モップとダイヤルの叛乱
(表紙)

制作
竹の子ニュース編集部
協力
越谷委託労働者組合
自治労・越谷市職員組合
埼玉学校委託労働者組合


プロローグ・武州越谷騒動


 ジャン、ジャン、ジャン、半鐘がけたたましく鳴り響き、晩秋の肌寒い夜の静けさを破った。
「おい、あれは何だ」
「山火事じゃろうか」
「それにしちゃ、小さな火が幾つも動いている」
 武州大沢宿(越谷市大沢町)の町民たちは、町外れにある浅間山の山影に揺れ動いている山火を不安気に眺めながら、口々に不安そうにささやきあった。
 そのうち、誰言うとなく「一揆じゃ」という噂が広がってきた。そういえば、今日は昼頃から町方の小者や馬丁、かごかきなどの様子がおかしかった。辻々にかたまって何やらひそひそやっていたのは、一揆の相談であったのだろうか……。
「浅間山に多勢集まって、酒や米を要求しているそうだ」
「要求に応じねば、町方や村方の重立(おもだ)ちに押し入り、打ち壊しも辞さないと言っているそうな」
 安政6年(1859年)7月、利根川の大洪水で関東各地は大水害を受け、米穀をはじめ諸物価は著しく上がり、小商人や物売り、日雇いなどの生活は困窮をきわめた。このため、各地の貧民は富裕な商家や地主を襲い、義援金や救米を要求して打ち壊しや強訴などの騒ぎを起こした。
 武州越ヶ谷・大沢宿の小作人や店借人、日雇いなどの困窮者が徒党を組んで浅間山に集合して、火を焚いて気勢を挙げたのは10月24日の夜半であった。一党は手分けして大沢宿の米屋や酒屋を襲い、米や酒を出させて困窮者達に分け与えた。一党はさらに自身番に代表を送り、義援金や米・酒などを浅間山に持ってこいという要求をつきつけた。
「不届き者どもが、成敗してくれる」と、名主江沢太郎兵衛は大いに立腹したが、代官所の手の者も間に合わない。
「ここは何がしかの扶持米を与えて騒ぎを静めるのが上策」と、打ち壊しを恐れる地主たちが妥協案を示し、とりあえず仲介者を浅間山に差し向けることになった。
 徒党側の要求は、「穀物の値段が余りに高くなって、その日の暮らしもままならぬ。来年3月まで米を安売りし、各人に金子1両を用立ててもらいたい」というものであった。この要求に対して仲介者は、「百姓とて水害のために難儀している故、1ヵ月の間だけ銭100文につき米1合の安売りで我慢して貰いたい」と答えた。「もっての外の返答。かくなれば、何分大勢ゆえ中には打ち壊し、押し入りもあるやも知れず、押えようもない」と強引に迫ってきた。
 仲介者は照光院に集まった百姓側にこの由を報告したが、百姓側も「60日間の米1合安、地代・店賃の2ヵ月分免除」しか譲らない。仲介者が何度も浅間山と照光院の間を往復して結局「60日間の米2合安、手当金として1人1分」を与えることで双方の和議が成立した。
 浅間山に集まった困窮者は220軒、しめて金55両。安売り米は銭100文につき米5合5勺が相場のところを8合売りの切手札が手渡された。この騒動には鷺後や高畑の困窮者も加わり、合計200両の諸費用がかかったという。これを大沢町百姓と、他村の越石百姓が田畑の所有割合に応じて負担した。
「かかる示談にてはいつまた騒動があるやも知れぬ」と、村の重立ち達が心配したように、これは根本的な解決方法ではなく、その後も事ある毎に貧民たちは徒党を組み、しばしば集合して一揆の気配すら見せたという。幕府、代官所は徒党の取り締りを厳しくしたが、こうした方法でしか生きる権利を主張できなかった困窮者を抑えることはできなかった。
 越ヶ谷宿では、このような騒動を防止するため重立ち百姓(地主層)が出資して毎年のように貧民へ金を施(ほどこ)していた。このため地主たちの不満は大きかったが、苛酷な地代を取りたてていた彼らが文句の言う筋合いではなかったのである。大沢宿と越ヶ谷宿のどちらが地主たちに得策であったか、いずれにせよ、村落共同体としての自治や相互扶助が大きく崩れ、無産者が増えるにつれて、貧富の利害対立は大きくなり、このような騒動は全国各地で広がっていった。



「うーちゃん、どうしたのよ、顔色がおかしいよ。何かあったんじゃないの」
 渡辺ミヨ子が、牛島はつ子の土気色した顔を覗き込むようにして言った。このところ牛島のつれあいの具合が悪く、1日おきに仕事を休んでいる状態であった。牛島のつれあいは、草加の石工として半世紀近く墓石や石細工を彫り続けてきただけに珪肺に犯され、近年はほとんど寝たきりの日を送っていたのだ。
「こんなものが家に釆てたんだよ、会社から」と、牛島は渡辺に1通の便箋を見せた。
 ありきたりの便箋に、達筆の文字で「お寒くなりました。其の後、永い事御無音の程失礼の至りで御座います。さて当本社人事の示進(ママ)に依り社員の長欠皆無を行へ(ママ)受入先の信頼に答へる為、此の20日にて一在籍の御遠慮をして頂きます故、御諒承下さい、以上  54・12・20」と書かれている。
「会社を辞めろって言うのかい。樺沢さんはどう言ってるんだい」
「前から休むたびに来なくっていいと言われてたからね。言っても無駄じゃないかね」
「それでどうするんだい。この暮になって辞めたら困るんじゃないの。他に仕事を探すっても容易じゃないよ」
「そりゃ分ってるけど。おじいさんがあんな調子だからね。もう少し良くなるまで家にいて看病してやるよ。生活の方は息子たちに何とかしてもらうよ」
 渡辺は笠原綾子や最古参の鈴木ミネらに相談した。共に越谷市立病院ができる前から、工事現場の掃除や片付けをしてきた古株連中であった。だが、彼女たちが元気づけても、牛島は「おじいさんを放っとく訳にはいかないから、辞めろと言われたら仕方ない」と、諦めるしかないと言わんぱかりであった。
「おじいさんが元気になったら、また戻っておいでよ。そんな時は、オラが樺沢に話をつけてやっから」と、ミネが大きな声で牛島を励ました。
「そうだよ。わたしもけがした時、樺沢に来なくっていいといわれたけど、市役所の塩田さんに願んで組合の役員の人たちが、本社とかけ合ってくれて、首にならなんだことがあったから、心配せんでいつでも来ればいい」
 ぼそぼそ声で牛島を慰めたのは栗原茂だった。栗原も家具職人を辞めてからは、元市長・島村平市郎の助言もあって、市の世話で市役所の清掃に入り、病院の営業開始と同時に東京ワックスの従業員となった古参である。仕事中にけがをして治って出て来た時に現場責任者の樺沢から来なくていいと言われたのだった。それを顔見知りの職員に話したところ、市職労副委員長の塩田泰が元請け責任を管理課に追求して撤回させたのだった。もっともこのため、この年に日給が2,560円から2,780円に引き上げられた時にも、栗原1人がそのまますえ置かれていた。
「まったくね、ちょっと病気やけがをしたからっていえば、すぐ首になるし。それでいて給料は安いんだからどうしようもないよ」「子供がもう少し大きければ、もっとましなとこで働くんだけどね。家や子供の面倒も見ながら働けるのは、ここくらいのもんだからね」
 と、笠原や渡辺がこぼし合った。彼女たちは病院のすぐ側の建売住宅に住んでいた。生活に困るということはないが、家のローンも少なくなく、子供も小さいために少しでも身入りがあればという気持で、市立病院の建設が始まった時から現場仕事に入ったのだった。
「現場はきつかったけど、給料は良かったからね。病院の掃除を頼まれて、あんまり安いんでびっくりしたけど、近くに適当な仕事もないからね」
 病院の駐車場の地下に、霊安室や倉庫と並んで「清掃員接室」がある。小さな窓はあるが、1日中陽もささず、天井の高いムキ出しのコンクリート壁の控室には、病院のスチーム暖房も、申し訳程度の温(ぬく)もりしか運んでこない。寒々とした気分で一同はそそくさと席を立って持場へ散っていった。長居していると、休憩中も仕事をして回っている樺沢に見つかって、気まずい思いをしなければならないからである。
「今度の日曜は出るのかい」と、笠原がエレベーターの中で仲間に聞いた。
「仕方ないだろう。日曜に出れは3,500円になるからよ。家でとうちゃんの相手してるよりましだよ」
「とうちゃんの相手は夜だけで十分だよな」と、近くの農家から来ている嫁が真顔で言ったので、皆は腹をかかえて笑った。エレベーターは地の底の様な寒い控室から、暖房の利いた近代的な病棟へ登っていった。
「いったい、いつになったら楽になるのかね」
と、65歳になるEさんが嘆いた。
「地獄だよ。清掃会社なんて、どこへ行っても同じようなもんだよ」
 誰かが吐き捨てるように言った。年の瀬の病室は普段以上に見舞い客が多い。大きなお見舞い品を持って、着飾った見舞い客が廊下や病室にあふれている。
 牛島はそんな中を、黙々として掃除して歩いた。情けなくて涙がこぼれそうになる。清掃室に入って、温水道の蛇口を一杯に開いてモップを揺さぶり続けた。もう、この病院に来ることもないだろうと思うと、見舞い客から卑(いや)しむように見られ、はいつくばってみがいた床までが妙に懐かしくなってきた。
 1979年12月暮、牛島はつ子は4年間働いてきた越谷市立病院の総合管理を委託されていた東京ワックスから無慈悲に解雇された。

著者口上

 前の話は『越谷の歴史物語第二集』(越谷市史編さん室、発行人=島村慎市郎)に収められている「大沢町徒党騒擾一件」(本間清利稿)より再構成したものである。後の話のように、長年の間、積りつもった現代の困窮者である委託労働者がついに決起した「越谷委託騒動」の前史そのものといえよう。
 越谷市大袋村の代々の重立ちの統領・島村慎市郎市長が、越ヶ谷の地主階級の代理人として、現代の困窮民を力ずくで制圧せんとしたことは、越谷伝来の町民政策からしても異例の圧政であることが、歴史的に明らかである。
 貧民が地主、金持ち階級に富の公平な分配を要求することは歴史的な正義である。2年前の「委託騒動」を教訓化し、貧民のための治政を心がけるどころか、労働者、貧民の要求を「不将ち者征敗してくれん」と圧政の刃を振りまわす、時代錯誤の「お代官」島村慎市郎氏の歴史的冥福を祈って本書を上梓するものである。
 なお本篇では、越谷市職労や学委労の組合員(三役を除く)以外は、「すべて実名となっている。敬称も略し、一部に礼を欠いているかも知れないが、この物語がすべて事実によるものであること、80年代を通じてより一層激化するであろう、自治体の下層・下請け労働者の叛乱のはしりとして、やがては一つの史実として伝えられることを期待してのことである。


第1章 春は陽炎(かげろう)と共に

1.やってきた夜警たち

 市役所のすぐわきを元荒川がのたうつように曲りくねって流れている。土手の新芽が早春の陽射しの中で勢よく伸びはじめ、浮き立つような陽気であった。
 寛永6年(1829年)関東郡代・伊奈半十郎忠治が荒川の流れを熊谷付近でせき止め、史野川を開削して入間川に合流させて今日の荒川の川筋が作られた。これ以降、熊谷以東の流れを元荒川と呼ぶようになったのである。元荒川は埼玉東部の水郷地帯(旧北埼玉郡)に入って、宮内庁かも御猟場のわきを抜けるところから左右に大きく蛇行して日光街道と交叉する。このあたりは大沢宿、越谷宿として栄えた宿場街であった。
 1969年に完成した埼玉県東部最大の威容を誇る越谷市役所は、日光街道から少し東に入り込んだ元荒川に赤茶色のいかめしい影を落としてそびえ立っている。
 市役所のわきに架かっている平和橋通りは、東武越谷駅からまっすぐ越谷市中心部を東に貫いている。折しも、今この橋を渡って広い街路をとばとばと歩いて行く数人の若者がいる。1980年3月13日の午後である。
「あれーっ、どこにも病院なんてないじゃん」と素とばけた声をあげたのはヒロキと呼ばれる一番の若者だ。「橋を渡ってちょっと行ったら市立病院だって言ったじゃないの、衆一!」「山本さんの話ではそうだったんだけどね」と、衆一と呼び捨てにされたやや年長の青年が小首をかしげる。
 橋から下る坂道を降りきると、造成はされたが放ったらかしの空地が広がっているという田舎道であった。ぽつん、ぽつんと何軒かの家が広い街並の両側に見られるが、見渡したところ病院らしい建物はない。
「田んばの真中だって言うから、もう少し先じゃないか」と、分別くさいギョロ眼を度の強い眼鏡の中で動かして先を促したのは、阿藤と呼ばれるずんぐりした青年だ。
 さらに数分歩いて行くと、街並の切れた先に忽然と8階建ての白亜の大病院が陽射しを一杯浴びて光り輝くように浮かび上がってきた。
「ひょーっ、あんなでかいのかよ」と、ヒロキがたまげたように言ったので、皆どっと笑ったが、確かに想像していたよりは立派なものであった。
「総工費69億円、ベッド数3百床の埼玉県東部一の大病院で、黒田革新市政最大の目玉商品だったからね。もっとも今では累積赤字30億で島村保守市政最大のお荷物になっている」と、衆一がかつて山本に聞いたことを受け売りして解説した。
「いきなり行って、おばちゃんたちに何を話したら良いんだろうね」と、ヒロキが悩んだように言う。
「まあ手ぶらで行くのも何だから、その辺で茶菓子でも買っていって、茶飲み話をしながら話したらええんでないの」と、阿藤が如才なげな知恵を出して無意味な論議を抑え込んだ。丁度うまい具合に、病院の手前に駄菓子屋が一軒ぽつんと建っている。懐具合に見あった出来合い菓子しかないのも都合がよい。
 越谷市立病院の周囲は、さつきやつつじの植込みでところどころ区切られており、良く手入れされた芝生が広がって、開放的な雰囲気をかもしている。芝生や広い駐車場の隅々まで清掃が行き届いて、紙屑一つ落ちていない。建物はもち論、真白に輝いており、大きな窓はみがきぬかれて陽春の陽射しに光り輝いている。
「こんな立派な病院にこんな格好で入っていっていいのかね」と、フジケンがうす汚れたコートのえりをかき合わせて、いささかひるんだように言う。
 そう言われて見れば、確かに男たちの風態は清潔そうな白亜の病院や、そこに通う小奇麗な「市民」達とはおよそ不釣合いな異彩を放っている。男たちの大半が肩先まで長髪を垂らしていること。足元もドタ靴あり、すり減った革靴あり、運動靴ありでおよそまちまち。だが何よりも彼らの異形さを示すものは、ヒロキ達が着込んでいる古びた草色の木綿の半外套であった。今日ではちょっと見られなくなった一昔前の木綿の半外套のひじや袖口はすり切れ、色あせた染色が如何にも風雪をしのばせる。その胸元にししゅうされた社名も、糸がほつれてかろうじて「東京クリーナー」と読みとれる。
「まあ、僕らはマナビヤのふくろう、日蔭者の夜警だからね。夜の職場では姿形は問題じゃないが、明るい陽射しのもとでは見すぼらしさもやむをえないよ」と、衆一がヒロキをなぐさめるように言う。「僕らの制服が新調されないのも、県の委託化政策のせいなんだから、オバちゃんたちには分ってもらえるよ」

