたので、普通学校がいいと答えた。母から聞いたところによると、知人から勧められ、創価学会に入って公明党の議員さんから教委に話をしてもらったら、手のひらを返したように教委から中学校を見学して学校を決めましょうと連絡がきたという。今思うと「忖度」という行為。中学には給食用のエレベータのほかに人が乗るエレベーターがあった。
中学では科学部に入り、3年の時は副部長を務め、部内での仲間もでき楽しく活動した。委員会は視聴覚委員会(放送委員会)を3年間続け、校内放送や体育祭の実況などで活動し、放送機材を使うのがとても楽しかった。勉強はあまり成績がいい方ではなく、当時母子家庭で家計が大変な中、高校受験前に母に頼んで塾に行かせてもらった。今でも感謝している。
高校は岩槻商業で、前に卒業した車いすの先輩が一生懸命やってくれたので、受け入れはよかった。上級生にも車いすの人がいたが後輩にはいなかった。部活は科学部に入ったが、同級生がいなかったのであまり楽しくなかった。高2の冬に動画配信サイトで三味線の演奏を見てかっこいいと思い、三味線を習い始め、文化祭で演奏した。三味線の先生も一緒に弾いてくれて、とても楽しかった。友達はいたが、どこかで線引きをしてつきあっていたので、孤独だった。いまも連絡をとってつきあっている友達もいる。介助をお願いできるような関係になれたらいいなと思っている。
障害者雇用 だが職場でも家でも追い詰められ
高3になり、進路選択は就職にした。学校に来ている就職先には障害者雇用をしている会社がなく苦労した。
越谷ハローワーク経由で高校に連絡をくれた会社があり、吉川市にある特別養護老人ホームだった。いい会社だなと思い、就職試験と面接を受け、採用された。施設開所1ケ月前に勤務が始まった。経理事務を担当した。
開所前の1ケ月はよかったが、開所してから会社の対応が豹変した。雇用契約書を交わすとき、1ケ月前から働いていた職員が、募集内容と違うと言い始めた。上の人と話をしたら。文句があるならやめてもらってけっこうと言われたらしく、明日から来ませんと言い、退職届を出してやめてしまった。それも職員たち3人が同時に退職したので、この会社は危険だなと思うようになった。
自分も契約書を交わすことになったが、週休2日と書いてあったのに、休みを週3日にしてくれと言われた。身体的負担が大変だと思うから配慮したという。当時は実家暮らしだったので、週休3日でも何も苦労はなかったので、まあいいかと思ってしまった。2年後に週休2日に戻さないかと言われたときは、いまさら言われても遅いと思った。いろいろなことがあったが、けっきょく4年間その会社で働いた。
ずっと母子家庭で育ってきたが、働き始めた後の19歳の時、母が再婚した。再婚してすぐ相手が豹変し、母がもちあげないときげんが悪くなり、私が否定的なことを言えば怒り、黙っていると会話がないと文句を言うようになった。職場でもストレスを抱え、家にいても安らぐことができず、精神的に追い詰められた。キレないようにがまんするのが耐えられなくなってきて、一人暮らしを決意した。母は、がまんできないならいいよ、やりたいならやればと、軽い感じで背中を押ししてくれた。
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2019.08.12
▽「ロボトミーと傷痍軍人、また何か隠すのか?オリンピック」――[2019年07月03日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年08月12日]
●日吉孝子さん(世一緒ファシリテーター)
ロボトミー手術のため一家で上京した時の光景から
1954年、北海道で最初(1879年~)の官営幌内炭鉱に生まれた。脳性まひ。その町から出たのは、障害者手帳を取るために2回札幌へ行った時しかない。5歳の時、ロボトミー手術を受けて機能訓練すれば障害が治るという話が東京から流れてきて、親が全財産をかけて手術を受けさせてやるといって、1959年11月、おばあさんの背におぶわれて、東京の瑞穂のおばの家に一家で出てきた。
