電話でのお問い合わせは048-964-1819
〒344-0023 越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101
ご用命は“NPO障害者の職場参加をすすめる会”へ。
◇長期不況で地域の困窮や孤立が深まっている現状に対し、雇用と福祉の狭間の身近な仕事おこしを目的に、福祉施設利用者や在宅の障害者の社会参加を兼ねて、本人たちによる定期的な事業所訪問や困窮者等をまじえたグループ・アルバイトを実施し、その経過をホームページやシンポジウム、コミュニティ・カフェ等で発信し、先進地の見学・交流も行って、共に働くすそ野拡大をする事業を推進。
◆すいごごカフェ 11/4~12/2 1時半のゲスト
11月4日(水) 吉原 満さん (社福つぐみ共生会理事長)
「自立支援協議会って?」
県や市町村にいつの間にかできた協議会―誰が、なぜ、なにを、どのように協議し、どんな役割を担っているのか?車いす当事者の視線から見えてきた風景は。
11月11日(水)井原木 奈美さん(べしみ非常勤職員)
「公務員は人生の墓場」
「なぜ」?今の世の中、景気に左右され倒産やリストラのおそれもある民間企業よりも公務員は安定した人生が約束されてるんでは?いえいえ、そうとはいえないんです。
11月18日(水)石井 樹章さん(くらしデザインスタジオ) 「こども体験から現在へ」
そういえば一緒に育ったあの子もこの子も、今だったら障害児や特別な支援が必要な子っていわれるんだろうな。子ども社会の記憶から現在の暮らし、職業へと人生の川下り。
18日は12:00から「Lunch Cafe どっこいしょ」でキッチンとまとのカレーがコーヒー付き
11月25日(水) 未 定 この日は千間台西イオン並びの就労移行支援「世一緒」で行います。
12月2日(水)大家 けい子さん(さいたまNPOセンター越谷支部) 「介護者サロンを続けて」 2000年の介護保険発足から間もなくして、県内の多くの市町村で住民参加で介護のありかたを考え合う活動が。介護する家族は、利用者本人は、従事者は、自治体はいま?12月9日(水)藤ヶ谷 理江さん(TOKOメンバー) 「共に学び育つ子ども達と」自業自得な気分」も味わうし、「汚れた下着は洗うぞ」とも。変な子は分けていいと教える学校で、郁美が編み出す自分流の学びが子ども達をほぐす
◆すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ
すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。
なお、8月は、イベントが多いため、上記の2回のみです。
人に歴史あり、街にドラマあり。 048-964-1819(世一緒)
◇(山下浩志のfacebook・ブログより)
◆2020年07月の“すいごごCafe”
2020.08.20
▽「なぜいまここにいるの」――[2020年07月08日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年08月20日]
●太田洋平さん(ケアシステムわら細工事務局職員)
◆2020年06月の“すいごごCafe”
2020.08.23
▽「人間として生きる―ピープルファースト」――[2020年06月24日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年06月22日]
●小田島栄一さん(ピープルファースト東久留米)
2020.07.15
▽「西陰さんの話したいこと」――[2020年06月17日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年07月15日]
●西陰勲さん(元めだかの会)
2020.07.08
▽わらじの会専従職員 草分けの証言――[2020年06月03日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年07月08日]
●澤則雄さん(映画製作者)
◆2020年05月の“すいごごCafe”
2020.07.01
▽「なにもしたくなかった」の地平から――[2020年05月27日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年06月22日]
●遠藤未祐さん(NPO法人かがし座非常勤職員)
2020.07.01
▽私が出会った死生の日常(上)――[2020年05月20日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年06月10日]
●澤則雄さん(映画製作者)
2020.07.01
▽私が出会った死生の日常(下)――[2020年05月20日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年06月10日]
●澤則雄さん(映画製作者)
2020.07.01
▽介護者の見つけ方――[2020年05月13日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年05月20日]
●野島久美子さん
◆2020年04月の“すいごごCafe”
2020.04.30
▽新型コロナを迎える社会―「かたきがなぜに慕わしい 」――[2020年04月15日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月19日]
●山下浩志(NPO障害者の職場参加をすすめる会事務局長)
)
2020.04.30
▽「在るのは無いものだけだ」ー大本営発表のかげの「蔓延」 いま ここで生き、考え合った〈新型コロナ中間まとめ・Ⅱ部:質疑応答〉――[2020年04月15日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月30日]
●山下浩志(NPO障害者の職場参加をすすめる会事務局長)
)
2020.04.30
▽わからなくなったー障害者大量殺傷事件裁判――[2020年04月08日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月29日]
●澤則雄さん――「製作者・生きるのに理由はいるの」
◆2020年03月の“すいごごCafe”
2020.04.30
▽長いひきこもりからの旅――[2020年03月25日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月28日]
●菊地よし子さん(生活ホームもんてん入居者、地域活動支援センターパタパタ通所者)
2020.04.30
▽自閉症ーいいこともあるよ――[2020年03月14日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月27日]
●幡本建祐さん(フラッシュバック研究者)
2020.04.30
▽他者との出会いー私の場合――[2020年03月11日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月25日]
●関根華子さん(すいごごカフェ・エディター)
2020.03.12
▽「新型コロナとのつきあい方」――[2020年03月04日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年03月05日]
●山下浩志(NPO障害者の職場参加をすすめる会事務局長)
)
(上をクリックするとfacrbookのページへ)
3月4日(水)世一緒でのすいごごカフェは、ゲストとして予定されていた駒井さんが、「コロナで外出を控えるよう政府が言っているので明日は行かない」と前日に電話をしてきたというので、急遽私がゲストになり「新型コロナとのつきあい方」と題してトークしました。話した章立ては以下です。
・今起こっていること
・新型コロナウィルスってなんのこと?
