現代労働組合論・賃金論、現代社会論、労働社会学、女性労働論。最近は、若者の非正規雇用、格差問題を重視。
「関生支部の闘いとユニオン運動」(木下武男:文、第1回〜第11回、関西生コン・連帯広報委員会) 第1回 武建一委員長と私の出会い 第2回 「業種別・職種別運動を大阪の地で展開」 第3回 「苦難の闘いで見えた真の『敵』」 第4回 「産業別統一闘争の合い言葉『他人の痛みはわが痛み』」 第5回 「暴力に屈しない−「嘆くな。組織せよ!」 第6回 「第一次高揚期」における組織の飛躍−「箱根の山を越えて」 第7回 「関東における生コン労働者の闘い−『関生型労働運動』を迎え入れる生コン労組」 第8回 「労働運動の歴史における関西地区生コン支部の位置−産業別労働組合の定着」 第9回 「関生支部への共産党の分裂・脱退攻撃−政党の労働組合への組織介入」 第10回 「政党による労働組合介入の思想−赤色労働組合主義」 第11回 「戦後労働運動における『82年問題』−共産党による関生分裂攻撃の意味」 |
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2020.08.03 ▽連帯広報委員会より 「関生支部の闘いとユニオン運動」 第1回 第1回 「武建一委員長と私の出会い」 武委員長と私の出会いから連載を始めることにしましょう。 武さんが逮捕される2018年の年始めのころでした。私は用事があって大阪の労働会館に行きました。隣の建物に関生支部の事務所があります。用事がすむと、武委員長が木下さんが来るんだったら話をしたいと言っているとのことでした。女子大学で教授をやっていた私と、関生の歴戦の武委員長とはどうみてもミスマッチであり、私は率直な話ができるのか、緊張しました。 だけど武委員長はフランクな方で、本当にうち解けて2時間半あまり延々と話ができました。 「本当の労働組合のあり方を」 それには深いわけがあったのです。それは関西生コン支部の出生の「秘密」でもあります。そして武さんと私は実践家と研究者と立場は違いますが、1970年代の労働運動の世界で、同じ空気を吸っていた、その時代とも関わります。 この二人の間に介在する人物がいました。法政大学社会学部の教授の中林賢二郎さんです。学者だったので武さんはあまり意識していなかったようですが、日本に一般労働組合(ジェネラル・ユニオン)を紹介し、根づかそうと大きな努力をされた方です。 中林さんは戦後直後、東京大学で学生運動を活発にやられたようで、その後、いろいろな問題を経て、結局はプラハの世界労連事務局の仕事をされました。世界労連は国際組織として戦後直後は一本化されていましたが、その後分裂し、国際自由労連ができました。重要なのは世界労連にはフランスのCGTや、イタリアのCGLといった共産党系のナショナル・センターが加盟していたことです。これらのナショナル・センターは産業別労働組合の全国組織の結集体であり、世界標準の「本当の労働組合」だったのです。明朗な性格の中林さんは、おそらく彼らと活発に議論をし、貪欲に経験を吸収したに違いありません。そして世界標準の労働組合論を身につけ帰国し、研究者となり、1971年に法政大学社会学部教授の職に就きました。私はその同じ年に、社会学部の大学院に入ったのです。指導教授は違っていましたが、中林ゼミの一員として労働組合論を学びました。当時、ゼミでは「レーニンの労働組合論」をテーマにしていました。私は『一歩前進、二歩後退』を担当させられ、明け方まで準備したことを覚えています。 少し脇道に入ったようですが、中林さんの関心事は、アカデミックな研究ではなく、プラハで獲得した「本当の労働組合」のあり方を日本にどのように移植するのか、そのことにあったのは当然でした。そこから当時、イギリス労働運動の左派の潮流の中心であった運輸一般労働組合(TGWU)の組織と機能を旺盛に紹介していくことになります。運輸一般は当時すでに100万人の巨大組合に成長していました。他の研究者と協力して翻訳もされました。また実践的にも労働組合と密接に関わっていたようです。 「関生支部の闘いとユニオン運動」(第2回) 2020年6月26日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/5120 第2回 「業種別・職種別運動を大阪の地で展開」 「関西生コン」運動の試練の時期 労働組合運動の場面でも新しいうねりが起きています。それは未組織労働者の組織化の戦後における第2の波と言っていいでしょう。 第1の波は合同労組運動です。1955年の総評第6回定期大会は未組織労働者の組織化の取り組みを本格的に提起しました。組織化の対象は、「全国単産のそそり立つ連峰の間の広く深い谷間に働く労働者−それは中小企業に働く労働者」(沼田稲次郎)とい表現されるように中小企業労働者でした。合同労組方式はその労働者を地域を基礎に企業を超えて個人加盟で組織するやり方でした。 しかし合同労組運動は、企業別組合の連合体である単産の体質には手を加えることなく、組織化の課題をナショナル・センターに預け、しかも組織化のためのオルグ集団に請け負わせる形になってしまいました。結局、1960年以降の民間大企業労組の右傾化と大幅賃上げの時代の到来とともに、企業横断的組織化運動は後退していきます。 そして第二の波。それが一般労働組合運動だったのです。1973年に建設一般、1978年に化学一般、同年に運輸一般がそれぞれ結成されました。ゼンセン同盟も繊維産業からスーパーマーケット業界へと進出し、この時期、一般組合方式の組織化に本格的に取り組み出します。 これら一般組合の特徴は、合同労組が地域の中小企業の労働者一般を基盤にしていたのに対して、産業・業種を明確にしていたことです。しかも大きな枠の産業ではなく、より狭い業種・職種ごとに業種部会をもうけていました。 運輸一般(全日本運輸一般労働組合)は「定期路線部会」や「地場トラック部会」、「清掃部会」、「セメント部会」など10の部会をつくっていました。 そして、この業種別部会の運動を、大阪の地で典型的に展開していたのが若き武建一だったのです。 「苦難の闘いで見えた真の『敵』」 1970年代初めの一般労働組合運動の最先頭に、武建一委員長が立ったのは、もちろんそれにふさわしい闘争経験があったからです。この連載はこれからしばらくは、関西生コン支部の苦しい試練の時期から大飛躍の時期、そして「1982年分裂」によってこれまでの関生運動が破局を迎えるまで、歴史的に振り返ることにします。 この1982年までの時期にこそ、産業別闘争を勝ち抜く「関西生コン」運動のすべてが凝縮されています。そしてその経験は「関生」だけでなく、日本の労働運動にとっても貴重な闘いでした。企業別組合が支配的な日本の労働運動のなかで、産業別組合を移植し。発展させる「勝利の方程式」、「勝ちパターン」を、関生支部は自らの苦難の闘いを経てつかみ取ったのです。このようにすれば日本でもできる、労働運動に示した意味は限りなく大きいと思います。産業別組合を定着させる勝ち筋の「定石」は4つありますが、それぞれ詳しく別途に説明します。ここでは歴史の中でふれていくことにします。 下に示したのは1982年の古い論文で、書いたのは武建一委員長です。掲載した雑誌「賃金と社会保障」の表題は「関西生コン労働組合運動の歴史と到達点」、副題は「業種別支部型労働組合運動が切り開いたもの」とあります。当時の生コン会館の写真も載っています。1982年8月上旬号ですので、まさしく共産党の排除・分裂攻撃直前の文献です。 (PDFで読めます) この論文の出だしで、「今年、40歳ですが、生コン関係に携わってから21年になります」と述べていますが、この「今年」の1982年こそが「21年」闘ってきた「関生」運動の最大の到達点でした。歴史を振り返るにはこの論文を一つの参考にするのがふさわしいと思います。 この1982年までの時期を論文では「7年間の停滞」と「その後の前進」の2つに分けています。1965年の関西生コン支部結成から1972年までの困難な時期と、その後、1973年春闘での集団交渉の実現まで躍進の時期です。 「関西生コン労働組合運動の歴史と到達点――業種別支部型労働組合運動が切り開いたもの」 (新しい労働組合運動の模索―2―他人の痛みはわが痛み) 武 建一、「賃金と社会保障」 847号、 p8―23、 1982年08月10日 本文はPDFへ。 