その時の旅で覚えているのは、昭和新山の煙。そして上京して上野駅に降り立った時、傷痍軍人が二人いて、一人は松葉杖をつき、片足が膝のあたりからなくて、ゲートルを巻きアコーディオンを弾いている。その横にもう一人が四つん這いになっている。それを見たとき、なんとも言えない気持ちになった。あれはなんだったのかとずっと考えているが、表現する言葉がみつからない。見てはいけないものを見てしまったという感じ。それでいて目がはずせない。戦争のことも世の中のことも何も知らなかったが、その人たちの存在が、すごく子どもにも屈辱的な感じだった。それが、ずっと頭から離れない。東京の光景がそこから始まっている。
連行され前線にかりだされ捨てられた人々だった
その後、人の集まる場所に行くと、やはり松葉杖の片足がない人と、もう一人が四つん這いで、その前に缶が置いてある。その人たちの横に立看が立っていたような記憶もある。その人たちがなんでそこにいたのかは、それから22、3年経った後になって、初めてわかった。
1981、2年当時、子どもを産んで、高島平の都営住宅の8号棟に住み生保を受けて暮らした。保育園のママ友ができ、話す機会があった。その人は朝鮮総連所属で、その人に傷痍軍人の話をしたら、急に真面目な顔になって、「あなたたち何だかわかってる?」と訊く。「あの人たちは第2次大戦で大陸から連れてこられて、負傷したにもかかわらず、その人たちの補償を日本はしない。日本の国への抗議を示すためにそういうかっこうをして、人の集まるところへ行って、自分たちがどういう目にあっているかを伝えてるんだ」と言う。その人たちはアコーディオンを奏でるが、話は一言も発しないので、わからなかった。その正体がわかって、20数年ぶりにショックを受けた。
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◆2017年8月の“すいごごCafe” |
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◆2019年6月の“すいごごCafe”
2019.08.12
▽「主婦として地活メンバーとして」――[2019年06月26日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年08月12日]
●坂田幸子さん(ふれんだむメンバー)
何者かになりたくて生き急いだ日々の果てに他者が ー6.26坂田幸子さん(ふれんだむメンバー)トーク「主婦として地活メンバーとして」より。
簡単な自己紹介:
社会福祉法人じりつから来た。せんべいを食べて前歯を折ったので、マスクをかけたままで。好きな人は1.だんなさん 2.ふなっしー 3.岩上さん(代表理事)
コントロールが大変だった子ども時代:
学校では内気で泣き虫でいじめにもあった。靴を隠されたり、悪口を言われたり。母が先生に言うと、チクったろうとよけいにいじめられたので、親にも言わなくなった。家では両親にはっきりものを言っていた。高校に行ってまでスケバンに囲まれるのはいやだから、家にいる時の元気な自分を高校でも出した。内面は泣き虫なので、コントロールが大変だった。早く大人になりたかった。
統合失調症を発症するまで:
高校を出て、昼間はエステで、夜はスナックで働き、1、2時間しか眠らずがんばった。草加で1年半か2年ぐらいやって、ちょっと休んで大宮で3年半。エステはバブルがはじけそうな時代に就職したので、つぶれちゃうからと言われて売り上げに貢献したが、続かないなと思ってやめた。次に整体を習って、親戚の人に金を用立ててくれないかと言ったら「馬鹿なこと言うな」と言われた。8:30から20:00の仕事をこなした後スナックで21:00から3:00まで働いたら意識がなくなった。22歳で統合失調症を発症し、20代はいろいろな病院に3ケ月、7ケ月とずっと入院だった。その間に仕事を探し、また調子が悪くなって入院のくりかえし。ビスケットを盗ったのが分かって保護室に入れられたこともある。暴れていたから拘束帯をまかれた。人権侵害だと思う。
父親との確執と入院のくりかえし
父親はすごく仕事をかえて、いやだった。「かあちゃん、休むよ。店長に電話しといて」とよく言ってた。なんで休むんだと思ってけれど、自分も社会人になって同じことをやった。店長は「なんで本人から電話が来ないんだ」と言っていた。花のエステティシャンだったのになんでこんな病気になったんだ、早く死にたいと思って、いつも手に包丁を持って暴れていた。すると父親からやめろとパンチが来る。なんだよと反撃するとビンタが来る。私も皿を投げる。コップを割る。私は感情が昂揚しきって大変だし、父親もアドレナリンが出て。そして私はどういうわけか意識を失う。そして救急車を呼ばれて入院。それをくりかえしていた。しょうがないから病院でお世話になろうねと。父親は働かないから生保暮らしで、生保なら金の心配がないから私を入院させたんだと思う。