・新型コロナウィルス感染状況
・集団免疫が大事なのに
ここでは、最終章のところの画像をいくつか載せておきます。最終的な着地点は「集団免疫」ということには、日本政府やWHOも含めてみな異論はないところです。すなわち集団の多くの人が感染してみんなが免疫をもっているので発症したとしても軽くすむという状態です。かって大騒ぎになった新型インフルエンザもいまは季節性インフルエンザとしておとなしくなっているように。
ただそこにいたるプロセスをどう考えるかです。日本の対応は「全国一斉休校」に象徴されるように、感染しても発症しないか軽症ですむケースがほとんどの子どもたちが感染するのを遅らせようとしています。「クラスター」が問題視されているのも、元気な若者等がウィルスをばらまくことを止めようとしているわけです。
インフルエンザの場合もそうですが、解熱剤や抗ウィルス薬、さらにはワクチンを併用した方が軽くすむという発想を、国やWHOは基本としているので、新たなウィルスが登場するたびに、そのための調査・研究・開発を行っているのです。そのための時間がほしいということになります。しかし、解熱剤はウィルスに効かず重い脳症の原因になります。また抗ウィルス剤で症状をやや短くしてしまうと、本来体に備わっている「免疫反応の4戦力」が十分に発動しないままに終わってしまいます。ワクチンもそうですが、自然に感染して体内に作られた抗体は、外から人工的に作ったものより長持ちするといわれています。ワクチンにより重い障害を負った人々もいます。
にもかかわらず、新薬やワクチン開発競争にしのぎを削る製薬企業と医学・医療界、国、WHOの深い関係が、底に横たわっていると考えます。
ハイリスクの人々を感染から守ることを第一に考えれば、医療、介護等に従事する人々が、早いうちにしっかりした免疫を獲得し、元気で働けるようにすることこそ大事なはずです。それは子供たちも同じです。若い人、子どもたちには早く自然に感染して免疫を広めてもらうことが大事なのに、その反対のことを国がやっていて、逆に感染した人が危険視され、差別されている現状はおかしいと思います。
出稼ぎ労働者の貧困が問題とされている武漢や隔離された閉鎖環境のクルーズ船での病気の蔓延や死者の状況については、それぞれの個別具体的な要因に即して解明すべきで、地域社会に一般化して考えると、大きなまちがいに陥ります。
トークの後、橋本画伯の手話タイムを挟んで、各自の体験談などを語り合い、充実したときを過ごしました。
なお、すいごごカフェ、4月15日には連れ合いの水谷(耳鼻科開業医)が「新型コロナ中間まとめ」と題してトークします。
◆2020年02月の“すいごごCafe”
2020.04.30
▽戦うのをやめたら道がひらけたー人生の半分が統合失調症――[2020年02月26日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月25日]
●工藤幸一さん(くおーれの風代表)
2020.04.30
▽分けられ、追われた日々を経て、まちと出会う――[2020年02月19日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月23日]
●黒田正巳さん(世一緒スタッフ)
2020.04.30
▽わら細工専従ーその誕生秘話――[2020年02月12日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月23日]
●宮部幸絵さん
2020.04.20
▽生協活動と共生社会―もまれ、もみあいながら――[2020年02月05日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月08日]
●清水泰代さん[生活クラブ生協越谷くわい支部とわらじの会TOKO(みんな一緒に地域の保育所、学校、公立高校へ!東部地区懇談会)]
生活クラブと世一緒の出会い
私はせんげん台に住んでいて、生活クラブは越谷くわい支部で組合員として参加している。生活クラブというのは、50年くらい前に牛乳の共同購入から始まって、組合員全員で運営している。食が中心ではあるけど、環境、福祉と幅広く活動している。
それで、生活クラブを地域の有効な拠点にできないかと近隣団体と話してた時に、世一緒とも交流がスタートしたのが3年前。生活クラブの中で市民事業寄付制度というのがあって、去年も今年もそちらに世一緒がエントリーして、助成金でしらこばと笛、すいごごカフェの冊子作製の資金をゲットしてもらった。障害者と付き合ったことがない組合員さんと障害のある人達で何かできたらと、うんとこしょという活動も始まった。東越谷第二公園でお花見をしたのが最初。
市の障害福祉課と勉強会をしたり、みんなで参加できるイベントも企画して交流を深めてきた。2018年度からは毎月はやめて、お互いの活動に年1回参加していく形に。
育ち合いを阻まれて
私の次男には障害があって、今20歳。次男は1歳半くらいでも言葉が出てこず、3歳児検診で自閉症の傾向があると言われ、医者に行った。なんでうちの子がそうなっちゃったのってずっと泣いていた。ちょうどその頃、お兄ちゃんがあゆみ幼稚園に行っていたので、あるお母さんがわらじの会を紹介してくれて、飛び込んだ。それで、隠して育ててもしょうがない、泣いててもしょうがないと思って。
小学校は大袋北小で、普通学級に入れた。主任のベテランの先生には「こういう子は見たことないので責任は取れません。」と言われ、毎日ずっと隣席でついてる生活をした。息子は授業中内容がわからないからうろうろしていた。でも、朝から晩まで学校にいるので私も参ってきちゃって。プールの授業もうちの子はスイミングを習っているから溺れることはないから大丈夫と言ったけど、見てるだけじゃダメと言われた。唯一楽しく過ごせる授業なのにできないのはかわいそうだと思って、一緒にプールに入ったりもした。
2年生からは学区外の支援学級のある学校に転校した。支援員の先生から「ここにいても何も学ぶことはないと思います。」とか言われて耐えられなかった。指導方法もマンツーマンで教えられるようになり、普通学級にいる意味もなくなってしまったので。
結局そうやって分けて育っちゃうから、学校の先生や社会に出てから付き合う人も障害者を見たことがない。一緒に生活する中でわかることっていろいろある。私なりに生活クラブなどで、できることを投げかけているつもり。
もまれながら歩きだす
次男は去年の4月から、カフェにじさんぽで働いている。親として一段落だと思ってたら、遅れてきた反抗期に今、手を焼いている。親が言うのもあれだけど、息子は自閉症だけど周りを見ながらそつなくやってきた。だからなのか、今失敗が3つほど続くとパニックになってしまうそうで。うまく伝えられずに手を出すようになってまずいなと思っている今日この頃。
なんでこうなったかと考えたけど、支援のある学校に11年間浸かってきたことで大事に育てられてきて、学校の先生がすごくフォローしてくれてたんだなと。親が先回りして防いじゃってたから、本人も対処の方法もわからない状況。本当は自分で学んでいくことだったのに、社会にもまれていないということに気が付いた。職員さんには親御さんとも連携してやっていきましょうと嬉しい言葉をもらっているので、前に進めればいいなと思っている。
質疑応答
辻:清水さんは、息子さんが少年野球入ってたり、福祉の枠組みじゃないところで地域活動に出て、広がってるのがすごい。障害を持ってるから、意識してやってるのかどうか。
清水:自分から飛び込んだわけではない。巻き込まれてる感じだけど、せっかくだから本人を地域に出していこうっていう感じ。でもそういうのが今に至って、ありがたい。こんなに世界が広がるとは思わなかった。
◆2020年01月の“すいごごCafe”
2020.04.20
▽涙ながらのすいごごカフェ―うつの谷間で ――[2020年01月29日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月08日]
●野島久美子さん(埼玉障害者市民ネットワーク代表)
大坂:野島さんは今一番うつのところにいるんじゃないかなと。今日も頑張ってここに来ました。