「関生支部の闘いとユニオン運動」 (第3回) 2020年6月29日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/5134 第3回 「苦難の闘いで見えた真の『敵』」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第2回からのつづき 「生コン産業の構造とセメント資本」 「7年間の停滞」の時期は、武委員長をして「本当に勝てるかわからない」と思わせたぐらいの苦難の闘いの連続でした。一進一退の攻防です。しかしそのなかで、「関生」は@巨大な敵を認識したこと、A味方の陣営を、統一指導部をつくり、固めたこと、B背景資本を相手にした闘争を、C産業別統一闘争という形で追求したこと、これらをつかみ取った教訓は大きなものがありました。 生コン業界は戦後に生まれた産業です。また攪拌方式のミキサー車も開発されたのも1955年ですので、それを運転する「生コン労働者」という職種が登場するのもそれ以降のことです。その生コン運輸労働者は、入ったら抜けられない「たこ部屋」のような暴力的な労務管理のもとで昼夜なく働かされていました。それはセメント資本と生コン産業にとって輸送費の圧縮が利潤の源泉になっていたからです。 1960年、いくつかの労働組合が結集して「大阪生コン輸送労組共闘会議」(生コン共闘)を立ち上げました。ここで注目しなけらばならないのは共闘会議の参加組合や組織化した組合の特質です。小野田セメントの下請企業の「東海運」、日本セメントの生コン部門である大阪アサノ生コン、その下請企業の「関扇運輸」、大阪セメントの直系の生コン工場、その輸送部の企業「三生佃」という具合です。 つまりセメントメーカーの大資本があり、そのセメントの大きな需要先である生コン製造企業があり、その生コンを建設現場に運ぶ生コン運輸業者があるという構造ができていたのです。大手セメント資本−生コン製造企業−生コン運輸業者という一体的な業界構造が組合運動を規定することになります。 この業界構造のなかで、生まれて間もない生コン労組は、暴力的管理と過酷な労働を強いている当面の生コン業社に改善を求めました。それは目の前の「敵」だから当然のことでした。しかしこの産業構造のもとでは、それは串刺しのようにセメント大資本をも貫くことを意味したのです。だから中小企業を相手にしている運動であっても、背景にある大資本が強く抑圧する構造があったのだと思います。 その抑圧の攻撃は、生コン共闘会議の労働組合への「組合つぶし」と、また生コン車が大型車に変わる時期でもあり、「大量人員整理」としてなされました。その攻撃のなかで「幹部活動家」が多く辞めていきました。「頑張ってももう望みがない」。退職金の上乗せで「中堅といわれる幹部たちが辞めていきました」。こう述べる武委員長も、「勝てるかわからない」との苦悩を抱えていた時期でもあったのだと思います。 しかし、セメント大資本が真の「敵」だとの認識は関西生コン労組を鍛え上げていくことになります。生コン労組が出会った敵は、小兵のような中小企業ではなく、小さな企業の裏に控えている巨大な独占的大企業でした。強大な敵に遭遇してしまったのです。 ここのところが、さきに紹介した地域合同労組運動とは違っています。合同労組の基盤は、民間大企業の系列下請の企業というよりも、多くは地域の製造業やサービス業などの企業です。また民間大企業労組の運動をまねるわけにはいきません。 関西生コン労組は、民間大企業のなかで労使協調でいく民間大企業労組のやり方でもなく、また民間の中小企業を相手にする合同労組の方式でもない、異なった闘争戦略を立てなければなりませんでした。労働者の利益のために闘う限りは、産業別組合を目指さなければならない必然性がここにあったのです。 「関生支部の闘いとユニオン運動」 (第4回) 2020年7月2日rentai_kanri https://iwj.co.jp/wj/open/archives/476831 第4回 「産業別統一闘争の合い言葉『他人の痛みはわが痛み』」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第3回からのつづき 関西生コン支部は、セメント大資本が敵であることを自覚し、そこから産業別組合の方向で陣容を整えていきます。1973年の集団交渉が実現する以前、それは支部が産業別組合を確立する前段階でした。ここで、企業別組合の連合体から産業別組合へ向かう模索と試練の闘いがありました。また、この時期の運動と組織は、関西生コン支部だけではなく、日本の労働運動にとっても注目すべき時期でした。それは日本で産業別組合をどのようにして確立すればよいのか、その先陣の位置にあったからです。 「貴重な3つの教訓」 産業別組合へ向かう闘いで関西生コン支部が獲得した貴重な教訓は3つあると考えられます。組織と運動路線と精神です。 その第一は、産業別統一指導部です。この点は後に詳しくふれますが、個人加盟組織であることもさることながら、より重要なことは労働組合の権限を支部に集中したことです。 関西生コン支部の前身は1960年の「大阪生コン輸送労組共闘会議」(生コン共闘)でしたが、この組織は企業別労組の共闘組織だったのです。これを基礎に1965年に関西生コン支部が結成されました。支部はその結成当初から、交渉権、争議権、妥結権の権限を支部執行部に集中する組織体制を確立したのです。この時点ですでに、関西生コン支部が産業別組合であることの特質の一つを獲得したことになります。この体制がその後の産業別統一闘争の戦闘司令部の役割を果たすことになるのです。 支部部結成から1972年、1973年にかけて、支部が獲得した教訓の第二は、産業別統一闘争の運動路線でした。それは産業内の対企業闘争を徹底して闘い抜くという路線です。それは単産の争議支援とは少し違います。争議支援は個別の企業別組合の争議に単産に加盟する企業別組合が支援する方式です。この間の関西生コン支部運動は、個々の組合どうしの支援ではなく、産業内の一企業に対する産別組織あげての闘いなのです。 武建一委員長は当時、こう述べています。「職場では一人であっても労働組合の存在を認めなさいと、会社に求めていく。拒否すれば、一人であっても、それを支援するために全員の動員をかけて、その会社の抗議行動をしていく。組合員が一人もいない工場へも抗議、宣伝をする。そして、生産点を完全に止めてしまう。そういうことをずっと繰り返してきました」 これを産業別組合の運動に普遍化して表現すれば、産業別組合が規制する産業別労働条件の基準を破る企業、あるいは基準に加わらない企業、それらの企業に組合員がいようが、いまいが関わりない、ということです。その企業は、産業レベルでは闘争相手とみなさなければなりません。 この運動路線は、いわば産業別「動員主義」という方法で遂行されました。この「動員主義」は、のちに議論になるところであり、あとでふれますが、それは組織をあげて、直接的な抗議行動を集中的に展開することです。紛争があった工場に動員する、あるいは紛争と関係のない工場でも動員して生産をストップさせる。親会社のセメントメーカー工場に動員をかける。工場の泊まり込み闘争、工場再開阻止のためのプラント打ち壊しの阻止の闘いなど、動員に基づく集中的な行動がありました。 「動員主義」という言い方には、批判的なニュアンスがありますが、さきほどの産業内の個別紛争を組織の総力を挙げ、力を集中して闘う方法としては当然のことです。 このような産業別闘争によって、この時期、関西生コン支部は注目されるようになりました。武委員長は「『関西生コン支部のような運動をしたら強い、われわれはああいう方式を求めているのだ』と言われるようなものをつくる闘争でもありました」。「『暴力団よりも強いらしい』ということになったのも、この時期です」と述べています。 関西生コン支部が獲得した第三の教訓は、産業別連帯の闘争精神です。自分が雇われていない企業であっても、労働者が踏みにじられていたら、身体を張ってでも支援する。このなかで、関西生コン支部は、産業別統一闘争をたたかう戦闘部隊に成長していったのです。だからこそこの時期に、あの関西生コン支部の言葉が、合い言葉のように根づいていったのだと思います。それは「他人の痛みはわが痛み」です。