HPのUP:2014年03月25日

旬報社は今秋創立65周年を迎える。小社をご指導いただいた故沼田稲次郎先生は、『労働法律旬報』誌上において健筆を振るわれ100本を超える論文を発表されるとともに、『著作集』全10巻を含め20冊余の単行本を刊行された。ここに「沼田稲次郎著作目録――人と学問の歩み」を掲載し、労働運動・社会運動とともに歩んでこられた研究の足跡を、先生の人間としての歩み、先生の思想の成熟と交錯させながら、あとづけることができたらと思う。

無縫空談お知らせ




 過去の再構成



 
 「著作集」全10巻は予定より少し早く、12月上旬には完結する見通しがたった。そして9月20日の月曜日に第7巻の見本ができた。一昨年の5月25日、60歳の誕生祝賀会のときに、平均年齢が長くなっているのだから、まだまだ学問の途に精進すべし、という激励の言葉を幾つか頂戴したのであった。だが、還暦記念論文集や那須画伯による私の肖像画を贈られ、赤いチョッキと帽子を着して娘のような弟子たちから花束を抱かせられてみると、うたた老境への門に立っているのを感ぜざるをえなかった。還暦というと「若い者」と思ってみえる孫田先生や末川先生からは笑われるかもしれないが、それは私のいつわらなき心境であった。祝賀会の席上で私は「これからは残務整理に入りたい」と挨拶したが、少なくも労働法学についてはそれが本音であった。
 「著作集」を出すつもりになったのも、たしかにいくらかの気負いが生じなかったわけではないが、基調は労働法学との訣別文集だというかなり安易な感じからであった。
 ところが、いざ著作集にとりかかってみると、それは方法論的反省や独自の構想力を要請する新たな仕事であることがわかったのである。一つの短い年表におさまる30年のわが時の流れではあるが、それを現時点の視座から10巻に凝集し、空間=立体的に構築すること、あるいは歴史的なものを論理的なものとして展開する意味をそれはもっていた。それぞれの局面において提起される課題を論じ、あるいは実定法の解釈理論を体系化すといった従来の著書・論文は、もとより「著作集」の編成をめざして書かれてきているわけではない。むしろそのつど書きすてていったものだとさえいえる。たしかに過去の論稿は現在の私の思想に媒介されていよう。だが、それぞれが独自の問題関心の下に書かれたものであり、極端にいえばばらばらのものの継続である。ただ歴史的に発展する現実在に主体的に関わることによって、諸問題を現実在の諸契機として―― それ自体を孤立的にではなく―― 把握しようとしてきたから、思想としては統一的に構成できるような気がしていないでもなかった。しかし、著作集を自分で編成するということは過去の沈澱ではなく新しい構築作業であった。
 第10巻の巻末に付した「完結にあたりて」のなかで、私が心から感謝の意を表した方々の鼓舞を感じつづけていたからこそ、その作業もどうにか乗りきれたのだと思う。こうして著作集が10冊ならぶとなると、過ぎ去った月日が現在に甦ったような気がしないでもない。だが、何よりも、私自身と私の著作集とを好意をもってとりまいていただいた方たちとの邂逅とその方たちとの問に幾星霜にわたって育ってきていた深いえにしの貴重さをしみじみと感じたのであった。
