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戦後社会運動史における北大イールズ闘争・白鳥事件および戦後学生運動史などを分析・研究。

2014年03月15日 UP

住宅・マンション・土地のご相談は手島繁一のページへ

ようこそ手島繁一のページへ

手島 繁一(てじま しげかず) 1966年北大入学。北大教育学部卒。大学「紛争」時の北大学連委員長。元全学連委員長。法政大学大原社会問題研究所研究員および法政大学社会学部講師・協同総合研究所研究員などを務めた。
北海道にユーターン後、北大イールズ闘争や白鳥事件の歴史的分析につとめ、戦後の社会運動における学生運動史などを新しい視点で解明。

information新着情報

2025年3月5日
❖協同総合研究所時代の執筆一覧:協同総合研究所常勤理事時代に書いてきたこと――1992年11月~
「大分のケアワークタクシーと地域おこしを訪ねる旅」――『協同の發見』2000年8月 第9号
ホームページの開発・GICR・ORG通信――2001年2月~(協同総合研究所のWEB開発
ヘルパー養成講座で新段階を切り開く静岡市民共済センター――『仕事の発見』(1998年9月号 NO.29、発行:日本労協連、編集:シーアンドシー出版)
2024年10月6日
【北大院生協議会史 大学院生の苦悩と成長の軌跡』を発刊しました。
編者 北大院生協議会史編集委員会 編集委員:佐々木忠、岡孝雄、小坂直人、佐久間亨、高田純、手島繁一、羽田貴史、平田文男、明神勲、山口博教。
(発行 花伝社、発売 共栄書房、2024年9月5日)
まえがき  手島繁一
目次 あとがき
  明神勲
2021年9月16日
「白鳥事件のページ」に増補:「白鳥事件」冤罪説を超える3冊の本――渡部 富哉、後藤篤志、大石進の尽力。
『白鳥事件 偽りの冤罪』(渡部富哉著、 同時代社、2012年12月28日)
『亡命者: 白鳥警部射殺事件の闇』(後藤篤志著、筑摩書房、2013年9月9日)
『私記 白鳥事件』(大石進著、日本評論社、2014年11月12日)
2021年4月29日 +6月10日
『北大1969―あのころ私たちが求めていたもの』――「ほっかい新報」3月7日号より。発行元:メディアデザイン事務所マツモト。
2021年1月15日
『北大1969――あのころ私たちが求めていたもの』、(2020年12月25日、「北大1969」編集委員会編、代表 手島 繁一、発行 メディアデザイン事務所マツモト)
はじめに  編集委員会を代表して 手島繁一
目次一覧
奥付 
2021年1月15日
「唯一、激論の根底にあったものとは 手島 繁一」、――『ひたすら生きて 佐方信一 ある日ある時』(2020年3月15日発行、編者 佐方三千枝)
2020年2月01日
手島さんの近影――[出所:神田健策さんのfacebook]より。
2020年1月03日
『皆でたたかった50年-全日自労三重県本部の歴史』全日自労三重県本部・協同総合研究所編、シーアンドシー出版、1996年。
2016年2月22日
あとがき:手島繁一、『蒼空に梢つらねて――イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に 北大の自由・自治の歴史を考える』
「北大5.16集会報告集」編集委員会
編集委員長・手島繁一、編集委員・大橋晃 河野民雄 國中拓 佐々木忠 白樫久 高岡健次郎 中野徹三 藤倉仁郎 森谷尚行
発行:白艪舎/発売:星雲社、2011年2月
2016年2月20日
占領期学生運動史に関するいくつかの論点――共産党へのヘゲモニーはいかにして失われたのか 元法政大学大原社会問題研究所 手島繁一、「労働運動研究復刊第29号」、2011年8月
2014年4月28日
戦後北海道の共産党 : 水落恒彦氏に聞く(2)(君羅久則 杉村泰教 髙井收名誉教授記念号) 今西 一、手島 繁一、手島 慶子、小樽商科大学人文研究 126、61―141、2013―12
樺太・共産党・アイヌ : 水落恒彦氏に聞く(1)、水落 恒彦、今西 一、手島 繁一、 手島 慶子、 小樽商科大学人文研究 124、1―54、2012―12 (profileのページ)
2014年4月28日
主な業績(profileのページ)など、国会図書館情報で更新。
2014年3月22日 +2021年8月22日
「白鳥事件のページ」:今西 一「白鳥事件とは何か」、大石 進「戦後政治裁判のなかの白鳥事件――個人的体験を中心として」、白鳥事件資料抄録、河野民雄「白鳥事件を考える札幌集会」などの「「白鳥事件を考える集い・報告」をUP (PDF版)
2014年3月15日
「北大イールズ闘争の研究」をUP――『蒼空に梢つらねて――イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に 北大の自由・自治の歴史を考える』
「北大5.16集会報告集」編集委員会
2014年3月15日
「戦後学生運動の歴史―その研究」をUP


▽2025.2.15

 ◆手島繫一さんの「偲ぶ会」などについて、以下のように開かれることが、五十嵐仁さん(法政大学名誉教授、法政大学大原社会問題研究所名誉所長)からメールをいただきました。
◇「偲ぶ会は6月1日17時から、札幌駅から8分、道庁西側、中村屋旅館で開くそうです」。

  詳細が分かる方は、
 sin_ryo11731アットnifty.com(訂正済み:アットを@に変えて)にメールをください。

  編集子:飯島信吾(2025年2月15日)




