◆『臥しゐても――芹沢茂登子歌集』 店舗情報
手島繁1のページ
1999年9月24日 発行
著 者 芹沢茂登子
編 者 芹沢 寿良
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遺稿『わたしの早稲田・1951~55年』 芹沢茂登子 新着情報
第一章 思い切って飛びこめるものがないもどかしい思いで日々を過ごす(一九五一年大学一年)
私には早稲田大学の入学式の記憶がまったくない。一九五一年四月の初旬に、おそらく入学式は大隈講堂で行われたと思うが、私は大隈講堂に座った記憶もなければ、総長のお話もまったく覚えていない。そのときから四七年も経つと、人の記憶というものは、まことに異なり、ある人はその場面を鮮やかに覚えているのに、ある人はまったく忘れている
ということがよくある。
日記を書いていれば、その頃のようすがまざまざと思い出されるが、その頃は丹念に書いている日もあれば、まったく書いていないときもあり、入学式についてはまったく思い出せないのである。
しかし、四月の陽光のきらめきわたる日、早稲田大学に行ったということだけは鮮やかに脳裡に焼きついている。
当時、私は早稲田大学に歩いて約一五分のところに住んでいた。大隈講堂と神田川を挟んで、北側の高台、現在では目白台といわれている高台にわが家はあり、近くの目白通りには日本女子大、裏手には東大病院の分院があった。
村上春樹の『ノルウェーの森』を読んでいたら、うっそうとした森に囲まれた学生の寮「和敬塾」に彼が住んでいたらしい記述がある。その学生たちの寮は、私の家のすぐ近くにある。私の家から南に向かって、その和敬塾と講談社の社長野間さんの広大なお邸の間の道を行くと、正面に大隈講堂の時計台が見え、胸突坂という石畳みの古い急坂がある。左手は現在の椿山荘の高い塀が坂にそって長くつづき、降りきった神田川ぞいに芭蕉庵がひっそりと建っている。
急坂を降りる右側には、小さな祠と、見事な銀杏の大木がある。今もそのままの姿を残している胸突坂は、あまり人通りがなく、いつもひっそりとしている。
それは、その名の示すように降りるにはよいが、登るにはそれこそ胸を突くような急な坂だからかもしれない。
早稲田へ降りるには、もう一つ日本女子大の近くに豊坂という坂があり、こちらは坂の幅も広く、胸突坂よりややゆるやかで、車も登ったり、人の行き来もはげしいが、私が利用するのはもっぱら胸突坂で、登りはきつくともこの坂の静かさと落ち着いたたたずまいが、なんとも好ましいからである。
その日、私は希望に胸をふくらませて、足どりも軽く胸突坂を降りていた。神田川にかけられた橋を渡り、一五番の市電が茅場町までガタゴトと走る大通りを渡って、小さな道に入ると、そこはもう早稲田の商店街である。
ショーウインドウに黒の詰襟の学生服や例の四角く先のとんがった角帽がきちんと飾られ、清潔な店内に几帳面そうなおやじさんの姿が見える。
そして、そこまで来ると大隈講堂のほうから、なんともいえぬ活気に満ちた騒がしさが伝わってくるのだった。
大隈講堂の前の広場も、その前面から大隈さんの銅像まで続く構内も、おもちゃ箱をひっくり返したようなにぎやかさで、人がごった返していた。
「××同好会へようこそ」「自由人よ集まれ」と大きな紙にはみ出さんばかりに書かれたサークル勧誘のことば、その前で奇抜な格好をして、勧誘の声をはり上げている学生。
角帽に詰襟姿のまじめな姿で一生懸命サークルの勧誘をしている人々、その一つ一つの呼びかけは忘れてしまったが、四月の日差しは、この大きなおもちゃ箱をひっくり返したような広場と人々をあまねく照らし、立錐の余地もないその人々のなかを、私はただ呆然と足を運んでいた。
同じ高校から、またクラスから誰かが受験して合格していたら、その友達と待ち合わせて、いっしょにここへ来たかもしれない。けれども、この日私は高校を卒業してから二年、旺文社という出版社に勤めてから受験したので、知り合いもなく、たった一人で大学に来たのだった。
この日は、ただ、その凄いエネルギーに圧倒され、人混みのなかをさ迷っただけで家に帰ったのだろう。