 今まさに陽春の光を一杯に浴びた市立病院に足を踏みこんだこの若者たちが、埼玉県の学校警備員であることが彼らの会話から明らかとなった。男たちが着ている冬物の野ぼったい外套は、県の学校警備員が当時の雇用主であった鞄結档Nリーナーから10年前に支給されたものであり、多くの警備員がほころびをつくろいながら、未だに大事に着続けてきたものである。
 だが、その胸元に縫い込まれた「東京クリーナー」という名の会社は、現在では存在しない。東京、埼玉でビル管理業を大々的に営んでいた同社は、1978年7月に何の前触れもなく倒産してしまった。
 男たちの現在の雇用主は「滑w校警備」(代表・神保節子氏=ムサシビルクリーナー役員)という名目だけの委託会社である。同社は東京クリーナー倒産によって委託先を失い、労働者側から突きつけられた「直営化」の要求を何とかそらすために県教育局幹部の枯息な入れ智恵で、県内主要業者が協同してデッチ上げた名目だけの「学校警備員用の受託企業」である。
 このような事情で、埼玉県の県立高校と養護学校116校の警備員のすべてが、すでになき前雇用主から支給された10年前の木綿の外套を、それも1校2名で交代で着用し続けてきたのである。このせちがらい事実こそ、委託労働者である学校警備員の置かれている様々な矛盾を象徴するものである。
 この異様な風態の若者が、越谷の水郷地帯にそびえたつ「白い巨塔」に登場したのは、それなりの理由がある。
 彼らは「埼委労(埼玉自治体委託労働者労働組合)東部第1分会」 の組合員であり、かねてから共闘関係にあった「自治労越谷市職員組合」の紹介によって、同じ委託労働者である市立病院の清掃労働者と交流しようとしていたのだ。青木衆一(埼委労書記次長兼組職強化部長=当時)が市立病院で働く委託労働者の存在を知らされたのは、つい最近のことであった。
「うちの病院では清掃と電話交換、守衛が東京ワックスという会社に業務委託(下請化)されている。最低賃金以下のひどい条件で、仕事中にケガをしただけで辞めさせられそうになったくらいだ。僕らもあまりひどい時には応援しているが、おばあちゃん達が多くて、なかなか労働組合をつくるというところまでいかない。年も随分ちがうし、市の職員ということで今一つじっくり話し合うところまでいっていない。同じ委託労働者ということで、そちらからも話してもらえないだろうか」当時、県下の委託労働者の実態調査をしていた青木らは、「話だけでも聞いて見よう」と、軽い気持でこの日初めて越谷市立病院を訪問したのである。

2.差別と搾取に怒りの声

「組合のことでちょっと下に行ってきますから」と、山本は職場の同僚に声をかけて、素早く縦縞の白衣をはおった。
 越谷市立病院では、医療に直接従事する医師や看護婦は白のガウンや制服を着用し、山本のよぅに消毒などに従事する現業職員や臨時職員は、縦縞のガウンを着ることになっていた。同じよぅに、白衣とはいっても隠然たる区別がそこにはあった。
「僕も最近話してないから、一諸に行って話を聞いてみよう」と、山本は先に立ってエレベーターに乗り、地下行きのボタンを押した。「やっはり委託は地下に押し込められてんだね」と、青木がため息をついた。
 病院の地下から一たん外に出ると、小さな駐車場に面して霊安室やシーツ倉庫、清掃員控室が並んだ地下壕のような部屋がある。この一画だけが、建物とは別建てになっていて病院の大駐車場の地下に造られている。病院の建物側には清掃専用エレベーター室に直結したゴミ出し台と、地下玄関の側に用度係の事務室と倉庫があった。この地下壕の端に「東京ワックス従業員控室」という粗末な木札が架けられている。青木が嘆いたように、仕事は病院の中でさせても、その身分は厳として病院外にあることを明白にそれは表現していた。
 同じように地下室にあっても、用度係の事務室や倉庫は病院の建物の中にあり、地下玄関に面した窓からは幾らかでも直射日光が入るようになっている。しかし、10数名の労働者が激しい労働の合間に憩う「清掃控室」は、陽の当らない小さな窓が一つしかなく、重い鉄の扉にはさび止めの赤いペンキが素気なく塗られたままである。これに較べて医師たちの休憩室や研究室は8階の最上階にあり、春の陽射しの中で輝き揺れる″太陽と水と緑の町・越谷″全域はおろか、遠く筑波山や富士山まで眺め渡せるようになっている。まさに「差別」は、こういう所にも歴然と現われるのである。
 マナビヤの梟(ふくろう)として、四畳ばかりの狭い警備室の中で青春を過ごして来た青木の眼底には、会社倒産騒動の最中にうそ寒い警備室の中でひっそりと息をひきとった老警備員の姿が焼きついている。陽の当らない地下壕の扉を見た瞬間、青木はその時の怒りをまざまざと思い出した。山本はそんな青木の戸惑いも知らず、扉を大きく開けて控室の中へ入っていった。
「こんにちは山本さん、今日はどうしたのよ」
 いつもの調子で元気に声をかけた清掃員たちが、山本の後に続いた何人もの若者を見て、ぎょっとしたように声を止めた。青木らは、山本に従って中へ入ると壁際に一列に並んだ。天井の高い薄暗い控室の中には、10数名の年配の清掃員たちが休憩していた。相当の高齢のおぼあちゃんがいる。農家の嫁らしい中年の清掃員が、そそくさと立ってお茶を入れてくれた。若き夜警たちとおそうじ小母さんたちの最初の出会いは、一種ぎこちない雰囲気で始まったのであった。
「今日は皆さんと同じような委託会社の人たちがつくっている労働組合の方を紹介に来ました。私のような公務員より委託のことを良く知っている人たちです。何でも気楽に話を聞いてみて下さい」
 小母さんたちの反応は、初対面にしては素直なものであった。山本という病院内での顔馴染みがいたせいもあろうが、聞かれたことには何でも隠し立てせず、遠慮なく自分たちの意見も言った。彼女たちが口々に話してくれた東京ワックス従業員の労働条件は、想像以上にひどいものであった。
 清掃員たちの多くは、日給2,780円で、埼玉県の「法定最低賃金」(2,680円)スレスレであった。それも、前年末に市職の山本が病院当局に最賃法違反を指摘し、勤務年数の長い者がようやくその年からかろうじて最低賃金を上回るよう改善されたものである。だが、仕事中のケガを口実に解雇されかかった栗原は、前年の2,560円にすえおかれていた。
「私らが入った50年は、日給が2,300円でしたよ。それまで病院工事の片付けや掃除をしていた時は3,500円くらい貰っていたから、あんまり安いんでびっくりしたのを覚えてるよ」
「私はその次の年、病院が開業した年に入ったんだけど、2,200円しか貰わなかったよ」
「それは、後から入った人と前からいる人と同じじゃうまくないってんで、100円安くしたんだよ」
「それからは毎年給料が上がったんだよね、毎年たったの50円ずつだけど。一度だけ、おととしだったかに一遍に100円も上がったんで皆で喜こんでいたら、それまであった皆勤手当がなくなったんで、びっくりしたんだよな」
「そう。月27日皆勤すると、2,000円貰えてたのがなくなったから、100円上がっても結局同じなんだよね。私らは月に700円しか上がらなかったんだよ」
「私らは、今でも2,300円しかもらっていませんよ」と、昨年入ったばかりの何人かの清掃員が叫んだ。「ボーナスだって、暮に1万円もらっただけだから」
 田島千歳は病院ができてから2年ほど働いていたが、あまりの低賃金に耐えかねていったん辞め、争議の終ったこの年の8月から復帰した清掃員である。
「お父さんが病気で働けなくなって、日給2,200円じゃとてもじやないが食べていけなくなったんよ。それで個人病院の家政婦兼付き添い婦になった。当時でも朝8時から夕方4時半までで5,500円くらいになりましたね。夜勤の付き添いをやると7、8千円になり、何とか一家三人で食べていけました。ただ、病院の床の上にゴザを敷いて仮眠するような有様で、とてもじゃないが長くは続かないですよ」と、当時の賃金がいかに低いものであったか述べている。
 このような低賃金のため、わずかの割増金ほしさに日曜・祭日に出勤する者が多く、盆も正月もゆっくり休めない。月3回の公休日以外休みなく働いても、男で8万円そこそこ、女では7万円にしかならない。償与とて、夏と冬に2、3万円出るだけであり、とうてい生活の足しになるものではなかった。
「病気のじいさんを抱えて、どうして7万円ばかりで食べていけるか。それでももう年だから、今さらどこにも働き口がないので、どんなに具合が悪うても、休みもせずに5年間必死で働いて来たんです。何とかなるものなら、どんなことでもしますから給料を上げて下さい。お願いしますよ」
 68歳になるおばあちゃんは、孫のような夜警たちの手をとらんばかりにして訴えかけた。彼女以外にも病気の亭生や飲んだくれの亭生を抱えた者。配偶者に先立たれて息子の嫁に気兼ねしながら同居している老婦人もいた。ほとんどの者がそれなりの苦労や悩みを抱えて、わずかばかりの賃金を求めて、我慢しながら働いて来たのであった。
 多くの委託労働者や工場の女性パートがそうであるように、有給休暇や生理休暇なぞ望むべくもない。希望者には厚生年金や健康保険の加入も認められるが、高額の保険金を嫌って加入する者はほとんどいない。会社もまた会社負担分を払わないで済むため、あえて加入を勧めない。それどころか、法律で義務づけられている雇用保険すら加入させていない。病気やケガで休めば遠慮なく日給が削られ、休みが度重なると現場責任者から「もう来なくてよい」と無滋悲に言われて、あっさりクビになってしまう。
 このような事情で泣き泣きやめる人が後をたたず、常に人の出入りが激しかった。もち論、何年勤めようと一銭の退職金も貰えるわけではない。委託事業とはまさに使い捨て職場、現代版うば捨て山といっても過言ではないのである。
 かと言って、仕事が楽かというとそうではない。清掃員はこの当時で17名いたが、現場責任者の樺沢はほとんど仕事をしていない。わずか16名で、1万6千平方メートルの病院本館と、エネルギーセンター棟、外来食堂、看護宿舎など約6千平方メートルの床面と階段を毎日掃除しなければならない。1階、2階の外来は土足の患者達がひっきりなしに訪れ、1日に何度も掃除機をかけ、掃除をしなければならない。4〜7階の病室は入院患者も多く、浴場、便所など念入りな清潔さを要求される所が多く、時として失禁した患者の後始末までやらなければならないのである。
 日曜、祭日にはワックスがけの作業があり、年に何度か螢光灯や天井の掃除もしなけれはならない。まさに年中眼の回るような忙しさであり、たえず清潔さが要求されるだけに、目につかない所での労力は計り知れないものがある。
 しかもこれだけの仕事をするのに、人数は年々減らされるはかりであった。開設当初の51年には定員が21名であったのに、今年はついに18名。それも1名は補充されないまま17名(実質16名)で、年々増える仕事をこなしていかねばならなかったのである。

