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五味明憲の
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 1989年にニコライ教会を出発したローソクデモ・「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となったことは記憶に新しいライプツィヒ。この地は音楽の都として名を馳せ、メンデルスゾーンやシューマン、バッハらが活躍し、ライプツィヒ大学では文豪ゲーテ、哲学者ニーチェ、日本近代文学の巨峰・森鴎外らが学んだ。(編集子)
 

 


 
 




 
 






音楽と文化、ベルリンの壁を崩壊させた街
 ●ドイツ・ライプツィヒ 

バッハ、メンデルスゾーン、シューマンや、ゲーテ、ニーチェ、シラーなど、そうそうたる音楽家や文豪を輩出

 ライプツィヒは、7世紀にソルブ人の築いた城砦に起源をもち、彼らによってリスプク(菩提樹の地)と名付けられました。やがてリスプクの名はライプツィヒと変化し、街はヨーロッパ大陸を縦横に貫く通商街道の交差する位置に商都として発展、時代ごとに様々な文化が花開きました。バッハ、メンデルスゾーン、シューマンや、ゲーテ、ニーチェ、シラーなど、そうそうたる音楽家や文豪を輩出したことで有名です。

 荘厳な建物――森鴎外もイプツィヒ大学の医学部で学ぶ

 街のなかで、本を開いたようにひときわ高くそびえたつビルは、元ライプツィヒ大学の本校舎。東西ドイツ統一後、ビルは売却され現在はオフィスビルとして使用されています。
 ライプツィヒ大学は、1409年の創立で、ドイツではハイデルベルク大学に次いで二番目に古く、ライプニッツや、メビウスの輪で有名なメビウスが教壇に立ち、ゲーテ、ニーチェ、シューマンなどが学びました。日本人初のドイツ留学医学生、萩原三圭や森鴎外もこの大学の医学部で学んでいます。ちなみに、ドイツのメルケル首相もこの大学で物理を専攻しています。  

 すぐそばに、アウグストゥス広場を挟んで向き合う建物は、ゲヴァントハウスとライプツィヒ歌劇場(オペラハウス)です。ライプツィヒは、王侯貴族や、司教を中心に発達した都市とは違い、商人たち市民階級が主役となって発展してきた街です。特にメッセといわれる見本市は、科学技術と文化・芸術の融合と発展を促してきました。ゲヴァントハウスとは、織物(布)会館という意味で、1781年の織物見本市の際、こけら落しで演奏したことから、その名を冠したのがゲヴァントハウス管弦楽団です。世界最古のオーケストラでありながら、王宮にも貴族にも司教にも属さず、市民階級による自主運営で、設立そのものは、まだバッハが存命の1743年にさかのぼります。また、ライプツィヒ歌劇場はヴェネツィア、ハンブルクに次ぐヨーロッパで三番目の市立歌劇場として、1693年に誕生、現在の建物は、1960年に再建されたものですが、座付きのオーケストラはなく、ゲヴァントハウス管弦楽団が兼任しています。この楽団の最大の特徴は、全ての団員がゲヴァントハウスでシンフォニー、歌劇場でオペラ、トーマス教会で宗教曲の三つのジャンルを日常的に演奏していることでしょう。

 世界初の日刊紙が創刊された街

 印刷、出版の歴史も古く、1650年には世界初の日刊紙ライプツィガー・ツァイトゥイングが創刊されています。世界最古の楽譜出版社のブライトコプフは1719年の創立。まだ、モーツァルトもベートーヴェンも生まれていない時代です。日本では徳川幕藩体制がまだ盤石となったかどうか、「殿、密書でござる」と忍者が暗躍していた時代です。
 1867年になると、それまで著者に無期限に所有されていた著作権が、その保護期間を著者の死後30年までとする法律ができたため、廉価な本が出版できるようになります。岩波文庫のモデルとされたレクラム文庫がそれで、ドイツ語圏の人びとの知識向上に大いに貢献しました。記念すべき1号は、ゲーテの「ファウスト」でした。

 「主権者は我々、人民だ」 ローソクデモ行進

 中心街のトーマス教会とニコライ教会は市内の二大教会としてライプツィヒの信仰と音楽の分野で、歴史的に重要な役割を果たしてきました。

  1723年から亡くなる1750年まで、バッハはトーマス教会の音楽監督として、そしてオルガニストとしてはニコライ教会でも活躍しました。教会の音楽監督の仕事は、キリスト教(プロテスタント)の礼拝にのっとった演奏を毎週することで、作曲、写譜、練習指導、本番ととてもハードな仕事でした。コピー機もない時代、写譜は弟子をはじめ家族を総動員しておこなわれたようです。バッハの旧埋葬地は第二次大戦で破壊されたため、トーマス教会の内陣に置かれています。  
 