それから数日以内に、私たち新入生は事務室でもらった一覧表と掲示板に貼り出された授業の表をもとに、必須科目と選択科目の申し込みをしなければならなかった。
文学部英文科に入学した私の必須科目は、大沢教授のジョイスの授業、渡利教授の講義、尾島教授の「詩学」、本間一夫教授の「文学概論」、当時演劇評論家としても名をなしていた飯島正教授の講義、アメリカの詩人でもあるライエルさんの詩の授業、坪内逍遥のご子息にあたる坪内士行教授の「シェイクスピア」の授業などであった。
大沢先生をはじめとするテキストをもとにした授業は、下調べをしていかなくてはならないが、本間先生は文学概論を日本語で話される。
女優の坪内ミキ子さんの父上でもある坪内士行先生の授業は、歌舞伎役者が大見栄を切るような芝居がかったせりふのやりとりの実演で、シェイクスピアのシャイロックなどを演じられ、とても楽しかった。もちろん英語は使わない。
だから、英語力を培おうと思わなければ、いくらでも抜け道のある授業だったのである。ディッケンズにしても、オスカー・ワイルドにしても、スタインベックの「怒りの葡萄」にしても、シェイクスピアの作品にしても、みんな翻訳された本が出ていた。大沢先生の現代のジョイスの作品、ライエルさんの授業などは、予習をしていかないと、あたって訳させられるので、ごまかしはきかないが、なんとか日本ですでに出版されている本を読んでも卒論が書けるなどと、たかをくくってしまったのが、そもそもの間違いであった。
いやいや、そんな大それたことを思わないでも、英文科を選んでしまったのは、まず最初の、そして基本的な間違いであった。
動機は明白である。高校を卒業し、父が戦死して、逼迫状態にあったわが家の経済状況を打開するために旺文社に就職したのだが、その心の底には出版社という文化的雰囲気のなかで働けることと、いつの日か、その出版という編集の仕事に携わりたいという願望があった。
しかし、実際に配属されたのは総務部秘書課であり、編集の仕事は大卒でなければいけないという現実であった。時間外に夜の学校に通うことも考えたが、秘書は社長が帰るまで帰ることができず、いつもいつも帰りが遅くなるのだった。
業務部の人達は五時になると、さっさと仕事を片づけて帰れる。もう一人、ベテランの秘書のアシスタントのような形であったにせよ、秘書の私は社長が仕事を終えられるまでは帰れなくて、予定が立たない。せっかく申しこんだ「ロゴス英語学校」も、数回行っただけで行けなくなってしまった。
そのうえ、編集部企画の座談会が、夜、社屋に隣接した社長の私宅の会議室で催され、そのお料理を社長の妹さんが作って、フランス料理のフルコースでもてなすのが恒例であった。私たち二人の秘書は、そのお料理を作る段階からお台所で手伝い、テーブルセッティングをし、ウエイトレスになってフルコースをお客様にお出しする。戦後間もないその頃は、銀座もまだ焼け跡のまま復興に至らず、レストランなど、ほとんどなかったのである。また、社長の妹さんがフランス料理の名手であったところから、フルコースのお料理が出せたのだ。
コーヒーとデザートがすんで、社長や座談会の出席者をお見送りしてからが私たちの食事タイム、だいたい夜の一〇時頃から食事となり、一一時の赤電に間に合うように、口をぬぐいつつ、あたふたと横寺町の市電の乗り場に駆けつけた。
こうした日々を送っていたので、私はなんとしてでも大学に進学し、大学を卒業したら編集の仕事につきたいと思っていた。
だから、学部はどこでもよかった。文学という点で好きだったのは、むしろロシア文学であった。兄が早稲田の露文科に学んでいたこともあり、その影響でトルストイやツルゲーネフなど、ロシア文学は高校生になってから、よく読んでいた。
しかし、当時ロシア文学科を出た人に就職は少なく、新聞社の外信部に入れた兄などは、たいへん幸いなケースであった。露文科の学生が就職できるのは、左翼系の小出版社が一、二あるだけで、就職はまずむずかしかった。