 労働組合ができるまでの「東京クリーナー」従業員も似たようなものである。「行政改革」が叫ばれると、真先にしわ寄せを受けるのが委託労働者である。民間下請けに業務委託する自治体が増え、委託料も競争入札によってどんどん切り下げられていく。
 委託業務は建て前上「競争入札」であり、もっとも安い価格を出した業者に落札される。このため、新規割込みをはかる業者がダンピングすれば、既存の業者も値下げせざるをえない。もともと荒利益が10〜20%しかないビル管理業では、勢い労働条件の切下げを行わざるを得ない。定年退職者やパートの主婦層、学生アルバイトなどの低賃金労働者を雇用し、社会保険や労災にも加入しない。償与も少ししか払わず、極端な場合は償与直前に従業員をいびり出したり、辞めた従業員の補充をせずに経費の節減を図るのである。
 このため、労働者自体もこのような低賃金を承知で、他に働き口がないものしか集まらない。越谷のような農村型の都市では、高齢者や農家などに比較的低賃金でも働く労働者がいる。だが、誰も好きこのんで低賃金で働く者はいない。自治体の理事者や契約担当者が労働組合を嫌い、このような低賃金で「満足して働く人がいる」という時、彼らは書類上の操作で人の生き血を売買する奴隷商人と何ら変わるところがないのである。
「私らは病院の建設が始まった頃に、藤田建設の下請けに入って現場の掃除や片付けをやってたんだよ。それで、病院が出来ると中の清掃をやってくれってんで、東京ワックスが契約する前から働いていたわけ。給料はガクンと安くなったけど、子供も小さいし、家から近いところっていうと病院しかないからね。我慢して働いてたわけよ」
 渡辺や笠原は、病院の掃除を始めた事情をこのように述べている。同じ頃入社した秋谷も近くの農婦であり、会社勤めは生まれて初めてだが、とにかく近いというので応募したのであった。
 当時の日給は2,300円であり、石油ショック後の物価高の中でとうてい暮していけるものではなかった。それから5年の間に、多いものでもわずか4、5百円、少ない者では2、3百円しか賃金が上がっていない。会社に幾らかけ合っても駄目、病院の管理課長にお願いしても効果がなかった。彼女たちが「組合なんか作っても……」と、渋るだけの事情があったのである。
「なんせ委託料が安いので、会社も赤字なんだから、組合なんか作っても上がらないよ」 その時、隈のデスクに座っていた小柄な男が口を開いた。「現場責任者の樺沢だよ」と山本が青木に耳打ちした。
 確かに、委託料の安いことが低賃金の最大の原因だ。だが、その低い委託料の中から会社はさらにピンハネする。青木らの前の雇い主である「東京クリーナー」倒産の原因は、ピンハネ分や委託料を過大な不動産投資に回していて、石油ショック後の土地暴落で資金繰りがつかなかったからであり、不当で過大なピンハネそのものにあったと言える。あるいは少なからぬ委託会社では職業安定所を通じて高齢者を採用し、「高齢者雇用給付金」をそっくりネコパパするという例もある。青木や阿藤は業者の言う「委託料が安いから」という口実を言葉通りには受けとることが出来なかった。東京ワックスは熊谷に本社があり、埼玉県北部では相当のシェアをもつビル管理会社である。何のメリットもないのに、わざわざ埼玉県東部に進出して5年間も越谷市立病院の委託業務を続けているとは考えられなかったのである。
「あんたは黙ってて下さい。会社の管理職だと言っても、何の権限もないんだから。皆と力を合わせて会社と交渉するなら構いませんが、そうでないならはっきり言って邪魔することになりますからね」
 阿藤が樺沢を睨むようにして言った。樺沢がいると、何となく話しにくいという雰囲気があったからだ。樺沢は黙って出て行った。
「ほんとに現場責任者なんて言っても人一倍仕事をするだけで、こういう時には何の役にも立たないんだから」と、笠原と同じく病院の近くに住んでいる若い渡辺ミヨ子があいづちを打った。
「そうは言っても、責任者がやってくれねば、組合つくろうたってまとまらないし……」と、水上という60半ばの男が隅の方で呟やくように言った。
「そうだよ、何てったってそのための責任者だからな。威張るだけが能じゃねえ」と、少しピントのずれたあいづちを打ったのが、中台という70過ぎの元気な男である。男たちはこの時までほとんど口を開かなかったのだが、樺沢がいなくなったせいか、重い口を開くようになったのであった。
「樺沢にはなんも言えねえじゃねえけ、男衆がもっとしっかりしてもらわんとな」と、女たちがひやかした。
「樺沢さんだって権限はねえし、言ってもどうしようもないからな」と、水上は諦めたように言う。愚知は言いあっても、さてどうするかとなると腰を上げるものがいないらしい。夜警たちは再度の訪問を約して、今日のところは引き上げることにした。
 夜警たちが帰った後、詰所の中はガヤガヤと蜂の巣をつっついたようになった。何の前触れもなく突然に「組合の人」が、それも顔馴みの山本だけでなく、見ず知らずの「埼委労」と名乗る若者が何人も現われて、「組合をつくろう」と呼びかけてきたのだ。年配のバァちゃんジィちゃんが戸惑うのは当然であった。
 そこへ樺沢が帰ってきて、口々に話していた一同をジロリと眺めわたしたので、皆口をつぐんでしまった。「組合の連中は、仕事もしないで放っつき歩いて銭をもらってんだ。あんな連中の言うことを聞いたって、こっちが損するだけだぞ」と、樺沢はキメつけた。
 そう言えば、2、3年前にも当時の現場責任者が、皆を代表して会社に申入れたり、組合をつくろうと言ったりしたことがあった。だが会社は、「組合をつくるなら辞めてもらう」と恫喝し、その責任者もいや気がさして辞めてしまったという。
「さあ、いつまでも油売ってねえで、仕事だ、仕事だよ」と、樺沢が皆をうながした。1階の持ち場に出かけようとした水上に、樺沢が「水上さん。明日は栗原さんと味覚糖に行ってくれよな」と声をかけた。「明日の日曜ですか。明日は1階と2階の定期清掃(ワックスがけ)をしねばならんですよ」と、水上は渋った。
「病院の方はいつでもできる。工場の都合でどうしても明日じやないと困るというんだ。いつものように200円つけるから、やってくれよ」と、樺沢は命令するように言った。
 味覚糖とは、隣町の春日部工業団地にある全国的に有名な飴会社であり、東京ワックスでは、そこの工場の定期清掃を請負っていた。だが、熊谷に本社のある東京ワックスから作業員が派遣されるわけではない。当日の朝、東部地区の担当者がライトバンに乗ってきて、水上や2、3の従業員を乗せ、市立病院用の機材を積み込んで出張作業するのである。こうした病院外の作業所は、越谷市内の佐藤医院など他にも若干あったが、これらは清掃員でも簡単にできるものであった。だが、広い味覚糖の宿舎や事務所を2、3名でワックスがけするのは楽な仕事ではない。
「2百円余分に貰っても合わない」と水上は思っていたが、「現場責任者補佐」という立場から行かないわけには行かなかった。栗原さんは、何を命じられても決して嫌といったことのない、曲りかかった背中をかがめて一日中黙々と働く人であった。「ちょっとケガしたくらいで首にしといて、結局は重宝して使ってるんじゃないか」と、水上は樺沢の御都合主義的な人の使い方に対してちょっぴり腹が立ったが、「はい分りました」と答えた。
 味覚糖の現場は、市立病院が始まってから間もなく続いており、病院の要員が病院用に購入された材料を使って、勤務中に民間の事業所で働くのは二重契約であり、大袈裟にいえば公共物の横領である。だがこの5年間、誰もこのことを不思議と思わず、むしろ会社の経営努力として認めてきたのである。
「ばあちゃんはどう思うの」と、渡辺は同じ階の病棟を担当している鈴木ミネに聞いた。「さっきの若い衆らの話」
「もっともじゃないの。ワシらの若い時でも元気の良い衆は赤旗振ってやっとったぞ。ワシも元気な頃は男衆と一緒に所長や偉い人に掛けあったこともあるわ」と、ミネは渡辺が聞きたかったことから少しズレた返事をした。ミネはかつて大手の建設会社の飯場で女たちを仕切っていたくらいのしっかり者であり、日頃から「病院の男衆はみんな意気地がねえ」と嘆いていた。
「話はええことはかりじやけど、ちょっと恐いような気もするね。市職の人が本当に応援してくれるんなら心強いけど、埼委労とかいう組合がよう分らんし。やっぱり、うちの男らがちゃんとやってくれねば、女だけじゃどうにもならん」と、後の方は自分に言って聞かせるように渡辺は呟いた。耳の不自由なミネは、自分の言いたいことを言うと、さっさと病室の掃除に出て行った。

3.労働組合をつくろう!

 委託労働者の組織化は埼委労にとっても大きな課題の一つであった。東京クリーナー労組から1978年3月埼委労に組織変更したのは、分割発注(複数の下請け化)に伴う組織分断に備えるものであった。隔日勤務闘争の勝利によって、県警備は当面小康状態にあったが、県教育局は学校無人化の希望を捨てていない。川口市でも分割発注や幅寄せ(業務縮小)などの攻撃の恐れが多分にあった。県警備の老人たちは、自ら身命を賭して闘った隔日勤務闘争の成果に自足し、委託制度撤廃・直営化という抜本的要求を掲げて再び闘おうという気慨は乏しかった。このままでは、より大きな攻撃が掛けられたら一たまりもない、というのが埼委労の若手役員たちの共通の危機感であった。(当時、1校1人の連続勤務から、2人での交代勤務になったばかりであった)
 このために千葉共闘部長は、県下諸労組との交流共闘を強化しようとし、当時の井上情宣部長は組合員の意識向上に心を痛めていた。青木は、「埼委労の強化は、県警備の団結強化ということだけでは達成されない。委託労働者の全県組織として組織の拡大・強化を図らねば、県当局の無人化攻撃、差別分断政策をはね返すことはできない。このためには、未組織の委託労働者の組織化に取組まねはならない」と考えた。青木は執行委員会や書記局会議において、再三この趣旨を繰り返し、他の役員や若手活動層の同意をかちとってきた。だが、一般的な方針として決定されても、未組織の組織化は容易なことではない。
 当時の埼委労が手がけた組織化の一つに、川口の「白百合の家」がある。これには書記局次長の井上茂樹や書記局員兼本部業務員で、行動の自由が利くK・Sが主に担当した。今一つが、越谷・草加を中心にした東1分会での組織活動であり、その最初の試みが越谷市立病院・東京ワックス従業員の組織化であった。養護施設「白百合の家」の場合は、市立の保育所や幼稚園の現業労働者の多くが埼委労に組織されている関係で、最初から埼委労への組織化を目標にして活動がなされた。
 だが、越谷市立病院の場合は、清掃17名、電話交換4名、守衛7名というまとまった委託事業所であり、越谷市職との関係もあった。最初の訪問の経過を報告した青木に対して、このような事情を踏まえて、「どのように組織すべきか」という質疑があった。
「最終的には東京ワックス従業員が決める問題だが、市職や我々はできれは市職・埼委労の双方へ二重加盟するのが組織上望ましいと考えている。我々埼委労としては、委託労働者の広汎な共闘機関として埼委労を県下に広めていくためには、個人加盟よりも独立組合として加入を進めたい。市職の場合は、現業評議会の一部としてでも参加できないかどうか検討している。いずれにせよ、組織加盟する時は埼委労、越谷市職の双方に、それが難しい時は共闘会議方式をとって、三者が共同で運動していくのが現実的だと思う」と青木は答え、基本的な考え方として書記局会議で承認された。
 これは、越谷市職の側から「委託労働者という点では埼委労の方が小母ちゃん達と親味になれるし、対業者闘争の経験も豊富だ。だが、直営化を求めていく場合は、市との交渉力や越谷地区における組織的な力がなければならない。この点で、一般的な支援より、市職の中に入れてしまえば市長といえども委託問題で交渉の場に出てくるだろう」「どちらが欠けてもワックスの闘いは難しい」という意見が出ていたためである。
 越谷市職では、「直営化されていればとうぜん組合員になっているのだから、委託労働者を準組合員として加入させることができるのではないか」と、考えていた。だが、越谷市職が自治労本部へ問い合わせしたところ、「自治労の加入条件は自治体に直接雇用されている者(臨時職員を含む)となっている。未組織の委託労働者を何らかの形で組織することは急務だが、どういう形で組織加入を進めるかについては検討中で、例も少ない」と、いうことであった。
「自治労は下請け化・民間委託化には反対するが、押し切られた場合は、導入された下請け労働者を組織対象から外してしまい、全国一般などに組織化を委ねてしまう。が、これでは組織内に非組合員を増やすのと同じであり、下請けとの賃金格差は公務員攻撃の材料にもされてしまう。このままでは、将来的には大きな問題となろう。現在の下請け合理化の風潮の中で直営化をかちとれば、極めて大きな意義がある。そのためには、自治労の加盟条件を、委託であろうと下請けであろうと、全ての公共団体の業務に従事している労働者に広げるべきではないだろうか」と、市職の役員の中にはこのような積極的な意見を述べる者もいた。
「実情では、今すぐ委託労働者を組織加入させることもできないし、かと言って、埼委労単独加盟は対市交渉の上で得策ではない。当面は独立組合として結成して貰い、共闘会議≠三者で構成し、市職と埼委労がそれぞれの有利な面で積極的に支援していこう」という、現実的な意見が実際の展開として採用されたのである。
 埼委労では、この趣旨に沿って三役出席の書記局会議で、「東京ワックス労組の組織化には、埼委労自体の課題として積極的に支援していく。当面の担当は、青木・千葉両執行委員が当り、東部第1分会が中心となって日常活動の支援をする」ことが決定されたのである。