 推薦文も月報(栞)の執筆も大部分は労働旬報社の発意によってお願いする段取りになったのであるが、同社の首脳陣は、私と深いつき合いの諸君なので、少なくも法律学者や労働組合のリーダー達と私との情感的なつながりまでよく知っており、その面からと、さらにいくらかは同社自身との関わりをも考慮してお願いしたい方たちのお名前を示してきた。 ただ「月報」では、先生筋と組合・法学界以外の友人については私にゆだねたのである。
 私の学生時代の先生筋で、私の敬愛する先生ということになると佐伯千仞先生以外には思い出せなかった。また先生は、私の結婚式、といっても敗戦直後、師走の小雪ふる日に下加茂神社で挙行し、女房の里でささやかな祝宴をはったときのことだが、近い親類以外に来ていただいた唯一のお客様でもあったのである。労働法学界では浅井清信先生にお願いした。先生は戦前の労働法学者のうちで私が戦後最初におめにかかった先生である。その後も学位論文審査の主査をやって下さったり、さまざまお世話になっている虚心坦懐な先生なので、同じ学問領域の後輩のためにも蟠りなく気軽に御執筆いただけそうな気がしたのであった。
 学生や軍隊の頃の友人は原稿用紙と無縁の社会で活動している諸君が多く、筆をとるのがおっくうらしいのがわかったので、結局、互に著書の交換をしている旧学友であり、宗教哲学について深く考えたすぐれた研究を発表している武藤一雄君と、夕刊京都新聞時代に紙面作りや組合運動を一緒にやった気風のいい西村幸雄の二人の親友を煩わすことになったのである。いうなれば武藤君は北の都に青春譜を共に奏でて以来の友、西村君は戦後の原点に共にスクラムを組んだ仲間である。
 以上のような次第で、少なくも私の方からは非常に親近さを感じている諸先生や友人たちに推薦文や栞の執筆をお願いできたのであった。そしてそれぞれに味わいの深い―― 私自身は照れくさく、くすぐったく思ったが――文章を書いていただいた。それだけに、いかに感謝の意を表したにしても、それで終りにするのは何か物足らない気持であり、余情漂うところである。お訪ねして話しこんだつもりで、そこはかとなく自画像の断片や感想でも綴って、おめにかけようかとも思っていたところ、幸いに労働旬報社が各巻の「月報」を集め栞集のような形に製本して「著作集」に関係の深い方たちにお贈りするつもりだときいて私も仲間入りさせてもらったのである。この拙文をみていただく方は大部分が私より若い人達なので、つい老人じみた話に傾くかもしれないが、大先生方の御寛容を願う次第である。実は手紙の形をとるか、口語文で書こうかとも思ったのだが、それではますます老人くさくなりそうなので、敢えて文語体にしたのである。なお、日本労働法学の開拓者であられる孫田先生がことのほか「著作集」の出版を喜んで下さって、御推薦いただいたばかりでなく、さらに数々の芳情あふるる御配慮を賜わり、御気持ちありがたく幸運かつ光栄に感じていることのみこの際先生に申し上げることを許していただきたい。
 さて、筆のまにまに書いてみようと思う。構想をたてたというわけでもなく、ただ感謝と親しみの気分のなかで、心の竪琴をかきならす如くに想と情との流るるに随ってつづってゆきたい。されば気軽に一瞥の上、忘却の淵に放棄せられるよう願う次第である。