自分の企業でないところで労働者が抑圧されていれば、それは他人事ではなく、「わが痛み」としてとらえ支援する。この産業別闘争の精神にふさわしい言葉でした。 この言葉は関西生コン支部がつくったのではなく、他でも使われていました。しかし、この言葉の真意は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」のような単なる相互扶助・博愛主義ではないように思います。「他人の痛みはわが痛み」との言葉の由来は、私はわかりませんが、それと関連している言葉は昔から欧米の労働運動にありました。 「産業別統一闘争と戦闘的な精神」 写真は、1889年のロンドンドックの大ストライキのあと次々に一般労働組合はつくられ、その一つの組合の組合旗です。左の方に書いてある言葉が「一人に対して傷つけることは、みんなに対して傷つけることだ」(An injury to one is an injury to all)です。そして右に「我々は闘う。そして死ぬだろう。しかし、決して屈服しない」(We will fight and may die.But we never surrender)と書いてあります。戦後のアメリカでも、労働運動の後退を描いた本がありますが、その題名は「すべてに対する攻撃」(An Injury to All)でした。 関西生コン支部が獲得した「一人の痛みはわが痛み」は欧米の戦闘的労働運動の合い言葉として通底しています。産業内の「一人の痛み」も、統一闘争で「わが痛み」として闘うという精神だと、とらえることができます。 集団交渉がまだ実現していない時期に、産業別統一闘争と、それを支える戦闘的な精神を関西生コン支部が獲得した意味は大きいと思います。 この力が次の段階を切り開いていったのです。 「関生支部の闘いとユニオン運動」 (第5回) 2020年7月20日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/5250 第5回 暴力に屈しない−「嘆くな。組織せよ!」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第4回からのつづき 組合結成から1970年代にかけて関生支部は、経営者による職場の暴力支配と暴力的攻撃に直面しました。生コン業界は新規の参入が容易なため暴力団が経営に乗りだしたり、また経営者が暴力団を頼ったりしているのが実態でした。職場では組合員への暴力や脅迫が耐えません。これらに支部は職場で一つひとつ反撃し、また組合員を動員し、大衆行動ではねのける行動を取りました。 1973年、大進運輸での組合員解雇に対する闘争が典型的な例でした。この大進闘争では、組合員動員による波状攻撃を四波にわたって工場にかけました。1974年の1月5日には200人の組合の部隊で工場に乗り込むと、大日本菊水会の右翼が襲いかかり、殴る、蹴るで14人が負傷しました。支部は親会社の大阪セメントに抗議、謝罪と解雇撤回を勝ち取りました。この闘争で、組合員を集中動員して波状的に抗議行動を展開するという、今日まで続く基本戦術を確立しました。 しかし、業界の暴力的な体質は改まりませんでした。それどころかいっそう凶暴になりました。 「暴力団による組合幹部の殺害」 1974年、全自運大阪合同支部の片岡運輸分会の植月一則副分会長が、暴力団によって刺殺されました。時期は後になりますが、1982年には支部高田建設分会・野村雅明書記長が拉致され、リンチにより殺害されました。 そして1979年、当時の関西生コン支部の武建一書記長の監禁・殺人未遂事件が起きたのです。山口組系暴力団入江組が、武書記長を一昼夜にわたって監禁し、昭和レミコン分会の解散などを要求し、殴る蹴るの暴力と「殺してやる」との脅迫を加えました。六甲山の山中に埋められる直前、実行犯のヤクザが同郷の徳之島出身と知り、解放され、一命を取り留めたのです。 「暴力には大衆行動で反撃する」 この弾圧と暴力的な攻撃を、支部の成長過程から捉える必要があります。支部結成からの困難な闘いと、1973年の集団交渉の実現、そして1982年までの飛躍、この過程のなかで、1970年代を通して、組織は前進を続けました。これに対して「なんとかして食い止めたい」という経営側の焦りが、暴力となって現れたのです。 支部がこの時期に、暴力に決して屈しないとの姿勢を確立したことはとても重要です。資本と賃労働の敵対的な関係で、資本は懐柔や脅し、労使協調の誘いをかけてくるのは当然のことです。闘わない弱い組合なら放っておくでしょう。しかし闘う組合に対して経営側に残された道は、組合を対等な関係として認め交渉していくか、あるいは暴力的に殲滅するか、この2つしかありません。後者の手段をとった経営者に屈してはならない、暴力にたじろいではならないのです。 しかもここで大切なのは、経営側の暴力に対して支部は大衆行動=「動員」で対抗したことです。暴力には暴力で反撃しない。しかし屈しない。そのため支部は総力をあげて組合員を結集し、抗議ずる戦術で対抗したのです。 当時、全自運大阪地本は、暴力攻撃に対して裁判所や労働委員会に依存する傾向にありましたが、それとは対照的です。暴力には大衆行動で反撃し、社会問題化し、世論を味方につけ、暴力企業を社会的に包囲する。この闘い方こそが必要だったのです。 組合員もその行動に参加し、体験する中で鍛え上げられていったと思います。また、前線に立つ幹部が、身体を張ってでも闘うとの姿勢を示したことは、支部統一指導部の信頼を高めたに違いありません。「暴力団よりも強いらしい」との噂は、実感をもって広がったのでしょう。 「経営者や権力との衝突は避けられない」 暴力に暴力では対抗しない。しかし決して屈しない。その姿勢がわかる写真を紹介しておきます。 昨年、関生支援の「東京の会」準備会でも紹介したIWW(世界産業労働組合−シカゴに本部を置く米国最初の産業労働者組合連合体)の写真ですが、もう少し接近したものです。州兵の銃剣が胸元に迫っています。労働者は微動だにしません。ただ腕組みをしたままで立ち続ける。それで勝利したのです。今もアメリカ労働運動の歴史に残る「腕組みをしたままのストライキ」です。子どもや女性を奴隷のようにこき使う繊維産業での争議です。そのために、多くのIWWの組合員が駆けつけたのです。 以上見てきたように、関生支部への弾圧は、支部の組織化の前進をなんとか押さえ込みたいとの意図からくるものでした。それは必然でもあります。産業別組合は、企業別組合と違って、産業別に労働条件を決めるので、その産業の労働者を組織し続けなければなりません。組織化が宿命づけられているのです。だから、この組織化が進めば進むほど、経営者や権力との衝突は避けられないともいえるのです。 「嘆くな、組織せよ!」 それは世界の戦闘的労働組合が乗り越えてきた闘いでもありました。これもアメリカ労働運動の歴史に残る話です。 IWWのオルガナイザーのジョー・ヒルはシンガー・ソングライターでもあり、日本でも「牧師と奴隷」など彼の作品はいまも歌われています。1914年1月、彼はユタ州で殺人事件の容疑で逮捕されました。そして、「でっち上げ」によって死刑が宣告されたのです。死刑執行の前夜、ジョーはIWWの指導者ビル・ヘイウッドに、アメリカ労働運動史上もっとも有名な文章を打電します。「さよなら、ビル。ぼくはきっすいの反逆者として死に臨む。ぼくの死を嘆いて時間を無駄にするな。組織せよ」。この「嘆くな、組織せよ!(ドント・モーン・オルガナイズ)」は、その後のアメリカ労働運動の標語になったのです。2016年、アメリカ大統領選挙でトランプが当選した時、ある労働運動誌の評論の小見出しが「嘆くな、組織せよ!」でした。 関生支部も暴力と弾圧をはねのけながら、「嘆くな、組織せよ!」の道を快進撃していくのです。 関生支部の闘いとユニオン運動・第6回 2020年9月2日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/5464 第6回 「第一次高揚期」における組織の飛躍−「箱根の山を越えて」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第5回からのつづき 「箱根の山を越えて」 関生支部は、経営側の暴力的攻撃や弾圧を、組合員参加による産業別統一闘争ではねのけて前進します。