「こんにちは、またおじゃまします」と、元気よく声を掛けながら清掃控室に入る。もう三度目の訪間であった。今日は小人数で、ざっくばらんに小母ちゃんたちの本音を聞こうということで、ヒロキと安原、山本の三人だけであった。最初と2回目の訪問では壁際に一列になって、順番に「お話しする」というようなギコチなさがあった。今日は、勧められるままに椅子に座った。
「みなさんの状態については、市職執行委員会で報告して支援決定をしてもらいました。埼委労でも支援決定したと聞いてます。その他にも市内の労働組合に呼びかけて支援共闘会議をつくる努力もしています。今日は、具体的に労働組合をどうして作るか。作ってどのように運営するか。今年の契約に際して、会社にどんな要求を出していけばよいかを話してみたいと思います」と、山本が話し出す。
 組合活動について一通りの説明をした後で、質疑を求めると、牛島はつ子が立ち上がった。
「組合に入ると、辞めさせられないで済みますか」と、消え入りそうな声で聞いてきた。
 一瞬、その意味がよく分らなかったが、渡辺らの話によると、牛島が最近また会社から「辞めてくれ」と言われているのであった。昨年の暮に奇妙な解雇通知が送られて来て、いったん辞めていたのだが、3月になって「人手が足りないから来てくれ」と樺沢に言われて仕事をしていたのだが、年度末になって正式に解雇されると言うのである。
「何とかならないもんかね。ちょっと休んだだけで首になるなんて、安心して働らいてられないよ」
 他の者も口々に不安そうに言った。みんなの中で何とかしたいという気持が強くなってきていると安原と山本は判断した。
「こうなれば一日も早く労働組合をつくるしかないんじゃないか。理由なく解雇されたり、賃金差別をなくすためには、皆で団結して会社とちゃんと交渉することですよ」「会社が話し合いに応じるだろうか。今までだって、何度も話し合いたいって言ってたんだよ」「組合なんか作ったらクビになるんじゃないの」「大丈夫ですよ。市職や埼委労もついています。栗原さんの時にしたって、本社へ抗議したから、本社では辞めろとは言っていないということで撤回になった。全員のクビなんか切ったら、会社としては委託業務を続けられなくなってしまう。絶対大丈夫ですよ」「私たちは組合に入ってもいいよ。でも、役員やなんかは出来ないから、男の衆にやってもらわないとね」
 女たちが、水上や栗原の方を見て、
「水上さん、やって下さい、お願いしますよ」と声をそろえて言った。
 水上は戸惑ったように考えていたが、やがて立ち上がって、「何にも知りませんが、皆が力を合わせてやるというなら、自分もやります。役員だけに任せるというのではなく、皆が助けてくれるならやらせて貰います」と、腹をくくったように言った。
「労働組合なんか難しいことじやない。法律的なことだって、やってるうちに自然に分ってきますよ。僕たちもできるだけの協力はしますが、一人ひとりが積極的に協力しあえば、必ず成果はあがるはずです」と山本が励ました。
「よろしくお願いします」と、女たちが一斉に声を挙げて拍手をした。あっけなく組合結成が決まったのである。
「中台さんも、栗原さんも協力してくれねば、組合を作ったら男たちがしっかりせねばいかんのだから」
「よっしゃ任しとけ、会社の人間がえらそうに言って来たら、蹴ちらしてやる」と、中台は威勢よく答えた。栗原は何も言わずに笑っている。口下手で普段からも余り話したがらない男で、黙って蔭日向なく働き、年寄りや困っている者の面倒を良く見ていることを、水上は知っていた。
 不安もあるが、こうなったら仕方ない。これ以上、犠牲者を出さないためには、山本や埼委労の人々を信じて、労働組合を作るしかない。頼りな気な小母ちゃん達を見ていると、自分なりに人のために尽してみようという気持がようやく湧いてきた。

4.守衛と電話交換手

 3月31日(月)、清掃控室は再び人で埋まった。埼委労から青木、千葉ら5名。市職から山本のほかに臨職の山田なども加わって、熱っぽい空気が漂った。組合の作り方や団結の重要性、委託の賃金事情などについて市職、埼委労の役員が話した。阿藤は「一人ひとりの生活実態に根ざした要求が闘いの武器となる」と言い、用意していた実体調査・生活要求のアンケートを全員に配布して書き方を説明した。組合の規約も提案され、できるだけ分りやすく簡単なものにしようということになった。
 一通りの話が終ると、結成準備委員を決めようということになった。前日名乗り出た水上が栗原を推せんした。だが、女たちの意見がまとまっていなかった。山本が元気者の笠原や渡辺を促したが、日頃の歯切れの良さと打ってかわって、あいまいな返事であった。
「組合とか、役員とか言うのは男の人がやるもんじゃねえか」というのが、彼女らの常識であったのだ。
「そんなことを言っても、現実には女の人が多いんだから誰かがやってくれなきゃ駄目だ。やったことがないとか、うまく喋れないとか言っても、男の人たちだってそうだ。どんな闘争だって始まりは必ず女性が大きな力を発揮している。やってやれないことはないんですよ」と、安原がいささか業を煮やしたように、女たちを促した。
「そうじや、私らだって若い時は荒くれ男に負けんかったよ。若いカアちゃんたちがやってくれればいいんだ」と、鈴木ミネが大きな声で、笠原や渡辺の方を向いて言った。やれるとしたら彼女たちしかいない、というのがこの場にいる者たちの共通の判断であった。ミネは皆を代表して言ってくれたのだ。
「じゃ、後でどうするか相談して、女たちでもやる人を決めますから」と、渡辺が意を決したように言った。
 話はようやくまとまり始めた。4月上旬に新年度の委託契約が正式に行われるので、組合結成を4月4日に行い、直ちに当局、会社と新年度の労働条件について話し合う。そのため、生活実体と生活要求の調査を行う。電話交換手(4名)と守衛(7名)については、結成のメドがついた時点で組合への参加を呼びかけることが決められた。

越谷委託労働者組合規約(1980年5月26日名称変更)

1 名称 この組合の名称を、東京ワックス労働組合とする。(「越谷委託労働者組合」5月26日改正)
2 事務所 この組合の主たる事務所を、越谷市東越谷10−47−1市立越谷病院内におく。
3 権利 組合員はすべて平等の立場でもって組合のあらゆる活動に参加することができる。何人といえども、性別、門地、思想、信条の故をもって不当な扱いをうけない。
4 義務 組合員は組合費を納入し、その条件に応じて可能な限り組合活動に参加する義務を負う。
5 資格 この組合は地方公共団体の事業委託者である東京ワックスに勤務する委託労働者をもって構成する。(「越谷市周辺の地方公共団体等の事業受託者に雇用されている委託労働者及び右地域に居住する」5月26日改正)
6 役員 組合には世話人である執行委員若干名をもって構成する執行委員会を設け、日常的運営を行う。
 執行委員及び代表者(委員長)と会計監査1名以上は役員選挙において過半数の支持なければならない。
 組合は執行委員会の決定に応じて上部団体等から特別執行委員を選ぶことができる。但し代表役員となることはできない。
7 大会 組合員大会は年1回以上開催し、委任状を2分の1まで有効とする過半数の出席を得て成立する。
 大会は役員選出、会計報告、主要活動方針、上部団体への加盟、スト権の確立を議決する。
8 団交・争議 労働協約の締結及び労働条件改善の団体交渉は原則として組合員全員をもって行うものとする。組合が必要と認めた場合、執行委員会の議決を経て上部団体及びその他に交渉を委任することができる。但し、妥結は事前に執行委員会の承認を得るものとする。
 同盟罷業(ストライキ)は大会において過半数の議決を必要とする。その他の争議は執行委員会の決定による。
9 組合費 本組合の組合費は月収の百分の1とする。組合費の徴収は賃金支払い日に行う。
10 会計報告 執行委員会は大会に会計報告を提出し、会計監査の報告と併せて審議を求めなければならない。
11 規約改正 本規約の改正は組合大会において3分の2以上の議決をもって行うものとする。

 この日から連日、埼委労の誰かが必ず病院を訪問した。生まれて初めての組合づくりである.アンケート調査一つとっても、くどいほど説明しないと書き方の分らない人もある。字のまったく書けない人も2、3いた。いずれも大正生まれで、小さいときから辛酸をなめつくした人たちである。孫のようなヒロキが一番熱心に病院へ通い、おじいさんやおばあさんたちの話し相手となり、アンケートの聞き書きもして、ようやく全員から回答を貰うことができた。
 この間、青木と千葉は埼委労本部に通い、書記局会議で経過を報告して正式の支援決定を要請し、結成大会には森田委員長が出席することになった。青木は東1分会長(当時)の飯島や主だった組合員に、片っ端から電話して大会への出席を要請した。
 4月3日、阿藤とヒロキが病院を訪ね、山本、水上と共に守衛と電話交換手に組合への参加を呼びかけた。
 越谷市立病院の守衛は7名。それも当初の8名が79年から1名減らされている。このため、2人制で24時間の宿直業務を終えると3名の日直者と交代して夜勤明けとなる。病院の宿直は仮眠時間などあってないようなものである。夜中に救急患者が担ぎ込まれると救急車の管理や問合わせの電話の応答などで、仮眠中の者もとても寝てはいられない。ぐったりして疲れて帰って、一夜明けると朝から日勤である。次の日は再び24時間の宿直。その次は朝から夜12時半までの看護宿舎の夜勤があり、次の日がようやく公休となる。実質、週20時間以上の超過勤務が強制される。日曜・祭日はおろか、交代要員がいないから余程の重病でない限り、無理をして働かざるをえない。そのくせ賃金は基本給79,500円、職務手当27,000円、皆勤手当がついて合計112,500円(手取り105,000円)にしかならない。
 埼委労県警備の給与が当時一律146,000円。日曜・祭日なし、有給休暇もほとんどとれないが、仮眠時間が1日6時間で、実働週48時間制なのに対して、雲泥の相違があった。(ちなみに、3交代制をとる小金井市の学校警備員の場合は、仮眠含む拘束週44時間、日曜・祭日手当、有給完全消化、病欠代行の保障、代行手当など、まさに労働基準法100バーセソト実施が勝ちとられている。基本給は年功賃金制で高齢者、勤続年数の長い者ほど高くなっているが、平均給与は39歳で23万4千円(残業別)である。また、町田市の60歳すぎの学校警備員の年収は500万円にもなるという)
 そこまでいかなくても、労働組合のある自治体やビル管理企業で、これほど劣悪な労働条件はまずありえない。それを肌身で体験してきた埼委労の阿藤やヒロキに対して市立病院の守衛は、「俺たちのことは放っておいてくれ」と言い放ったのである。
 自治体職員には較べるべくもないが、民間の警備会社に較べても労働条件は著しく悪い。現実に、労働組合の力で会社倒産を契機に大幅な時間短縮をかちとった埼委労の阿藤やヒロキを前にして、守衛たちは驚くべき反応を示した。
「わしらは病院の治安を預かる病院警察だから、労働組合には入れない」
「俺は金なんかどうでも良いんだ。ブラブラしてると世間態が悪いから来てるだけよ」
「話がついてから入れと言われても、清掃の人らが作った組合にわしらは入れないよ」
 低賃金と苛酷な労働条件に耐えて自分たちが今まで働いてきた事に対して、奇妙な職業上のプライドや清掃に対する差別感を露わに語る人もあった。
 もち論、当時7人いた守衛のすべてがこのような人々ばかりではなかった。組合に理解を示す者や、蔭ながら励ましてくれる人もいた。だが、「今さらこんな年になって、組合なんかできないよ」という、隠居的な気分が支配的であった。厚生年金を貰っている人々にとっては、少しくらい賃金が上がっても、年金から差引かれるだけであったからだ。
「埼委労だって、農家や年金暮しの人が組合に入ったのは、一昨年の会社倒産からだよ。組合に入らないと給料が貰えなくなるってんで、大部分の人が組合に入ったんだ。病院の守衛さんもそういう目に会わなければ分らないんじゃないか。じっくりつき合っていけば分って貰えるよ」
 阿藤は守衛たちの頑固さにあきれて不服そうな顔をしているヒロキをなぐさめた。