 社会主義と唯物史観の呪縛


 社会主義に共鳴する人々は多かれ少なかれ、それにとり憑かれたことから生ずる理論的苦心を背負うものではないかと思う。金沢の四高に入学した年の秋頃からマルクスの社会主義に「かぶれ」はじめるが、当時私の哲学はカントに負うていたと思う。マルクス主義文献を読んでも、その社会主義に比重がかかっていて、唯物弁証法の方は何となくわかった気になっていた。唯物弁証法を哲学として考えることについて刺激を受けたのは、明らかに京都大学に行って間もなく加古祐二カ先生にはじめておめにかかったときであった。私の報告に対するわずか2、3分間の先生からの批判的教示が、唯物弁証法のむずかしさ、あるいは奥の深さを思い知らしてくれた。その後、大学時代、唯物弁証法をも疑いぬくつもりでヘーゲルや西田・田辺哲学にも接近してみたのだけれど、結局は社会主義と不可分の史的唯物論をふまえた唯物史観に回帰せざるをえなかった。マルクス主義的社会主義はその後も私の思想の根底にあって、今日までその呪縛から解かれてはいないのである。
 戦後、自分で学問的な論稿を発表するようなことになったが、そうなると社会主義の論理性ないしその真理性を確信しないでは、どうにも物は書けない。オポチュニズムという処世の芸にうとい私は、ドンキホーテ的にともかくも自分なりに納得した唯物史観をさらけ出して出発するほかはなかった。ところが社会的発言は責任を伴うだけに、どうしても次の発言を拘束することになる。といって、唯物弁証法の世界観的・認識論的反省吟味も無際限につづけているわけにもゆかないので、自分では唯物史観だと考えている立場で現実に向って接近し働きかけざるをえなかった。戦後30年それでやってきて、現実とのとり組みを媒介としつつ、唯物史観が自分の思想として定着していったようである。この年になって、論理的思索に堪えて思想転換をなさざるをえない状況にはなりそうもない。
 社会主義は実践の問題であり、法律学の理論とは別個の問題だとしてつきはなすことは、一応明哲な思想ともいえる。だが、理論と実践との統一を強調する立場で社会的に発言してきた私としては、十分な自己批判のできていない今日、安易に新カント派に傾倒するわけにはゆかない。また、方法二元論では自己の社会主義も主観的なものに堕落することにならざるをえまいと思うし、現実在は観照的立場では把ええないとする方法論的発想が私をはなさないのである。
 うまく咀嚼されているかどうかは知らないが、私としては理論と実践との統一ということを念頭において物を書いてきた。統一というのも、理論と実践とを峻別した上で、自由に恣意的に社会主義の価値観を選択し、それに適応するように理論を組み立てるという意味で統一というのではない。歴史的社会の認識=理論というものは、もともと歴史的社会的主体の実践――認識の対象自体を主体的関心によって限定する意味を含む――を媒介としてのみその必然性を貫徹するという歴史的社会=現実在の全体的認識――真理性――を志すかぎり、そして認識主体そのものが「意識一般」でもなく、個人の主観でもなく、まさに歴史的社会のなかで一定の社会集団――歴史的社会の構造とくに下部構造に規定される――としてのみ現実的に主体たりうることを自覚するかぎり、実践の論理を媒介とせずしては成り立たない、たとい主観的には理論理性と実践理性とを区別しているつもりであっても、その真理としては実践の論理を媒介としない理論は――社会的に意味をもつ理論としては――ありえない、以上のような方法論的自覚をもって、理論と実践の統一を語るべきだと思うのである。それが史的唯物論ないし唯物史観であり、歴史的社会の弁証法であり、それが真理だと私は考えてきたし、いまもそう思っている。