[以下、大坂さんに助けられながらの野島さんの語り]
<ヘルパーの使い始め>
八潮に来た頃、お母さんが朝8~9時頃にカメラ店に行って、夜7時頃家に帰る。その間13時間くらい1人でいた。その間は1人で掃除洗濯、動物の世話をして、昼はお母さんが作ってくれた弁当を食べていた。当時は風呂くらいしか介助が必要じゃなくて、2年くらいずっとその流れだった。でも、散歩がしたいということで市役所に相談したら家庭奉仕員制度を使ったらどうかと言われ、週2回1回2時間手動車いすで散歩することに。当時資格はなくて、市役所が雇っている職員か、市役所の職員がやっていた。アドバイスをもらいながら暮らしていた。
<家出>
親に施設に入らないんだったら殺してやると言われて家出を決意。黄色い部屋で1カ月くらい過ごしたけど、日中は耳鼻科の前にあったプレハブのはばたく家準備会に行っていた。武里さんとか平野さんに時々手伝ってもらってやっていた。
<引っ越し>
引っ越しする前に生活保護を取った。後になって樋上君と偽装結婚して武里団地に入った。団地に入居してから介助は主に共栄短大じゃなくなって、埼玉県立大学の学生に頼んで入ってもらっている。
会場を交えてのトーク
大坂:先月泊りや風呂で関わった介助者は20~25人くらい。その中で、一昨年60歳になった時にわらじの会近辺にいる60歳の人、橋本克己さん、朝日先生、蕗崎さん、中山さんや、野島ガールズと言われていた歴代関わっていた人達を呼んで大還暦パーティーをやった。先月も鬱になりかけてたけど、1月生まれの人達との誕生会もやった。そういう人たちがずっとなんだんかんだ言いながら切れることなく、結構みんな来てくれている。
野島:若い頃は学生がいなかったから、おばさんとか民生委員とか手当たり次第頼んだ。何もわからなかったから頼めたんだよね。今は私も重い体になっちゃったし、相手も力もなくなってきてるし、おトイレ頼んでも大変だなって。
大坂:黄色い部屋から家作(かさく)に引っ越した時は近所のおばさんに雨戸明けを毎日やってもらってた。7,8時にガラガラって開けて、おはようって言ってそのまま帰ると。
野島:90年にケアシステムわら細工ができるまではみんなボランティアでやってくれていた。ドタキャンはあった。民生委員にも花瓶の花をこぼしちゃったのを、ふいて片づけてもらったり。
山下:わら細工の発足の前から新坂光子さん・幸子さん姉妹と野島さんが他人介護加算、特別障害者手当とか出して、共同で有料の介護も多少やってたんだよね。
樋上:結婚していないと武里団地に入りづらいということで偽装結婚をしたけど、厳密には結婚まではしていなくて、婚約という形で同棲しているっていうことにしたら団地に入れたということ。だけど、野島さんが結婚式までやりたいって言ったことで結婚式をやった時は、本田勲さんから「樋上、結婚式までやったらそれは結婚詐欺だ」と言われた。その後武里団地からは何も言ってこない? もう20年くらい婚約してるよね?
何も言われてない。
質疑応答
日吉:自分が介助者を育てていくんだっていうのをすごく感じられるんですけど、そういう気持ちになったのはいつ頃から?
野島:30歳くらいの頃。若い時はやる気があったし。
辻:若い子たちに、電話番号は必ず聞くんだよとかポイントとかアドバイスがあったら。
野島:趣味がなんなのか聞く。相手と一致したら電話番号を聞いて、出かけたりして。
日吉:見習おうと思っても、野島さん自体が持っているもの、性格だったり積み重ねてきたテクニック、私には真似したいけど真似できない。相手との距離感とか。
大坂:おばちゃん感覚というの。恥も外聞もなくって言うでしょ。気恥ずかしいとか。それを投げ捨ててるのか最初から持ってないのかわからないけど。ちんどんパレードでバニーをやったり、あそこまでできないっていうのを自然とやっている。
辻:介助の人とうまくいかなかったことも?
野島:自分が元気な時はいいんだけど、具合が悪い時はなんでこんなのがわからないのって言っちゃう。いちいち教えるのもめんどくさい。
山下:野島さんは介助者とマンツーマンで関係を持つだけじゃなくて、だいたい合宿とかバザーとかに誘ったり連れてきたりして、他の人もひっくるめた付き合いにしちゃうことで、野島さんの魅力が伝わっている感じがある。その人自体も野島さんに行くところで広がりができる。今まで関わった介助者数えたらすごいと思う。1000人くらいいるかも。
門間:私も家での生活がメインで、1対1だったり2対1だったりするけど、ざっくばらんに話せない。なかなかお互いに踏み込めないところが結構あるので野島さんはすごいと思う。20年くらい一緒に接してもまだ抵抗があるというか、そこまでいけない。
大坂:バニーにならないと。
2020.04.20
▽職業からひらかれた地域、家族、夢――[2020年01月22日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年04月08日]
●野口雅晶さん
働いて世界が拡がった
生まれは千葉県で、越谷で育ってきた。今24歳。生まれた時はアトピー性皮膚炎があり、気持ち悪がられていたみたい。それもあって幼稚園から中学までずっといじめが続き、中学校で不登校になった。春日部の松栄学園に通ってた時にこれじゃ就職できませんと言われたため障害者手帳を取った。その頃就労支援センターに行って相談して、高校を中退して大宮の職業訓練校に行くことになった。その後、世一緒と就労支援センターにも通いながら仕事を見つけた。今のクリナップハート(特例子会社)に入社して5年目。入社してからさらに自分の世界観が広がった。
職場はパン屋。仕事はクッキーを作る人と売る人、パンを作る人と売る人に分かれている。自分はクッキーを売る仕事をしている。月~金曜日、8時半~5時半の時間で働いている。仕事をやっていると1日があっという間。稼いだお金はだいたい自分の食費に。ストレスで買って食べることもある。あとは病院代。糖尿病のための薬代が4000円、診療代が4000円。皮膚科で1500円程度。本当は眼科も歯医者も行かないといけないけどなかなか行けていない。給料は交通手当が3万円くらいで、後は手取り12万くらい。野口家のルールで、食費とか自分でかかるお金は自分で払う形になっている。
地域のつながり、手話、スポーツ
今の会社に入ったら同僚に難聴の人が2人いて、手話を見ておもしろそうだと思って勉強を始めた。今は通訳者になるための手話通訳養成講習会に毎週土曜通っている。とりあえず入門基礎は終わった。今は伸び悩みがあって全然うまくいかず。越谷市の手話登録者は去年落ちて、今年も頑張っているがなかなか…。毎週木曜の手話サークル、よつば会にも参加している。講習会の帰りには、ろうの人と手話しながらお茶したりする。
趣味は卓球バレーというスポーツで、審判と選手を両方やる。ハイキングも好きだけど、まだ筑波山しか行ってない。暖かくなってからまた行こうかなと考えている。体を動かすことをメインにやるハッスル会にもたまに参加している。携帯ゲームもストレス発散になる。最近は作れていないが、料理もやる。お袋が元々家事が苦手だったので、自分で作って食べようという形になった。たそがれ世一緒に行くと、そこで料理のアドバイスをもらったり怒られたりしながら頑張っている。作る時は自分と妹とお袋の3人分。パソコン教室にも通っている。
家族、そして愛
家族は父と母と妹と僕。去年浦和レッズの試合を見に行っていて、帰りの車の中でお袋が警察につかまったと妹から連絡があった。逮捕とかされてもみんなあんまり気にしてない。言ってもきかないから。自分の記憶の中では家族4人で一緒に食事をしたことはない。今年の正月はお袋がいなかった。家族の決まりも特になくて、家族は実際母以外の3人て感じ。みんな自由に勝手にやってる。でも、父や祖母は困った時に相談に乗ってくれる。進路の時は父が学校まで来てくれたり相談に乗ってくれた。
夢に向かって頑張ろうかなと。今年もたぶん落ちるであろう、手話通訳者の合格が一番の目標かな。一人暮らししたら楽しそうだなっていうのはあるけど、やっぱり20万くらいは必要だと友達に聞いて今の給料じゃ無理だなと。おもしろそうだと思ったものはとりあえずチャレンジしてみようと常に思っている。
質疑応答
Q.職業訓練校というのはどういう感じ?