支部結成から1972年までの困難な時期を乗り越え、その後、1973年の集団交渉の実現から1982年まで支部は快進撃を続けます。この時期を「第一次高揚期」と呼べるでしょう。 この飛躍は組合員の増加から確認できます。組合史『風雲去来人馬』から当時の組合員数を拾ってつくったのが左図のグラフです。1979年の1135人から1982年の3288人まで急角度に組織が拡大しています。高揚期であることをはっきり見ることができます。この急上昇の曲線の先に、関生支部のみならず、日本の労働運動の新しい未来が見えるかのようです。 さて、そこで、組合員数の飛躍の意味を三つの面から見ておきましょう。 まず第一は、「面」の広がり、つまり大阪、兵庫を基盤にしていた関生支部がこの拡大期を通じて地域的に影響力を増したことです。京都、和歌山、奈良、滋賀そして福井へと広がっていきました。 その組織化は、組合員を一人ひとり増やしていくという方式ではなく、個別争議を闘い抜き、それを足がかりに広げていくやり方でした。すでに確立した基本戦術つまり大衆行動による産業別闘争にもとづいて、支部あげて争議に取り組みました。例えば、1976年の福井県でのある争議には、バス9台、450人の組合員を結集させました。その年の支部の組合員数が840名だったので、その凄まじさがわかります。 その戦術の基礎にあるのは、一人の組合員への人権への侵害も、一つの分会の団結権の破壊も決して許さない、産別組織あげて守り抜くという思想です。その姿勢に支部の権威は高まり、労働者は共鳴し、組織も広がっていったのだと思います。 第二は、組織拡大が他業種へと、いわば何本もの「線」の形で広がっていったことです。業種別ユニオンを「線」にたとえると、関生支部は多くの「線」を束ねる存在になっていきました。 1981年(2410名)には業種別には、@セメント・生コン(1393名)、Aバス・タクシー(252名)、BバラSS(186名)、C原発(183名)、D骨材・ダンプ(158名)、Eトラック・倉庫(91名)、Fポンプ・圧送(15名)などでした。さらに1年後の1982年には、骨材・ダンプが335名、圧送・ポンプが95名に飛躍的に伸びています。 このような業種別に分会が増え、組織が拡大していることは大きな意味を持っていました。当時、全自運は運輸一般に名称を変え、一般労働組合を目指しました。すでに紹介しましたが、業種別部会もつくられていました。ところがその部会の内実は、関生支部のような産業別闘争を展開する統一指導部をもつ段階には至っていなかったと見てよいでしょう。その段階で、関生支部が業種別に組織を広げていくことは、その業界に一つひとつ小さな産業別組合をつくっていくことに等しいのです。つまり関生支部が、業種別組織から、それらを包含する一般労働組合に成長する可能性があったということになります。関生支部はそれ自体が、一般組合の性格を持ちつつあったのです。 第三は、組織拡大が産業別闘争と政策闘争の質的強化をもたらしたことです。産業別闘争は、集団交渉の実現とその高い水準での妥結を求める運動であり、政策闘争は業界の構造を改革する運動です。この関生方式の根幹をなす運動は、集団的労使関係の形成いかんによります。つまり企業内の労使関係ではなく、それぞれの企業を業界に結集させ、集団交渉に参加し、その結果に従わせるようにしなければなりません。 この集団的労使関係の支える基盤こそが、個別企業における組織化なのです。「第一次高揚期」に大阪兵庫工業組合の半数に分会が確立しました。地区別に見ると北大阪82%、大阪と神戸、北神で50%を超えていました。この組織化が、常にブレる中小企業の経営者を、集団交渉に向かわせる力になったのです。 さて、いよいよ関生支部が「箱根の山」を越えるところに話を戻しましょう。そこでまず、神奈川県横浜の鶴菱(かくりょう)運輸の争議を紹介しなければなりません。それは、鶴菱運輸が三菱鉱業セメントの50%出資の生コン企業であり、そして、この争議のさいに「関生型運動に箱根の山を越えさせるな」と発言した大槻文平(当時、日経連会長)は、三菱鉱業セメントの会長だったからです。すでに小野田セメントは、1977年に東海運の争議で関生支部に屈服させられていました。つぎが「三菱」だったのです。大槻は「箱根の山」を越えたこの争議で手痛い打撃を受けたのです。 争議の詳細は延べませんが、支部は、東京での三菱本社への抗議行動への動員や、関東の生コンの未組織企業への集中オルグ団の派遣などを行いました。さらに関西では、三菱セメント関係の生コン企業の製品不買運動や、同セメントの出荷サービス・ステーション(SS)におけるピケットをはったストライキなどを敢行しました。この争議は運輸一般の「全国セメント生コン部会」による全国支援のもとで取り組まれ、そのなかで、関生支部の取り組みが全国から注目されました。次回お話ししますが、鶴菱闘争を契機にして、関生方式が「箱根の山」を越え、関東に広がり、やがて全国化する見通しが開けたのです。 関生支部の闘いとユニオン運動・第7回 2020年10月2日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/5653 第7回 「関東における生コン労働者の闘い−『関生型労働運動』を迎え入れる生コン労組」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第6回からのつづき 日経連会長の大槻文平(三菱鉱業セメント会長)は、「箱根の山を越えさせない」と、関生運動の防衛戦を「箱根の山」にしたのですが、それは突破されました。しかも、その関生型運動を迎え入れる関東の生コン労組も成長しつつあったのです。 「過酷な労働と関西生コン支部へ注目」 ここに、飯坂光雄『たたかいの記録−関東の生コン労働運動40年』(発行 全日本建設運輸労働組合、2004年)という冊子があります。彼は、東京で関生型運動に期待を寄せつづけた生コン労働者でした。 冊子には生コン労働者の過酷な労働を伝える貴重な体験もあります。1960年頃は、生コン車には「傾胴型とハイロ型」があって、ハイロ型は「湯飲み茶わん」のようで、急ブレーキをかけると後ろから運転席へ生コンが飛び跳ねてきて掃除をしなければならなかったとか、当時はミキサーのエンジンは車のエンジンとは別で、運転席の後ろについていたため、夏はうだるような暑さだったとか、辛い労働を紹介しています。生コン労働者であれば、会社の違いを超えて、同じ仕事を同じように過酷な環境で働かされていたことがわかります。 しかし労働組合は、関西と同じように最初は企業別組合でした。1963年に企業別組合があつまって関東生コン労働組合協議会結成され、1965年には3職場で24時間ストライキを実施しました。 『たたかいの記録』は東京の闘争であったこともあり、全国的な動きが紹介されています。 1963年、全自運の全国生コン共闘会議結成されます。この共闘会議を通じて「関西」の運動が注目され、全国的に影響をもつようになります。 1971年、1972年頃になると、武建一書記長から関西での経験をじかに知ることで、関生支部への注目が関東で高まってきます。これらのことは、関生支部が困難期を乗り越え、1973年からの躍進期に入ったその成果が、全国的に知れ渡りつつあったことを意味します。 また同時に、私にとって感慨深いのは、1976年に東京の生コン部会で「全自運は、イギリスの運輸一般型の業種別運動をモデルにした運動形態を、東京地本でも具体化すること」になったと書かれていることです。連載第1回でふれましたが、私が大学院の時の恩師・中林賢二郎先生が、イギリス運輸一般(TGWU)のような一般労働組合を日本に根づかせたいと願っていた、その想いが地本の末端にまで行き渡りつつあったことがわかります。つまり一般労働組合の理論と、関生運動のその実践とが結びつきながら広まっていたのです。 「生コン労組の業種別結集」 東京で関生型運動を積極的に受け入れる気運も高まっていましたが、関生支部も物心両面から総力を挙げて援助しました。 まず、「東京」は、統一指導部を確立するところから始めましたが、それは関生支部の経験からみてまったく正しいやり方でした。関東では、セメント系列の専属生コン会社の影響力が強く、また業者の協同組合も活発ではありませんでした。ですが、その状況を変えていく組織的保障は、産業別統一闘争を展開する強固な統一指導部です。