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2019.07.31
▽「傷抱きしめ介護現場で」――[2019年06月19日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年07月31日]
●元世一緒スタッフ、いま介護現場で働く田辺雄太さん
6月19日(水) Lunch Café どっこいしょ& すいごごカフェ ゲストトーク:田辺雄太さん(障害者介護支援員) 「傷抱きしめ介護現場で」 家庭にも学校にも居場所がなかった子ども時代を経て越谷の祖父母の家へ。就労、離職後おやじ狩りで保護されたのち世一緒へ。ジグザグを経て介護現場で働く心は。
しんどいがなんとか楽しく働き続けられてる
田辺雄太さんは1988年生まれというから、今年で30歳を迎える。現在は居宅介護合(社福天恵園)で障害者宅へ行って入浴を中心とした介護(時には1日に5件)をしている。また短期入所の泊り介護も行っている。休みの日の楽しみはメイド喫茶。4千円位でカウンターでメイドさんと話しながらお酒が飲める店へ行く。そのほか友達とつまみが安い店に飲みに行ったり、カラオケしながら飲むこともある。少し年下の友達とが多いが、時には職場のおじさんと仕事の愚痴を言い合いながら飲んだりもする。
実は田辺さんはこの職場で前も働いていたが、仕事に行けなくなりそのままになっていた。前は介護だけでなく事務仕事もあり深夜1時までPCに向かっていたりして疲れ切った、今度は介護だけなので楽になった。職場復帰のきっかけは、買物に入った店で職場の看護師さんに偶然出会い「戻ってこないの」と声をかけられたこと。最近、当事者の親御さんが入社して、いろいろ提案してくれて働きやすくなったという。
決して安定した仕事とはいえないけれど、友達や同僚とのつきあいを通して、しんどさを癒しながら働き続けている田辺さん。今回のタイトルにある「傷」について語る。
幼いころからの「傷」をひきずって生きてきた
田辺さんには、ずっと別れたままの母と妹がいる。母はパチンコが好きで、スロットもやった。自分が酒好きなのも母親譲り。実の父親とは自分が生まれてすぐに別れてしまった。後に義理の父親に連れられて、実の父親のところに行ったら、目が点になった。なんとフィリピンの人と再婚し、子どもが10何人もいた。アパートの二部屋続きで住んでいた。これがみんな義理のきょうだいなんだよなあと思った。日本じゃ暮らしていけないからフィリピンに行くとか話していた。たいへんなんだなと思った。がんばってるなと。
母は浦和の伊勢丹のレストランで働いていた。帰ってくるのが遅いから、義理の妹に夕飯を作るのは田辺さんの役目だった。チャーハンとかしか作れなかったが。ガスを使うなと言われていたが、ちょっと使った。
「小学校は普通学級だが勉強しなかったです。小学校の時から荒れて孤立してましたね。先公をぶんなぐってました。」と田辺さん。「自分の場合、自分が生まれてすぐ離婚しておやじがいなかった。その後妹の父親と再婚したけど、相手が母親に暴力をふるって、自分は包丁を持って殺そうとしました。それが小1の時です。生きててもだめだからいいやと思って。暴行を受けてるんだから殺そうと思って。何回かビール瓶で頭をぶんなぐってました。」
田辺さんは三郷市内で小学生の時に3回転校し、その間学校でいじめにもあった。同じ三郷の中学に上がるとき、自分はよくわからないが、普通学級でなく特殊学級へ行くようにされた。そこから荒れ始め、悪い友達とつるむようになった。警察沙汰にもなり、親には迷惑をかけた。
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2019.07.11
▽「梅里雪山の巡礼の道で考えたこと」――[2019年06月12日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年07月02日]
●滝沢恵子さん(元ムーミンママ)
雑多な人々、雑多な出来事が同時に在ることー世一緒の小さな公共
