07/03/20

●ルポルタージュ「いのちとくらし」
『いのちとくらし』(非営利・協同総合研究所いのちとくらし、NO.18、2007年3月号)

                              今崎 暁巳

 私は、非営利・協同総合研究所いのちとくらしに入れてもらうとともに、ふるさと島根県の生活協同組合連合組織に呼ばれて、平和をテーマに、「どうして-"いのち-"と-"くらし-"が大事なの…」ということで話をした。
 私自身、「大動脈解離」手術と「大動脈弁置換」手術に1年おき、2度成功し、合併した脳梗塞のリハビリを兼ねた取材旅行のため、講演会として話すのは、久し振りだった。
 話すのは、折りしも、憲法改正を計画する政府与党が、10年後、子どもたちに戦争をさせるようにする目的で、まず「教育基本法」を絶対多数、ゴリ押しで、改正しようと必死になっている最中ということだから、とにかく「教育基本法」を変えさせないこと、さらに、戦争をしない国にするため、特に、憲法9条を守ることを実現する条件、国民の過半数支持を確かなものにすることを、1人1人考えて、行動しようと訴えた。
 軽い脳梗塞のためゆっくり話すことにし、書いた中身が、生協組合員職員の皆さんに伝わっただろうかと心配したが、聴いてもらった90人ほどの中、感想を書いた人20人の人が思いを語ってくれた。

 「事実から入る、事実と人間を表現することの大切さを訴えられました。事実は否定できない-"そのもの-"だからですね。
 生協でのつながり、あるいは、全国の「9条の会」の活動が、組織活動ではなく、人間の本質的な運動と共感で広がってきていることがよく分かりました。
 今崎さんが「いのち」の大切さを感じられたことは、ご自分の病気のご経験が大きいこともありましたが、取材を重ねられ、常に、命の事実と向かいあった人たちが、その中心にあるからだと感じました。
 常に、くらしとして、切っても切れないこと、くらしの中でこそ、語りつながり、広がりを持つ大切さ。あるいは、日々のくらしで、人と人が、温かくつながりあう大切さ。
 本来、生協は民主的、自主的、そして……と、あためて、「協同」を深めることが、今後の課題だと、受けとめました。」
生協しまね 野津久美子

 「心のこもった今崎さんのお話を通して、マザーテレサの『愛の反対は無関心、憎しみでも、暴力でもない』という、戦争をしない思いが語られているこの言葉の大切さを、改めて感じました。
 取材3年を通して、大正11年生まれの人の生きざまを書いておられて、この『いのちの証言』を、ぜひとも読んでみたいと思います。
 いのちの大切さが、叫ばれる今、若い人たちにも、この本を通して、命の大切さを伝えて欲しいです。今日はありがとうございました。」
生協しまね 佐藤安子

 私の、この旅行の目的は、もう一つあった。私のふるさと、三瓶山、隠岐の島を訪ねて、三瓶診療所2代目医師をついだ兄が、どんな風に、周辺過疎地医療を続けているかをみること、特に、周辺住民が高齢化進行の中で、どう「協同」して生活を続け、農業を続けているかを見とどけること、が、目的としてあった。

 私の旅行目的を決めるに当って、研究所の『いのちとくらし』16号掲載の座談会「格差社会の代案とは」が提起する問題意識があるのは、確かなこと。
 「なぜこうなったかというのは、町が壊されていて、隣り同士のつきあいはないし、町会も老人会も成立しなくなっているというのが大きいと思います。個が確立しているともいえますが、やはりそうではなくて、コミュニティでお互いに助け合ってきた日本のいい伝統を壊して社会保障を切り捨ててきています。きれいなビルがどんどんできても、中ではお互いがバラバラというのを何とかしないと、どう再構築するかが課題ではないかと思います」。

 こういうのは、私も知っている東京民医連の前沢淑子さんで、この人は、村でもどことも合併せずに、老人医療を成り立たせている長野県栄村を撮りつづける写真家でもある。

 「運動の共通意識、共通の場というものをどう作ればいいのでしょうか。現在は労働組合、個人、政党などがそれぞれバラバラに動いているように思いますが、共通の意識や場を作りあげていかないと、この問題に対して有効な対応が出来ないと思います。」と司会の石塚秀雄さんがいうと、後藤道夫教授が首都圏における新しい労働組合、青年ユニオン誕生のことを話した。青年の労働組合作りのことは、やがてつっこむが、この旅の中では、過疎状況の高齢化進行の中でも、新しい「協同」が始まりつつあることを伝えることにする。