英文科なら就職に有利である。そんな漠然とした理由で、英文科を選んだが、正直いって、イギリスやアメリカの作家にも作品にも、ちっとも興味がもてなかった。翻訳された本でも、ロシア文学は手にとろうと思うし、ツルゲーネフの『その前夜』にしても、『處女地』にしても夢中になって読みはじめられるが、アメリカやイギリスの作家の作品には入っていけない。
そのうえ、語学力は不足していて、訳す力がない。授業の予習をしても、「もしあたったらどうしよう」といつもびくびくしていた。二年間のブランクは大きく、コンプレックスが先に立って、いつも逃げ腰であった。
英語力の不足を身にしみて感じているのであれば、猛然とそれに立ち向かえばよいのにそれもいやで、逃げることばかり考え、みじめな気持になっていた。
第二語学はロシア語をとった。ブブノワさんという老婦人で、有名なヴァイオリニスト小野アンナさんのお姉さんにあたる方が教えていた。その授業は実に魅力にあふれていた。
ゴールキーの詩を原文で暗記するようにいわれ、その詩は五〇年経った今でもそらんじることができる。静かな夜の道をうたった一節だが、とても心に響く詩であった。しかし、ロシア語はすべて忘れてしまった。あの暖かい響きがとても好きであったのに。英語の発音はどうも苦手なのに、ロシア語の発音は、むしろしやすく私の性に合っているように今でも思っている。
教養科目というのか、選択科目で河竹繁俊さんの「演劇概論」がとてもすばらしかった。日本の伝統芸能、とくに歌舞伎についてのご講義だったが、たいへん造詣が深く、興味のつきないお話だった。さすが早稲田大学だと思った。この他にも魅力的な授業はあった。
課外授業として大隈小講堂で行われた音楽の講義には欠かさず通った。
NHKの名解説者である村田武雄さんや、バッハの権威である辻荘一氏が、実際にレコードをかけて解説してくださる。これほどおもしろい授業はない。
じつは旺文社時代に、職場の仲間や地域の仲間と、レコードコンサートでクラシック音楽を鑑賞するという「私たちの音楽愛好会」をつくっていたので、このレコード音楽鑑賞の授業はじつに興味のつきないものであった。第一人者の両先生の解説を聞けたことは、またとないよい機会であった。
大隈講堂の地下にある小講堂は、いつもこの講義を聞きにくる学生でいっぱいだった。実際にレコードで曲を聞きながら、先生の解説を聞けるのだ。音楽人の関心と楽しさは限りなくふくらむのであった。
鈴木二郎先生の社会学の講義というのもすばらしいものだった。一九五一年の当時、社会学という学問の分野は、まだあまり知られていないので、脚光を浴びる前の時期ではなかったのではないか。初めて聞く社会学という分野の学問のことばは新鮮で、内容はたしか都市学という形のものだったように記憶するが、その視点の新しさと講義のおもしろさに、ぐいぐい魅きつけられるものがあった。
鈴木二郎先生のお人柄もじつに魅力的で、新進気鋭の学者という雰囲気に満ち満ちていた。背が高く、広い額に、やせぎすな長身でさっそうと講義をなさる。
初めて知る社会学にたいへんな興味を抱き、その気持があれば、先生に伝えて研究会なり何なりに入れていただくという行動をとればよかったのだが、入学したばかりの私にはその勇気がなく、ただ遠くから先生に憧れて眺めていただけだった。そのくせ、満たされない思いでいたのである。
その他にも名物教授として知られる暉峻さんの国文学の講義もあったと思うが、希望者多数で受講できなかったらしい。
このように学ぶ気になればすばらしい先生方はいたのに、近づくのをためらっていて、機会を逸しつつ、満たされない思いをひとりで抱いている日々を過ごしていた。
その後、鈴木先生は都立大に移られ、ついに学べる機会はなかった。
自分にぴったりの研究会が見つからない
一方、興味のあるテーマで入会しようと思えば、研究会やサークルは山ほどあった。文学系のものは、文団連という組織に属していたが、社研という名で知られていた社会科学研究会や民科と呼ばれていた民主主義科学者協会という研究会、歴研と呼ばれていた歴史学研究会など、大学外の大きな組織として、すでに有名なものであった。