そのためには共闘組織から部会へ、部会から支部へという組織改革が求められました。共闘組織は独立した企業別組合が集まっているに過ぎません。部会は、全自運の場合は個人加盟が原則でしたので企業ごとに分会をつくられますが、それをまとめる部会の上部はまだ統一指導部ではありません。 共闘組織からすでに「東京生コン部会」へと進んでいましたが、しかし東京の部会は「産業別統一闘争への取り組みが決定的に弱い」との反省がなされていました。そして「不退転の決意をもって関西生コンの指導と援助に依拠して闘う」と述べられています。 関生支部からオルグが東京に派遣されていましたが、1980年、その「工藤オルグの献身的な指導により、部会活動も徐々に軌道に」のり、「業種別の統一指導体制で要求を決め、戦術の行使が可能になる生コン支部を発足させる」方向を打ち出しました。まさしく関生支部をまねた東京生コン支部結成間近だったのです。それを確実にしたのが鶴菱(かくりょう)闘争でした。 「『箱根の山』を越えて主戦場に」 前回の連載で鶴菱争議は紹介しましたが、それは関生支部の歴史からのものでした。少しダブりますが、この争議における関生支部の活躍と貢献が、関東の生コン労組に与えた影響という面から紹介しておきましょう。 この争議はつぎの構造、〔セメント〕三菱鉱業セメント−〔生コン製造〕三菱生コン関東菱光−〔専属輸送〕鶴菱運輸、という系列のなかで闘われました。 系統末端の鶴菱運輸での組合員全員解雇から争議は起こりました。当然、生コン支部は上の「セメント」と「製造」を攻めました。 1976年、三菱セメントの丸の内本社や大槻会長の自宅への抗議行動を繰り返しました。そこに関生支部の大量動員による部隊が投入されたのです。警察官との対峙の場面では「東京の面々はオロオロしながら従った」という表現に、産業別闘争のやり方を「関西」が実力をもって「関東」に教えているさまがよく伝わります。 また、本社前での宣伝行動では大槻文平会長を「文平、文平」と呼んだことで、本人は「なんであんな野郎に呼び捨てにされるんだ」とムキになったという話しもあります。これが1982年の弾圧の引き金になったかどうかはわかりませんが、だいぶプライドが傷つけられたことは確かでしょう。 1980年の本社前行動には関西から150人が参加しています。さらに鶴菱の磯子工場には関西からの47人が駆けつけ、総勢100人で工場を封鎖しました。 まさしく鶴菱争議は、関生支部の実力を全国に知らせるうえで絶好の闘争になったのです。 関東ではその影響力は絶大でした。「関西での三菱セメント不買運動」や「出荷阻止」などに「啓発された関東の組合は」、「幹部が鍛え上げられ、生コン支部結成の気運」が高まり、そして1980年、東京生コン支部が結成されたのです。 このようにして関生支部と東京生コン支部が並び立ったこの到達点が、戦後労働運動にもたらした意義ははかり知れないものがありました。 関生支部の闘いとユニオン運動・第8回 http://rentai-union.net/archives/5992 第8回 「労働運動の歴史における関西地区生コン支部の位置−産業別労働組合の定着」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) 「生コン産業の全国的な産業別組合の確立前夜」 前回連載で、関生支部が「箱根の山」を越え、関東の主戦場に現れたことを述べましたが、それは支部の影響のいわば平面的な広がりでした。 ところが、さらに業種別部会の全国トップへの作用という形での影響もありました。1973年の集団交渉の実現にいたる支部の前進が、全国的にも注目され出したということです。1972年には関東の生コン労働者の交流集会に武建一書記長が呼ばれ、関西の労働条件が知られるようになりました。 さらに、運輸一般への移行に伴って、1977年に「全国セメント生コン部会」が確立します。情報交換組織から、「全国司令部」をもつ業種別部会へと発展したのです。「部会の合い言葉は、関西で確立した賃金・労働条件を全国へ」でした。そして部会の中央執行委員に武書記長を選出します。 部会の最初の指導は北海道での争議でしたが、全国での連帯スト体制を組み、勝利します。 鶴菱闘争も全国指導によるものでした。関生支部から東京へ専従オルグも派遣されます。こうして全国的な産業別労働組合が日本に登場しつつあったのです。 「日本労働運動における歴史的な意味」 産業別組合の日本における登場は、歴史的な意味をもっていました。今日、日本の労働組合といえば、ほとんどすべてが企業別労働組合です。ですが、はじめからそうだったのではありません。日本でも「本当の労働組合」をつくる試みはありました。資本主義のなかで確立した労働組合のその種を日本にもってきて蒔き、育てる努力がなされたのです。 1897(明治30)年、高野房太郎を中心にして「労働組合期成会」が設立されました。高野はアメリカ留学中に、職業別組合の全国組織・AFLのオルガナイザーの資格を得て、帰国したのです。労働組合期成会は、職業別組合を日本に移植する試みでした。 期成会の支援のもと、約5400人の機械工による鉄工組合や1000人の鉄道職種の日鉄矯正会、2000人を擁する活版工組合などが結成されました。しかし、この時期はすでに職業別組合の技術的基盤が崩れつつある局面でした。 また、1900年に治安警察法や1910年の大逆事件の影響もあり、職業別組合の形成運動は衰退します。 その後、1912年に設立された友愛会は、1919年に労働総同盟へと成長し、産業別労働組合への指向を明確にします。戦前記に日本で産業別組合を確立できるかの時期だったのです。 その頂点が、1921年の神戸における川崎造船所・三菱神戸造船所の争議でした。しかしこの大争議に労働側は敗北し、産業別組合を形成する運動は衰退しました。 戦後は産業別組合の組織形態を選択する機会はあったのですが、大勢は企業別組合の道を選んでしまいました。そのなかで産業別組合を確立する試みもあり、その典型的な運動は、日産・トヨタ・いすゞなどを擁する自動車産業の全自動車(全自)でした。産業別闘争を追求し、職種別熟練度別の賃金体系を掲げましたが、結局、1953年の日産争議に敗北し、全自も解散を余儀なくされました。 そして、1965年に確立した関西地区生コン支部は、1970年代の日本に、一般組合を形成する運動のなかで成長し、幾多の試練を経て今日、日本で数少ない産業別組合として存続し続けているのです。 この事実は、日本の労働運動の歴史を振り返るならば、「本当の労働組合」を確立する4回目の挑戦で、今度は勝利したことを意味します。 「排他的な労働組合を打破する産業別労働組合」 関生支部がどんなに小さくても、産業別組合を日本で存続させ続けているのは、一種の「灯台」のようなものなのです。 企業別組合は自分のところの従業員、正社員だけを組合員とします。組合運動は企業内でしか通じない賃上げです。 企業別組合の組織の排他的な性格は、時代は違いますが、職業別組合と同じです。職業別組合は、資本主義のもとで労働組合を確立した先進的な組合でしたが、組織は閉鎖的でした。徒弟制の下での親方の熟練労働者しか組合員になれませんでした。組合運動は親方たちだけの賃上げや仲間内での共済活動でした。 これを打破していったのが産業別組合です。イギリスでもアメリカでも産業別組合が閉鎖性を克服していったのです。 企業別組合は、組織の性格が職業別組合と同じように閉鎖的で保守的であるとするならば、逆に関西生コン支部は産業別組合であるがために、日本のなかで企業別組合を克服していく大きな役割を担っているのです。そのイメージは大げさに言うと掲げた図のようです。 図は、1905年に結成され、弾圧によって衰退したIWWのイメージで、100年以上も前のものです。職業別組合から産業別組合への転換の担い手としての自分たちの役割を誇示しています。一番下に「職業別組合主義」と「資本主義」と書かれ、そのなかで泥沼に沈む労働者たちがいます。そして上には「産業民主主義」と書かれ、産業別労働組合の「IWW」が導きの星のように描かれています。泥沼からはい上がり、IWWに向かう労働者たちです。指導者のような人物がもつ書物には「科学」と書かれ、「経済発展」の文字があります。これらに支えられ、産業別組合の道は必然であることを表しているのでしょう。 