 今度の医療を軸に、「生活協同」をみる旅行に一番適した友人、柳原さんと、兄の働く三瓶山の麓にある三瓶診療所を訪ねた所から、ふるさと島根県の過疎状況における生活協同の姿が、早速、見えてきた。診療所に到着すると、北里大出で内科医になった甥が、兄を助けて60人(前日と合わせて)ほどの近隣住民の診察投薬を終え、午後、羽田にむけ、出雲空港を飛び立ったばかり。甥は、神奈川相模原市の病院で、待っている患者を今日も診るのである。彼は、病気になった父を助け、金曜午後、土曜午前と診察することを続け、5年目になる。

 出雲市民病院長であった父義則が、三瓶開拓団に懇請され、診療所を開き、当時高校理科教師だった兄が2代目医師をつぎ、更に3代目となった甥が、もう3年で半世紀50年になる過疎地医療の灯をたやすことなくつないでいることになる。
 考えてみると、人口増の首都圏相模原市の人口は、島根県全体の人口とあまりかわらない。与党の市町村合併政策の結果、20万近い松江市、13万ほどの出雲市が軸になり、安来、雲南、大田、江津、浜田、益田と市といっても、4万5万の街がつづき、観光で知られる津和野などの町、驚くことには、村として残ったのは、離島隠岐島、知夫郡知夫村たった一つなのである。

 数年前に三瓶診療所を訪ねた時と、1100mの三瓶山麓そのものが大田市に含まれ、市民の生活そのものが、生協しまね大田支所が生まれたことにより、「生活協同」できる条件が確かに前進していた。

 「うちと看護師さん3人、近所2軒、あわせて6軒で、診療所班を作っている。」
 兄がいうと、1週間に1度、生協商品を運んでくれる、柳楽さんがいった。

 「裾野が広い三瓶高原には、東西南北の山ひだに、診療所のある志学、池田をはじめ200戸、100戸など、集落があります。小屋原、多根、北三瓶と、三瓶山麓だけで40班ほどあり、集落が離れていて、配達するのに2月半かかります。大田市街地と周辺に2日以上かかり、合わせて、週5日の配達を、10人の担当者でこなしています。」
 かつて20代の時、配達担当であった柳原さんが、今、生協しまね全体のアンケート調査をやると、80歳以上の一人暮らしの男性組合員から声が返ってくる。
 「毎週、助けて下さって有難うございます。」
 ほとんど、若い人たちの就職口がなく、夫婦あるいは男女の一人暮しが増える高齢化社会進行の先頭を切る県であることは変りないけれど、秋に、NHKのドキュメント番組で、その流れをくいとめる報道をしていた。
 大田駅に近い、65歳以上の住民が40%をこした、温泉津町で、80過ぎて、温泉旅館をやめる主人夫婦に代って、経営をひきうけ、20代の働き手数人とともに、魅力ある温泉づくりをする30歳の女性のドキュメントである。都会にない温泉文化を生かし、仕事づくりをする現場に行く時間はなかったが、三瓶開拓団が切り開いた新しい農業が2代目を育て、40代の酪農家たち、肉牛の300頭飼育を実現し、この人たちも、生協しまねの運ぶ食料で生活を創っていた。

 ここで、島根県では、敗戦、帝国憲法廃止、47年平和憲法創立とともに、医療の民主化が始まり、非営利・協同の島根県民主医療機関(民医連)に4人の医師が結集した時から、すべてが始まったことに触れよう。
 戦争中、京都大学医学部学生の時、治安維持法違反の罰を体験した金森医師、中国から帰った松井医師、私の父の日赤後輩、今村医師(後の大阪耳原病院院長)、疎開で隠岐浦郷診療所にいた私の父。そして、民医連であるとともに、医療生協組織に加入した松江保健生協病院が発展する中で、1984年に購買生協、生協しまねが誕生し、今は全県をエリヤにして、55000世帯、世帯数の22%になっていることも大きい。私がこの旅で、全県エリヤでの「生活協同」の到達点を調査する出発点になればと考える次第である。

 まず、1960年まで父が院長であった出雲市民病院を訪ねることにする。その後の常陸院長の時代、大きく発展して、2001年に医師16名180床の入院病棟をもつ病院になり、2004年には、医師2名によりリハビリテーション病院として、第2病院をもつことになった。象谷常務理事は、これまで、民医連病院として持続し、つみ重ねてきた蓄積を語った。
 「76年に、最初の建て替えをやりまして、13人の出資者の医療法人でやってきたのを、市民病院友の会組織を作り、350人の友の会組織となりました。この数をもっと増やそうと努力もしましたが、2001年の10000uの建築、180床の病院にすることの中で、友の会会員を5000、6000と増やしていきました。」