▽2024
.12.17

◆手島繁一氏死去
日付 2024/12/16 9:17:43
件名 手島氏死去

『北大院生協議会史』執筆者御一同様
『北大1969』・院協関係者御一同様

悲報をお伝えします。すでに編集委員、その他知己の方から御連絡が行っているかと思いますが手島繁一顧問が死去されました。本日の朝日新聞に死亡記事に載るそうです。






▽2025.03.05







●内容紹介●

◇ICA東京大会ベーク報告をどう受け止めるか――92年度第2回基本研究会(1992年11月28日、東京芸術劇場、「協同の発見」、1993.2、No.11)、手島繁一(法政大学講師)。
◇「協同」北海道集会の成功へ、準備進む――実行委員会、57団体・個人で発足(「協同の発見」、1993.3、No.12)、同上。
◇国労・北海道闘争団、労働者協同組合への本格的取り組みへ、「協同の発見」、1993.3、No.12、同上。
◇北海道協同集会、200人、60団体が参加、「協同の発見」、1993.7、No.16、同上。
◇第3分科会 新しい協同組合の企業形態・法制論、「協同の発見」、1993.8、No.17、同上。
◇協同総合研究所、1993年度の研究活動について、1993.9、No.18、手島繁一(協同総合研究所常任理事、法政大学講師)。
・「協同」のための北海道集会・特集にあたって、1993.10、No.19、同上。
◇産別労働組合運動のニューウエーブ――「労働組合運動」と「協同」部会、1993年9月・11月、明治大学、「協同の発見」、1993.12、No.21、同上。
◇特集にあたって――<特集 雇用不安と労働の未来 その1>、「協同の発見」、1994.2、No.23、同上。
◇日本における最近の稲作農業の実態と問題点・課題、「協同の発見」、1994.4、No.25、同上。
◇第4回会員総会・研究交流集会に向けて、「協同の発見」、1994.5、No.26、同上。
◇書評:『信州に上医あり 若月俊一と佐久病院』(南木佳士著、岩波新書)、「協同の発見」、1994.6、No.27、同上。
◇「神奈川ワーカーズ・コープ研究集会」をおえて、「協同の発見」、1994.8、No.28、同上。
◇つばさ流通の経営と事業――94年度第6回基本研究会。1994年7月15日、明治大学、「協同の発見」、1994.9、No.30、同上。
◇労働組合運動の新しいあり方を考える――協同集会、新しい働き方と職場・企業をつくりかえる。「協同の発見」、1994.11、No.32、同上。
◇「平岩リポート」を読む、基本研究会、1994年10月22日、明治大学、「協同の発見」、1994.12、No.33、同上。
◇書評:『現代日本の企業と社会 人権ルールの確立をめざして』(森岡孝一著、法律文化社、1994年2月、「協同の発見」、1995.1、No.34、同上。
◇全日自労三重県本部の歴史をまとめるにあたって、第21回「労働組合運動と『協同』」研究会、1995年9月22日、明治大学、「協同の発見」、1995.10、No.43、同上。
◇非営利協同センターの形成に向けて――第5回基本研究会。1996年2月10日、新宿消費者生活センター、「協同の発見」、1996.4、No.49、同上。
◇『皆でたたかった50年――全日自労三重県本部の歴史』の刊行に当たって、「協同の発見」、1996.6、No.51、同上。
◇「教育・労働と人間発達 若者たちの未来」(第8分科会)、「協同の発見」、1997.2、No.58、同上。
◇住環境と地域コミュニティの創造、第5回基本研究会。1997年3月29日、「協同の発見」、1997.4、No.60、同上。

◇▽以下未掲載

◆「協同の發見」、1997年11月 第67号
特集 黄柳野調査報告、特集にあたって、手島 繋一
◆「協同の發見、1998年3月 第71号
< 研究会通信 >、就業形態の多様化と労働組合の新 しい戦略、林 丘/手島 繋一
◆「協同の發見」、1998年5月 第73号
特集 農業が地域をつなぐ―第5回基本研究会の議論 から、手島 繋一
◆「協同の發見」、1998年8月 第76号
特集 研究集会報告(6.28)
<巻頭言>第18回 参議院選挙の結果に思う、手島 繋一
◆「協同の發見」、1998年11月 第79号
全労連・労働 総研主催 「第3回地域政策研究全国交流集会」に参加 して、手島 繋一
◆「協同の發見」、1998年12月 第80号
第2分科会 地域 経済の再生と協同のネットワーク
手島 繋一



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▽2025.03.05
◇『協同の發見』2000.8 No.99
大分のケアワークタクシーと地域おこしを訪ねる旅

手島繁一(協同総研常任理事/法政大学)

 協同総合研究所ではここ2年ほど、九州・山口地区の会員を主な対象にして「会員の集い」を開催してきたが、今年は全国の協同総研会員、そして協同組合運動に関心を持つ方々に呼びかけて「大分のケアワークタクシーと地域おこしを訪ねる旅」を企画した。以下はその報告である。

■プログラム

 今回の調査旅行のプログラムは以下の通りであった。

<7月15日>
13:00 日田駅前集合
13:30 ~ 15:00 日田ケアタクシーの聞き取り調査(新三隈タクシー TEL 0973-24-2808)
16:00 ~ 18:30 下郷農協の施設および鎌城地区の農家見学
19:00 夕食交流会 民宿「淵の上」 
    
<7月16日>
9:30 ~ 12:00 下郷農協の施設(牛乳工場、加工品工場)見学会および聞き取り
12:30 ~ 14:00  日田市皿山地区小鹿田焼見学
15:00 ~ 16:30  研究会
(1)「労協法制定に向けて」---手島繁一(協同総研)
(2)「福岡高齢協の1年」---蕗谷鷹司(福岡高齢協専務理事)

 調査の眼目は「労協法制定」問題を別にすれば、(1)ケアワークタクシー、(2)下郷農協、(3)福岡高齢者福祉生協の三つであった。このうち、下郷農協については、阿部誠さんが詳しい報告を書いているので、ここではケアワークタクシーおよび福岡高齢協についてのみ、報告する。

■ケアワークタクシーの試み

 大分で展開されているケアワークタクシーは、日田市のタクシー4社の共同事業として展開されている。4社とは、日田タクシー、イサゴタクシー、日田観光、新三隈タクシーである。事業の中心になったのは新三隈タクシーであり、ご存知、労働争議の中から立ち上がった労働組合による自主経営体である。新三隈タクシーは今年、開業26周年を迎えた。
 さて、新三隈タクシーがケアタクシーを事業として展開することに向けて検討を開始したのは、昨年11月の労使協議の席からであった。その後、労使それぞれの場で検討が加えられ、さらにヘルパー講座の実施、ヘルパー資格者との懇談会などの手順を経て、今年2月1日から正式スタートとなった。
 スタートに当たって労使が合意したのは、次の諸点であった。
(1)「ケア(介護)タクシー」の事業化を図る。事業は4社(日田タクシー、イサゴタクシー、日田観光、新三隈タクシー)の共同事業とする。そのサービスの内容は、移送に伴う介護や介助を中心とする。
(2)ヘルパー資格者による「ヘルパードライバー協議会」を設ける。各社でヘルパー責任者を専任する。
(3)事業化したことにより、そうしたお客さんに対して、通常予約の場合に失礼のないよう、各社と労働組合で教育・指導を徹底する。
(4)「ケア(介護)タクシー」は、特に外出に不自由をしている高齢者に外出の機会を作ることを通じて、元気になっていただきたいとの願いから出発する。
 実際にケアタクシーがどのように展開されているのかは、本誌5月号の高野修さんの報告に詳しい。参照されたい。
 今回の調査旅行では、新三隈、関、宇佐参宮の大分自交総連傘下の3タクシーの幹部、従業員の方との懇談の席が設けられたが、その席上問題になったのは、主として経営問題であった。
 日田などの比較的狭い地域では、お客との関係は日常的あるいは閉鎖的であり、介護という新しいサービスを改めて利用しようという層が少ないという問題である。さらに、介護保険制度が始まってみると、病院などの医療法人、老健施設などを運営する社会福祉法人、さらには自治体までもが、顧客を確保するために、移送サービスを直営化する傾向が強まっている、とのことである。介護保険制度が、介護サービス提供者の競争を促し、結果としてタクシーなどの従来の輸送サービス提供事業者が苦戦するという構造になっているのである。地元の公衆衛生関連の教育機関が、最近「日田市内におけるケアタクシーの現状」というレポートをまとめたが、それによると、日田における2,3月のケアタクシーの利用回数は7回にすぎなかったという。
 さて、この隘路をどう打開するか。
 先のレポートでは、「ケアタクシーの知名度を高めるために、宣伝媒体を工夫する」ことが提言されている。
 さらに、同じ大分県でも大分市をエリアとする「大分タクシー」の事例が注目されている。「大分タクシー」は、ヘルパー資格を取得した乗務員が有料で入浴の介護をするサービスを始めているが、このサービスに介護保険が適用された。同レポートではこうした事例との比較で、「日田のケアタクシーではタクシー業務(運搬)中心であり、運搬は保険外であるために介護保険適用は受けていない」と指摘している。
 高齢者が自由に移動できる権利を高齢者福祉に不可欠の権利として社会的に認めさせること、権利要求に基づく介護保険制度の改善・拡張を図ること、という社会的運動が必要なゆえんである。
 それとともに、自主経営の運輸サービス提供事業体が、サービスの領域や事業の領域を見直し、新たなサービスや事業へ挑戦することが期待されるところである。
 研究所としても「ケアワークドライバー研究会」の課題を拡延し、積極的な支援を工夫したい。