 だが、電話交換手たちの反応はまったく逆であった。水上に連れられて山本やヒロキは7階の電話交換室を訪れ、4人の交換手に組合への参加を呼びかけた。話を聞いていた彼女たちの顔は、見る見る明るいものに変わっていった。
「山本さんたちが応援してくれるなら大丈夫よね。そんな話を下でしているとは知らなかったけど、組合をつくるのは大賛成だわ」と、明るい顔で地元出身の電話交換手の馬場千鶴子が、一も二もなく賛成した。「組合があれば、会社や管理課にも言いたいこと言えるもんね」「私なんか市立病院勤務ということで職安から紹介されたので、てっきり病院の職員と思ってたわよ」と、一番最初に入社した斉藤美智子も憤慨したように言った。斉藤の話では、病院に電話をしたところ越谷の駅前に来てくれっていうので、応募者が駅前に集まったところで、会社の車が迎えに来た。面接は病院の会議室で行われたので、市の面接だとばかり思っていた。だが、迎えに来た会社の人間もおり、賃金もあまりにひどいから不思議に思っていたが、実際に働くようになって初めて市の職員でないと分ってびっくりしたという。
「うちも職員協議会ができてから、労働条件も随分よくなったもんね。市職が応援してくれるなら良いんじゃない」と、市の現業職員を夫に持つ鈴木敬子も賛成した。
 馬場や鈴木は市の職員でないことは知っていた。だが、市立病院の電話交換という重要な仕事をする割には、余りの賃金のひどさにびっくりしたという。だが、鈴木には小さな子供がおり、馬場も結婚したばかりで、都心まで電車で通いきれなかった。給料がいくら安かろうと、越谷周辺には電話交換の仕事はまずなかったから、この4年間、嫌々勤めてきたのである。
 彼女たちは、高齢の清掃員たちとちがって、組合のある大きな会社に勤めていた者もあり、それなりに職業意識と権利意識をもっていた。だから、待遇の不満や仕事上の不満について、事あるごとに管理課の厚見課長や浜野係長に改善を要求してきた。
 だが、交換機の改善など病院側の施設・機器については彼女たちの要求を取り入れてきた管理課も、「労働条件については会社の問題であり、病院では立ち入れない」と、逃げ続けてきた。会社の人間と話をしようにも、毎月給料をもってくる東部営業所の青田らは何の権限も持っていない。熊谷の本社は遠く、日曜も交代で勤務をしなければならない彼女たちが、個人的に交渉できるはずもなかった。
「もうこの5年間腹の立つことばっかりで、どうしようもないと諦めてたんだよね」と、馬場が思い出してもくやしいという表情で語った。彼女たちの労働時間は、平日の早出が朝8時半から5時、遅出が10時半から6時の二交代制である。土曜は午前中2人、午後は1人勤務。日曜・祭日は1人勤務で、基本給75,500円、技術手当13,100円、皆勤手当5,000円合計93,600円であった。越谷市役所の電話交換手には及びもつかないが、民間の電話交換手の平均賃金が同年齢層で約12万5千円(54年度人事院調べ)であったのにくらべても著しく低い。
 それだけに、彼女たちは組合をつくろうという呼びかけに全員が即座に同意した。職場委員は特別におかず、全員が交代してやれることは何でもするという意気込みであった。
 守衛や交換手の実状も分って、要求書づくりが始まった。全員からとった生活調査と要求アンケートに基づいて、何度も話合って要求案をまとめた。
「基本給は12万円以上という人が半分以上だ。10万円で良いという人も2人いる。公務員並みということでは、余りにも低すぎるんじゃないですかと」、ヒロキが感想を述べた。
「今すぐ公務員化なんて言っても無理だから、せめて12万円は欲しいという訳よね。それだけの働きはしてるんだもの」
「交換手で私らくらいの経歴なら、どこへ行っても最低で13万円だよ。4人ともこれだけは絶対要求したいんだよね」
「償与については、冬3ヵ月、夏2.5ヵ月で清掃の人は足並みが揃っているが、交換さんは皆まちまちですね」
「市職なみというなら年間5ヵ月が希望だけど、実際には無理でしょう。せめて3ヵ月というのが最低ね」
 基本給、償与の大幅アップ以外に要求が多かったのは、「家族手当」「住宅手当」「退職金」などを、何とか貰いたいという意見が多かった。
「有給休暇なんて、法律で決まっているのだから、休むのが当り前でしょう。でも、生理休暇は有給にならない所も多いから難しいかもね……」
「給料より人手を増やして貰わねば、仕事もきれいに出来ないし、休みたくても休めんで、何とかして貰いたいんだけど」と、水上が人員増の要求について説明した。
 50年度定員は清掃20名であったものが当時は17名しかおらず、交換手も当初5名いたのが53年から4名に削減されていた。
「少なくとも日曜・祭日に少しでも休めること、出勤した場合は振り替え休みがとれるよう代替要員がほしい。いまの公休は、月3回となっているけど、これを週休制にしてはしい」
「週休制や有給休暇などについては、法律違反ですから是正できるでしょう。しかし、基本給や償与について、『世間並み』という気持は分りましたが、相当大幅な委託料の引き上げがないと難しい。要求がかちとれるまでストライキをやりぬくくらいでないと、簡単にはあげてもらえませんよ」と、安原がみんなのやる気を推しはかるように言った。
「ストなんておっかないね」
「そこまでやらなくても、上げてもらえないかね」
「市の職員とはちがうから、やはり無理かね」
 口々に弱気な意見が出てくる。要求の書き方が一律であることから見て、誰かが強気な要求を出したのに引きずられて、「できれば」という希望を書いたにすぎないような印象であった。
「本当のところはどれだけ欲しいのですか。どれだけ貰わなければ生活できないんですか」と、安原が重ねて聞いた。
 この結果、最低の要求としてでてきたのは「日曜出勤しなくて手取り8万円。償与は年2ヵ月以上」というものであった。何ともささやかな要求ではあったが、手取り6、7万円くらいしか貰えない皆にとっては、大幅な要求であったともいえる。それにしても手取り8万円ということになれば、非課税限度額の「70万円の壁」は大幅に超えるから、額面で10万円(年収140万円)近く獲得しなければならない。女子の平均年収が73万円であったから、「倍増」に近い要求である。
「いいですか。今までがあまりにひどいから、手取り8万円というささやかな要求でも、額面では倍近いアップになるんですよ。相当に腹をくくってやらないととれない。組合さえできれば自然に上がるものではないんですよ」と、安原が説明すると、みんな「ほーっ」というようなため息をついた。
「手取り8万円なんて最低の最低なんだから。遠慮することないよ。市職だって年中ストライキやってるんだから、私たちもやればいいんだよ」という元気な意見が、交換手や若手のおばさん達の間から出てきた。
「病院当局に対しては過去の低条件是正、公務員並みということで高い要求を出していきましょう。今年度については、もう委託料が内定しているから大幅なアップは無理だ。会社に対して、法違反や過去の慰謝料請求をしていけばいいんじゃないか。いずれにせよ、組合をつくってから、じっくりやっていけばいいでしょう」
 山本や安原は組合員のギリギリの要求を聞いて、「それくらいなら何とかなる」と楽観したが、空手形を切るわけにはいかない。「とにかく頑張ろう」と確認して、皆で手分けしていよいよ明日に迫った結成大会の準備に取りかかった。
 その夜、自宅で明日のあいさつを書こうと鉛筆をいじっていた水上は、「あっそうだ。明日は味覚糖に行けないんだっけ」と気付いて、慌てて吉田管理課長の自宅へ電話した。
「味覚糖はいいお得意さんだし、もうずっと前から明日は決まってるんだから、行って貰わないと困るよ」
「明日は組合の大会があるんですだ。いつもいつも会社の言うことばっかりも聞いてられませんよ」
「それじゃ交通費とは別に200円余計につけるから、何とか行って貰えんかね」、吉田はしつこく言った。
「そんだこと言っても、組合の人の話じゃ病院の人間がよそへ働きに行くことは二重契約になるちゅうがね。ワシらも罪になるようなことはもうこれからできませんで」と、水上は一気にまくしたてた。電話の向うではっと息を飲むような静けさが広がり、電話はぷつりと切れた。
 会社の人間に思いっきり言ってやった。せいせいした思いで水上は急に元気が沸いてきて、明日のあいさつの文章を勢よく書きだした。
 それっきり水上はこのことを忘れてしまった。だが、これによって組合の結成を前日に知り、しかも、水上の予期せぬ強い拒絶にあって、下手すれば刑事犯に問われかねないような「二重契約」まで追求された会社にとって、単に組合がつくられたというだけでなく、うろうろしているともっと大きな責任を追求されかねないという事態が明らかとなった。今から考えると、会社はこの時点で、80年度の「随意契約」を一方的に辞退し、あわてふためいて市立病院から撤退することを決めたのではないかと考えられるのである。

5.組合結成大会

 4月4日(金)、快晴の越谷に春の陽射しが一杯に溢れていた。昨日までのもやもやした気分がいっべんに吹きとぷようなすがすがしい気持をもって、8時の始業前に皆が集まってきた。若いかあちゃんたちは、めったにしない化粧をして気持の張りを表わしている。
 全員揃って、病院の表玄関と職員用の裏玄関に分れて、「組合結成のお知らせ」を職員や早々とやって来る外来患者に手渡した。生まれて初めてのビラまきである。ばあちゃんたちの手は緊張でふるえていた。すでに市職を通じて話がいっているのであろう、顔馴染みの看護婦や職員が、「がんばってね」と声をかけてくれる。
 渡辺たちは山本と共に、病棟の看護婦控室にビラを持っていき、「組合をつくることになりました。今日の午後から結成大会をやりますのでよろしく」と、あいさつをしてまわった。

東京ワックス労働組合結成宣言
 私たちは越谷市立病院で清掃や庁舎管理などの市の委託事業をうけおっている鞄結档純bクスの従業員です。
 私たちは病院開設以来、人の嫌がる仕事を黙々としてやってきました。だが、私たちの賃金は、日給で2千6百円、日曜・祭日休みなく働いても手取り7万円にしかならず、家庭の事情で休みが多いと、即座に首を切られるなど劣悪な労働条件のもとで働いてきました。
 会社は1人当り10数万円の委託料、「高齢者雇用開発給付金」をうけとりながら、法外なピンハネを行い、埼玉県一円で6百人もの委託労働者を抱えて、違法な労働者供給事業(人夫出し)を続けています。
 私たちは、戦前・戦後を通じて社会の下積みとして、学もなく、うまく世渡りする術も知らず、ただ一生けん命働くだけの「物言わぬ民」でありました。会社はこんな私たちを食い物にして、あくどいピンハネを続け、自治体もまたこんな現状を知りながら委託事業を安くあげるため、悪徳業者をのさばらせてきました。
 私たちが越谷の自治体労働者や委託労働者の仲間たちとの話し合いの中から、このような不法な状態をあらためて知りました。今、会社や市当局に対して私たちを人間らしく扱え∞労働者としての正当な権利を保障せよ≠ニ要求するのはあまりにも当然のことではないでしょうか。
 私たちは、自分たちの労働条件の大幅な改善を要求すると共に、全国の自治体労働者や委託労働者にかけられている「合理化・人減らし」の反動の大波に対しても、微力ながら闘っていかねばならないと考えています。
1、私たちは、これ以上、我慢の仕様もないところまで私たちを追いつめてきた会社・市当局に対して、委託差別撤廃、委託制度撤廃、労働条件の大幅改善を強く求める。
2、予想される会社の不当労働行為に対しては仲間の団結を固めて、断固としてはね返していくことを表明する。
 よって、すべての委託労働者の解放を求める東京ワックス労働組合の結成をここに宣言する。
  1980年4月4日
    (越谷市立病院)東京ワックス労働組合

 入院患者や外来患者から、はげまされた者もいた。「あんたらいつもよく働いているから、病院の職員だと思っていたのに、こんなにひどい目にあってたんだね」と、腕章をつけて頭を下げながらビラを配っている組合員に話しかけた患者もいた。
 8時半にビラ配りを終えると、清掃員らは各階に散らばり、腕章をつけたまま力一杯モップを握りしめて掃除を始めた。

 結成大会は午後零時から病院の組合事務所で開かれた。時間前に続々と支援者や来賓がつめかけてきた。越谷市職は佐々木委員長以下三役、病院代表、病院臨職ら8名、埼委労からは森田委員長、川口業務代表Kさん、飯島東1分会長ら14名、市職の顧問弁護士をしている地元の青年弁護士井上豊治の姿も見えた。
 12時になると清掃員や電話交換手たちが登場した。どの顔も緊張している。支援や来賓から大きな拍手が沸きおこった。
 結成大会の準備委員を代表して、水上は用意してきたメモを読みあげた。長年にわたる苦しみが具体的につらねられ、切々たる思いが参加者に伝わっていった。「私ら何も知りませんが、組合ができた以上、一生けん命やるつもりです」と、水上はしめくくった。
 来賓あいさつはできるだけ肩がこらないように、また1時までの時間の制約もあって、弁当を食べながら聞くことにした。できたばかりの組合で金はない。市職と埼委労からよせられたカンパをあてにして、青木が友人の自然食弁当屋に特別にまけてもらった心のこもった弁当であった。今でも「あの時の弁当のおいしかったこと」を忘れられない組合員がいる。
 越谷市職の佐々木委員長からは、全国の自治体でも例の少ない委託労組の結成を我がこととして喜び、末長く支援していくという頼もしいあいさつがあった。
 埼委労の森田委員長からは、県警備、川口業務約400の組合員を代表して、同じ委託労組として奮闘を期待するというあいさつが述べられた。森田はこの中で「県の合理化、無人化攻撃に埼委労は実力で対抗する。共に委託差別撤廃のために闘おう」と、力強く東京ワックス労組を激励した。
 山本からは、すでに埼委労、市職が力を合わせて東京ワックス労組を支援するため、「悪徳ピンハネ業者追放! 越谷市立病院の直営化を求める共闘会議」の結成が報告された。そして、東京ワックス労組特別執行委員に佐々木委員長、山本、埼委労の青木、阿藤、安原が参加することが紹介された。
 次いで、組合づくりの相談に乗ってくれた井上弁護士が立ち上がった。
「私は委託の小母ちゃんたちの苦労に身をつまされた。何の経験もない人が、勇気をふるって組合を結成したことに感動した。このような運動を広げて、働く者の住みよい社会をつくろう。そのために法律家としてできるだけの応援をやっていきたい」と、述べて、組合員の感激の拍手を浴びた。
 議事は規約採択、役員選出、対会社・市への要求書採択と続いて、新役員の決意表明となった。6名の執行委員は準備委員がそのまま選出された。委員長は水上、書記長には馬場を代表として4名の交換手全員があたることになった。清掃からは秋谷、笠原、渡辺の三名の若手小母さんと栗原が選はれ、それぞれ大きな声で、「がんばります」と決意表明した。
 最後に、この日覚えたばかりの「がんばろう」の歌をみんなで合唱し、森田委員長の音頭で「団結ガンバロウ」を三唱して、東京ワックス労組は無事結成大会を終了した。
 組合員がそれぞれの現場に向かった後、執行委員と支援者たちが残った。これから病院当局へ要求書を提出しようというのであった。