 ところが、現実在が歴史的主体の社会的実践を契機としていること自体が歴史的社会の認識が実践と不可分である所以であるとみる私の考え方は、いわゆる自然弁証法で行きづまるのである。歴史的社会つまり人間の社会の出現する以前の地球――太陽系でも宇宙でもいいが――、あるいは人間=社会に対置していわれる自然には弁証法は語りえないのか、唯物史観は唯物弁証法の歴史的社会への適用ではないか、だとすれば主体のない自然界の認識には実践はどのように関わるのか、実験と利用という関わり方――歴史的社会の問題だ――ならば、機械論的唯物論で何故いけないのか、このような疑問はいまも脳裏を去来する。だが自然科学の知識のない私には沈黙のほかはない。
 しかし、かりに自然界が機械論的にとらえられるにしても、私には歴史的社会が弁証法的に――弁証法的自覚としての認識をその主体的契機として含んで――発展することはどうも疑いえないし、それゆえに社会主義の真理性を確信するという次第である。存在と価値とを峻別する方法二元論は、現実在の一面的抽象的自覚たるを免れないのではあるまいか。人間の社会は、自然を普遍的基盤としながらも全く新しい運動法則による歴史的世界であり、そこでは目的あるいは価値を自覚する社会集団として社会的に実践する人間即ち主体が、自己自身を客体として形成的にこれに働きかけつつ、かえって客体としての社会を人間自身の現実在の一契機として認識=自覚するのである。かかる運動のなかでこそ、量から質へ(たんなる形態変化でない)、相互作用、相互浸透、否定の否定などの弁証法の諸契機が実現される――歴史のなかで――のではあるまいか。そしてかかる運動法則によって発展する歴史的社会としての人間において基体となるのが自然(生物)であり、現実には経済社会がまさに下部構造として巨視的長期的には根源的な規定者としていわゆる上部構造つまり政治、法、文化、意識を含めた全体としての歴史的社会を規定する(唯物論)と考えるべきではあるまいか。
 このように自然と社会に関する根本約な考え方のところで私はなお動揺している。ただ以上のように考えるほかには、社会主義を思想の根底に安置できないし、法、政治、文化などの理論に血を通わせることができないのである。だから、その立場で書いたり話したりしてきたわけだが、これがマルクスの唯物弁証法であると断言する自信も虚勢もない。ただそれを自分では史的唯物論だと思っているのである。そして少なくともこの立場で労働法学を構築してきたと思うし、真理なるが故に正義でもあるのだと考えることにしているのである。
 とまれこの世界観的懐疑は墓場まで持ちこされるものと思う、Homo sapiensにおける永久の、自虐的な苦悩多き課題でもあろうか。しかし、ひとは懐疑を食って生きているものでもあるまい。だが、また懐疑のない人生も、味気ないかぎりだろうと思う。私の戦後の論稿をふりかえると、いつも歴史的必然性を重視してきた、つまり個人の恣意をこえて貫徹する歴史的社会の客観的必然性を学問の基礎にすえているのである。私はそれを正しい認識だと思っているし、今後も論文を書くときにはそうなるにちがいないと思うが、それは論調を重苦しくしていたような気もするのである。
 もともと私は歴史的社会の必然性が主体的実践を媒介としてのみ自己を貫徹することを強調して来たはずなのである。主体的実践を語るかぎり歴史における偶然性の問題から遊離しては必然性の問題自体を考えることはできないということであろう。ヒンデンブルク大統領にもう少し胆識ともに優れたところがあればヒットラーに政権をとられることはなかったであろう、とマイネッケは『ドイツの悲劇』で書いている。クレオパトラの鼻が三分ほど低ければといった仮想を立てて歴史をみることが全く無意義なこととも私は思わない。しかし、「馬上の世界精神」がセントヘレナに流謫せられたのはナポレオンの命運の問題であって、フランスのブルジョア革命の帰趨=歴史的社会の必然性を著しく変えたとは思われない如く、歴史的社会の運動における偶然性のモメントをあまり大きく把えるのは、かえって主体的実践そのものの歴史的社会的被視定性を捨象し、現実在の全体的認識を喪失することになるであろうと思うのである。その意味で、社会的実践的立場――それが理論的な立場なのだが――で物をいうかぎり、歴史的社会の必然性をふまえて――重苦しく、退屈ですらあっても――論ずることにならざるをえまいと思う。