 ニコライ教会は、商業の守護聖人、聖ニコラウスに捧げられた教会で、商都ライプツィヒの象徴として市民から手厚い保護を受けてきました。内部は、シュロの木をかたどった列柱がピンクとパステルグリーンに彩られて、明るく美しい。ポルシェ社製のパイプオルガンは五段鍵盤で、ドイツ有数の大きさを誇ります。

 市内で最も古いこの教会は、同時に現代史の舞台でもありました。まだ、東ドイツの時代であった1982年から、毎週月曜日に「平和の祈り」が開かれるようになり、当初の数百人は、やがて出国、言論、政治活動の自由を求める人々によって拡大していきました。

 1989年10月9日、7万人に膨れ上がった参加者は、手に手にローソクの灯を持ち、「主権者は我々、人民だ」とデモ行進。このとき、最高指導者のホーネッカーは軍に発砲許可も与え弾圧するよう指示しますが、家族や親せきが参加しているかもしれない非暴力のデモに、誰も命令を発することができないまま、デモは無事終了しました。この市民運動は東ドイツ全土に広がり、ベルリンの壁が崩壊したのはちょうど一月後でした。

 マルチン・ルターの宗教改革

 ドイツを語るうえで忘れてならないのは、マルチン・ルターの宗教改革です。

 ルターが徒歩でローマへ巡礼したとき見たものは、「神の国」からほど遠い、世俗的な快楽の巷でした。日銭欲しさに、何回もミサを執り行うローマの神父や豪華な宮殿で贅を尽くした枢機卿の暮らしぶりを見て、なぜ貧しいドイツの農民に免罪符を買わせなければいけないのか、懐疑が芽生えます。こうして、ヴィッテンベルク大学の門前にローマ教会に対する95箇条の論題を提示すると、 一気に、宗教改革の嵐が巻き起こったのです。

 自説を曲げなかったため、ローマ教会からは破門を、神聖ローマ帝国の国会からは法律の保護外に置かれるという、事実上の死刑宣告を受けることになります。判決後、危険におびえながら帰路を急ぐ彼を待ち受けていたのは、ルターの身を案じたザクセン選帝侯フリードリヒ賢候が差し向けた騎士たちでした。表向きは、誘拐されたように装いながら、ヴァルトブルク城にかくまわれたルターは、ここで新約聖書のドイツ語訳を完成させます。こうして、これまでのラテン語の礼拝に代わって、ドイツ語を用いたルター派プロテスタントの礼拝の基礎が作られたのでした。

 同時に、ルター聖書はドイツ語の教本としてもドイツの農民たちの間に広まりました。また、元修道女と結婚し、プロテスタント教会の牧師の結婚の先例にもなりました。


⇒つづく:脱原発集会・首相官邸前  一人の人間として (2011/11/26)
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▽五味明憲のProfile

 1955年生まれ
 現在:カメラマン(日本写真家協会・現代写真研究所専任講師、日本リアリズム写真集団理事)

写真記者を経てフリー。グラフ雑誌などを中心に作品発表

'90「視点」奨励賞受賞。


脱原発:首相官邸前集会

脱原発に向けて、国境を越えて市民一人が思いをこめたプラカードをもって、参加している。3・11への怒りを切り取った写真の数々。
(2012/11/26)

明浜

毎年、10月に入ると、私はそわそわしはじめます。17年前から毎年訪れる愛媛県西予市明浜町の各集落で、いっせいに「秋祭り」が始まるからです。今では第二の故郷に帰るような気分です。
 みかんやちりめん、真殊で有名な字和海から、南予の伝統が色濃く残る、この秋祭りをご紹介します。(2012/12/01)

ライプツィヒ


1989年にニコライ教会を出発したローソクデモ・「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となったことは記憶に新しいライプツィヒ。(2012/12/28)

東日本大震災・民医連の医療活動

3・11のあの日以降、息を吸う間もなく多くのボランティアが救援活動を起こした。そして、全国から民医連の仲間も駆けつけた。(2012/12/21)

    


 編集人:飯島信吾
ブログ:ある編集者のブログ
企画・制作 インターネット事業団(本メールにご連絡ください)
UP 2012年11月07日
更新 2012年11月26日
更新 2012年11月28日
更新 2012年12月01日
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更新 2012年12月21日
更新 2012年12月28日