A.埼玉県立職業能力開発センターに行っていた。介護訓練科とサービス実務科があって、自分はサービス実務科でいろいろ学んだ。行ってなかったら今就職できていなかったと思う。朝来たら身だしなみチェックから始まって、事務系、介護、清掃、福祉などを学んだ。科目ごとに専門の先生に変わり、実技がほとんどで座学はない。大宮だったので遠かった。最初は緊張していたけど結構なじんだ。
2020.03.26
▽さびしさも道連れに 街で暮らし続ける――[2020年01月08日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年03月25日]
自然栽培と体の話
●さびしさも道連れに 街で暮らし続ける――藤崎稔さん(わらじの会代表)
出発点としてのスウェーデン
「こころがさびしくて」というタイトルにしたのは、今いろいろなことがあってさびしいから。
一人暮らしはいいなと思っていたけど、実際やってみると厳しかったなぁと。
地域の介助者を募り生活して間もなく30年。略歴を話すと、俺は1962年生まれ。
3歳の時に北療育園に入った。1979年に友達に誘われてわらじの会に参加。
1981年頃から山下さんにうるさく言われ、1982年に10日間位スウェーデンに行って、親が亡くなったらどうするか考え始めた。
障害を持っている人達が地域で暮らしているスウェーデンはすごくいいなと思い、そこが出発点になった。
家を出るまで
家族はお父さんとお母さんと妹と弟。
16歳の時に越谷に戻って家族と暮らすことになった。
弟と一緒の学校に行くと思っていたが、探してもいないから学校は広いんだと思った。
疑問に思いながら卒業した。1982年に、電動車椅子に乗りたくて県立リハビリセンターに入所した。
何カ月かして、これ以上は見込みがないと言われて戻ってきた。
20歳になるにあたってはばたく家、パタパタのメンバーになった。当時夢があって、結婚がしたかった。
一人暮らしも実現したかった。
自立生活の訓練をしている間に、27歳の頃、親と喧嘩して1000円だけ持って家出してオエヴィスに入所することに。
そして38歳の時に念願だった一人暮らしを実現した。
ぶつかって切り拓いてきた
ふく(介助者) :稔さんは自分でお弁当を買いたくて、街の店に通い続けたことがある。
この人は毎日お昼のお弁当を買いに来てるんじゃないかって1か月後やっと気づいてもらえた。
ドアを開けてくれないから、電動で突進してガラスを割ったことも。その店(中華)には藤崎稔メニューを作ってもらって食べる介助もしてもらったというエピソードがある。
車いすの人が一人で出かけることなんてない時代だった。
生活保護を取る時もカウンターにドーンとぶつかっていったし。
それしか稔君が怒ってるっていう直接的な方法がなかったんだろうなって。
みんなと住みたいから
菊子というのは昔好きだった人の名前。介助に来ていた、結婚したいと思える優しい人だった。
好きな人はいろいろいたけど、この菊子さんが一番好きだったなと。
あと、みんなといたいから一軒家を探している。1階は映画見たり休んだり話す場所。
2階は誠なんかが一緒に住む場所にしたいな。学生も一緒に住めればいいんだろうなと思っている。
吉田弘一さんにも話してシェアハウスということでやってみようかと、第二の人生をこれから考えていきたいなという話をした。
◆2019年12月の“すいごごCafe”
2020.03.12
▽土と空気で育てた野菜をからだへおくる――[2019年12月25日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年02月29日]
自然栽培と体の話
●松島篤志さん(自然栽培・農家)
プロフィール:
群馬県桐生市出身。大学は横浜。卒業後は、建築の設計を約20年。超高層ビルも手掛けた。そんな世界にいたが、勉強してゆく中で、しだいに健康オタクになっていった。そして、食の大切さを痛感したことから、農家に行き着いた。農業を始めて、3年たった。はじめ吉川の農家で修業し、独立して2年たつ。
せんげん台の就労移行支援「世一緒」では、松島さんの野菜を、店頭や葛西用水ウッドデッキで販売している。
自然栽培とは:
農薬を使わず、除草剤を使わず、肥料も使わず、地の力と野菜の力だけで栽培する。おいしいピュアな野菜ができる。収穫量は少なく、成長もゆっくり。人参など大きくならないが、味は濃い。
有機栽培の場合、有機肥料を用いる。JASが認定している農薬を使うこともあり、無農薬とは言いきれない。
いっぽう、一般の栽培法は「慣行栽培」と呼ばれ、化学肥料、農薬、除草剤を使って、作物を化学的に作っているといえる。土壌のことを気にしないでも野菜ができる。しかし、味は化学的で苦味がある。
これに比べて、有機栽培の野菜は、甘みが強く、くせが強い。さらに、自然栽培の野菜は、ピュアで、甘みは少ないが、香りがいいなどの特徴がある。
自然栽培の野菜は、抗酸化力が高いといわれる。ただ、オクラの成分分析をしたところ、抗酸化力はそう高くなかった。環境によりばらつきがあるようだ。また、硝酸イオンが少ない。硝酸イオンは作物を育てる上では大事だが、体内で発がん性物質等を作るといわれる。また、自然栽培の野菜は腐りが遅い。
収量が少なくとも体にいいものをと願って、自然栽培を行っている。
自然栽培の先覚者は、「奇跡のリンゴ」で知られる青森県弘前市の木村秋則さん。木村さんの作ったキュウリは腐ることなく,枯れてしぼんでいくという。
健康に暮らす5原則:
1. バランスのよい食事(無農薬の野菜中心に)
2. 運動(筋肉をつくる。がん細胞は熱に弱い。血流により細胞活性化)
3. 睡眠(寝ているときにホルモンバランスが整えられる)
4. 笑い(リラックス、免疫力)
5. ストレスへの対処(楽しむ、嫌なことは嫌と)
腸内環境をよくする食事を:
大腸内にはスプーン1杯に1兆個の微生物がおり、これはほぼ土と同じ。便は水分を除くとほぼ細菌で、食べ物の残りは2割弱。腸内にさまざまな細菌を住まわせて、いろいろな種類のものを分解できるようにしておくことが大事。3歳ぐらいまでの間に外でよく遊ぶことで微生物を取り込める。
私が考えるおいしい野菜の要素:
1. 旬であるもの 2.鮮度 3.栽培方法(こだわり、自然栽培) 4.愛情
自然栽培の具体的方法(自然農法とのちがい):
自然栽培では、土を耕し、状況に応じて除草もする。害虫の駆除は、木村さんは酢を使っている。自分はネットをかけたり、酢を使ったりしている。作物が健康を崩すと虫が付きやすい。弱いものを間引きし、種採りをしてゆくと、作物が丈夫になる。
いわゆる三大栄養素については、リン、カリは土にあるものを、窒素は空気からとる。いろんな物を作っていくことによって、土の中にある成分が地表に出てくるイメージ。