戦後、こうした民主的なというか、左翼的なといわれていた研究会は急速に広がり、高校でも政治的な関心を持ち、学生運動を展開していた学生は、すでにこういう会に入って勉強していた人もいた。
しかし、私が四年生のときに編入学した都立第二高等女学校は、数年前まで府立第二と呼ばれていた女学校だが、あまり他校からの学生運動の影響もなく、おとなしい進学校であった。学制改革によって、女学校五年生で卒業する人たちの三分の一は家庭で花嫁修業の道を選び、三分の一の人たちが東京女子大など女子の専門学校に進学した。
当時は、まだ大学ではなく、専門学校であった。残りの三分の一は新制高校の三年生に編入することになり、新制高校としての第一期、初の卒業生となった。
私は新制高校の三年生に編入した。間もなく自治会をつくるということが、下からの盛り上がりではなく、新しい高校のシステムとして、上からつくられ、なぜか私はその自治会の委員長に祭り上げられてしまった。
高校は、大阪の場合、かなり機械的に男女共学になっていった。たとえば、私が戦前入学していた清水谷高女は女学生ばかりだったが、戦後、新制高校になると、東京よりかなり早い時期に男子校の高津中学と半々の生徒数が入れ替わり、男女共学になった。
男女共学は、この新制高校の一つの目標でもあったが、都立第二から竹早高校へと名前は変わっても、戦後かなり長い時期、竹早高校は女子ばかりの高校であった。
その名のように竹早町にあった竹早高校の隣の市電の停車場は、小石川であり、やはり、ナンバースクールの五中があった。この府立五中も都立五中となり、小石川高校と名前が変わったが、竹早同様、男子のみで、その自治会の委員長や副委員長と、私たち竹早の側の委員長、副委員長は何度か自治会のことで打ち合わせをしたが、何をしたのかさっぱり覚えていないし、ここにも他校でさかんになりつつあった高校での民主化運動や学生運動の影響はなく、その意味では温室状況であった。
府立第三の駒場高校他では、すでに社研に入る女子学生もあり、共産党などの指導も得て、教育の民主化等、学生に激しい動きがあったようだ。
その高校に、そういう意識を持った革新的な立場の教師がいたところが、急進的な活動を始めていたようだ。先生の影響力はまことに大きい。しかし、竹早の先生方には、そのような先生はいなくて、戦時中の学力不足を補うべく、思想的な話には触れず、授業に熱心な先生がほとんどであったように思う。
私は、墨で教科書の軍国的記述の部分を消した記憶がない。
しかし、社会の先生が、「これからは天皇陛下は、象徴的存在になった。平和の鳩がその象徴的存在である」と、おっしゃったことばだけに印象を強くもっていた。
「戦時中は、現人神(あらひとがみ)といって、神であったものが、今度は鳩か」なんだかピンとこないまま、象徴ということばにだまされてしまった感がある。
戦後で食糧事情もわるく、男の先生はカーキ色の国民服を着て、生気のない顔をし、授業をやっとこなしているという感じの老先生もいたが、新しく配属された若い先生方には、やはり伝統あるナンバースクールで教えるという意気もあり、また古くからいる女学校の先生には、その伝統ある教育内容と校風を絶やすことなく、堅持していこうとする誇りがあって、熱心な授業が毎日行われていた。
東大の大学院で物理を専攻する優秀な若い先生やルックスもいい美術の男の先生に、みんな熱をあげるなど、政治運動とは縁のない温室のような学園生活であった。そのなかで、みんな一生懸命に授業の予習、復習やテキストのための勉強をしていた。
こうした政治とは無関係の女学校にひきつづいての高校三年生の生活であったが、私の社会問題への関心は、毎日の新聞を読むことで、じょじょに育まれていた。
新聞については、私は戦時中の女学校時代からよく読んでいた。とくに、戦時中は本の出版も不可能になり、新聞が唯一の情報手段であった。しかし、戦時中は新聞をはじめとするすべての情報は、軍の情報局の統制の下に、軍国主義の徹底をはかるものであった。日本の戦争を正当化し、煽るものばかりだから、国民も子どもたちもみなその情報を信じ、「日本はかならず勝つ」と信じて止まなかった。