 たゆとう情感の生を愛す


 さて、右のように一応考えてはいるものの、個としての人間の実存性の実感は拒否しがたい。人間における不合理なもの激情的なもの偶然的なもの等、それらを私は情感の世界――社会的主体的実践と無縁ではもとよりないが、いわばその影となる生の世界か――で受けいれたい。歴史的社会は個人の生涯にとって偶然であるか不可抗の命運である場合は決して少なくない。命運を感ずるのは情感の生である。毛沢東や周恩来にも「天」の思想――というよりは情感――の片鱗が感じられるのも、中国人の伝統的心情という以上に革命家の心情であると思われる。もとより道教的な天帝とか神、仏といった形象化されたものへの帰依でもなく、さりとて虚無観でもない。おそらく歴史的社会における個の有限性への唯物論的な深い理解からのみ生ずる達観の心境とでもいうべきであろう。
 いうまでもなく私は革命家ではない。だが、激動の20世紀中葉を生きてきた――比較的波瀾の多い生を――老庶民の一人として、仰いで天に問うといった心情を抱くことも少なくない。ことに人生の区切りごとに――戦地に出征する船中で、野戦から帰って荒れはてた祖国の土をふんで、生きて敗戦をむかえて、『生産管理論』を出版して、父も故郷も失って、あるいは『運動のなかの労働法』を書いてドイツへの航路に発って、還暦を迎えて、そしていまも。その心情は必ずしも社会的実践からの逃避でもなく、それと矛盾するものだとも思わない。
 ひとは社会としての人間の生において充実し「無限なるもの」にふれるという社会的実践をつみ重ねないかぎり、達観の境における深い情感を知ることができないとも思う。社会的主体的実践の乏しい学生時代は、個において主観的に「無限」を意識するが、いずれその主観性は生活の場で露呈せざるをえない。それは一つの挫折であろう。それを乗りこえるのは歴史の裁きを覚悟した主体的実践であり、それによって社会としての人間の真の無限性を体得しうるというものでもあろうか。そして、そのときにこそ悠々たる蒼天を仰いで個としての人間の有限性を受けいれる情感の世界や達観の心情が生まれるのではあるまいか。
 もともと私には、若い頃から社会的活動をはなれる時間のない生活はまことに味気ないものだと思われているのである。社会人としての人間の緊張と連帯の生における個としての人間の実践が、その人の歴史的行為であり、その行動――教師には教育が、学者には理論的研究が、運動家には組織と運動がその中心となる――は、歴史の法廷で裁かるべきである。即ちそれは歴史にゆだねらるべき生である。そこには有限者の心境は無用であろう。だが、社会としての人間の立場から一応はなれてそれを天命と達観して、個としての人間の生を生きるとき、それがどのように過ごされようとも、反社会的影響のないかぎりは彼の自由・恣意に帰せらるべく、ただ彼独自の幸福感とか心境にかかわる情感の世界にすぎないのではないだろうか。このような歴史的時間の外にある生が空虚で無内容だとは私には思われない。プチブル的かどうかは知らず、私には社会的実践一遍倒の逞しい人生はやりきれないし、社会に吸収されてしまわない自分をのこしておきたい性分だと自覚している。もとより余裕が人間形成に必要だからというような目的意識をもちこむ気はさらさらない。ただ情感の揺蕩う時間であればよい。だがまた、いつわりなき人ならば、肉体的にも精神的にも有限なる人問が、その有限なる生のすべてを定言命令、道徳法則に捧げつくせるものではあるまい、とも思ったりする。
 ともかくも、心境にしたがって生きる余裕も自由もないような社会は真平御免である。客観的にも将来の社会が社会主義から共産主義へと進むものだとすれば、ひとはより豊かな余裕と自由とをもつことになるのではあるまいか。そうなることによって、人間はより深く人間自身――社会としても個としても――を知りかつ回復する、すなわち自己疎外を止揚するのではなかろうか。
 もとより現実の活社会で隠居生活を享受できるとは私も思っていない。だが徐々に遊びの余裕をひろげてゆきたい。遊びといっても私にはそれは、ホイジンガやカイヨワが定義しようとしたり、Agon(競技)Alea(サイコロ遊び)などに分類してみるような可視的行為のみではない。むしろ社会的実践に無関心な遊び心というか、没目的的な縹渺たる心境への耽溺とでもいえようか。ともかくも近来没目的的に知りたいことや為してみたいことがあまりに多い。しかもその大部分が労働法学者としての社会的活動とは別の世界いうなれば遊びの世界のことなのである。何から手をつければよいか、迷いながら楽しんでいる。
 昨年8月15日、敗戦30周年にあたって素焼の壷に「究真践義悦風流」と書いて高原の野花を活けた。半ばはおそらく事実であろう、半ばは生涯の、そして現在の願望でもある。