これを日本に当てはめ、「職業別組合主義」を「企業別労働組合主義」に置き換え、産業別組合を対置するのが日本の労働運動の再生の課題なのです。 関生支部をIWWに見立てるのはオーバーになりますが、これから産業別業種別に結集する労働者の塊がIWWのような「導きの星」になるのでしょう。日本の労働運動の歴史に登場した関生支部は、これからの労働運動を切り開く役割をも担っているのです。問題は生コン業界や、まして関西に限定させてはならない、孤立させてはならないということです。 関生支部の闘いとユニオン運動 第9回 2021年1月7日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/6131 第9回 「関生支部への共産党の分裂・脱退攻撃−政党の労働組合への組織介入」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第8回からのつづき これまで1965年の支部結成から1982年の「32項目」協定の実現まで、関生支部の疾風怒濤の闘いをみてきました。一般労働組合の形成運動のなかで成長した関生支部は、日本の労働運動を変える方向を指し示していました。ところが、この切り開いた到達点を突き崩したのが、1982年の権力弾圧と共産党の攻撃でした。 「弾圧の広がり」 弾圧直前、関東にも東京生コン支部ができ、全国的にも1977年には運輸一般の全国セメント生コン部会が確立し、全国指導部をもつ業種別部会がつくられました。こうした勢いは、生コン業界という狭い産業ですが、全国的な産業別労働組合が日本で登場する前夜が開かれたとみてよいでしょう。この関生型運動の広がりが経営側を震撼させたに違いありません。 ここで警察権力の弾圧が始まったのです。すでに1980年の秋から関西での弾圧が始まり、1982年までに延べ38名が逮捕されました。この弾圧が東京地区生コン支部にも及んだのです。 支部の横山生コン分会で、経営者の組合つぶしの不当労働行為が起き、争議になりました。解決のための団体交渉を、横山生コンが拒否してきたので、背景資本であった日立セメントに交渉を要求しました。結局、1982年2月23日に、日立セメントの間で和解協定(解決金1300万円)が成立し、争議は終わりました。ところが、11月26日になって、「恐喝罪」として支部の3名が逮捕されたのです。 日立セメントの社長は「金銭授受について事件にする気はなかったと証言している」(飯坂、2004)にもかかわらず、公安2課が被害届を提出させたのです。 この一件が、日本の労働運動の未来を揺るがす大事件へと広がることになります。警察は争議を指導していた東京生コン支部だけでなく、上部団体の運輸一般の中央本部にまで捜査の手を伸ばしました。支部役員の逮捕の同日、中央本部など都内15ヵ所にも家宅捜索がなされました。 「政党の労働組合への介入」 ところがここで、思いもかけない方向に事態は動くことになります。あろうことか日本共産党の関与です。1982年12月27日の共産党機関誌『赤旗』に、運輸一般本部の「声明」が掲載されました。その中央執行委員会の「声明」は、「権力弾圧」は「一部の下部組織の社会的一般的行為として認められない事態をとらえて」なされたというのです。要するに、運輸一般本部は、これまでの弾圧は不当であるとの態度を豹変させて、「下部組織」がやったことで、本部は関わりないとの態度を打ち出したことになります。 実は、それ以前に、共産党員である2人の常任中執が党本部に呼ばれ、荒堀広労働局長から「指導」されていたのでした。「声明」を出すことを強いられたのです。しかし、共産党の「指導」の方向では常任中執の議論はまとまらなかったのです。組合民主主義のルールを経ずに、党の「指導」によって強引に本部としての「声明」を出させたのです。 しかし、ことの本質は、共産党の機関紙が、運輸一般本部の「声明」を掲載したことにあります。関生の組合員を始め運輸一般の組合員は、『赤旗』掲載の「声明」で弾圧に対する本部方針を知りました。政党を通じて方針を知らされたのです。 突然の掲載は急ぐ必要があったからです。今回の争議解決に、本部は関わりないことを明らかにしたかったのですが、しかしすでに、本部に捜査が入っています。心配は本部の次の段階に捜査が及ぶことだったのです。 それが共産党です。政党は労働組合運動レベルの紛争に関わりないし、弾圧が及ぶはずはありません。しかし、その心配が生じる背景は、1983年8月25日の運輸一般中央執行委員会での当時の委員長の発言から察することができます。「政党が、大衆組織のなかで政党の方針を貫徹するためにインフォーマル組織をつくるのはあたりまえ」だというのです。インフォーマル組織とは労働組合内部の党員グループのことで、「フラクション」とも言います。 つまり、この発言は、運輸一般本部をフラクションを通じて裏で実質的に指導しているのは共産党であることを、自ら明らかにしてしまったのです。だから弾圧の手が共産党に及ぶかもしれない。それは組織防衛上から避けなければならない。だから「下部組織」がやったことにする。共産党の組織防衛のために労働組合へ組織的介入した、これが根本問題だったのです。 「産別組合を選んだ共産党員たち」 「それはうまくいくに決まっている」と共産党は考えていたと思います。なぜなら関生支部には絶大な共産党の勢力があったからです。当時、組合員3500名のうち共産党員が500名余り、『赤旗』読者にいたっては3000名です。そして支部執行委員の9割以上が共産党員と言われてきました。大きな勢力だったのは、関生組合員が多くの共産党員の献身的な組合活動を身近に見て、尊敬と信頼をおいていたからです。 共産党本部は、共産党勢力をフラクションを通じて操作すれば、簡単に支部指導部は交代させることができると考えたのでしょう。しかし、共産党員は一部を除いて、多くは支部指導部のもとで産業別闘争を闘い抜いた戦闘的な活動家でもありました。やむなく党から離れる道を選んだのです。「声明」から3ヵ月で党員は10%にまで減少しました。 経過の子細を示すことはしませんが、結局のところ、運輸一般本部と関生支部との対立は深まります。そして、支部の中で本部に追随する本部派がつくられ、支部執行部を握ろうとします。しかし、支部組合員の多数の支持は得られません。そこで本部派は支部からの離脱を選択しました。こうして関生支部は分裂したのです。権力の弾圧と、共産党・運輸一般本部の離脱・分裂攻撃によって、関生支部の組織は半減してしまいました。 この共産党の組織介入を過去の誤りとしてすますわけにはいきません。それは日本の労働運動の歴史を見る上でも、また将来の再生の展望を検討するためにも欠かせない理論的対立点であるからです。 関生支部の闘いとユニオン運動 第10回 2021年2月10日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/6336 第10回 「政党による労働組合介入の思想−赤色労働組合主義」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第9回からのつづき 関西生支部への共産党の分裂・脱退攻撃の本質は、政党による労働組合への組織的な介入にありました。もちろん労働組合のなかで政策や戦術をめぐっての意見の違いが生じるのは当然のことです。関生支部でも運動のやり方で意見の対立はありました。また組合内でグループができるのもあり得ることです。その対抗で執行部が変わることもあるでしょう。 しかし、労働組合の外部の政党が、党グループを通じて介入するのは、「労働組合の政党からの独立」の原則からあってはならないことです。しかし何故おきてしまったのでしょうか。それはとても根深いし、現代史の学術研究の対象にすべきほど重要だと思います。 「産別会議の自壊現象」 またやってしまった。関生問題で、敗戦直後の労働運動をいくらか知っている人はそう思ったかもしれません。この時期の労働運動が衰退したのは、1947年「2.1ゼネスト」への占領軍による中止命令、あるいは1950年「レッド・パージ」によるものと思われがちです。だが真相はその中間の時期にあります。特にゼネスト中止後の産別会議内部の混乱です。 この時期が革命的情勢だったかどうかはおきますが、変革主体は極めて脆弱だったことは確かです。