 そして、象谷理事は、語った。
 「04年に県にリハビリ病院に認定される頃から、松江保健生協からの呼びかけもあり、医療生協組織として、ともに、松江、斐川、出雲とつながって、出雲部全体の医療状況を、民間の医療協同組合の連携による改善を目指し、同時に30%に近づく生協しまねの生活創りと重なりあうことが可能になったら、ということも考えます。」
 象谷常務の40年をこえる民医連出雲市民病院の創造の物語を聞いた。二つの病院建設の現状を見せてもらい、非営利、協同(民医連)が生んだ建物といい、土地の広さといい、私が日常的に利用している、東京の民医連、医療生協の施設との違いを認識しないわけにはいかない。学生時代に入院した出雲市民病院は、木造2階建で、入院病床も、病院ぎりぎりのベッド数であった。それを現在の医師16名、1万uの建物、さらに、医師2名のリハビリ病院、そして看護師など400名をもつ病院を8000人になった友の会で創ってきたのである。

 さらに、医療協同と、食品購買協同を結んでいる柳原担当の車で、午後訪ねた斐川町にある、斐川医療生協病院を見せてもらった。町単位で、医療生協病院をもつ困難を教えてもらうことになった。窪田専務はいう。
 「金森先生が斐川町で医療生協病院を創られてよかったんですが、今の政府の医療政策、一昨年の医療改革で一般病院か療養病床病院かで分けられることになった際、50床あったのを、収入は少なくても療養病床病院にしようと、思い切って120床に増やしたんです。しかし、ベッド数を増やしても、町単位で入院患者がそう増えることにならず、それには、看護師が集まらないことも大きいのです。無理もありません。療養病床だけでは、初めはいいのですが、看護技術の勉強にならなくてやめるということ。松江も出雲も研修医指定病院ですから、医療技術、看護技術を学べるということです。とりあえず、医療制度の県域統合の方向で、まず、出雲市民病院との統合をと象谷常務と話しました。」


 現在の斐川医療生協は、療養病床116ベッド、医師6名、看護職員50名、職員162名(常勤120名)。
 前松江保健生協病院高取専務も一緒に話しあううちに、父と一緒に島根民医連を創った金森先生が、90歳になられるけど、週に1日、患者を診られて、お話しをなさると分かって、ぜひ、お会いしようということになった。
 「民医連は、早く作りましたが、53年に、あなたのお父さんに、隠岐に行ってお会いして、出雲市民病院長になって頂くのを、お願いしたんですよ。」
 金森先生は、そう話しながら、出雲の名菓で、お茶をすすめて下さった。
 翌日、訪ねた松江保健生協高橋健専務はいう。「生協しまねが事業として、取り組んでいる『コープおたがいさま』は、組合員一人一人が、有償で他の人の必要な行動をする仕組で、従来、医療生協が介護の日常で取り組んでいる仕事を、働き盛りの主婦や中高校生以上のアルバイトとして、一挙に拡げる、大切な分野になっています。さらに、『よちよち個配』もそういう役割をしています。」

 コープおたがいさまの応援内容をあげると、
 食事づくり・買い物・掃除・洗濯
 保育所・幼稚園の送り迎え・乳幼児・子供の世話
 通院・話し相手
 庭木・植木の手入れ・病院の薬とり・順番とり・犬の散歩・猫の世話・役所・銀行への代行など。
 また、妊娠中の方、子育て中のお母さんの-"よちよち個配-"は、妊娠中の方は無料、満1歳をすぎると、すこやか個配200円。

 高橋専務はいいつづける。
 「保健生協として月刊で作っている『強い体』を、組合員(35000人)1人1人に届けて読んでもらえるよう、地域別に1700人の組合員さんに、10部から20部ずつをお願いしています。文字通り、1人1人が強い体になるために必要な情報を、医師、看護師はじめ、専門の知識・経験を生かして、保健生協から発信するのを、組合員さんに届けてもらうことを、毎月、くり返すのです。
 そして、その後は、組合員さんおたがいの関係になることが重要になります。しかも、毎月休まずに、組合員さん同士が自分たちの確かな知識、情報を伝えて、少なくとも、月1回、考え、行動することが習慣になることが大事になる。そうすると、少なくとも日に一度は、考え行動するようになって、1年続けると自分の、自分たちの生活行動になっていきます。それが、『生活』を『協同』して行く楽しみになっていくのです。」

 高橋専務はさらにつづけます。
 「毎月、必要な情報を知らせつづけると、やがて、一定の人数、すなわち、班か支部の人数くらいで集まって、より健康、より強くなるための行動を、2週間に一度か1ケ月に一度か、くり返すことになっていきます。」
 そういわれれば、東京の私の家の近くでも公共の会館で、中高年女性が集まって、月に一度の健康創りを、1年2年と続けている。リーダーは70代半ばになっているが、劇団の女優さんで、肉体の訓練のせいで、40代の体力があるといわれる人というわけで、教える人も教えられる人もみんな楽しみながら行動することが実現している。