イネ科の植物を作って、それを刈って地上に落とす。その作物の残骸で土をよくしていくというやりかた。最初何百種類の作物をやってみて、その中でどれが育ちやすいか見極めてやってきた。育ちやすい作物からやることがコツかな。
2020.03.12
▽エミコングが行くー2番目の姉えみこと同行者たち ――[2019年12月18日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年02月28日]
●今井和美さん(一社・埼玉障害者自立生活協会事務局)
エミコングというのは
私は5人姉妹なんだけど、エミコングというのは2番目の姉のえみこのこと。今65歳くらい。姉は高校生の時にデモに参加して補導されたり、迫力のある人。義兄の日高さんもポリオで下肢に障害があって施設で暮らしていた。二人が結婚して、大分の宇佐という所で、古い農家を譲り受けて、車いすで生活できるように改造して暮らしている。
2016年2月に姉えみこが脳幹出血で倒れた。気管切開をしても寝たきりでしょうと言われ、私達が行ったときには集中治療室。義兄はがっくりしちゃって、鶏のピーコのえさやりができないとか、次から次と小さい事を心配していた。
とにかくそれを1こずつ消去していこうと、次の日朝一番に市役所に相談しに行って、松葉杖の見積りを取ってもらったり、2週間後にはヘルパーが入るように手配してもらった。夕方になって、日高さんがやっていける気がするってつぶやいたので嬉しく思った。
倒れて1週間後、えみこ本人はお金や畑や旦那さんのことを心配して聞いてくる。これは絶対復帰してくるなと思ったので、義兄とも相談して在宅だと決めた。
姉は姉で朝の5時になるとひろちゃんひろちゃん(旦那さんの名前)と大泣きして、行く度に私達が謝っていたんだけど、スタッフも協力的になってくれた。途中で障害を負った姉と元々障害者の日高さんとスタッフで、介護のやり方をどうするか、よく意見のすり合わせをしていた。
この人すごいなと思ったのは、えみこが「私はこれで生きていかなくちゃいけないから、みんなに足になってもらわないと困る」と周りにはっきり言っていたこと。
姉妹の遠距離介護スタート
退院して、全員手探りながら生活が始まった。私達姉妹は月に1回誰かが行くという生活をした。
キャラクターによって姉妹でもやることが違う。私はなるべくどう思ったかというのをわらじの会報に書いて、応援しているよと言う気持ちだけは伝えられるようにしたらいいかなと、役割として感じている。
2月で倒れて4年目なんだけど、月に3,4日、隔週で姉妹の誰かが必ずいるけど、私は距離をおいて半年に1回くらいで関わっている。
兄は外を2人で車いす2台で連なって行くことが全然平気。
えみこはやることがないと不安になっちゃっていろいろ言い始めるので疲れさせようというのがメインらしくて、7時半には散歩に行って、デイに行く時は9時から行って…と、1日に3回くらい外に出ている。
いいコンビだなと思った。周りの人ももう自然なので、なんともなしにすれ違ってて。
ぶつかり、ミス、それを楽しむエミコング
エミコングが倒れて、私は年の離れた姉達とぐっと距離が近くなったが、対立してしまうことも多くなった。
長女はえみこびいきだから「旦那さんが変わったらいいのよ」と言うが、私はそれが障害のある子を持っている親と同じに見えてきて、あんまり先回りしないでほしいといつも言っていて、ぶつかっている。
すぐ上の姉とぶつかったのはついこの間のこと。えみこは食べるのが大好きだけど胃ろうになってしまって、いらいらして旦那さんとぶつかる。でも、私達が悪者になれば平和だねって言ったら、私らはこんなにしょっちゅう来ているのに、悪者になるなんてやってられないわよ!って。
世話するのが大好きだったエミコングだから、世話されるばっかりというのが嫌なんだよね。来てくれる人がミスをするとすごく嬉しそうに後片づけをする。退院してきたらエネルギーがあふれすぎて、私の方が疲れちゃうくらい。
♪エミコングの歌
キングコングの歌詞をもじったのはたぶん日高さん。権力に対して戦おうというのがエミコング。そこらへんを歌詞にしたんだろうなと。
頭を雲の上に出しエミココングがやってくる
恐くなんかないんだよ エミココングは友達さ
病気や誤嚥や リハビリも エミコココングにゃ敵わない
闘えエミココング 僕らの王者
頭を雲の上に出しエミココングがやってくる
恐くなんかないんだよ エミココングは友達さ
役所や地主やお巡りも エミココングにゃ敵わない
闘えエンココング 僕らの王者
質疑応答
Q.最近の様子は?
A.ヘルパーに朝と夕方に来てもらって。昼はデイで、あとは兄がやってるのかな。
訪問看護が(月)~(金)で来るけど、土日はこない。胃ろうで肉芽ができて、それを毎日消毒しなきゃいけないんだけど。食事は旦那さんが食べさせていて。日高さんは胃ろうになっていろんなことが楽にはなったみたい。コーヒーを1さじとかたまにあげるとデイでしゃべっちゃって怒られたりする。
今少しずつゼリー状にしたものをやるようにしているけど、それが本当に嬉しいみたい。
野菜は相変わらず作っていて、自分は食べられないけど楽しそう。
2020.03.12
▽おれのことばらされていやだった。またしゃべりたい。 ――[2019年12月11日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年02月28日]
●小川 誠さん(地活パタパタ通所者)
「おれのことばらされていやだった。またしゃべりたい。」まこと日記作者・小川誠さんを囲んで 2019.12.11 すいごごカフェ
〈生活介護支援事業所「千草園」施設長の田中さんの話〉
私は以前、さいたま市にあった知的障害の児童の入所施設・岩槻学園に職員として働いていた。誠さんは小学校6年生くらいに入所してきた。1つ下の弟と一緒に入所してきたが、弟がやんちゃで、心配しながら、見守りながら生活していた。
第一印象は、人と関わっていても人を信用しないというか、慣れるまで時間がかかった覚えがある。兄弟が多かったからか面倒見がすごくよくて、小さい子たちの面倒をよく見てくれていた。特にダウン症の子がすごく好きで、いつも一緒に遊んでくれた。
逆に、同い年とか上の年の子とはうまくコミュニケーションが取れない。帰省した子がゲームなどを持って帰ってきたのがうらやましくて、それを投げたりした。
クリスマスに施設から子供一人一人にお金が出るのだが、誠さんはマウンテンバイクを買った。それが後々パタパタに通うのに為になった。
根は優しくて、人懐っこい。養護学校の先生にも愛されていた。夏休み中など、先生が会いに来てくれた。そのうち、小学生をまとめるリーダー的存在になっていた。30人くらいの子を職員1人で寝かさなくてはいけないが、いつもついてきて手伝ってくれた。