■福岡高齢協の挑戦

 福岡高齢者福祉生協は、95年10月、全国4番目の高齢者協同組合として設立された。99年4月12日に、福岡県から生活協同組合として認可され、現在の名称を名乗ることになったのである。
 高齢協としての設立から生協認可までの経由は、本誌第92号に武田正勝さんが書いておられるので、参照されたい。
 さて今回、蕗谷さんが報告したのは生協認可以後1年間の活動についてであった。詳細なレジュメが出されているので、いずれそれを元にした報告が掲載されることと思う。わたしが感じたことをメモ程度に記しておきたい。
 福岡高齢協が直面している課題は、日田のケアワークタクシーの場合とはヤヤ位相を異にしている。事業やサービスの展開や経営の問題ではなく、組織の整備課題である、というようにわたしは見た。
 経緯に複雑な問題がありそうなので、にわかに即断は出来ないが、法人としての性格と組織実体との乖離、高齢協県本部と各地域事業所との関係、高齢協と労協との関係、および一般に運動と経営との関係など、本来組織発足以前に検討整備しておくべき課題が解決されないまま組織が発足してしまったための諸問題があるようである。
 今年度になって福岡高齢協は以下のような意思統一を行っている(「2000年度機関・執行体制の確立と運営について」)。
(1)私たち福岡高齢者福祉生活協同組合は、法律的には「生活協同組合」ですが、実態的にはワーカー(仕事おこし・福祉労働者)の協同組合と生活者(とりわけ高齢者)の協同組合の結合・複合的協同組合として位置づけ、その立場から理念を掲げて実践します。
(2)協同組合としての組織の民主制と運動性、事業・経営の社会性と合理性を重視し、いずれか一面だけに偏ることのないよう留意します。
(3)法人として関連法(生協法、介護保険法、他)に従い、行政指導(模範定款他)と連合会の指導に留意します。
(4)略
(5)組織・事業の全県一組織としての一体性と各地域毎の自立を前提に全県と各地域事業所毎の意思決定機関と執行体制を確立します。
(6)三つの学習と認識の統一が必要です。
・社会運動としての協同組合(ワーカーズコープと生活協同組合)運動について(歴史、理論、法)
・高齢者問題と福祉運動・事業(考え方、法、事業)
・経営(損益計算書、貸借対照表)について
 こうした確認がどのように実践の実として結実するのか、多いに関心があるところではあるが、同時にまた、同種の問題が各地の高齢協で共通して存在していることも事実であろう。研究所の出番ではないだろうか。

■「旅」を終わって

 今回の調査旅行では、新三隈タクシー、関タクシー、宇佐参宮タクシー、下郷農協、福岡高齢協の皆さんに大変お世話になった。改めてお礼を申し上げたい。また、わざわざナガサキから参加していただいた吉田省三さん(長崎大助教授)、さらに今回の旅をコーディネートしていただいた阿部誠さん(大分大教授)には特別の感謝を捧げたい。ありがとうございました。今後もよろしく。
 実は今回の旅を準備して下さったのは協同組合ASKの松岡さんであったが、彼はその準備の途中で体調を崩して入院された。一刻も早い本復を祈ってます。







▽2025.03.05







●内容紹介●
◆インターネットを活用することで、研究所の活動はどうなったか(1)、ホームページとメーリングリストの現況と利用案内――『協同の發見』1999.11 No.91、編集後記
◆インターネットを活用することで、研究所の活動はどうなったか(2)、ホームページの効用と「大改装作戦」――『協同の發見』1999.12 No.92。
◆インターネットを活用することで、研究所の活動はどうなったか(3)、労協連専用サーバーの運用開始と「大改装作戦」の進展状況――協同の發見』2000.4 No.95
◆JICR.ORG通信――■ インターネットに関する二つの「白書」、『協同の發見』2000.7 No.98
◆JICR.ORG通信――協同の發見』2000.8 No.99
◆JICR.ORG通信――『協同の發見』2000.9 No.100


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◆JICR.ORG 通信――協同集会とインターネット、「協同の発見」、2001.2、No.104、同上。
◆JICR.ORG 通信――私的「Broadband」(ブロードバンド)体験記、「協同の発見」、2001.3、No.105、同上。
◆JICR.ORG 通信―― 「研究所たよりWEB 版」を新設、「協同の発見」、2001.5、No.107、同上。
◆JICR.ORG 通信―― 「L モード」が本格始動、「協同の発見」、2001.7、No.109、同上。




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▽2025.03.05
ヘルパー養成講座で新段階を切り開く静岡市民共済センター
手島 繁一(法政大学講師)
『仕事の発見』(1998年9月号 NO.29、発行:日本労協連、編集:シーアンドシー出版)
      

「市民共済静岡県協同センター」(市民共済センター)が、一九九七年一二月、日本労働者協同組合連合会に加盟した。労協連のこれまでの加盟組織とは一風変わっていて、二〇年におよぶ地域労働組合の活動の実績のなかから生まれた組織だという。
「総合的な労働者共済事業」を展開することを目的に発足した組織だが、労協連への加盟を契機に、高齢者生活協同組合づくりやヘルパー・ケアワーク事業への積極的な展開に乗り出すとともに、労働者協同組合の理念に沿った組織の自己変革に向けて奮闘中だとのことだ。さっそく訪ねてみることにした。