 高橋専務は、しめくくるようにいった。
 「私たちの生活協同の運動は、戦後の医療の民主化運動の中から始まったということができます。90歳の金森先生は、診療活動をまだやっておられますが、4人の医師の先輩が島根民医連を創ることから始められたということができます。現在は、島根県の場合、民医連、医療生活協同組合が、民間の医療機関として、松江、斐川、出雲の医療生協が県域連帯でつながり合っています。松江保健生協の発展として生まれた食料購買の生協しまねも55000世帯、県民の22%以上の生活協同組織に成長したことによって、これからは、高齢化社会の深まりの中で、事業的にも、福祉、観光、文化の各分野を生かして、老いも若きも、本格的に協同して取り組むことができる、新しい世界を切り開くことができることを思っています。未来の協同の世界は、自分たちで切り開いていきます。」


 入院病棟330床をもつ、松江保健生協病院の組合員、患者の立場からみる各科診療の現状を紹介する。まず、取材ということで、柳原さんの車で訪ねると、患者用の駐車場300台近く、職員用の駐車スペース300台、合わせて600台近くの駐車場があるのには、恐れいった。バス通勤がほとんど用をなさない状況、農村に近い中小都市の現実では当然ということだろうが、東京の生協病院で患者用でも職員用でも5、6台の駐車場しかもてない現実を考えれば、複雑な思いになる。

 外来診療は、通常、午前8時から12時で、予約と新患の内科・神経内科、放射線科、整形外科、外科、乳腺・甲状腺・小児科、脳神経外科、耳鼻咽喉科、皮ふ科、眼科の10科。午前外来の時間でも、専門外来として、週1日は大腸肛門、ストマ、血管、頭痛、呼吸器・不整脈としてそれぞれの科で受診できる。そして月1回小児循環器、小児腎臓病、小児脳神経の診察を予約してとることができる。さらに、週1回、予約すれば、禁煙に関して診てもらえる。そして、歯科も毎日受診できるし、もう一つふれあい診療所で、毎日、レディス外来として、3人の医師による女性診療科、さらに2人の医師による乳腺・甲状腺の診察が常時受けられるのも、松江保健生協病院の女性組合員の要望で生まれた特徴といえる。

 高橋専務が強調するように、月刊紙『強い体』を毎月1700人の組合員が、直接、組合員仲間に配り、読んでもらうことによって、必ず、何かの生活協同の行動が起こることになる。その結果、班か支部の行動が起る様子を、チラシで「10月班会の様子」として、また配った中味を伝える。

 まず、それぞれの様子をとった写真4枚をかかげ、大庭支部-"花と温泉を楽しむつどい-"、本庄支部川部班-"介護予防体操-"、海潮支部-"窓ふき・草取りボランティア-"。西川津支部しらゆき班-"リンゴ刈り-"という風に、紹介する。そして、それぞれ行動した123班の楽しみを伝える。特にテーマのない班は「おしゃべり」あるいは「お出かけ」「コーラス」「ゴキブリ団子作り」というのもある。特にテーマがなくても、班で5、6名集まって、おしゃべりをし、歌をうたえば、楽しくなるのである。

 組合員同士が、1700人の語りかけで、新聞の情報をもとに横につながって、班・支部の組合員が行動を起こす。その時、生協職員8人が高齢者の暮らしが大変だと、調査に入って報告する。
 「家の中は手すりもついており、ご自分で生活されていたが、外には全く出ないとのことで、誰かつきそってくだされば出てみたいとのこと、地域の協力があればもっと暮らしが豊かになるのに……と感じました。(介護職)」
 「『年をとったら、死ぬしかない』という言葉聞いてとても心が痛みました。(看護師)」
 「健康で自立していることが一番大切な事だと思いました。(看護師)」
 「地域に出てみないと実態はわからない。ご本人の生き方を支えるサービス導入を何とか実現したいと思った。くらしに役立つ生協としてもっと地域の中に出かけて行かないといけないと感じました。(看護師)」

 私の1日の平和講演会の出席、3日間の、島根県の生活の中に「協同」の必要性を見つける旅は、一緒に行動して下さった、柳原さんのお蔭で、短時日で必要な人に話を聞くことが可能になり、私が思い描いたテーマにそって、無駄なく、取材することができた。
 あらためて、三瓶診療所、出雲市民病院、斐川生協病院、金森先生、松江保健生協病院の関係者、そして、民医連、医療生協と生協しまねをつないで下さった柳原担当者にお礼をいわせてもらう。

(いまさき あけみ、ノンフィクション作家)






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