 回想的自画像


 大学教授らしくないとひとの言うのは、よろずに勤厳でなかったり「物わかり」 の悪い、「自己批判」なきタカ派であったり、べらんめい口調や北陸弁・関西弁――いずれもあまり学問的響きのない方言だ――が雑然と入りまじったり等々に起因するところが多いと思うが、自分では私の学問自体が範型的でないのだろうと考えている。つまり、大学教授=専門家的な学問ではなく素人的――教養主義的といってよいかもしれない――なのだ。大学教授――教育者の面と学者の面がオーバラップしている――らしからぬのは、この非専門性が非範型性と重なっているからのようである。どうみても私の労働法学は伝統的な法解釈学としての労働法学にはおさまらない。関心も発想もかなりちがっている。判例評釈も外国法の制度や学説の紹介もろくにやらない法律学者、イデオロギー批判とか権利闘争論に力瘤を入れ、ときには政治批判・社会評論・労働運動論にまでロ嘴を入れている「赤い」学者とあっては、「学者らしからぬ」のも、もっとも至極だ。私は絵が好きだが、cubismeの画は伝統的な美観をはみ出していてあまり好きではない。にも拘らず私の学風はキュービックなのであろう。「いかに真理に迫る学問を樹立するか」こそ問題だと自分では考えてきた。権利闘争論等もそこから発想している理論のつもりである。
 実は私自身は、現実在を根源的かつ全体的に問う哲学的思考を通さないような、法に関する学問の専門家になることには従来あまり熱意を感じたことはなかった。さりとて、現実在の諸契機と法的契機との諸関係の認識を媒介としない「法哲学一般」の専門家なるものを志す気にもならないのである。
 もとより最初から素人流の学問をやり、キュービズム的学風をたてようなどと考えていたわけではない。労働法学の諸先達やさまざまな法思想から教示をうけながらも我がままな私は関心の赴くままに考えたり論じたりしているうちにそういう性格の学問になったのだろう。あるいは、戦後とくに大学教授=専門家になろうという目的意識をもってはりきって出発したわけではないからでもあろうか。
 遮莫、我流の学問でともかくも学界の一隅を歩いてゆけたのは、幸いにして公的機関とくに政府機関に使われなかったことによるところが多いと思う。もっとも奉職した学芸大学は国立、都立大学は公立であるが、何といっても大学は、自治と研究・教育の自由の存在する場である。しかも学問することが本職だから結構至極。ときに地方自治体の労働講座などに招かれるが、私も旅情にひたるために――なるべく遠い地方や故郷への旅――2、3時間実用法学の専門家として解説的講演をする役目は快諾することにしている。今年の夏休みにはじめて沖縄へゆく機会をえた。ひめゆりの塔から南冥の塔まで炎天下にハイビスカスの花を捧げてまわりながら、つくづくと本土は沖縄に負い目があるはずだと思った。
 ともかくも政府機関――各種審議会や労働委員会の委員など――に使われなかったおかげで――もっとも頼まれても拒絶したかもしれないが――、学問・研究の自由や表現の自由は、社会的にも、また「義理人情」的――これには弱いのだが――にも拘束されないできたし、研究のペースを乱されることもなかった。わが人生にとって貴重なことだったと思う。早くから、「赤」 「プロ・レーバー」などのレッテルをはられたことの功徳であろう。
 「赤」のレッテルを最初にはりつけてくれたのはGHQであった。共産党員が多いとみられていた「夕刊京都」新聞社の労働組合長であってみれば、GHQがマークしたのも当然であろう。ところが、新聞記者――小さな地方紙でも――で、新聞労組の組合長となるとかなり社会的な影響をもつらしく、また『日本労働法論』の著者で、新聞の論説も書いているというわけで、早くから現実的な労働問題に関して講演したり、執筆する機会が与えられた。生活上の事情変更のため京大の研究室に復帰して法律学の徒弟修業をやりなおす余裕がなく、さりとて新聞社の定った仕事のほかは、ひたすら読書に耽りカードを作るなどという本格的な学究道を追究するほどに「学者」稼業に執着もなく、また沈黙しているにはあまりにも言論の自由への興奮が大きすぎた。野戦がえりの生命にとって、毀誉褒貶も赤呼ばわりも、もとより物の数ではなかった。
 今度「著作集」を製作していて、自分の著作集にはちがいないが、むしろ時代がたまたま私をとらえて有無を言わさずに書かせて来たものを、いま漸く自己をとりもどした私が自由な気持で編成しているという、いうなれば他者である「自己」を素材にして、自己自身が新たな著作をしているような気になることがしばしばあった。近江絹絲争議にせよ、三池労組の大争議にせよ、海員スト、スト権ストなどにせよ、それについて何かしらを執筆してきているが、これは研究室の徒弟修業にかえらず、早くから一人前の労働法学者として労働組合が遇してくれる状況に放りこまれた戦後の私の運命によるところだと思う。労働政策批判や権利闘争論にしても社会運動が私をかりたてて書かせた、そして私の方では主体的に受けとめた、という関係の産物にほかならない。善悪も損得も幸不幸も考える余地のない、のっぴきならない道だったのだとも思う。
 それにしても好きなことを言って食わせてもらってきたのだから申分なしである。大学の利益や威信を代表して都庁・都議会などにかかわりをもたねばならぬ立場にすえられてからは、時には社会的表現活動を自制することもあり、時間的拘束もいくらかは増えたようである。だが一方では大学の外での煩わしい付合いを御免蒙るのが容易になったこともたしかである。
 赤坂や六本木あたりの料亭やキャバレーへは行ったこともなく、行けもしないが、何の未練もない。縄のれんでも三流の料亭でも飲む酒は似たようなもの、しかも杯を交わすのは友敵の世界に住む世家・列伝的人間ではなく、いつまでも親しく胸底でつながる友人達だ。ときには還暦だ、碁会だといってお祭り″を楽しむこともある。平凡だが、得がたい老境だと思う。さらにできればいくらかミステリアスな味わい深い風流道を情緒と心を大事にして飄々として歩いてみたい気にもなる。