●木造体育館風の事務所

 静岡ユニオンの事務所はJR焼津駅から港の方向へ歩いて2、3分のところにある。労働組合の事務所にしてはやけによい立地条件にある。建物も優に百坪は超えると思われる巨大なもので、これまた労働組合らしくない。聞いてみて納得がいった。建物は以前は水産加工の工場で、ユニオン代表の清水金幸さんの実家が経営していたとのことであった。今は水産加工工場は廃業し、所有者の清水さんが建物を事務所として使用しているのだ。
 だから建物の内部は工場そのもの。やけに高い天井にはむき出しの梁や柱が縦横に走っている。木張りの床は多少ガタがきているのか、歩くとギシギシきしむ。そう、まるで昔懐かしい木造の学校体育館だ。おあつらえ向きに、卓球台まで置かれている。卓球台は作業台として使われていて、「気候変動フォーラム」が主催する講演会のための垂れ幕が制作途上の姿で載っかっていた。静岡ユニオンでは、NGO・NPOなどの市民団体の広報や印刷出版も行っているが、その仕事のひとつだということだった。ちなみに「気候変動フォーラム」は、九七年一二月の温暖化防止京都会議に向けて国内の二〇〇以上の関係市民団体が集まって結成されたNGO組織である。
 労働組合/木造体育館/NGO・NPO。何やら三題話めくが、実はこの三題話がこの組織を読み解く鍵なのである。

●全国金属の活動家として

 今回の取材に対応していただいたのはおもに、市民共済静岡県協同センターの専務理事の清水金幸さんであった。一九四四年生まれというから今年で五四歳、働き盛りである。地元焼津で生まれ育った生粋の焼津っ子。前述したように、今は組合事務所となっているこの水産加工工場の経営者の家に生まれたのであるから、それなりの地元の名士の道を歩もうと思えばできたわけだが、彼が選んで歩んできた道は労働組合一筋であった。
 清水さんは学校を卒業すると、隣町の島田市にある島田理化に就職した。島田理化は海軍の研究施設で殺人光線などの開発に携わってきた技師らが戦後起こした会社で、高周波や電波関係の研究開発メーカーであるが、他方労働組合の活動でも盛名を馳せていた。島田理化には当時全盛を誇っていた総評のなかでも最左翼の単産との評判があった全国金属(全金)の支部があった。清水さんは弱冠二四歳の若さで支部委員長に就任、さらに四年後には全金静岡地方本部の書記長を兼任する。
 志を立て、労働組合運動に専念する清水青年の前途は洋々かと思われたが、時代の大波が彼を翻弄する。時はまさに高度経済成長のさなかであり、日本経済をとりまく国際的環境も変化しつつあった。一九六四年には先進国クラブといわれるOECDへの加盟を果たし、六七年には資本自由化が実施された。資本の側にとっては、当時の言葉でいういわゆる国際競争力の強化が至上命題であった。三菱三重工の合併、日産・プリンスの合併、新日本製鐵の成立などの企業合併、再編がすすめられた。これと符丁をあわせるかのように労働戦線では機械、金属、造船、電機など基幹産業部門に成立したビッグビジネス・ユニオン(大企業労組、企業連)が旧来の単産の枠を超えた組織づくりにのり出し、官公労つまり公務員労働組合主導型の総評の意思決定や行動様式に挑戦を始めた。IMF・JCの成立である。この動きの大立者は新日鐵労組出身の宮田義二・鉄鋼労連委員長、日産自動車労組出身の塩路一郎・自動車労連委員長らビッグユニオンのリーダーであり、彼らは六〇年代前半アメリカに渡り、資本と協調的な労働組合運動や労使関係について短期間ではあるが学んできた同窓であった。
 資本からの独立を頑固に標榜し、非妥協的な闘いを展開するする全国金属は、資本の側からしても、またビッグビジネス・ユニオンの側からしても「目の上のたんこぶ」であった。かくして全国金属の解体・弱体化を狙った分裂攻撃とそれに反発する労働側との間に一大決戦が繰り広げられる。一九六〇年代中盤から後半にかけてのことであった。全国金属所属の最大・最強の労働組合であったプリンス自動車労組をめぐる争議がその攻防の頂点であった。清水青年書記長率いる全金静岡地本では河合楽器の争議が天王山であった。いずれの争議でも、資本の後押しを受けた第二組合が生まれ、結局はそれが多数派を掌握して、全金支部として闘い続ける第一組合は少数派に転ずる。清水さんの出身の島田理化はその中では貴重な例外であった。会社側が不当労働行為を認め、全金支部は多数派のまま維持されたのである。しかし、大勢は明らかに敗北であった。
 争議が長期化し深刻化するなかで、資本の側では会社を倒産させても組合を潰すという戦法も取られた。労働組合の側では和解条件として会社の資産を受け継ぎ、組合が主体となって会社経営を存続させるという新たな戦術で対抗した。いわゆる自主再建路線である。全国金属の場合、中小零細企業が組織構成のなかでは多数であったために、こうした路線を選択することも可能だったのである。
 だがこうした自主再建の企業の多くは株式会社あるいは有限会社の企業形態をとり、組合委員長が社長に、書記長が専務になって、もとと同じような労使関係が再生されるだけだった。
 全国金属の敗退と自主再建企業の挫折・・・。労働組合の活動家としていつしかベテランの域に達しつつあった清水さんは、蹉跌のなかで企業別組合の限界を痛感する。