もう40年ぐらい昔、北越谷駅のすぐ近くの裏通りを歩いていたら、道端に桐箱の部品がずらっと並べて干してあった。それが何軒かの他家の前の道端まで、延々と続いていた。
いま橋本画伯宅の周辺は田園風景の中に町工場が点在しているが、それらの前の道路は工場の延長で、よくトラックが荷を積んだり下ろしたりしていて、フォークリフトが行き交っている。
そんな風景の延長に、東越谷の職場参加ビューロー・世一緒はある。
世一緒の出入り口は平日の10:00-16:00は、できるだけ開けっ放しにしている。
だから、会議を開いていようが、作業をしていようが、古本や野菜を買いたいというお客、5円コピーを取りに来る人、ハローワークの帰りにふらりと立ち寄る人、ご自由にどうぞと書いてある棚のニュース類をもらいに寄る人や道を尋ねる人など、雑多な人々が出入りする。
世一緒の中は応接室や事務室といった間仕切りがないので、複数の出来事が同時進行していることが多い。
そして、6月12日(水)午後は、滝沢恵子さんをゲストに迎えて「梅里雪山巡礼の道で考えた」と題してすいごごカフェのトークが始まったところへ、行田市障害者ネットワークのご一行10名が越谷市障害者地域適応支援事業についての情報収集に見えるといった「解剖台の上でのミシンと雨傘の出会い」があった。
2軒のムーミンハウスの記憶から
まず今日の進行役で、滝沢さんの紹介者でもあるたそがれ世一緒管理人・樋上さんから、滝沢さんとのなれそめを。
1987年、この東越谷に重度障害者職業自立生活協会の店・トムテが回転し、樋上さんが店長となり、それまで両親らと暮らしていた武里団地を離れ、この近くで一人暮らしを始めた。その店のお客さんとして滝沢さんのお連れ合いが来るようになり、その縁でお連れ合いが教員として勤める足立区の小学校で教職員向けにバリアフリーについての研修の講師を務めた。
樋上さんは当時毎週1日だけ、やはりすいごごゲストになっていただいた植田さん宅へ夕方に出かけ、食費と介助料を出して、家族と夕食を共にさせてもらう、いわば通所型の「夕食介助」を受けており、それを「ムーミンハウス」と呼んでいた。やがて、その「ムーミンハウス」の2軒目として、滝沢さん一家4人の夕食に加わらせてもらうようになった。約3年間続いたという。ちなみに、当時、恵子さんは都立の養護学校の教員だった。
樋上さんが滝沢家を「ムーミンハウス」として通ったのは90年代半ばで、阪神大震災や地下鉄サリン事件のニュースを滝沢家のTVで見た記憶がある。また樋上さんたちわらじの会の当時の若者は、フリースクールりんごの木の子どもたちとソフトボールを時々やったが、そこに滝沢父が子どもと参加した。また、恵子さんが子ども二人と一緒にわらじの会の夏合宿に参加したこともあった。
滝沢さんは定年後山に登られているが、樋上さんは全国あちこちに旅をしながら山を見るのが好きなので、今日は滝沢さんに山の魅力について話をお聞きできればと言う。 以下、滝沢さんのトーク。
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2019.06.09
▽菓子問屋で20年働きつづけてきたことも―――[2019年06月05日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。
●柴田美恵子さん(わらじの会の生活ホーム入居者)
今日5日、職場参加ビューロー世一緒でのすいごごカフェは、始まって以来の25人もの参加。その多くは、わらじの会の生活ホーム、くらしセンターべしみ(通所)、パタパタ手づくり斑(農園・藍染等)の関係者。トークゲストの柴田美恵子さんは同居の親との確執が強まり、7年前から通所、昨秋から生活ホーム入居に至ったが、周りとの衝突やすれちがいなどを重ね、ソフトランディングを手探り中。
その柴田さんは、幼いころからさまざまな形のてんかん発作をもち、小・中学校でいじめを受けながら通常学級に行き、高校でやっと自分を認めてくれる教員と出会い、その後職安でみつけた職を転々とした後給料は安いが受け止めてくれる菓子問屋で20年働いてきた。親にぶたれながら働き続け、少ないお小遣いの中から当時のわらじの会の障害者たちの店に手作り品を寄付していた彼女の歴史を初めて知って、みんな驚いていた。
本人も助けを借りながら語り終え、ほっとひといき。
(クリックするとfacebookのページへ)
◇第2期すいごごカフェ&ゲストトーク!