 秋夜に坐す


 思えばずい分とこむずかしいことばかり書いてきたものであるが、原稿料を目的にして書いたことはなかった。事実売れない本ばかりだが、ありがたいことにとくに持ちこんだわけでもないのによくも出す気になる出版社に恵まれたものだと思う。それでも『生産管理論』の印税の一部で長女出産の費用をひねり出し――彼女はすでに孫二人をこしらえて、目下デュッセルドルフに核家族で寓居をかまえている――、今夕は次女の結婚式とあって「著作集」第1・ 2 巻の印税を式場費用と新婚旅行の小使いとにあてた。清貧裡でのささやかな満足とでもいうものであろう。乏しくとも浄財にはちがいないのだ。
 かくて二人の娘は皆それぞれに老父母の彼方で亭主とともに自分の家庭をもち、人生の航路を走ることになった。結婚式に来てもらった、娘の子供の頃からの旧友たちは、旬報社の柳沢社長の肝煎りで式のあと夜半の高田馬場に席を設けて私を招いてくれた。「末娘の結婚式の夜の父親を慰めかつ励ます会」ということらしい。ともかくもモーニンダのネクタイをゆるめて麦酒の杯をあおった。嬉しいことであった。
 疲れきった女房が寝たあと、二階の書斎に坐わる。子供たちは嫁ぎ、「著作集」もどうやら完結したようで、いま、更けわたる秋の夜に、寂寞たる自由の情感にひたりながら、この文章を書きおえる。
          
 1976年 秋彼岸の夜




 [追記]

 「著作目録――わが口舌筆硯の軌跡」に「無縫空談」の所感として、以下のように記されている。
 「著作集各号の月報を集め、発行の辞、推せん文を加え、さらに川崎、石井、柳沢と文子の短文と我輩のこの感想文を編集して『聴松団欒』と題した100頁の小冊子を著作集関係者に旬報社が贈呈した。『聴松団欒』は12月15日付。10巻も12月15日付。それはわが結婚記念日だからである。若干の諸君には毛筆でサインをした。孫田先生の霊前には「別離有余情」と書いた。そのほか「長江日視流」「地上探究人間像 空中構築思想楼」「天衣無縫包蔓象」「究真践義悦風流」「義気千秋」「非理法権天」など。女房には歌一首『世の親のつとめを終えて草枕 旅路に老いなむ あいたずさえて』を書いた。」





沼田稲次郎

1914年(大正3年) 5月25日、富山県高岡市に生まれる。
1952年(昭和 27年)8月、東京都立大学教授(人文学部)に就任。
1965年(昭和 40年)4月、東京都立大学法経学部長に就任。
1973年(昭和 48年)4月、東京都立大学総長に就任(〜81年3月、2期8年)。
1997年(平成9年) 5月16日、死去。享年82歳。




◇編 集:旬報社編集部
 責任者 :木内洋育 
 編集協力:石井次雄
 制  作:飯島信吾

 UP:2014年3月25日
 更新:2014年4月18日
 更新:2014年4月21日
 更新:2014年5月25日
 更新:2016年5月23日