●全金地域支部からゼネラルユニオンへ

 一九七九年、清水さんはこれまでの経験をもとに新しい労働者の組織づくに乗り出す。「企業内組合の地域支部では限界がある。会社から独立した労働者の個人加盟の地域支部をつくろう」と、全金地域支部をたちあげた。当時全金や総評のなかでも地域組織づくりの方針が検討されはじめてはいたが、清水さんらの動きはそれとは無関係だったという。「島田理化では組合攻撃も跳ね返して労働条件も守られてはいるが、地域の労働組合はどんどんなくなっている。ひとつの企業のなかだけで安穏としているだけでは世の中も変わんないなー」という思いがその原点であった。清水さんの行動の底には一貫して社会的正義感、働くものあるいは社会的弱者への暖かいまなざし、が流れている。この義侠心の篤さから、場所柄どうしても「海道一の親分」清水の次郎長を連想してしまうのは、わたしの思い過ごしか。
 それはさておき、地域支部は賃金差別、解雇問題などで一定の成果を上げた。地域支部の交渉・問題解決能力が認められるにつれて、組合員も増えていった。この時期、一人の有力なメンバーがユニオンに加わる。現在市民共済センターの理事・慶弔共済部長の重責を担う仁科敏夫さんだ。仁科さんは、地元の赤坂鉄工で臨時工として働いていたが解雇され、地域支部とともに七年間に渡る争議を闘ってきた。争議が和解するとともにユニオンの専従となり、現在は清水さんの良きパートナーだ。
 地域支部は現在は金属産業の枠を超えた組織となっており、組織名称から全金の冠をはずし、一九九五年には静岡ゼネラルユニオン(静岡一般労働組合)と改称し、法人登記も済ませて新たなスタートを切った。
 ユニオンのパンフレットによれば、ユニオンの特徴は以下の点にあるという。
①一人で入れる組合
②地域労働者・生活者の「かけ込み寺」
③地域横断的に団結し労働者、生活者も加入できる組合
④管理職、実態は労働者である事業主の参加できる組合
⑤外国人労働者の人権擁護と生活支援をする組合
⑥国際連帯のネットワークに参加する組合
⑦労働者供給事業の許可をうけた組合
⑧各種共済でひろく助け合いをすすめる組合
⑨社会運動や市民運動と連携・連帯する組合
⑩既存の企業内組合員の二重加盟を認めている組合
 ユニオンの主要事業である労働者供給事業は今のところ苦戦を強いられている。経営者側が労働組合ということで恐れをなして、人の受け入れに応じてくれないからだという。
 だが、労働条件に関する問題では団体交渉を拒否する企業はほとんどないという。長年の実績から、経営側にユニオンの実態がよく知られており、ユニオンの側も「旗もっていったり、コノヤローと言ったりすることはしない。ていねいに交渉するというより説得するから」と清水さんは言う。地域労働組合にとっては交渉能力や問題解決能力は決定的な意味を持っており、静岡ユニオンの事例は全国的にも注目に値する先進事例だと思う。
 静岡ユニオンが現在力を入れて取り組んでいるのは、外国人労働者問題だ。浜松ではブラジル人労働者だけで一万人、島田労基局管内では約三千人、焼津の場合水産加工業中心に約千人の外国人労働者がいる。その多くはいわゆる三K労働に従事しており、全くの無権利状態に置かれている。ユニオンはこうした労働条件の改善はもちろんビザの更新や住居の世話など生活問題にいたるまでひろく外国人労働者の待遇改善に取り組んでいる。こうした活動を通じて外国人労働者だけで三〇人ほどが組合員になっているということだ。ユニオンの一層の活躍が期待されるところだ。

●市民共済センターの挑戦

 市民共済センターは、九四年一二月に設立された。労働組合一二団体(金属、国労、紙パ、一般、その他単産)と九二個人が出資した。清水さんによれば、「従来の労働組合の建て前や慣習を乗り越え、『市民・生活者の組織』として社会に出ていくため、あえて名称に『労働者』の文言を使わなかった」とのこと。
 あれほど労働者、労働組合にこだわり、一筋の道を歩んできた清水さんにしてのこの決断である。彼のなかでなにかが大きく変わったのである。「企業別(内)組合は、労働者の人生の一部にのみ関わってい」るにすぎない。しかも、その守備範囲は「職場における賃金、一時金、労働時間、その他の職場の福祉や権利等」だ。
 従来の労働組合のあり方をこう批判的にとらえなおしたうえで、「労働者としての権利だけではなく生活者・市民としての全生活=人生のすべてにかかわる労働・社会運動構築と結合するなかで労働組合運動の『出直し的再建』の道が見えてくるのではないか」というのが、清水さんの新しく立てた戦略であった。
 市民共済センターは協同事業の手始めとして葬儀を取り上げた。人々の人生のすべてに関わろうとする市民共済センターが、まず人生の終末の儀式を取り扱うことになったのは、決して皮肉ではなく自然なことでもあった。「死」という人間の尊厳にとってもっとも重視すべき儀式を、「商品」として営利の対象としてはならない、共に生きあるいは闘った仲間たちの協同の事業として行いたい、行うべきだ、と考えるのは当然であろう。
 共済センターには、平安閣の労働組合委員長で争議で解雇されたメンバーもいた。葬祭関連事業に携わって二〇年のキャリアを誇るベテランである。
 しかし悲しいかな「武士の商法」。第一年度と二年度は、祭壇、トラック、倉庫などの設備投資に予想外の費用がかかったこともあって累計四〇〇万円を超える赤字を出してしまった。第三年度は約七〇件、一〇〇〇万円の事業高を計上し何とか一息ついた。第四年度である今年度は、約七〇件、一三〇〇万円を「売り上げ」、ようやく黒字に転化した。「あらゆる宗派の葬儀を経験し、自信になった。地域では好評でほぼ定着したかと思う」というのが現段階の自己評価だ。葬祭事業を通じてあらたに「二一世紀の葬送を考える会」や「安心ネット輝き」といった市民団体と出会ったのも大きな収穫であった。
 市民共済センターが行っている事業は、そのほか「印刷事業」、「ユーザー車検共済事業」、「組合行事関連事業」、「物資販売関係事業」、「市民住民運動関係事業」、「駐車場賃貸事業」がある。これらを合わせて今年度の総事業高は約一七〇〇万円であり、ほぼ予算通り達成することができた。
 事業体としての経営はようやく軌道に乗り始めた、というところか。他方、市民共済センターは将来的には協同組合をめざしている。「一人はみんなのために、そしてみんなは一人のために」、市民共済センターのパンフレットにもこの有名な言葉が組織のめざすものとして誇らかに記載されている。
 実は清水さんは協同組合についてはあまりいい印象を持っていなかった。「全労済の理事もやったことがあるし、生協ともお付き合いしているんですがねぇー・・・。どうも風通しが良くないんですよ」。
 清水さんの協同組合への印象が変わったのは、前身の中高年雇用福祉事業団時代からのものを含めて労働者協同組合連合会の出版物や新聞を読んでからであった。「働く市民が出資し、経営し、そして労働する」「社会的に必要とされ価値がある事業を創出する」「組合員が主人公となって民主主義的運営を徹底する」……。労働組合運動の臨界点で苦闘していた清水さんの心に、こうした呼びかけがなんとも言えない感動を引き起こした。「労働者協同組合でいこう」、こう思い立った彼はさっそく、当時事業団理事長であった中西五洲さんを三重に訪ねた。
 市民共済センターが労協連に加盟するに至った道筋はここにつけられたのだ。それにしても、労働者協同組合の放つオーラの凄いことよ! 出版を通じてオーラの伝道者となっている飯島編集長を改めて尊敬のまなざしで見たものでした。