 選ばれたばかりの執行委員を先頭に、病院事務局に押しかける。市立病院事務局長の山崎満洲男と管理課長の厚見英夫が柔らかな表情で迎えた。
「事務局長さん、私らは今日組合を結成しました。今まで言いたいこともいえず辛抱して働いてきましたが、これからは委託を差別しないで、人並みに扱ってもらいたいと思って要求書をもってきました」と緊張して水上は切り出した。今まで5年間病院で働いてきたとはいえ、病院の事務局長と相対して喋るのはこれが初めてである。他の執行委員たちも同じなのか、直立してかしこまっている。団交なれした支援者たちが周りをとり囲んで、組合の威勢を暗に示しているのと対称的であった。
 青木が要求書を読みあげ、水上がうやうやしく山崎に要求書を手渡した。山崎はざっと眼を通して柔らかな表情で、「皆さんの状況はよく聞いています。今ここで具体的にご返事はできませんが、管理課にも待遇改善できるよう指示していますから、早急に回答したいと思います」と、誠意にあふれた返事をした。山崎は温厚かつ誠実な人柄で、理事者、市職の双方から信頼されていた人物で、この4月1日に、市の人事課長から病院事務局長に就任したばかりである。
「山崎さんは事務局長になったばかりだから分らないでしょうが、東京ワックスの劣悪な労働条件は、厚見さんらが業者に委託料を抑えこんできた結果として起ったものだ。病院当局だって、その責任は免れませんよ」と、山本が鋭く言い放った。傍らに控えて神妙な顔をしていた厚見課長の表情が剣しくなった。
「オラ方が最低賃金や労基法を守らせなかったというのけ。とんでもない言いがかりだ。オラ方は毎年の契約でも、ちゃんと基準法に触れないように待遇しろって指導してるんだよ。それが守れないのは業者の問題じやないか」
「何言ってるんだ。いくら指導したって業者がピンハネして法違反している以上、それを見過ごしてきたのは管理課じやないか」と、山本が猛烈に反発した。他の支援者たちも、厚見課長の開き直りを退求して、事務所の中は騒然とした。
 この時、後にいた組合員が、東京ワックス営業部の吉田が入口から顔をのぞかせてこちらを伺っているのに気づいた。清掃員たちが吉田にも申し入れようと動き出したが、吉田は慌てて逃げるように出て行ってしまった。「吉田さんは何した来たんだろう」と渡辺はいぶかった。
「いいですか。今日はどちらに責任あるか追求に来たんじゃない。現実に法違反を含む劣悪な労働条件がある。これが大幅に改善されない限り、組合としてはこれ以上正常な業務を続けることに耐えられない。そういう重大な決意をもって要求書を提出するんだから、責任逃れするより前向きに検討してもらいたいということですよ」と、安原が大声で山崎事務局長にダメ押しした。
「分りました。よく検討させてもらいます」と山崎は、まだ物言いたそうな厚見を制して答えた。「お願いします」と、例の元気一杯の声を張りあげて清掃員たちが山崎に頭を下げた。
 事務所を出たあとで、山本が「もっと管理課を叩いておかないとすぐ責任逃れするんだから、奴らは」と不満気に言ったが、「まあ、当局の責任追求はいつでもできる。今日はみんなが直接局長に申し入れたということで良いのじゃないか」と佐々木がなだめた。
 大会の後片づけをしてから、青木らは市庁舎に向かい、大会報告ビラを印刷した。「もう春だね」とヒロキが、春のおぼろ月がぼんやりした光を投げかけている市庁前の広場を歩きながら言う。見ると、桜の木の杖のつぼみが大きくふくらんで、今にも咲きだしそうだ。
「のんびりしていいですね。阿藤や藤本さんは仕事に行ってるけど、我々だけで一寸一杯やりましょう」と青木が言いだし、3人は春酔の一刻をすごしたのである。
 だがこの時、大変な事態が進行しているとは3人とも夢にも考えなかった。渡辺や笠原らも、忙しかった一日を終え、夕飯の仕度をしながら、「父ちゃんに組合やることになったと言ったら、何と言われるかね」と、のんびり思案していたという。
 役員といっても名はかりで、市職の人や青木らがやってくれるから、自分たちは大してすることはないだろうと、タカをくくつていたのである。だが、この一夜を境に、彼女らの運命は急展開していくのである。


第2章 春雷の日々

1.逃げ出した東京ワックス

 春一番が関東平野を襲う。荒川、利根川沿いに吹いて来る季節風は春耕の過ぎた田畑の赤土を一杯含んで空は赤く染まってしまうほどだ。東京湾から吹き寄せるこの猛烈な春風は、越谷、草加の街や村を襲って一日中吹き荒れることも珍しくない。細かな赤茶けた砂塵が容赦なく部屋の中に侵入してくる。このため川越あたりの農家では座敷に渋紙を敷いておき、客が来るとこれを取り除いて客に座らせたという。
 この日、前日の組合結成の時の隠やかさとうって変り、空はどんより曇り、時折砂塵を巻き上げた突風が吹いていた。
 笠原と渡辺は風に自転車を押し戻され、うす眼をあけて砂塵を防ぎながら必死に自転車をこいでいた。いつものように昼休みに病院の近くにある自宅に戻って昼食をとるためである。この日は土曜だったから、間もなく学校から帰ってくる子供たちの昼食も作ってやらねばならぬ。それにこの風だから出かけに干した洗濯物も取り込んでおかねはならない。この砂ばこりでは、もうすっかり赤く染まってしまって手遅れになったかも知れない。いまいましい風だと思いながら、気ばかりせいて自宅に着くやいなや台所に駆け込んだ。
 子供たちの昼食の仕度をして、渡辺が慌しく食事を済ませてほっと一息ついたところへ上の女の子が学校から帰ってきた。
「お母さん、何か葉書が来ているよ。不在通知≠チて何だろうね」
 速達、内容証明の所にそれぞれ丸印のついている葉書が一通。「何だろうね。内容証明って何のことかね」
 渡辺母娘が首をかしげているところへ、近所に住む笠原が慌ててやって来た。
「東京ワックスから手紙が来ただろう」
「いや、うちは留守してたから、何か不在通知って葉書が入ってたけど」
 笠原が持って来た内容証明の封を開いて、桝目の便箋に書かれた大きな文字を見た瞬間、2人は血が逆流するようなショックをうけた。「解雇通知」という文字が目に飛び込んで来たからである。
「解雇通知って、私らを首にするということだろうか」と、渡辺は大きな眼を見開いて信じられないというように叫んだ。
「私らだけじゃないよこれは、ひょっとしたら皆に来ているかも知れん。病院に電話してみよう」と笠原がもどかし気にダイヤルを回した。
 清掃控室には折よく青木と安原が今後の会社交渉の打ち合わせをしようとやって来た所だった。笠原から電話を聞いた2人は一瞬「あっ」と思った。いずれこじれてくれば、会社が何らかの形で逃亡するかも知れないとは思っていたが、「即日解雇」とは余りに手まわしがよいので驚いたのである。
「分りました。恐らく皆のところにも来てると思います。すぐ確認しますから、2人ともそれを持ってこっちへ来て下さい」
 青木は笠原からの電話をおくと「水上さん、今の時間に家に誰かいる人に連絡をとってもらって下さい。きっとほかの人のところにも来てるにちがいないから」と言う。
 果せるかな、水上を初め、市内の数件の家に東京ワックスからの内容証明が来ていた。中には老人しかいないので持って帰ってもらった家もあった。市内の者には午前中の段階で来た家はないが、それも時間の間題だ。
 一わたり確認が済んだ頃に、笠原と渡辺が息をはずませて駆けこんできた。急を聞いて、病院の山本や加藤、それに交代で休憩中の交換手たちもやってきた。
 安原が大声で内容証明を読みあげると、全員に絶望的な驚きの表情が広がった。組合を作ったとたんに解雇通知を受けたのだから当然ではある。それも安原や山本から「絶対心配ない」といわれてきただけに、みんなの驚きと失望感は大きかった。
 だが、青木や安原は違った。「なめたマネをして」という怒りはあったが、「これでこっちの勝ちだ」という思いで急にいきいきとし始めた。
「何も心配することはありません。理由もなくこれだけの年配者を全員解雇できるわけもない。市との契約書任だってある。全員解雇して仕事はどうするんですか。こんな通知なんかで首が切れるわけがない。むしろ不当解雇で訴えれば慰謝料やなんかでお金がとれるくらいです」と、安原が確信をもって皆に説明した。
「私らの場合も、会社が突然倒産して、身分が宙に浮いたが結局は県が別の会社をもってきて尻ぬぐいした。未払いになっていた給料も『賃金確保法』という法律があって、結局は払われることになっています。会社がいなくなるということはむしろ直営化の絶好のチャンスともいえるのです。皆さんも昨日ごらんになったように、この闘争は60歳、70歳といった年配者たちが先頭に立って勝利してきたんですよ」と青木は、東京クリーナー倒産時の模様を詳しく話した。
 山本も、「皆さんの生活はどんなことがあっても守ります。万一給料が払われなければ、組合でたてかえてでも、皆さんが困らないようにしますから安心して下さい」と勇気づけた。
 そこへ市職の佐々木委員長らが駆けつけて、さらに一同を励ました。
「どちらにしても病院当局を追求して、雇用と身分の確保を約束させる必要がある。今から直ちに事務局長団交をやろう」と佐々木が提案した。連絡をとると厚見課長が「こっちも困ったことになっている。すぐ来てくれ」という返事であった。
「実は今朝になってこんなものを東京ワックスの専務と吉田が持って来たんだ」と厚見は苦虫をかみつぶしたような表情で、一通の内容証明を投げてよこした。
「何だよこれは、理由も何も書いてないじゃないか。こんなものを当局は認めるのか」と山本が早速噛みついた。
「認めるわけないだろう。ワックスには今年も随意契約でやってもらうということで話がついてたんだ。その件で昨日は吉田に来てもらったんだが、おめえらの姿を見てびっくりして逃げ出したんだべ。とにかく、次の見通しがはっきりつくまで東京ワックスに責任もってやらせるしかねえだろう」
 厚見の話では、東京ワックスの三浦専務は「ともかく辞退させて下さい」の一点張りで、理由も何も明らかにしないということであった。東京ワックスは労働組合の結成をそれ程までに恐れていたのである。
 執行委員と共闘会議は、控室に戻って全員に報告した。とにかく東京ワックスが逃亡したことは、彼らの今までの違法な雇用責任を、自分で認めるようなものだ。過去のピンハネ、違反行為の責任をとらせるまで解雇については絶対応じない。一方市に対してはこの機会に、このような雇用不安を招く委託制度をやめ、直営化するよう強く求めていく。このような基本方針を確認して、「とにかくこうなったら、将来の生活と身分を安定させるためとことん頑張ろう」と誓いあった。
 多勢の支援者に励まされ、当面の生活は何とかなるだろうと思ったが、先の不安は大きい。日中吹き荒れた風はすでに止んで、おだやかな春の夕暮であったが、病院から出ていく小母ちゃんたちの足取りは、想像もできない困難にぶつかって、いかにも重いものであった。

2.会社逃亡は直営化のチャンスだ!

 4月6日、共闘会議の緊急対策会議が開かれた。越谷市職三役をはじめ病院役員ら、埼委労(=当時)は千葉、青木、柳沢の執行委員と東1分会、西部地区の若手有志、埼学労、埼教労の地元組合員などが、日曜の午後に市職事務所に集まった。
 ここで、埼委労の会社倒産、隔日勤務闘争の成果と不十分性が報告され、「逃げる会社は追わない。この機会に一切の会社導入を拒否して直営化を勝ちとろう」という基本路線が改めて確認された。
「自治労はいま全国で下請け合理化の大攻撃をうけている。78年には北海道の苫小牧で学校給食委託化阻止に完全勝利したが、多くの自治体では現業部門や一部の事務がどんどん業務委託されて下請け業者が入って来ている。越谷でも島村市長は隙があれば現業部門の合理化をやろうとしている。市職としては委託合理化を許さないためにも、病院の委託業務を直営化させねはならない。全力を挙げて委託業者追放、直営化を勝ちとっていきたい」と、佐々木委員長は越谷市職としての闘争目標と決意を述べた。
 この場で正式に、「悪徳ピンハネ業者追放! 越谷市立病院委託事業の直営化を求める共闘会義」(以下、共闘会議)の正式な結成が行われた。埼玉県学校事務労働組合、埼玉教育労働組合なども、それぞれ組合機関に図ったうえで、5月中に正式参加をすることになった。共闘会議と東京ワックス労組はこの時点で「委託直営化」をはっきり要求することになったが、全国的には直営化された委託事業の例は東京小金井市の学校警備員など過去のごく少数の例を除いて、この当時ではほとんど例がなかった。
 東京ワックス労組の要求アンケートでは、多くの労働者が「直営化してほしい」という要求を出している。だが、交換手や若い小母ちゃんたちを別にして、一般的な定年のメドとされる60歳を超える者も多く、「直営化」は「職員並みの待遇」といった意味合いで考えていた者が多かった。「正職員化」を全員が勝ちとるのは無理だとしても、何らかの形で市当局に雇用と労働条件の責任をとらせることは小母ちゃんたちの生活と身分を保障させるためには、絶対に必要であった。会社倒産に際して多くの委託労組が「下請け労働者としての雇用継続」を自治体や新しい会社に求めるのが普通である。だが、東京ワックス労組と共闘会議はあえて「悪徳ピンハネ業者追放」を掲げ、委託制度そのものを撤廃させようと決意したのであった。
 もっともこの時点では、どのようにして直営化を勝ちとるかという方針や展望は明確ではなかった。このため、とりあえずは東京ワックス、病院当局の違法性や不当性を追求して、安易な下請け化政策等の責任を追求し、大衆的に直営化要求を浸透させていく。この過程で組合・共闘会議の力を強化し、新会社導入を阻止して「委託会社なき業務継続状態」(自主管理)を長期に続け、当局に雇用責任をとらせようということになった。今から考えれば、「紛争を恐れてどこの会社も引き受けないだろう」という甘い判断があった。さらに、自治体に道義的な雇用責任をとらせると言っても、島村市長がそのような道義や道理の通る立派な理事者でないことを知らなかった他力本願的な考えであったといえる。
 この方針に基づいて、東京ワックス労組は、患者・職員に対して「会社逃亡を糾弾する」ビラを配布し、8日には市役所前で同じようなビラ配りを行った。
 午後には全員で事務局長に会見し、「委託労働者の待遇改善に関する要望書」を正式に手渡す。

<基本要求>
1、市当局は東京ワックス鰍フピンハネ、違法行為の実態について調査し、無責任な事業放棄によって、労働者及び市に与えた損害について市の基本的姿勢を明らかにせよ。
2、このような不法行為、契約違反は委託制度が続く限り避けられないものである。市はこれを機会に越谷市立病院のすべての業務を直営化し、委託 制度を導入しないこと。
3、病院設立に際して、市が業者委託を導入した経過と根拠、東京ワックス鰍ノ落札した経過と内容を明らかにすること。
4、下記労働条件要求に基づいて、直営化した場合の事業見積りを試算すること。この要求を基本的には直営化の方向の中で最大限実現させることを要求する。