2019.10.06
すいごごカフェ9/25~11/6 1時半のゲスト
9月25日(水)白石 茂さん (GHテレサ入居者)
「いろいろあったなあ」
いつも白いYシャツ姿で礼儀正しく、就労B型にも精勤する模範的な精神障害者のイメージ。そこに至る道のりの険しさや憩いの日々をいまふりかえって。
10月2日(水)石井 隆司さん(車いすのとらさん)
「ホノルルマラソンへ」
足こぎ車いすと出会い人生が変わったと語るーポリオで登校拒否、虐待経験、そして自殺願望。20代で自営業・「笑うセールスマン」―苦悩が育んだ喜びの今
10月9日(水)畔柳 聖治さん(GHテレサ代表)
「精神科病院で働いて」
精神科病院のケースワーカーとして、鉄格子の時代から地域医療の時代までずっと働き続けた中で、わかったこと、わからないこととは。
10月16日(水)内野 かず子さん(職場参加をすすめる会)
「職場開拓のノウハウ」
いまはない県の職業開拓員として職場や関係機関を訪問調査し、越谷市の地域適応支援モデル事業では自ら開拓した職場が大半。その開拓のノウハウを探る。
※16日は12:00~キッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)を食べながらの「Lunch Cafe どっこいしょ」も開催
10月23日(水)松丸 和弘さん(まつぼっくりの会代表)
「生き方が変わった時」
「精神科医の一言で人生の価値観と生き方が変わった」と語る。すいごごカフェ常連。草加のNPO代表。そこに至るまでの「栄光」と挫折、葛藤の日々とは。
※23日はせんげん台の就労移行支援「世一緒」で開催
10月30日(水)小川 誠さん(地活パタパタ利用者)
「まこと的自立生活」
入所施設で大人になりわらじの会で地域の四方山と出会った小川さんに、世間の嵐が次々と押し寄せる。平和を求め戦う日々を「まこと日記」を手がかりに。
11月6日(水)澤 則雄さん(映画制作者)
「やまゆり園とすいごご」
TV番組を長年手がけ「津久井やまゆり園事件」と出会い、作った映画を持って全国各地で語り合うとともに、すいごごカフェの常連にもなっているのはなぜ?
すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ
すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。
Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。 048ー964ー1819(世一緒)
2019.01.24
2019.01.24
2018.12.20
すいごごカフェ12/19~1/301時半のゲスト
特に書いてないのはすべて越谷の世一緒で行います。
12月19日(水)12:00~Lunch Cafe どっこいしょ
13:30~すいごごカフェ
水谷 淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
「風邪って インフルって」
「インフルエンザは風邪じゃない」と国を挙げてPRされ、当然のようにワクチンが。でもそもそも風邪ってなに?ワクチンは必要なの?42年間の地域医療体験から。
26日(水)この日の会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用)
「都庁は俺が建てた」
先月のすいごご亀田さんの語りに誘われ、80~90年代の工事現場での労働を語り始めたので、急遽ゲストとしてお願いすることに。介護人としての働きぶりも。
1月9日(水)
野村 康晴さん(就労移行利用者)
「小売業界で働いたら」
中学までは近所の学校、特支学校高等部を経て、国リハ、通所授産へ。施設外授産の経験から小売業界へ。がんばり精魂尽きて初めて就労支援と出会う。そして…
16日(水)
迫田 ベルタ夫妻(アンデスの心)
「アンデスの心とは」
ペルーから働きに来日し、そこで出会って結婚。地域にさまざまなつながりをつくり、時々帰っては物産品を仕入れて、地域のお祭りに店を出す人気者の素顔
21日(月)…水曜ではありませんのでご注意を。会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
倉川 秀明さん(有機農業生産者)
「パプアニューギニア」
かってJICAから派遣されて住民たちと暮らしたあの地へ、先日再訪した報告を中心に。現在の有機農業生産者人生はアジアの農民たちとの出会いから始まった
30日(水)
樋上 秀さん(たそがれ世一緒管理人)
「暮らしやすい街って」
誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会の代表を務め、避難所一泊体験等にも取り組んできた樋上さんにとっての「くらしやすいまち」とは。
2019.07.24
すいごごカフェ7/31~9/3 1時半のゲスト
7月31日(水)荻野 好友さん(くらしセンターべしみ通所者)
「国境なき障害者とは」
聴覚障害で片まひー居場所探り衝突を繰り返し聾学校を転々した子ども時代を経て、さまざまな障害のある人ない人と出会いつながる現在のくらしを語る。
8月7日(水)
塚田 正行さん(世一緒に来始めた人)
「街の風に身を委ねて」
「失われた十年(二十年)」さまざまな職場を巡った後いつしか「ひきこもり」とみなされ、母の知人、相談機関を経て世一緒に漂着。旅路の風景と思索を語る。
19日 (月)
倉川 秀明さん(有機農業生産者)
;会場はせんげん台イオン並びの就労移行支援「世一緒」
「パプアニューギニア戦跡の旅」
奪われてゆく熱帯雨林を守る人々が住むパプアニューギニアは欧米列強と日本が支配をめぐり戦争した地。現地の高校生たちと5泊6日かけ戦跡を歩いた。
28日 (水)
山下 浩志さん(当会事務局長 )
「総合県交渉どこからどこへ」
翌日に迫る総合県交渉―「人は福祉と特殊教育によって生きるにあらず」を掲げ1978年スタート。大阪、兵庫等しか例のないこの交渉はどこから来てどこへ行く
9月3日 (水)
友野 由紀恵さん(世一緒金曜当番スタッフ)
「介助者たちと街で生きる」
重度障害者が街で生きるとは介助者とのつきあいをぬきにできない。介助者も街の一部。されど介助者でないさまざまな人々のいる街。せめぎあう日々を語る。
すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ:
すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。
Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。
どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。
048-964-1819(世一緒)
2019.01.24
2018.12.19
(2017.11.23)
《ブログ》共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す
http://yellow-room.at.webry.info/201711/article_4.htm
▽NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が世一緒で今年度通しで開催している「すいごごカフェ」や生活クラブ他と連携の「うんとこしょ―共に活きる介護人養成講座」等の活動と、来年度立ち上げを予定している就労移行支援事業「世一緒」の関連について、2004年のNPO法人設立、翌年から10年間の越谷市障害者就労支援センターの運営受託の経緯と意味にさかのぼってのまとめを「分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの」と題して、ブログにアップしました。
[出所]山下浩志さんのfacebookより。
https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1460925790642723
(2018.06.07)
▽毎回、13:30~15:00
◇ご興味のある方はぜひどうぞ。なかなか聞けない話が多いですよ。
コーヒー 100円(カンパ制)
▽「ランチカフェどっこいしょ」[第3水曜日]は300円のカレーライス、13:30~のゲスト・トーク。
▽問い合わせは世一緒まで 048-964-1819(TEL・FAX)
shokuba@deluxe.ocn.ne.jp
〒344-0023
越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101
TEL.048-964-1819
FAX.048-964-1819