●福祉生活協同組合への挑戦

 市民共済センターの今年度の重点事業は、「慶弔共済事業」と「福祉生協」設立の二つである。
「高齢社会対応事業の推進」は設立当初からの課題であったが、「理事の気持ちを合わせる」のに時間がかかってなかなか具体化しなかった。それが一挙に福祉生協の設立をめざすと急進展したのは、永戸・労協連理事長や小野寺・建設労協専務らの働きかけがきっかけであった。とりあえず、全国の経験に学んで、ヘルパー養成講座(三級)をやることになった。労協連の援助をうけて講座の内容を決め、講師の依頼を行い、県知事の指定を取り付け、記者会見をやった。とまあここまでは、馴れないことで苦労はあったとのことだが、まずは全国のお手本通り。
 ところがここからが凄いことになった。『中日新聞』東海本社版(浜松)一月一五日付朝刊の一面トップに、「働く高齢者の権利確保 協同組合、焼津に誕生」という見出しが踊ったのである。清水さんの長い労働運動の経験のなかでは、自分の関わった運動や組織が新聞の一面トップに載った経験はないという。
 事務所の電話がジャンジャン鳴り出した。問い合わせの電話が約二〇〇件。ヘルパー講座の申し込みが一三〇人。予定していた講座の定員は三〇人であったから、電話口ではひたすら平身低頭で断るのに大わらわであった。急きょ、五月開講の第二回講座を設けることになった。
 ヘルパー養成講座が開講してからも、カルチャー・ショックの波は市民共済センターを襲いつづけた。
「元気の良いお母さんたちがこんなにいるとは思わなかった」「みんな真剣に社会的活動に参加したいと思っている」「講師として話しをすると恐いくらいだ。まじめで私語がないから」「今まで経験したことがなかったので、びっくりした」
 清水さんも仁科さんもこもごも口を合わせてこう語る。
 二回合わせて一一〇人が養成講座を受講した。そのうち半数が二級講座の受講を希望している。市民共済センターではこれまた急きょ二級講座の開設を決めた。
 清水さんと市民共済センターはここでまた新しい出会いと経験を重ねたことになる。視野が広がり、なにかがまた変わっていくであろう。
「全員女性というのは初体験でした。振り返ってみれば、終われば一杯飲んでという世界だけだったからなぁー」とは、清水さんの思わずもらした述懐。すかさず飯島編集長が「これまで女性のエネルギーが足りなかったのよ!」と応じていたのは、漫談の世界ではなく、意外とことの本質をついた会話かもしれない。
 もう一つ、市民共済センターが福祉生協を設立し、本格的な高齢社会対応事業をすすめていこうとしたとき、行政との関係をどう考えるかについても、発想の転換と考え方の整理が求められている。行政の責任を容赦なく追及し、厳重に監視するといった行動様式は自家薬篭中のものであったが、「行政と対話し、協同するなんてことはやったことがないからなぁー」というのが清水さんの率直な戸惑いの表現。市民共済センターの設立にあたって、生活者・市民の立場に立つとしたその決意を行動として具体化するためには、この点も含めて挑戦すべき課題は数多い。
 
 木造体育館風の事務所を後にするにあたって、そこで遊びまくった少年時代の記憶がよみがえってきた。今の立派な体育館とは違って、何の規制も管理もなく、いつでもどんな遊びでも許された。規制や管理がなくても、少年や少女たちにはルールがあった。でもそのルールはプレイヤーが必要に応じてつくったものだった。
 こんな寓話を清水さんと静岡ユニオン、市民共済センターへのエールとしたい。






▽2024.10.06
 





●内容紹介●

●「高等教育の拡大・多様化」の初期に、大学院生は何に悩み、どう手
を取り合ってきたのか

戦後の高等教育の民主化の一環としての「新制大学院制度」のもとで、
生活・研究条件の改善、研究の自主的、創造的発展を求め、院生協議会
を組織し、大学当局・部局と粘り強い交渉を重ねた運動の軌跡を辿る。

大学院制度の未来を見据えて編まれた重な本邦初の院協運動史、
ついに刊行


●目次●
目次
執筆者一覧
まえがき
第Ⅰ部 北大院史(通史)
第Ⅱ部 各研究科と個別分野における北大院協の活動
第Ⅲ部 北大院協と私(個人回想録)
第Ⅳ部 資料・年表・文献一覧
あとがき
【編集後記】
執筆者一覧




まえがき













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目 次









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あとがき











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210115+210219更新

『北大1969――あのころ私たちが求めていたもの』新着情報

  ▼本書の申し込み先(Media Design Office Matsumoto:発売元のご案内)
『北大1969 ―あのころ私たちが求めていたもの―』価格: 1,800円(消費税含む)