この中で組合は市の行政責任を「本来、委託労働者とは、市が職員として現業部門で雇用すべき労働者である。市はこれまで職業安定法44条違反の様態を黙認しつつ、公共機関の運営に欠くことの出来ない業務を雑業務として、最低賃金法違反の劣悪な労働条件を直接手をくださずとも強制し、不当な差別構造を支えてきた」と追求し、「満身の怒りと裂帛の気合を込めて要求書を提出する」と格調高く不退転の決意を込めて要求している。
 <労働条件改善要求>は賃金、人員、労働時間、退職金、過去の労働債権について計12項目を要求している。組合の試算ではこれを満たすためには約1億2千万円が必要とされる。病院当局が東京ワックスに対して示した当初予算額が4,300万円であったから、市職員並みの労働条件にするためには予算を三倍増やさなければならないことになる。<業務委託>の美名でいかに労働者が劣悪な条件でコキ使われていたか明らかではないか。
 この日、遅ればせながら東京ワックスに対して「労働組合結成通知」と4月11日に団体交渉を行う旨の「団交要求書」を内容証明にて発送する。
 その後、守衛たちと話合う。守衛も一時はどうなることかと思っていたが、管理課から「雇用は市が責任をもつから安心して働いてくれ」との連絡があって、「事態を静観している」という。組合については「感覚的についていけない」「病院の中でビラ配りをするのはもってのほかだ」という意見も出てきた。夜勤(24時間)−日直の連続勤務で考える余裕も、仲間同士話合う機会もないせいか、現状についての諦めが強いのだろう。「時間をかけて話してくしかないよ」というのが若き学校警備員たちの感想であった。「埼委労の年配者たちと同じで、解雇や賃金不払いが具体的に出ない限り動かないんじゃないか」
 9日、再び病院玄関前で外来患者に対するビラ配り。待合室の正面の壁に模造紙3枚を連ねて、「経過と要求」を大書し、患者たちに大々的なアピールを行った。
 この日の午後になって東京ワックス吉田課長が厚見管理課長に呼ばれて病院に現われた。組合員がこれを発見して、同社の雇用の実態について詳細な確認を行った結果、数々の違法行為が明らかになった。
 吉田はこの中で、これらの違法行為の原因として、「競争入札は業者泣かせだと思います」と訴えた。指名競争入札こそが不当なダンピングを紹き、労働条件の悪化を導く根本原因であることを業者自体が深刻に自覚しているのである。
「正直いって、4千万ちょっとの委託料で30名の従業員を抱えて、材料費を払っていくことは倒底できないことだ。だが、病院の管理課長から、これだけしか予算がない。いやなら競争入札して他の業者にやらせると言われたら、会社としては泣く泣く認めるしかないのです」と、吉田は厚見課長の前で組合員たちに証言したのである。
 この段階では、委託制度の問題点と劣悪な労働条件の実体を病院内外に広く宣伝する必要があった。入院患者ですら、清掃員が病院の職員だと感ちがいして「小母ちゃんたちは高い給料もらってて良いねえ」と羨しがる人さえいた程である。当初は組合結成から要求交渉に至る過程でじっくり、市職組合員や市民に実情を宣伝していけばよいと思っていた。だが、会社逃亡という緊急事態の中で、来たるべき対市交渉に備えて情報宣伝活動を強化しなければならなかった。
 組合では会社逃亡の翌日から連日のビラ入れを行った。越谷駅からバスで通ってくる者たちが、交代で出勤を早めて市役所前でビラまきをした。ビラの受け取りも良く、激励の声をかけてくれる者も少なくなかった。みんな生まれて初めての者ばかりであったが、それだけに切実な訴えが市職組合員や市民の共感を生み出していった。

確認書(抜粋)

1.私は東京ワックスの越谷市立病院内の事業所の担当責任者です。
4.この事業所内の定員は仕様書により、病院から決められています。会社はそれに見合った従業員を確保し、病院に配置しています。
5.就業規則は病院の事業所になかったことを知っていました。
就業規則は病院の事業所に作らず,従業員の話し合いでやらせていました。就業規則提示義務を知りませんでした。
6.労基法第15条に定める労働条件の明示について病院事業所で行っていませんでした。この事は労基法違反だと思っていませんでした。
7.三六協定を知らずに、時間外休日の労働をさせていました。
入.女子の労働時間及び休日に関して、法的規定があったにもかかわらず、働かせていました。それを知りませんでした。
9.会社には忌引規定(有給)及び産休規定があるが、各事業所にはその事を伝えていない。そのため各事業所の従業員は休みがとれませんでした。
11.賃金の決定は専務か副社長が行います。
12.最賃法以下の従業員がいますが、専務でないと是正は出来ません。
13.守衛の仮眠時間は23時から翌朝5時までだと思っています。
仮眠時間は労働時間に含まれません。現状としては起こされるので改善される余地があると思います。
14.病院と3月下旬に見積りあわせをして、4月4日に部長と私で辞退を申しあげにきました。
15.東京ワックスには生理休暇規定はありません。
16.私は、東京ワックス従業員が、1週問につき1日の公休が与えられておらず、休まずに働かされている事を悪い事とは知りつつも現実に働いている事を知っていました。
17.会社では人手不足のため、各事業所から材料不足の連絡があっても、事業所まで運ぶ事が出来ず、従業員に材料を各人の賃金で買わせた事を知る由もありませんでした。
18.競争入札は業者泣かせだと思います。
4月9日管理部長 吉田武雄

3.人を人とも思わね暴力市長

 4月10日東京ワックス労組は初めての半日ストライキをうった。出勤時のビラまきだけでは市職組合員や一般管理職に対する情宣としては不十分だ。職場回りをして直接アピールしていこうという市職からの提案で、半日がかりで本庁の職場回りと当局への交渉中入れをしようということになったのだ。
 全員が8時前に市役所玄関に集まった。病院の近くや東部地区に住む組合員は自転車に乗ってかけつけた。夜警たちや市職の役員たちも来る。
 ビラをまき始めて間もなく藤倉助役がやってきた。元教育長としてインテリらしき威厳を誇示するかのような重々しい足取りである。小母ちゃんたちがビラを手渡す。助役は渋い表情をしながらビラを受けとり、口々に窮状を訴える清掃員や交換手たちに「うんうん」とうなずいて話だけは聞いていた。
「さすが元教育長だね。話だけでも聞いてみるという余裕があるよ」と、藤本が感心したように言う。
「ポーズだけはね。あれで結構腹黒いとこもあるんだよ。もっとも市長がでたらめで尻ぬぐいはかりしているせいかもね」と小野田。
 8時半近くになって大半の職員が入庁した頃、1台の黒塗りの公用車が西口玄関に横付けになり、紺地に白の塙模様のスーツを着たやせぎすの中年の男が降り立った。
「おっ、市長がやって来たぞ」と市職の組合員が大声をあげて指さした。越谷市長島村慎市郎は落ちつきのないせかせかした足取りで、職員通用口に入ろうとした。
「市長さんお早うごぜえます」と栗原が曲がった腰を一層折り曲げて市長にあいさつをした。粟原は大袋町の住民で、市長の父で2代目越谷市長・島村平市郎とは大袋小学校の同級生であった。島村家のすぐ近くに住む栗原は同家に出入りし、慎市郎が小さな頃からの馴染みであった。
 島村は栗原を認めたが、あいさつを返すどころか、いきなり怒鳴るような大声で、「何をしてるんだ。市職なんかにそそのかされて組合なんか作ってもろくな事にはならんぞ。首になっても市職は最後まで面倒見てはくれんぞ」と叱りつけた。
 それは幼い頃からの近所馴染みの老人に言う言葉ではない。労働組合を真底憎んでいるヤクザのような感情的な言葉であった。あまりのことに栗原はオドオドして何も言えなくなってしまった。
「市職がそそのかしたってどういう事だよ。委託会社を使ってひどい目にあわせてきたのは市の責任じゃないかよ」と小野田が市長に抗議した。
「委託のことは会社に任せてあるんだから市は関係ないんだ。そんなことも分らないのか、バカヤローッ」と市長は真っ赤になって怒鳴り、栗原や小母さんたちを睨みつけた。
「ひどい市長がいるもんだ。あれが人の上に立つ為政者の言うことかよ。江戸時代の悪徳代官そのものじゃないかよ」と藤本が、傲慢な足取りで通用口へ向かった市長に一声浴びせかけた。島村は口惜しそうに振り向いたが、言い返すこともできず庁舎の中へ入っていった。
「これで委託制度で皆を苦しめていたのは会社ではなく島村市長だということがはっきりした。この暴言、委託に対する思いやりのない差別的態度を市役所中にアピールして、市長の責任を追求しょう」と藤本が提案した。市長の人を人とも思わぬ振舞いにびっくりし、涙ぐんでいた老清掃員も、今や怒りがこみ上げてくるようにうなずいていた。
 市職役員を先頭にして二手に分れて本庁舎内の各部局を訪ねる。業務を開始したばかりで、どの課も打ち合せや窓口の準備でざわめいている。市職の役員が睨むように会釈すると、管理職たちは黙って新聞を広げて知らんぷりをした。
 市職や埼委労の組合員が委託労働者の劣悪な労働条件と、その原因が安上り行政の名による差別的な委託制度にあることを説明した。東京ワックス労組の組合員ひとりひとりが、自分たちの窮状や市長の暴言を、口ごもりながら訴えた。人前で話をするのは初めての者ばかりであった。それだけに、必死の思いで語る一つ一つの言葉に切実な想いが溢れていたのであろう。どの職場でも手を止めて聞き入り、大きな拍手で激励してくれた職場もあった。
「あの市長ならそれくらいのこと言いかねんよ。なんせ越谷市は自分の会社くらいに思っているんだから」と建設部のある職員が吐いて捨てるように言った。彼の話では、島村は自分を支持してくれる農家や地元の商店主たちには極めて愛想がよく、市長室にもきげん良く招き入れるという。だが、市の職員たちに対しては自分の下男か何かのように命令口調でしか話さず、とくに組合に対しては本能的な憎悪を持っている、という。
 市長に就任して以来島村は、市職との団交などでたびたび市職組合員に暴力を振うことがあった。つい最近も部課長会議に団交を要求し待機していた市職役員、組合員に対して、島村市長は最後に会議室から出てくるなり、いきなり扉付近にいた組合員にタバコの火を押しつけた、という事件が起こったばかりである。
 団交の席で市職の役員と口論になり、「出ていけ」と大声を出して拡声機をふりあげ、投げつけようとしたこともある。市職ではこのような市長の暴力行為に関して刑事責任を追求して告訴しようという声もあった。だが、基本的には労使問題であり、「だだっ子」のような市長の言動をとらえて司直の手に渡すのは大人気ないという判断があって見送ったという。
 後に、深堀秘書課長が酒席の帰りに庁舎内の市職のビラをはがし、これに抗義した市職役員らを市長の命を受けて「傷害罪」をでっちあげて告訴し、佐々木委員長以下9名の役員を警察に逮捕させた。これに較べて、市職の判断は余りに「良識的」すぎたのかもしれない。
 いさめる者も周りにいないまま傍若無人(ぼうじゃくぷじん)に怒声を上げ、事ごとに暴力をふるう2代目市長―――まさに藤本が指摘した「悪代官」の如き男が22万都市越谷の市長であると信じられようか。だが、栗原を初め委託労働者のすべてが自分の目と耳で市長の冷酷さ、暴虐さを見聞きした。こんな男に自分たちの生活や身分の改善を訴えても聞き入れられるであろうか?暗澹とした絶望と怒りを皆が感じたのである。自分たちを虫けらのようにしか見ていない市長に対する怒りが、後の大闘争のエネルギーとなっていったといえよう。
 今様悪代官=越谷市長・島村慎市郎とはそも何者か。
 昭和11年生れ、41歳で4代目越谷市長となった島村慎市郎の父は2代目市長となった島村平市郎である。島村の家は大袋にあり戦前からの自作農であった。平市郎の子供時代には、数町歩の田畑を有し、小作人も使っていた。当時の越谷地方の小作代は四分六で、小作人は六割もの搾取にあえいでいた。平市郎は小学校を卒業して春日部中学に進んだが、当時の同級生で進学したのはわずか2名。尋常小学校を卒業する者さえ学齢者の半分にも満たない時代であった。平市郎は春日部中学を卒業すると農会(戦前の農協)の書記となり、米穀検査や供出米の事務を執った。当時の農会の書記は単なる事務屋ではなく、農家の生産高を調査し、米穀の等級(従って小作料)を査定するという大きな権限を持っていた。このため、農家は検査に手心をつけてもらうため、つけ届けをする習わしになっていた。平気でワイロを貰う習慣は、平市郎から慎市郎へ伝えられた地主階層の家風ともいえるものであったことが窺える。
 1957年越谷は市制を敷く。人口約4万8千。初代市長には大塚伴鹿町長が選ばれた。大塚は2期目再選、3期目は無投票で選ばれるなど、農村部の圧倒的な支持を得てきた。だが、大塚氏が引退を表明した70年には越谷の人口は13万近くに膨れあがり、都市化の急激な波は市民の多様化、多政党化を生んでいた。この様な多様化を反映して、この年の市長選挙には、各政党間の足並みが乱れ、自由民主党から立候補した島村平市郎が労せずして市長となった。
 平市郎は温厚な人柄と長年の書記官勤めでつちかった如才なさで市民の評判は悪くなかった。しかし如何せん、急激に膨張を続ける新興都市の首長としての行政手腕に未熟さがあった。
 とくに市の機構拡充とともに職員が年々増大し、当時の世相も反映して、「自治労」の活発な待遇改善要求を受け入てきた。現在は市の幹部となっている当時の市職役員との交渉の席上、平市郎は机の上を這いずり回るというしゅう態さえ見せた程だという。慎市郎が「黒田革新市政の悪い遺産」として攻撃して来た「過剰人員、高給化」は高度成長期のベッドタウン的都市に共通したものである。
「俺はおやじのように組合の言いなりにはならないぞ」と親しい者に語ったという慎市郎の執念深い組合敵視≠ヘ無能市長≠ニ評された父親に対する慎市郎の反発から出たもの、とも言える。
 73年、平市郎市長は東部清掃工場のプラスチック専焼炉問題に関する議会運営の不手際を追求され窮地に立った。折も折、草加の革新市長・黒沢春雄の葬儀を欠席し、民間ゴルフ場の開会式に出席したことで、越谷の革新勢力から攻撃され、自民党の中でも評判を落した平市郎は、孤立無縁のまま任期を1年間残して辞任した。
 慎市郎は、父親の雪辱と、自身の政治的野望を果すべく、島村ファミリーの熱望をうけて、若冠37歳で市長選に立候補した。慎市郎は大袋近在では「秀才」のほまれ高く、早稲田の理工学部で建築を学び、58年東京都交通局で土木部門に携わり、「みのべ都政」下での革新官僚の中で肩身の狭い思いで宮仕えをしてきた。71年には招かれて春日部市建設部都市計画課課長補佐となり、区画整理課長を経て、73年には土木課長として在職していた。
 この73年選挙は、72年の埼玉知事選で革新統一候補の畑和氏が勝利したのをうけ、続々と革新首長が誕生するという「革新ブーム」の中で行われた。1ヵ月前に行われたばかりの草加市長選で、鈴木繁が華やかに登場したばかりで、越谷市長選挙は7番目の革新首長誕生をめぐつて、保守と革新が真っ向から対決して全国的にも注目された。島村慎市郎は、保守層のバックアップと「父の遺恨戦」という保守層好みの有利な条件にありながら、社会・共産・公明・民社4党の推す革新候補に9千票の大差で破れた。
 この時、38歳で市長となったのが、慎市郎の生涯のライバルと目される黒田重晴である。黒田は慎市郎の大袋小・中学校時代の同級生であり、慎市郎と同じ越谷高校の定時制を卒業した。慎市郎が土地の有力者の長男として何不自由なく育ったのに対して、小作農の家に生れた黒田は働きながら定時制を卒業して、同じ早稲田の第2文学部(夜間)を苦労して60年に卒業した。年老いた両親を養うため、黒田は労働組合もなく初任給も安い越谷市役所をあえて志願した。人口の急激な増大に伴って、市の機構も拡大しなければならなかったが、「町役場」的な給料体系では優秀な新卒者は得られない。61年に黒田が中心になって職員組合をつくって自治労に加入し、活発な待遇改善闘争を始めた。この限りで、人材を集めたいとする理事者側の要望とも一致し、越谷市職員の労働条件は目ざましく向上した。黒田は63年に県下最年少の市会議員となり、70年の市長選では若冠35歳で社会党から立候補して落選した。そして73年、怒涛のような革新ブームに乗って、ついに市長当選を果し、「金持ちのポンボン秀才」の慎市郎に大きな差をつけた。
 春日部市の土木課長を辞めて市長選に立候補して同窓生に破れた慎市郎は、「父の無念」にも勝る屈辱を自分自身で味わわされた。慎市郎は叔父の営む「家具の島忠」の取締役として初めて「世間の水」を味わったが、市長への野望を忘れることができず、土屋義彦参議院議員の秘書として、自民党流の「ボス政治」「宴会政治」「葬祭政治」の修業を始めた。
 かくして苦節4年の後、高度成長に乗って財政膨張を続けた黒田市政と対決。一見合理主義的な財政再建論と、農家・地主層をとり込む「田舎政治」の2本立てで、大方の予想を裏切って2千票の僅差でついに宿願の市長の座についたのである。