戦前には産業別労働組合は確立できず、1920年代には大企業で労働者の企業別分断がなされ、戦中には産業報国会という企業別従業員組織ができていました。戦後の企業別組合はこの産業報国会の「裏返し」ともいわれています。 このような労働組合・労働者を産別会議は民主主義革命を目指し、政府打倒のゼネストへと駆り立てていったのです。突然のゼネスト中止で混乱が起きました。一般組合員の中から、共産党による組合の引き回しや、政治イデオロギーへの偏向などに対する批判が高まりました。それが多くの単産による産別会議の自己批判の要求へと動いていったのです。産別会議本部はそれに応えようと議論をしました。そして1947年5月18日に臨時執行委員会を開催し、「産別自己批判及び方針」を満場一致で決定したのです。このように、正式機関の審議と決定を経て臨時大会の準備がなされました。 ところが、臨時大会の前日、7月9日に共産党は、大会代議員の共産党員を代々木の本部に招集しました。そのフラクションの会議で、当時の共産党書記長・徳田球一が、産別会議の自己批判は「坊主ざんげ」であり、ブルジョア偏向で危険であるとして、自己批判を行わないことを指示し、会議で決定したのです。臨時大会では、共産党の代議員の力で執行委員会の自己批判は葬り去られました。 ここから産別会議の自壊現象が生じます。多くの単産が脱退していきました。 1948年2月に産別民主化同盟(民同)ができますが、この民同が成長するよりも、むしろ1950年に占領軍の後ろ盾のもとで結成された総評がその後の労働運動の主流の座にすわることになります。産別会議と産別民同の指導部はいくらかでも産業別組合の志向を持っていましたが、総評は企業別労働組合主義を克服する姿勢はありませんでした。 「赤色労働組合主義」 この労働組合への政党の組織介入を正当だとする考えが赤色労働組合主義です。一般の組合員にとっては身近ではないでしょうが、じつは日本の労働運動の裏面史を彩る装置なのです。岩波小辞典『労働運動 第二版』(1956年)では、赤色労働組合主義とは「労働組合の基本的目標を革命的階級闘争への労働者の組織化・訓練・動員による社会主義革命におくもの」とあります。つまり労働組合を革命の道具として政党が利用することです。これが「道具」論です。 そして、そのために労働組合の内部に党員グループ(フラクション)をつくります。政党がそのフラクションを通じて労働組合を指導します。二つをベルトでつないでいるので「伝導ベルト」論といいます。 さきほど「裏面史を彩る」と言いましたので、例をあげます。戦後直後、1946年に総同盟と産別会議を準備するそれぞれの者たちが、統一する方向で話し合われていました。ところが突如として共産党は産別会議の独自結成を決めます。つまり革命のための「道具論」が通用するためには、政党下請けのような全国組織が欲しかったのだと思います。同じようなことが1989年の全労連結成です。労使協調の労働戦線再編問題がおきた1980年代の初頭に、早々とナショナル・センターの独自結成を打ち出しました。それが結局は総評再建の道を不可能にしたのです。また、この共産党の1980年代初頭の動きと1982年の関生問題とは無関係ではありません。 さて、日本における赤色労働組合主義の歴史には謎があります。小辞典『労働運動』では「第一次大戦後の左翼労働組合の指導理念」であるとされ、しかし「労働者大衆から孤立する結果を生み、やがて人民戦線戦術運動のなかで共産主義の立場からも否定されるにいたった」とされています。 否定されたのは、1935年のことです。コミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採用されたことことによります。それによりフランスで労働戦線が統一しました。それは「二つの重要決定にもとづいてなされたものだ。すなわち一つは組合の政党からの独立であり、二つはフランクション活動の禁止であった」(『日本労働運動史 細谷松太著作集1』)。イタリアでも労働者の「統一」の立場から「必然的に要求」されるとして、「《伝導ベルト》理論は、決定的に一掃する必要がある」と強調されました(『労働者の統一』大月書店)。 それではなぜ日本で、亡霊が蘇ったのでしょうか。蘇ったのではないのです。共産党は1922年に結成されますが、民衆に根づくことなく、1925年の治安維持法の弾圧の対象になり、運動は消滅します。少数の者は獄中にて、そのコミンテルンの大転換は届かなかったのです。 産別会議の議長をつとめたことがある吉田資治は「統一戦線方式」を「受け皿の方が壊滅状態で、残っていたものが入れようとしたけれど、やられてしまったということです」「戦後労働組合に関係した人の頭はロゾフスキーの頭であったと思います」(「産別会議の結成と組織・指導」)と述べています。だから、戦後労働運動の多くを担うことになった共産党系の活動家にとって、歴史は再び1920年代から回り始めたのです。ここに日本の戦後労働運動の大きな混乱を生み出す歴史的背景がありました。 2021.09.15 関生支部の闘いとユニオン運動 第11回 2021年2月10日rentai_kanri http://rentai-union.net/archives/6613 第11回 「戦後労働運動における『82年問題』−共産党による関生分裂攻撃の意味」 木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) …第10回からのつづき 「戦後労働運動における1975年の『暗転』」 1982年の共産党の分裂・脱退攻撃を、今回は、戦後労働運動のなかで位置づけることにします。下の図は「半日以上の争議における労働損失日数」のグラフです。1975年に注目しなければなりません。1975年の決定的な転換局面で、労働組合運動の舞台を暗転させた力は何だったのか、この理解が戦後労働運動を見る上でとても重要です。 それ以前に労働側の危機があったのです。それは、民間大企業の労働者の企業主義的統合がなされ、それを土台にして労働組合が労使癒着の組合に転換していったということです。つまり、1960年代からつくりあげた企業主義的統合の仕組みが威力を発揮した。そう見るべきだと思います。1975年までのところで主体の側の危機が深層で醸成されていたのです。 ところが、そう捉えない潮流がありました。それが共産党です。情勢の把握を「戦後第2の反動攻勢」と想定しました。現在を戦後占領期の後半の「第1期に匹敵する大規模で系統的な反動攻勢」と見なしました。そして最大の問題は「これに対し、社会党・総評を含め革新を名乗ってきた勢力のなかで、反動攻勢に協力、追随、あるいは闘争を放棄する傾向は明らかである」と評価したことです(『労働年鑑』第52集)。 1975年以降、状況が変化したことは確かですが、そのためには統一戦線戦術を新しく練り直すことが求められていたのです。それを「統一」ではなく、「反動攻勢」に「協力、追随」し、闘争を放棄する勢力に打撃を与える。そして自らの勢力の「分離・純化」路線をとったのです。 「『分離・純化』路線」 当時の共産党は、ヨーロッパ共産党の民主集中制の放棄に反対して、民主集中制を擁護する論陣をはりました。このように、共産党の運動分野における「分離・純化」路線と、党内の規律・統制とがあいまって、1970年代後半から1985年まで共産党内外で大きな混乱が生じました。 1970年代後半、民主集中制をめぐって研究者の除名・離党問題が起こり、1980年代に入ると『民主文学』誌での小田実の文書掲載をめぐって多くの文学者が離党します。1984年には原水爆禁止運動なかでは原水禁との統一行動をめぐって原水協の幹部が除名、それに関連して著名な学者たちも離党します。私は、この「分離・純化」路線による運動団体の混乱と、多くの研究者と運動家が共産党から離れていく状況を、感慨をもって見ていました。 さて、労働運動分野でこそ「分離・純化」路線は顕著でした。「第2の反転攻勢論」とともに出てきたのが「総評右転落」論でした。労働戦線統一が労使癒着の労組幹部で進められるなかで「統一」の観点からの慎重な対抗が求められていました。ところが、共産党は「渡りに船」とばかりに1980年代初頭、早々と「階級的民主的ナショナル・センターの独自結成」の方針を打ち出したのです。 私事になりますが、私は当時、連載のはじめに紹介した中林賢二郎先生から執筆の要請を受けました。