   https://media-design.work/wp/?p=1838
 




 はじめに

   編集委員会を代表して    手島 繁一

 われながら大仰な書名をつけたものだと思う。とはいえ、これ以外に表現しようがない、との思いも一方ではある。
 一九六九(昭和四四)年は、大学紛争が全国を席巻した年であった。年明けからして、東京大学のシンボルでもある安田講堂に立て籠もった学生たちと警官隊との派手な攻防戦が繰り広げられ、その模様を報じたテレビの視聴率は過去最高を更新した。東大と東京教育大の入試は中止となり受験戦線は恐慌をきたしたが各大学の入学試験は滞りなく実施された。
 と思う間もなく、四月に入って大学の入学式は、当時新左翼系といわれた暴力学生集団の乱入などによって荒れに荒れた。
 またたく間に、紛争は全国の大学に広がり、所によっては高校にまでも広がって学園紛争と呼称された。政府も手を拱いているわけにはいかず、紛争の鎮静化のために権力的介入を可能にする大学臨時措置法を国会に上程したが、これがまた火に油を注ぐことになった。
 北大では、紛争は六九年四月十日の入学式の混乱に始まり、翌七〇年一月の機動隊による教養部封鎖解除と学内駐留で終結した、と公式文書にある。 本書は半世紀前、一九六九(昭和四四)年に、北海道大学の学生であった者たちが、北大紛争あるいは北大闘争といわれる事態のなかで、なにを思い、なにを求めて闘争に参加したり、あるいは紛争に巻き込まれたりしたのかを、それぞれに思い起こし書かれたものである。
 本書の企画の起点となったのは、紛争当時、北大経済学部の自治会組織であるゼミナール協議会で活動していたOBOGが呼びかけて開催された「北大闘争五〇年の年に語り合う夕べ」という同窓会(二〇一九年十一月四、五日、定山渓温泉)であった。紛争当時、経済学部の新任の助教授であった荒又重雄先生の講演を伺い、それぞれの来し方や近況などを交流し合った集まりの報告集を出版しようと、編集委員会が発足した。さらに経済学部の枠にとどまらず全学に呼びかけて寄稿を募ろうと準備が進められた。コロナ禍に見舞われたという事情もあったが、学部学年を広く網羅するには至らなかったことは編集委員会の力不足であり、お詫びするよりほかはない。本書の公刊が契機となって、北大闘争あるいは紛争についてのさらなる探求と対話が広がることを願うものである。
 ところで、本書の編集委員会や寄稿者の多くは、大学と学問が負っている社会的使命を果たすべく、「全構成員の自治」という新しい理念による民主化闘争を担った学生たちであった。これまで、大学紛争は全共闘系学生の封鎖や暴力、警官隊との衝突といったセンセーショナルな場面がことさらに強調された報道の影響もあって、その本質ともいうべき民主化闘争の位相が正当に評価されてこなかったように思う。本書は当事者の回顧や証言、歴史資料などをもとに北大闘争あるいは紛争を検証し、その歴史像を更新する試みでもある。
 それにしても、わたしたちの編集作業は五〇年という歳月の重さをあらためて実感させられるものであった。忘却、記憶違い、記憶の選択性などの限界ないしは難点は、常にわたしたちの前に立ち塞がった。だが、五〇年の歳月が育んだ豊饒さは、それらの難点をはるかに凌駕するものであった、とわたしたちは自信をもって言うことができる。それぞれの執筆者が当事者としてアイデンティティ・ヒストリーを語りながら、他方、五〇年の人生経験を経て得られた視点から自らを再審するという行為は、はからずも紛争あるいは闘争の多面性を、そしてそれゆえの複雑さと豊饒さを示すことになったのではないだろうか。闘争や紛争への関わりの如何にかかわらず、すべての人に公平に開かれた言論空間を提供することは、わたしたちがめざしたことのひとつであった。
 さて本書は、目次が示すとおり、一部・二部と資料編の構成になっている。第一「北大闘争とはなんだったんだろうか」は、報告集の起点となった荒又重雄先生の講演、当時の北大学連委員長であった手島繁一の論稿、六九年の日録風ドキュメントが収められており、いわば導入部になっている。
 第二部は本書の白眉とも言える部分で、三十九人の方が寄稿した回顧、証言論稿である。それぞれが担った北大闘争の諸断面を自分史と重ねながら綴った貴重な証言・記録の集積であり、これからも続くであろう歴史の掘り起こしや再検証に役立つと確信する。読者の便宜を考えて、所属した学部、サークル毎に整理して配置した。
 資料編は、本書の出版の基礎ともなった歴史資料のリスト、および年表である。歴史資料は「伊佐田・伊藤・岡旧蔵資料」(約三二〇点)と、「神田健策旧蔵資料」(約五〇点)の二つで、いずれも北大闘争の理解には欠かせない一次資料、ビラ、パンフレット、討論資料などをリスト化したものである。この二つの資料群は北大文書館に寄贈する予定であり、今後の歴史研究へのまたとない置き土産となろう。
 本書の構成について一言お断りしておかなければならない。本書は、本編ともいうべき第一および第二部と資料編という、本来別の本となるべきものを一冊の本としてまとめたため、本編部分は通常通り頁が前から後ろへと進むのに対し、資料編は本書の最後から前へと頁が逆に進むという、変則的な構成となっている。それがゆえに読者の利用に不便が生じることもあろうかと危惧するものであるが、歴史資料を大切にしたいという編集委員会の意図に免じてご寛容を願うものである。


『北大1969――あのころ私たちが求めていたもの』

はじめに  編集委員会を代表して    手島 繁一 

第一部 北大闘争とはなんだったんだろうか
第一章 《記念講演》 そこから何を学んで、私たちは生きてきたのか   荒又 重雄(北大名誉教授) 

第二章 私論「北大紛争」 手島 繁一 

第三章 1969北大ドキュメント
第二部 回想 わたしたちの一九六九

第四章 教養部
私の踏み出した第一歩と、今につながる二歩、三歩、四歩、ゴホッ 吉田 万三 
教養時代随想 君嶋 義英 
激動の一九六九年―封鎖と封鎖解除の中でのクラス・自治会活動 山口 博教 

第五章 農学部・工学部
たかき希望は 時代を照らす光なり 佐々木 忠 
苦い思い出 ジェンダー不平等時代 伊藤(増田)光枝
学問へのあこがれと自主ゼミ活動 守友 裕一 
「七二年北大事件」と私 山下 悟 
一九六九年当時の北大工学部の動向  編集委員会 

第六章 理学部
一九七〇年前後の北大理学部の動きと私のあゆみ 岡  孝雄 
『大学変革』の裏方としての思い出  北口 久雄 
北大闘争の思い出  宮下 純夫 
故二ツ川健二君・故卯田強君 そして理学部地鉱教室の日々(一九六七年十月~一九七〇年三月) 大我 晴敏 
北大闘争五〇年に寄せて(一九六六年~一九七三年)  山本 尊仁 
一九六九年北大闘争に身をおいたときを振り返って  江見清次郎 
大学のなかで、労組専従として  佐々木 章 
一九七一年頃の北大闘争を省みて 重本 直利 
「北大闘争五〇年」― もう一つの世界 小室 正範 

第七章 法学部
わが青春の楡法会(ゆほうかい) 山本 長春 
「茫洋の海、峻険の峰を求めて」自治会・サークル運動で培ったもの  吉野 正敏 
私の北大時代と今へのつながり  小田 耕平 

第八章 経済学部
一九六八年~一九六九年の経済ゼミ協と私  越野 誠一 
私にとっての北大闘争 ― 今も残る「二つの謎」 上野 雅樹 
資本主義の貧困と未来  菊池 卓哉 
「自己変革」を迫られた「北大闘争」 紺井 博則 
求めた我々とは何者だったのか  山本 隆夫 
私の北大時代と今  石河 庄一 
五十年前のいくつかの場面、そして現在 君嶋(田辺)千佳子 
六九~七二年北大闘争を担った私達 ― 経済学部を中心に当時を振り返りながら ― 木村 和広 
北大闘争と教育改革のゆくえ  小坂 直人 

第九章 薬学部、医学部附属看護学校、医学部附属診療放射線技師学校
北大闘争(紛争)の中での薬学部そして私 山下純一
看護学生として関わった大学紛争とその後の人生を振り返って 小川けい子
北大一九六九―我が人生のターニングポイント  吉岡 恒雄 

第十章 寮、生協、サークル、セツルメント、平和委員会
不法入居者であった寮生  皆川 吉郎
北大生協学部学生組織学科で学ぶ  佐藤 静男 
激動の一九六九年を民研わだちはどのように乗り越えて活動したのか 大塚  勲 