海外の情報もすべて遮断されていたから、諸外国が日本に対して、どう見ているかもわからず、私などはひたすら軍国少女として、疎開もせず、勤労動員で枚方の軍需工場に通い、弾丸づくりに精を出していた。
ひそかに海外放送を聞くのがわかったりすると、たちまち憲兵に捕らえられて投獄されるという時代であった。それでも識者には、日本の敗戦を予知していた人々もあり、また、「少年H」を書いた私と同年齢の妹尾河童氏などは、かなり戦争に対して少年ながら批判的な考えを持っていたから、すべての少年少女が軍国少年であり軍国少女であったわけではない。
しかし、ほとんどは国の勝利を無批判に信じ、私などは「最後の一人になるまで戦おう」と決意していて、日本が負けるなどということは、露一つ疑っていなかったのである。
国をあげての報道の統制を、一貫した軍国主義教育のなかで、私は頭の先から爪の先まで軍国少女になり、その道をまっしくらに進んで信じて疑わなかった。
その経過については、前著『軍国少女の日記』(カタログ・ハウス刊)に書き綴ったが、その新聞も戦争の末期には、小さなタブロイド版一枚となり、国が焦土化して、配達システムはなくなってしまっており、駅までか、その周辺に買いに行ってやっと入手できるという状態であった。それも毎日というわけにはいかず、原子爆弾の投下をはじめ、真実は知らされず、私は軍の都合のよい形での情報操作の下に、事実に反することを知らせて、それを信じて止まなかったのである。
こうした経験があったので、戦後、打って変わって論調の豹変した新聞の論調に、私はどうしてもついていけないものを感じていた。
上のいうままに信じてはいけない、自分が少しでも納得のいかないことに、すぐ染まってはいけない。
私自身があまりにも容易に軍国少女になってしまっただけに、戦後の生き方の中心に、この「納得のいかないままに行動するのはやめよう」ということだけは、私の核になっていたように思う。
関心をもって新聞を読んでいたものの、手のひらを返したような人々の変わりように、苦々しいものを感じるのだった。
それでも、一九四五年一二月一二日には、早くも婦人参政権が認められるという衆議院議員選挙法が改正公布され、そして一二月一四日には貴族院を、一五日には衆議院を通過した。これからは女性もこういう形で政治に参画できることを知り、ワクワクするものを感じた。
そして、一九四六年四月一〇日の総選挙では、女性の六六・九パーセントが投票し、三九人の女性代議士が当選した。
私の社会問題への関心について、話は戦時中まで逆戻りしてしまったが、ひきつづいて関心が深まったのは、高校を卒業し、旺文社に入社してからである。
せりざわ・もとこ
一九五五年一文英文卒。ダイヤルサービス株式会社顧問を経て一九九八年九月二四日死去。
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この遺稿は、故人が一九九八年六月からの自宅における病気療養中(膠原病と骨粗鬆症)に『約五〇年、学びつづけ働きつづけてきて』というレポート(平成一〇年度日本女子社会教育会入選レポート)を書き上げた後執筆をはじめた『私の早稲田・一九五一~五五年』の第一章の一部分である。 (芹澤壽良)
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(「サキクサ短歌会」第十回サキクサ賞)
準サキクサ賞
四万十川を行く
芹澤茂登子
今朝捕れし蟹動きゐる魚籠を見せ漁夫は語れり四万十の漁
手すりなく一本道の沈下橋初めてに見つ四万十川に
川荒るる時し流れに逆らはず沈みしままの沈下橋とや
沈下橋渡りいゆけば川の面の流れは速く目まひ覚ゆる
四万十の四季の話しを聞きてをり川風わたる舟主の家に
杉皮に屋根を葺きたる屋形船白き障子の川面に映ゆる
小さき魚ときに光りて川底に身をひるがへす四万十の川
夫は漕ぎ妻は艫にて鮎焼きて舟はゆるりと四万十を行く
川のりもえび蟹うなぎ鮎なべて四万十の幸舟の昼餉に
四万十の中州に立てば対岸の高き木末にうぐひすの鳴く