昔は冗談を言ったり、よく喋っていた。職員に食ってかかってくることもあったが、自分のことで怒るのではなく弟のことで怒ったり、人のことを気にする。岩槻では弟は本当にやんちゃですぐ脱走したり手に負えなくなってしまったので、他の施設に移った。それからは誠さんは施設でのびのびとなった。弟のことでは、誠さん自身は本人の中でいろいろあったと思う。
学校は春日部養護学校に行っていた。岩槻学園は、誠さんが中学部から高等部へ上がる頃に閉園になってしまった。その後、入所者の多くは県東部の別の施設に移ったが、そこに19,20くらいまではいたんだと思う。
10人きょうだいは知的障害の人が多い。お父さんお母さんも障害があったが、周りに誰も支援してくれる人がいないまま団地で2人生活をしていて、どんどん子供が増えた。兄弟の半分は入所している。何人か団地で一緒に住んでいたが、今は方々別の施設にいる。お父さんは誠さんが中1の時に亡くなった。お母さんと生活していたのは何人かで、あとはみんな施設に。
今はお母さんも亡くなったので、誠さんは自分で自立生活しながら通所している。時々ヘルパーさんが来ている。周りを気にしないで一人でほっとして生活できるようになったのがよかった。
〈地域活動支援センター職員・宍倉さんから聞く、まこと日記の話〉
パタパタに通うようになってから10年経つ。まこと日記のきっかけは、最初にPCを使いたいと言ったこと。それならまずひらがなを覚えないと、となった。最初は五十音表を見ながら好きなことを書いていいよと言ったら結構ちゃんと書けていた。
その後は自分の気持ちを書いてみて、書けるようになったらPCをと。最初は聞き書きだったけど、案外ブラックで(笑)もう3年くらい続いている。
せっかくだからとファイルにしていたら、山下さん水谷さんの目に留まって、2年程前から会報に載るようになった。最初は嫌々だったけど、ファンがいるらしいよと言ったら書いてくれている。
小さなところでこそっと書くのが好き。私が知らないことを教えてもらおうと思って、その時誰と一緒だったのかということをまず文字に書いて、絵を描いてもらうのは自分でやってもらっている。
最初はおっくうだったと思う。だんだんおもしろくなってきたみたい。始めた当時よりは言葉も出るように。だいたい何かしでかした時に日記を書く。前は月3枚だったけど今は月1枚。かなりみんな楽しみにしている。
小さなところでこそっと書くのが好き。私が知らないことを教えてもらおうと思って、その時誰と一緒だったのかということをまず文字に書いて、絵を描いてもらうのは自分でやってもらっている。
最初はおっくうだったと思う。だんだんおもしろくなってきたみたい。始めた当時よりは言葉も出るように。だいたい何かしでかした時に日記を書く。前は月3枚だったけど今は月1枚。かなりみんな楽しみにしている。
〈まこと日記の抜粋〉
・辻さんの真似をした。辻さんは似てると言っていた。
・パタパタに来たくなかった。完さんとけんかしたから。冗談で殴るふりをしたら完がこらっと怒った。なんでだよと思った。仲良くしたいだけなのに。
・草取りしたいから、来週の水曜から始まる。早くしたい。みきや、早く。
・草取りをしました。春から夏まで来て、8月はお休みで、山のてっぺんは見晴らしがいいです。次は9月から始まります。ぼくは草取り頑張ります。ぼくは草取りが好きです。
・ヘルパーさんを殴った。買い物に行って、俺はオレンジが買いたかったのに、だめと言われた。どうしても食べたかったのにダメと言われた。いらっとした。何も買わないで帰った。セブンイレブンで若林さんに来てもらった。その前にヘルパーさんを殴ってやった。その人が最初から好きじゃなかった。なのにだめと言われたから殴った。殴ったのは悪かったと思っている。
2020.01.26
▽「逝きて還る――わらじの会という地域を耕した人々のメモリー」――[2019年12月04日(水)の模様]。[作成日時 : 2020年01月23日]
●水谷淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
今日はわらじの会周辺で亡くなった人の話を短い時間でします。
順番に、新坂光子(てるこ)さん。2000年に妹の幸子さんが。私が障害者の人とつきあったスタートが光子さんと幸子さん。そしてきみ子さん(姉妹とは別の家)。
新坂姉妹は自分でかがんでずりずり動けたんだけど、検査入院を数ケ月してベッドで足を伸ばしっぱなしでいたので、退院後足が曲がらずかがめなくなったため、ずって動けなくなった。姉の光子さんは脊髄小脳変性症がどんどん進行して、褥瘡が毎晩ものすごい痛いと泣いたりして、手術したらということで最後は堀之内病院のICUに入り、みんなが交代で付き添った。
その後ずっと関わっていたのは原明子さん。明子さんと和久さん夫妻は、いずれも聾学校の教員。娘の有(みち)さん(右上の写真)は、常に体位交換や痰の吸引が必要な重度の障害をもって生まれた。重度だからこそ、自宅に近い幼稚園や小・中学校で、近所の子どもたちが一緒にいるところで育てようと考え、その通りにした。明子さんは乳がんでほとんどしゃべれなくなった。家族はいよいよダメだという時に救急車を呼んだ。そうしたら救急隊員が、明子さんの隣に横になっていた重度の娘さんの方を運ぼうとして、違うこっちだって教えた。いったん救急車に乗ったが、もう呼吸をしてないということで、主治医に連絡したら、もう1回家に戻してくれればそこで死亡診断書を書くからということで。最後まで自宅にいて、娘さんと一緒に寝ていた。
88年には橋本克己君のお父さん(上の写真右端)が亡くなった。白血病で独協に入院していた。山下さんが付き添っていたりした。
その翌年は新坂幸子さんという光子さんの妹さん(左上の写真右)。やっぱり脊髄小脳変性症が進行していた。そして、乳がんがあるとわかった。かなり大きくなっていたので治療をどうするかの話になったが、何もしないのが一番長生きするのではという判断になった。わらじの会で20人くらいで相談したら、みんなで頑張るかという話になって。訪問看護や社協のヘルパーにも加わってもらって、亡くなるまで1年2カ月、かなりの人がボランティアとして関わった。
自宅で寝ていたら、平野さんから電話があって、幸子さんが本家に帰ると言い張るので、あんちゃんが迎えに来たという。あんちゃんは救急車を呼ぼうとしていたが、今更病院に行っても医療的にはやることがないと説明したら納得してくれた。そして、オエヴィスから50mくらいの本家までの道を、みんなでふとんごとかついで歩いて行った。本家にしばらくいてからまたオエヴィスに戻って、それで看取った。1年半付き合ったので、その時は半分はほっとした。