私たちがもとめていたもの あらぐさセツルメント  濵田 三郎 
あの日、あの頃 ― 平和運動づけの学生生活 福原 正和 

第十一章 院生協議会、教職員組合
大学の自治と学問の自由を守る北大院生協議会の闘い  平田 文男 
北大教職員組合のたたかいの実相  本郷 得治 

おわりに 「五十年後の卒業文集」 上野 雅樹 

資料編
資料一 北大闘争略年表 3
資料二 伊佐田・伊藤・岡 旧蔵資料 
資料三 神田健策旧蔵資料 

『北大1969 ― あのころ私たちが求めていたもの ―』
「北大1969」編集委員会
編集委員長  手島 繁一
編集委員   上野 雅樹
       岡  孝雄
       菊池 卓哉
       小坂 直人
       佐々木 忠
       山口 博教
       山本 隆夫













21.04.29→.06.10更新

『北大1969―あのころ私たちが求めていたもの』――「ほっかい新報」3月7日号より。発行元:メディアデザイン事務所マツモト。

  



 50年という年月は誰しもがその来し方を振り返る節目かもしれない。ましてや、その50年前が人生の岐路ともいえる出会いや事象に満ちているとすれば、なおさらその思いが強くなるであろう。

 本書は、二十歳前後の学生が1960年代後半に全国で吹き荒れた、いわゆる「大学紛争」に直面した時、何を思い、何を求めて紛争の渦中に身を投じたのか、とりわけ北大紛争のクライマックスともいえる1969年に焦点を当てる形で振り返ってみた記録であり、回想である。

 手島繁一によると、50年前ともなると、その記憶は誤謬を含む極めて選択的なものとなり、総じて曖昧なものになっていることが多く、編集者の間で記憶を突き合わせることによって再確認される事実が多々あったという。既に記録された「大学年史」等に照らし合わせる作業が必要であったし、何よりも当時のビラ、パンフなどの資料と新聞記事などを探し出し、自分たちの記憶を検証しなければならなかった。あたかも、列車時刻表を前に推理小説のなぞ解きをするかのような作業もあった。そして、この作業を最終的に保障したものが、伊佐田・伊藤・岡旧蔵資料と神田健策旧蔵資料であったことになる。本書に収められた北大1969ドキュメントと巻末年表はこれら資料の集約的表現でもある。

 本書は、紛争当時、若い教員であった荒又重雄教授の講演録から始まる。教員の立場で紛争にどうかかわったか、自身の体験を基礎に振り返るとともに、戦後史的な位置づけから将来を見つめる目が示唆に富んでいる。何よりも、学生に対するまなざしがどこまでも温かい。そして、手島による総論的私論とドキュメントへと続く。


39人の回想記 

本書の核心が第2部の回想である。39本の個人回想記を軸に、それぞれの学部やサークル、そして職場等における北大1969紛争論となっている。北大紛争がどれほど深く、そして強く各人の心を揺さぶり、今なお影響を与え続けているのかが鮮やかに読み取れる。その影響は、各人のその後の人生にとって糧となっている場合が多いようであるが、逆に痛みとなって胸に突き刺さり続けている場合もある。どちらにせよ、紛争の中でもがき成長した若者の生きざまが凝縮されているといえる。

 回想記の寄稿に応じてくれたのは基本的には紛争に積極的に参加したメンバーであるが、紛争から距離を置いていたものを含めて紛争当事者であるとすると、北大1969の描き方もまた違ったものになるのかもしれない。本書はそこまでカバーすることはできなかったし、それは別の課題であるようである。可能かどうかは分からないが、小杉亮子のような生活史的手法が必要となるのであろう。

 北大は、学長解任問題など、現在は現在で大きな問題を抱えている。これに心を痛めている卒業生も多いであろう。半世紀前にも全学を挙げて大学改革に取り組んだ歴史があり、その一翼を担った学生の思いが「50年後の卒業文集」の形となったものが本書である。かつて、多くの青年が「わだつみの声」に耳を傾けたように、今の若者がこの思いに気付く機会を与えてくれる書である。(敬称略)

(小坂直人)

――「ほっかい新報」3月7日号より(日本共産党北海道委員会)――








  
   



▽2021.01.15
◇『ひたすら生きて――佐方信一 ある日ある時』への寄稿。
◇佐方三千枝編(発行:2020年3月15日)。
 
唯一、激論の根底にあったものとは 、手島 繁一(元大原社会問題研究所客員研究員)



△上記の画像をクリックすると、全ページのご案内ができます。













手島さんの近影――[出所:神田健策さんのfacebook]より。新着情報

今日(2020年2月1日)は札幌で北大平和ガイドの出版記念会。写真は当時の全学連委員長の手島繁一さん



△(クリックするとfacebookのページへ)




主な出版物新着情報

 
 
  「戦後革新勢力」の奔流

― 占領後期政治・社会運動史論 1948-1950
 法政大学大原社会問題研究所叢書


  五十嵐仁編
  大月書店
  2011年3月
  A5判上製


 
  蒼空に梢つらねて

  イールズ闘争60周年・安保闘争50周年の年に
  北大の自由・自治の歴史を考える

  「北大5.16集会報告集」編集委員会
  編集委員長  手島繁一
  編集委員   大橋晃 河野民雄 國中拓 佐々木忠 白樫久 高岡健次郎 中野徹三 藤倉仁郎 森谷尚行
  発行:柏艪舎/発売:星雲社
  2011年2月
  A5判並製

 
  「戦後革新勢力」の源流

 ―占領期政治・社会運動史論1945-1948
  法政大学大原社会問題研究所叢書

 五十嵐仁編
 大月書店
 2007年3月
 ¥4,095 (税込)


   
 皆でたたかった50年 
  ――全日自労三重県本部の歴史

  全日自労三重県本部・協同総合研究所編
  シーアンドシー出版
  1996年
  46判上製
   
 ワーカーズコープの挑戦 
  ――先進資本主義国の労働者協同組合

  日本労働者協同組合連合会編
  労働旬報社
  1993年05月
  46判上製




店内イメージ

shigekazu tejimaKeiko tejima  店舗情報

手島繁一のページ

WEB交流ページ:けいこの広場
http://8605.teacup.com/keikoto/bbs









編集人:飯島信吾
ブログ:ある編集者のブログ


 UP 2014年03月15日 
 更新 2014年03月20日
 更新 2014年03月22日
 更新 2014年04月28日
 更新 2014年10月07日
 更新 2015年09月20日
 更新 2016年02月20日
 更新 2016年02月22日
 更新 2016年06月21日
 更新 2020年01月03日
 更新 2020年02月01日
 更新 2021年01月15日
 更新 2021年02月19日
 更新 2021年04月29日
 更新 2021年06月10日
 更新 2021年08月22日
 更新 2021年09月16日
  更新 2024年10月06日
 更新 2024年12月25日
 更新 2025年01月02日

  更新 2025年02月15日
  更新 2025年03月05日