講座『日本の労働組合運動5』の一論文です。その打合せで先生の研究室に呼ばれました。1983年か1984年のことだと思います。研究室に後からこられた先生は、開口一番、「君、あれは左翼分裂主義だよ」と言われました。私は一瞬とまどっていましたが、それが共産党の「ナショナル・センターの独自結成」のことだとわかりました。それをめぐっては研究者・運動家の間でかなり激論があったようで、先生も興奮されていました。その先生も1986年に亡くなり、1989年に総評の再建の方向ではなく、共産党の願っていたように全労連の独自結成がなされました。 関生支部に対する共産党の「分裂・脱退」攻撃は、この「分離・純化」路線の一環として、そして共産党系列の独自組織の結成の動きの最中に生じたのです。 「後退局面における『反転攻勢』戦略」 私が執筆を要請された論文は「未組織労働者の組織化は戦略的課題」(1985年)でした。それは、労働運動の後退局面でどのように反転攻勢の戦略を探るのかという問題意識のものです。次の図式を考えました。〔〈民間中小企業労組+官公労部門労組〉→未組織労働者〕+〔大企業内少数派労働者〕vs〔全民労協系大企業労組〕 中小企業労組が官公部門労組と連携しながら、膨大な労働者を組織化する。そのことで民間大企業労組を包囲するとの戦略です。この論文の最後を、「企業主義的競争社会に打ち込まれたこの連帯の結合体とその増殖は、必ずやこの企業社会を破砕する力になるであろう」と結びました。 1982年に関生支部を攻撃した共産党には後退戦の意識など皆無でした。というよりも、「82年問題」は戦後労働運動に大きな打撃を与えたのです。@関生型産業別組合の発展の芽をつぶし、A企業別労働組合主義を労働運動に押しつけ、B一般組合方式による労働者の組織化を阻み、Cしたがって反転攻勢の契機を逃したこと、これらを引き起こしたのです。 だがやはり、関生支部は不滅でした。そして、日本の労働運動は関生支部に学びながら、「82年問題」を克服することによってのみ、再生することが可能です。残された力を集め、関生型の業種別ユニオンで労働者の組織化に全力を尽くすことです。そして潰え去った一般労働組合の形成運動を再興させ、それをもって反転攻勢のきっかけとすることです。 |
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3・11東日本大震災と福島原発事故。この列島に生きるわたしたちは、いま間違いなく歴史の転換点に立ち会っている。どのような道を選択するか、その主体 をつくりだすのはわたしたち自身だ。未曾有の危機がもたらした転換期にあって、歴史的選択を迫られているわたしたちの前に、関西生コンの労働者群像がいる ことの幸運を思う。 (「発刊にあたって」より) 発行:変革のアソシエ 発売:JRC 木下武男(昭和女子大学人間社会学部教授) 関西生コン労組のストライキが切り開いた地平 : 労働運動の現段階と業種別・職種別運動(特集 関西生コン闘争が切り拓く労働運動の新しい波)、木下 武男、変革のアソシエ(5)、8―17、2011―01 丸山茂樹(参加型システム研究所客員研究員) 本山美彦(大阪産業大学 学長) 田淵太一(同志社大学商学部教授) 武建一(連帯ユニオン関西地区生コン支部執行委員長) |
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木下武男の「主な労働問題・労働組合論」 (『格差社会にいどむユニオン――21世紀労働運動原論』 より 1990年、編集・執筆『労働問題実践シリーズ5 労働組合を創る』大月書店 1990年、編集・執筆『労働問題実践シリーズ6 組合運動の新展開』大月書店 1992年、「産業別全国組織の分裂・再編と民間『連合』への道のり」『違合時代》の労働運動−再編の道程と新展開』総合労働研究所 1992年、「対抗的ナショナ〜・センターの形成にともなう産業別全国組織の分裂と再編」、同前 1993年、「企業社会と労働組合」『労働運動と企業社会』大月書店 1994年、『企業社会の克服と労働運動』けんり春闘 1996年、「労働組合運動」、渡辺治編『現代日本社会論』労働旬報社 1997年、「女性運動」同前 1997年、「日本的労使関係の現段階と年功賃金」『講座現代日本3日本社会の再編と矛盾』、大月書店 1997年、「日本型福祉国家戦略と社会労働運動」『講座現代日本4日本社会の対抗と構想』、大月書店 1999年、『日本人の賃金』平凡社新書 2002年、「日本的雇用の転換と若者の大失業」『揺らぐ(学校から仕事へ)』青木書店 2003年、「グローバリゼーションと現代日本社会の地殻変動」『時代転換の諸断層』日本経済評論社 2003年、「働き方・暮らし方を変える、東京を変える」『どんな東京をつくるか』萌文社 2004年、「企業主義的統合と労働運動」『日本の時代史27高度成長と企業社会』吉川弘文館 2004年、「日本型雇用・年功賃金の解体過程」『日本の時代史28 岐路に立つ日本』吉川弘文館 2004年、「日本の男女賃金差別と同一価値労働同一賃金原則」(『ジェンダー白書2 女性と労働』明石書店 2005年、「ワーキング・プアの増大と『新しい労働運動』の提起」『ポリティーク10号』 2005年、「戦後労働運動の思想――企業別労働組合論をめぐって」『唯物論研究年誌』第10号、青木書店 |
木下武男の「主な労働問題・労働組合論」 (『格差社会にいどむユニオン――21世紀労働運動原論』 より 1990年、編集・執筆『労働問題実践シリーズ5 労働組合を創る』大月書店 1990年、編集・執筆『労働問題実践シリーズ6 組合運動の新展開』大月書店 1992年、「産業別全国組織の分裂・再編と民間『連合』への道のり」『違合時代》の労働運動−再編の道程と新展開』総合労働研究所 1992年、「対抗的ナショナ〜・センターの形成にともなう産業別全国組織の分裂と再編」、同前 1993年、「企業社会と労働組合」『労働運動と企業社会』大月書店 1994年、『企業社会の克服と労働運動』けんり春闘 1996年、「労働組合運動」、渡辺治編『現代日本社会論』労働旬報社 1997年、「女性運動」同前 1997年、「日本的労使関係の現段階と年功賃金」『講座現代日本3日本社会の再編と矛盾』、大月書店 1997年、「日本型福祉国家戦略と社会労働運動」『講座現代日本4日本社会の対抗と構想』、大月書店 1999年、『日本人の賃金』平凡社新書 2002年、「日本的雇用の転換と若者の大失業」『揺らぐ(学校から仕事へ)』青木書店 2003年、「グローバリゼーションと現代日本社会の地殻変動」『時代転換の諸断層』日本経済評論社 2003年、「働き方・暮らし方を変える、東京を変える」『どんな東京をつくるか』萌文社 2004年、「企業主義的統合と労働運動」『日本の時代史27高度成長と企業社会』吉川弘文館 2004年、「日本型雇用・年功賃金の解体過程」『日本の時代史28 岐路に立つ日本』吉川弘文館 2004年、「日本の男女賃金差別と同一価値労働同一賃金原則」(『ジェンダー白書2 女性と労働』明石書店 2005年、「ワーキング・プアの増大と『新しい労働運動』の提起」『ポリティーク10号』 2005年、「戦後労働運動の思想――企業別労働組合論をめぐって」『唯物論研究年誌』第10号、青木書店 |
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労働社会学者(元昭和女子大教授)。
1944年福岡県生まれ。10歳の時に東京に移り住む。1964年に東京理科大学工学部に入学、さらに法政大学社会学部を卒業し、75年法政大学大学院社会学専攻修士課程修了。その後、労働科学研究所嘱託研究員や法政大学などの大学非常勤講師をつとめる。
1999年に、鹿児島国際大学福祉社会学部教授、2003年に昭和女子大学人間社会学部教授に。大学の担当科目は労働社会学、現代社会論などを歴任、専門は日本型雇用や若者の貧困と過酷労働の分析、女性労働論、労働組合論など。
著書は『日本人の賃金』(平凡社新書、1999年)、『格差社会にいどむユニオン―21世紀労働運動原論』(花伝社、2007年)、『若者の逆襲』(旬報社、2012年)、共著は『なぜ富と貧困は広がるのか―格差社会を変えるチカラをつけよう』(旬報社、2008年)など多数。