その後は糸賀美賀子さん(右上の写真)が脳幹出血で亡くなった。千間台のアパートで倒れ、自分でSOSの電話をしてきて、119番にもかけていた。駆けつけると間もなく救急車が来て、かかりつけの市立病院に緊急搬送され、ICUに入院したが、そこで亡くなった。
2008年には山野内さん(左上の写真右)。亡くなる3年前からもんてんに入居していた。ビールを飲んで部屋に戻っていびきが変だという電話をもらって、行ったら息していなかった。独協に運ばれて、救命救急で調べたら心臓肥大がものすごくて。車いすに乗っているから苦しかったはずなんだけど、体を動かさないからあんまりわからなかったんだろうなと思う。
2010年に橋爪静佳さん(右上の写真)が39歳で亡くなった。卵巣がんで、腹水がたまっておなかが膨れていた。いくつか病院を当たったんだけど、知的障害が重いというので、どこも受け入れてくれない。それで住んでいたオエヴィスで往診を受けながら、最終的にそこで亡くなった。びっくりしたのは、痛み止めはあんまり使ってないんだけど、亡くなる10日くらい前まで動けていたこと。その間に、腹水がきれいになくなった。
新坂きみ子さん(左上の写真)は会った当時はものすごく喋ったりしていたんだけど、脊髄小脳変性症が進行して、喋れなくなってきて、食事もだんだんミキサー食になって、たんの吸引も必要になってきた。2013年頃、目も見えなくっていたが、耳だけ聴こえていた。悪口はわかった。活動で外出するのが大好きで、あっち行ったりこっち行ったりして、ずっと普通の生活をしていた。12月にふっと亡くなった。
その1カ月後に吉田昌弘さん(右上の写真)。脳幹出血かな。職場参加をすすめる会の事務局会議でここ(世一緒)に夜来て、その帰り越谷駅から自宅がある一ノ割駅まで電車に乗って降りたとき、既に電動車いすがふらふらしていて、駅員が心配してついて言ったら途中で倒れたということで、救急車で運ばれて入院後亡くなった。
その年の越谷の花火の時には新井豊さん(左上の写真左端)が亡くなった。新井さんは脳性麻痺で動きが激しいので、首から足とか痛みがすごくて食事もとれなくなって、本当に大変だった。独協に転院したが亡くなった。
2013年から2014年に新盆を迎えた人がものすごい多い。私も平野さんも年だから家で看取ることはなくなってきてるんだけど。家で看取るというのはかなり覚悟がいること。
野島:私はみんな懐かしいです。みんな思い出があって、幸ちゃんもきみちゃんも。(橋爪)しーちゃん(右上の写真)が亡くなる前に学生と鬼怒川温泉に行って来て、裸になってゆったりつきあって、何もわかんなかったの。それで鬼怒川から帰ってきて、お腹が腫れてると聞いて、それでおかしいと言って病院に行って。
きみ子さんは、谷崎さんと3泊4日行って来たんだよね。それできみちゃんが様子がおかしいというんでもう1泊増やして。私と中山さんは早く帰ってきて、なんとか無事にきみ子さん帰ってきたけど、あの時谷崎さん大変だったんだよね。(上の写真は新坂きみ子さん=右端=の住む生活ホームもんてんを訪れたヨーロッパのピープルファーストの人々)
谷崎:夜になると熱出すんだよね。その時便利なんだなと思ったのがゴム手袋。伸び縮みするやつに氷水を入れると手の形だからすごいフィットして。
水谷:変温動物だと思っていた。
山崎:昌弘さんは倒れた当日の事務局会議に来た時に、ミスタードーナツのお菓子を持ってきたら、誰かが珍しい、何か起こるんじゃないのと言っていたらほんとにそうなって。
野島:事務局会議に行く前にも越谷で倒れたんだって? それを、たまたま通りがかった県大卒業の学生さんが見つけて、助け起こしてくれて、それから事務局会議に行ったらしい。帰りは一ノ割でおトイレと言って、駅員さんが、蛇行運転だって気にして見ていたら、転んだらしくって。私もびっくりしたよ。私のほうが年上なのに、順番が違うじゃないかって思った。ショックだったよ。みんな思い出があるよ。オエヴィスの介助に入っていた共栄短大の学生たちは、新井さんが駅まで車で迎えに来てくれて、オエヴィスに送ってくれるのが楽しみだったって言っていた。糸賀さんとは私はよくケンカをしていたしね。さっちゃんもてるこさんもよく昆布を売っていてね。
山崎:以前、市民プールを作るということで、市として障害者団体に意見を聞きたいというので、こばと館を利用している障害者団体の会議で相談したら、野沢さんはわらじの会で出ますって言ったの。出てくれたんだけど、会議の中で、「どんなことを希望しますか」と訊かれたら、私はプールなんか入りたくないって言ったんだって(笑) 、野沢さんとは思い出がいろいろある。
内野:静佳さんは、私が知った頃には、挨拶すれば顔を下げる感じで。平野さんが、しーちゃんの頭の中にいろんなことが入ってると言っていたけど、そういうふうには思えなかった。お母さんがヨーロッパ旅行から帰ってくるって日、静佳さんはエンジンの音でわかって、喜んでるのがこちらにもわかった。しーちゃん1人置いてっちゃって悪いわね~って言っていたら、お母さんが帰ってきたら瞬間、しーちゃんがお母さんに怒っちゃって。しーちゃんをずっと置いてけぼりにしたのよって話しをしていて悪かったってお母さんに謝った。お母さんも静佳さんに謝って、そしたら収まった。
萱場:しーちゃんと野沢さんと貴美子さんと昌弘さんと山野内さんは介助にたまに入っていて。食事、入浴で。思い出がすごく深い。
内野:幸子さんと介助に入っていた前さんという人が東武動物公園に行った時の話。うちの真未も行きたいって言って。そしたら幸子さんがいいよって言ってくれて、連れていってくれた。お世話になってるんだなあという思いで、幸子さんのことは忘れない。幸子さんは私の家にも何度か寄ってくれた。(上の写真:向かって左前・幸子さん、左後・前さん、右・水谷さん)
山崎:糸賀さんが、駅で改札からホームまで階段を降ろしてくれる人を待っていた時、手伝ってもいいかなと思って言ったら、きっぱり断られたの。落っことされたら嫌だからって、女の人はダメだったみたい。そのきっぱりさが潔かったので印象に残っている。
樋上:糸賀さんが定期的に介助者探しをやっていたが、毎晩入ってくれそうな人に電話をかける。糸賀さんの下請けで樋上がかけることがあって、1回30円でやっていた。1年くらい毎月やっていて、一晩10人くらい。そのうち久しぶりに樋上君から介助を頼まれたけどしょうがないから今回やってあげるわというのも2,3人いてくれて。
水谷:この時代は、夜になるとみんな介助者探しをしていた。みんなえんえんと電話かけていた。
野島:先に先に決めていかないといけない。1年が早いよ。幸子さんの気持ちがよ~くわかるよ。
水谷:実家にいる時なんか私と平野さんは痛いと言われれば呼ばれて、体勢変えて家に戻るとすぐまた呼ばれて。おしっこだって呼ばれて。待っててっていうともらしちゃうぞって脅されて(笑)。まだ苦労は変わらないの?
野島:変わらない。
▽下記のブログへ。
(山下事務局長のブログへ)
(2017.11.23)
《ブログ》共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す
http://yellow-room.at.webry.info/201711/article_4.htm
▽NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が世一緒で今年度通しで開催している「すいごごカフェ」や生活クラブ他と連携の「うんとこしょ―共に活きる介護人養成講座」等の活動と、来年度立ち上げを予定している就労移行支援事業「世一緒」の関連について、2004年のNPO法人設立、翌年から10年間の越谷市障害者就労支援センターの運営受託の経緯と意味にさかのぼってのまとめを「分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの」と題して、ブログにアップしました。
[出所]山下浩志さんのfacebookより。
https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1460925790642723
(2018.06.07)
▽毎回、13:30~15:00
◇ご興味のある方はぜひどうぞ。なかなか聞けない話が多いですよ。
コーヒー 100円(カンパ制)
▽「ランチカフェどっこいしょ」[第3水曜日]は300円のカレーライス、13:30~のゲスト・トーク。
▽問い合わせは世一緒まで 048-964-1819(TEL・FAX)
shokuba@deluxe.ocn.ne.jp
◇第2期すいごごカフェ&ゲストトーク!
2019.10.06
すいごごカフェ9/25~11/6 1時半のゲスト
9月25日(水)白石 茂さん (GHテレサ入居者)
「いろいろあったなあ」
いつも白いYシャツ姿で礼儀正しく、就労B型にも精勤する模範的な精神障害者のイメージ。そこに至る道のりの険しさや憩いの日々をいまふりかえって。
10月2日(水)石井 隆司さん(車いすのとらさん)
「ホノルルマラソンへ」
足こぎ車いすと出会い人生が変わったと語るーポリオで登校拒否、虐待経験、そして自殺願望。20代で自営業・「笑うセールスマン」―苦悩が育んだ喜びの今
10月9日(水)畔柳 聖治さん(GHテレサ代表)
「精神科病院で働いて」
精神科病院のケースワーカーとして、鉄格子の時代から地域医療の時代までずっと働き続けた中で、わかったこと、わからないこととは。
10月16日(水)内野 かず子さん(職場参加をすすめる会)
「職場開拓のノウハウ」
いまはない県の職業開拓員として職場や関係機関を訪問調査し、越谷市の地域適応支援モデル事業では自ら開拓した職場が大半。その開拓のノウハウを探る。
※16日は12:00~キッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)を食べながらの「Lunch Cafe どっこいしょ」も開催
10月23日(水)松丸 和弘さん(まつぼっくりの会代表)
「生き方が変わった時」
「精神科医の一言で人生の価値観と生き方が変わった」と語る。すいごごカフェ常連。草加のNPO代表。そこに至るまでの「栄光」と挫折、葛藤の日々とは。
※23日はせんげん台の就労移行支援「世一緒」で開催
10月30日(水)小川 誠さん(地活パタパタ利用者)
「まこと的自立生活」
入所施設で大人になりわらじの会で地域の四方山と出会った小川さんに、世間の嵐が次々と押し寄せる。平和を求め戦う日々を「まこと日記」を手がかりに。
11月6日(水)澤 則雄さん(映画制作者)
「やまゆり園とすいごご」
TV番組を長年手がけ「津久井やまゆり園事件」と出会い、作った映画を持って全国各地で語り合うとともに、すいごごカフェの常連にもなっているのはなぜ?
すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ
すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。
Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。 048ー964ー1819(世一緒)
2019.01.24
2019.01.24
2018.12.20
すいごごカフェ12/19~1/301時半のゲスト
特に書いてないのはすべて越谷の世一緒で行います。
12月19日(水)12:00~Lunch Cafe どっこいしょ
13:30~すいごごカフェ
水谷 淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
「風邪って インフルって」
「インフルエンザは風邪じゃない」と国を挙げてPRされ、当然のようにワクチンが。でもそもそも風邪ってなに?ワクチンは必要なの?42年間の地域医療体験から。
26日(水)この日の会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用)
「都庁は俺が建てた」
先月のすいごご亀田さんの語りに誘われ、80~90年代の工事現場での労働を語り始めたので、急遽ゲストとしてお願いすることに。介護人としての働きぶりも。
1月9日(水)
野村 康晴さん(就労移行利用者)
「小売業界で働いたら」
中学までは近所の学校、特支学校高等部を経て、国リハ、通所授産へ。施設外授産の経験から小売業界へ。がんばり精魂尽きて初めて就労支援と出会う。そして…
16日(水)
迫田 ベルタ夫妻(アンデスの心)
「アンデスの心とは」
ペルーから働きに来日し、そこで出会って結婚。地域にさまざまなつながりをつくり、時々帰っては物産品を仕入れて、地域のお祭りに店を出す人気者の素顔
21日(月)…水曜ではありませんのでご注意を。会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
倉川 秀明さん(有機農業生産者)
「パプアニューギニア」
かってJICAから派遣されて住民たちと暮らしたあの地へ、先日再訪した報告を中心に。現在の有機農業生産者人生はアジアの農民たちとの出会いから始まった
30日(水)
樋上 秀さん(たそがれ世一緒管理人)
「暮らしやすい街って」
誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会の代表を務め、避難所一泊体験等にも取り組んできた樋上さんにとっての「くらしやすいまち」とは。
2019.07.24
すいごごカフェ7/31~9/3 1時半のゲスト
7月31日(水)荻野 好友さん(くらしセンターべしみ通所者)
「国境なき障害者とは」
聴覚障害で片まひー居場所探り衝突を繰り返し聾学校を転々した子ども時代を経て、さまざまな障害のある人ない人と出会いつながる現在のくらしを語る。
8月7日(水)
塚田 正行さん(世一緒に来始めた人)
「街の風に身を委ねて」
「失われた十年(二十年)」さまざまな職場を巡った後いつしか「ひきこもり」とみなされ、母の知人、相談機関を経て世一緒に漂着。旅路の風景と思索を語る。
19日 (月)
倉川 秀明さん(有機農業生産者)
;会場はせんげん台イオン並びの就労移行支援「世一緒」
「パプアニューギニア戦跡の旅」
奪われてゆく熱帯雨林を守る人々が住むパプアニューギニアは欧米列強と日本が支配をめぐり戦争した地。現地の高校生たちと5泊6日かけ戦跡を歩いた。
28日 (水)
山下 浩志さん(当会事務局長 )
「総合県交渉どこからどこへ」
翌日に迫る総合県交渉―「人は福祉と特殊教育によって生きるにあらず」を掲げ1978年スタート。大阪、兵庫等しか例のないこの交渉はどこから来てどこへ行く
9月3日 (水)
友野 由紀恵さん(世一緒金曜当番スタッフ)
「介助者たちと街で生きる」
重度障害者が街で生きるとは介助者とのつきあいをぬきにできない。介助者も街の一部。されど介助者でないさまざまな人々のいる街。せめぎあう日々を語る。
すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ:
すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。
Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。
どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。
048-964-1819(世一緒)
2019.01.24
2018.12.19
〒344-0023
越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101
TEL.048-964-1819
FAX.048-964-1819