4.秘書課長と助役の差別発言

 職場回りを終ると、市長に要望書を手渡すため、再び連れ立って庁舎の2階東側にある市長室に向う。もち論、今朝ほどの暴言に対して断固として抗議をする積りで、階段を一歩一歩踏みしめて登った。庁舎の清掃をしている別の委託会社の清掃員が、はち巻きや腕章をつけた病院の小母さんたちを感心したように見送っていた。
 市長室の前に受付があり、時ならぬ小母さん達の登場で秘書課長が慌てて立ち上がった。市長に面会を申入れたが、市長室から出てきたのは深堀秘書課長(現・企画課長)であった。
「委託会社の従業員なんか市とは関係ないんだ。市長が会うわけないだろうが」と、これまた市長に似て威高丈なヤクザ口調であった。
「あんたに用はないだよ。あんたの役目は市長にちゃんと取り次ぐだけでいんだ」と支援の者が言う。
「何だ貴様は、越谷の者じゃないだろう」と深堀が大声を上げて怒鳴った。これが市長の秘書だろうか。いかに政治的信条が違っても、訪問者に頭ごなしにけんかを売るような秘書が、どこの自治体にいるだろうか。市長自身が乱闘国会で暴れる自民党私設秘書の類いであったから、このような品性のない男を身近においておくのだろうが。深堀は秘書課長になった前後に、休みの日には島村の家にせっせと通って広大な庭の草むしりや車を洗ったりして島村に取り入っていたという話が、市役所の中でささやかれていた。深堀も小役人なら、このような大鼓持ちを登用する市長も前近代的な代官気取りといわれても仕方あるまい。
「何だ、こんな所まで来たのか。ここはお前らが来るところじゃない」と怒鳴りながら島村市長が出て来た。「委託のことは会社に任せてあるんだから、俺は関係ないんだ」「その会社が逃げだしたから、みんな心配して来ているんだろうが」と、小野田が市長の前へ出ていった。
「またおめえか。小野田、おめえに用があるから中へ入れよ」と、島村が拳を突き出して小野田を呼んだ。
「おら一人じゃだめだ。皆、中へ入れてくれるなら入るべ」と小野田。
「お前一人でいいんだ。いいか、これは市長命令だぞ、小野田、中へ入れ、バカヤローッ」と島村がムキになって言う。
「嫌なこった。こんど皆で入ってやるからな」と小野田が言い返した。
「どうしたんかね」と、騒ぎを聞きつけて藤倉が助役室から顔を出した。
「どうもこうも、市長に面会を申入れたのに、バカヤローとか怒鳴るだけで、ひどいじゃないですか」と専従役員の小野田が藤倉に説明した。「おめえらに会ってる暇はねえよ」と島村はダダッ子のように言い放つと中へ入ってしまった。深堀も続いて市長室に入り、バタンと大きな音をたてて扉を閉め、カギをかけてしまった。
「こんなことでいいのか、助役さん。市長の代りに皆の話を聞いて下さいよ」と市職書記長の正木が改めて助役に会見を申入れ、藤倉は少しならと応じた。
 助役室の大きなソファに、助役と市職役員・東京ワックス労組役員が座り、話が始まった。座り切れない組合員はじゅうたんの上に座り込んだ。「こっちの方がふかふかして座り心地よいよ」と小声でばあちゃんが笑う。こんな立派な部屋へは皆初めて入った者ばかりで、固くなっていた雰囲気が和んだ。
「助役さん。私らお国のために兵隊にも行ってきました。皆、一生けん命働いてきました。だけど、東京ワックスはあんまり給料が低い。何とかしてほしいと思って労働組合を作ったら会社が逃げ出したです。これじゃあんまりじやないですか。何とか市の方で私らを雇ってもらえませんじゃろか」と水上が、必死になって訴えた。藤倉助役は目をつぶって耳を傾けていた。
「いいですか、藤倉さん。市長が委託は関係ないと言い張っても駄目だ。競争入札で業者間のダンピングをあおるから業者は労働条件を切下げ、労働三法や最賃法を守ることができなくなる。委託制度をとる限り必ず法違反や劣悪な労働条件が生れる。今の委託料ではまともに労働基準法すら守れないから、会社は契約を破棄して逃げだすんじゃないか。これが、市の責任でなくて何なんですか」と正木が鋭く助役を追求した。
「県だって、労基署から元請け責任を指摘されて、交渉にも応じ、間接的な雇用責任を認めるようになってきたのを助役は知っていますか」と青木が、「埼基発第924号」(昭和53年12月6日、埼玉労働基準局長による『ビルメンテナンス業等における労働関係法令遵守について』)を助役に示して、市の元請け責任を免れることはできないと説いた。
「実情はよく分りました。元請け責任があるかどうかは別にして、委託事業といえど、労働法規の違反は好ましいことではない。病院事務当局が雇用と労働条件の改善に努力すると言ってるなら、その方向で市としても努力するようにしましょう」と藤倉は物分り良く言った。
「そこまで分っているなら、どうして委託制度にこだわるのか。同じ病院の仕事をしていて、なぜ交換手や清掃が委託にされなければならないのか」と青木。
「市の業務にも市民サービスに直結するものと、それを補助するものがある。この補助的業務を委託化して財政負担を少なくすることが理事者の責任であり、越谷市の責任だ」
「補助的業務とはどういうことか。やってもやらなくてもいいということか。それでは市庁舎の電話交換や守衛はなぜ市の職員なのか、市の現業部門では市の職員が掃除をしている所もある」
「どうでもいいということではなく、頭脳労働や技術を必要としない単純労働とか施設の管理・維持業務など、誰でもできる仕事という意味である。病院の主たる業務は医療であり、医師や看護婦が従事している。医療に付随した事務や検査も含まれる。清掃や電話交換、守衛、クリーニングなどは直接医療に関係ない補助的業務ということで業者に委託している」
 憲法や法律の上では職業に貴賎の別はないとされているが、この藤倉助役の発言は明確な職業差別である。
「それじゃお聞きしますけど、医療内容や医局への問い合せや連絡、救急連絡などの交換業務は医療と何の関係もないんですか」と交換手が憤慨したように助役に問いかけた。
「私らの掃除だって、廊下だけ掃いてりやいいというもんじゃない。ほこりをたてないように気をつかったり、病室を清潔にするということで、患者さんの健康にも関係してるんじゃないですか」と渡辺も思いきったように言った。「普通の建物の掃除とは全然ちがうんですよ。どうでもいい仕事かどうか助役さんもやってみれば分るんじゃないですか」
 現場からの具体的な反撃にあって藤倉は窮したようであった。「だいいち、何をもって補助的業務とし、何をもって直接業務と誰が判断するのか」と正木や小野田も追求した。
 藤倉はしばらく押し黙っていたが、「それは理事者の判断です。部局の管理者や市長が判断して、補助的業務と考えたら、委託に出すのは我々の責任だ」と言い切った。
「ふざけるんじゃないぞ。あんたらの勝手な判断で、下請けが安くこき使われてたまるか」と警備員のヒロキが思わず大きな声で抗議した。
「助役さん、私らが委託だからといって、首切られても我慢せえと言うんですか」
 水上が助役にすがるようにして聞いた。助役は「そうは言ってない。要は業者の問題だ」と言い捨てると、立ち上がって退出をうながした。
「委託差別の元凶は島村市長だ。差別的、暴力的姿勢を改めるまで我々は闘うぞ。皆で隣りにいる市長に聞こえるようにシュプレヒコールしよう」
「委託差別を撤廃せよ」「市長は元請け責任を取れ」
「バカヤロー発言を謝罪せよ」
 小母ちゃん達や交換手たちは精一杯の声を張りあげて大声で叫んだ。長年にわたる差別と苦しみを振り切るように必死で叫び続けた。
 藤倉助役は制止しようともせず無視して書類を見ていた。隣りの市長室からも何の物音もしない。シュプレヒコールは助役室を出てからも続けられ、閑散とした市長室周辺の廊下に広がっていった。

5.ピンハネ代は僅か30万円

 4月12日ついに東京ワックスとの団体交渉が実現した。土曜日の午後から病院当局には団交のための半ドンを通告して全組合員が集まった。
 会社側からは三浦専務、吉田管理課長他1名。組合側は全組合員と市職三役、病院役員、埼委労東1分会員(=当時)らあわせて30余名。
 山本の司会で団交は双方の自己紹介から始まった。会社はまず病院との協議で4月一杯は暫定的に業務を継続すること。従って、4月4日付「解雇通知」は撤回すると述べ、三浦は「皆さんにご心配かけて済まなかった」と頭を下げた。だが、「何故、契約を一方的に破棄して辞退届けを出したのか?」という質問には明確な答えが返ってこなかった。
「今さらさんざん安い給料でコキ使ってきて、組合が出来たら逃げだそうって言うのか」「なぜ組合ができたらやっていけないのか答えてみろ」と、共闘会議の労働者から怒声があがった。三浦は何とか弁明しようとするのだが、要領を得ない発言に対して組合員や支援の側から5年間溜まりに溜まった怒りの声が浴びせられ、三浦の発言はますます曖昧な弁解に終始した。
「委託契約ですから、これくらいでやってくれと言われたら言いなりで引受けるしかないのです。……ですから、4千3百万の委託料では今の給料だって会社は赤字なんですから、組合ができるととてもやっていけないと……」
「赤字だ、赤字だと言って会社は深谷に本社ビルを建てているそうじやないか。会社の資産を投げ出してでも、会社は労働者に償いするべきじゃないか。熊谷に立派な社長の邸宅もあるんでしょうが」
 市職副委員長の塩田が業を煮やして追求した。塩田は前年に栗原が職場でケガをして数ヵ月休んで、樺沢から解雇を言い渡された時、厚見課長に元請け責任をとらせて撤回させたことがある。
 牛島や宇田川(当時退職)の解雇についても、誰が私信で解雇通知を郵送したのか、会社では誰も解雇通知を出した覚えはないという無責任さであった。休日出勤や就業規則の不徹底、生理休職や有給休暇のないことなどの労基法違反や最低賃金法違反について、三浦は吉田「覚書」の通りその事実は確認したが、「とにかく委託料が安かったから」と繰り返すだけであった。
 過去の不法な遺失利益や不当労働行為の慰謝料を払えという要求に対して、「自分一存では決められない」と当事者能力の無さをさらけ出して、組合員の怒りを再び買う有様であった。
 結局、この日は次のような確認書を交わして、夕方近くになって交渉を終えた。

協約書

 東京ワックス株式会社は長年の劣悪な労働条件等を深く反省し過去にさかのぼって根本的に改善することを確約致します。
1、昭和53年〜54年度について越谷市から受けた委託料より越谷市立病院において支払った人件費及材料費その他の明細を提出する。積算した(額との)差額の支払については会社は支払意志がある。金額及支払方法については14日に回答し団交で決定する。
2、昭和51年1月12日以降(病院開設と同時に同社に委託された日)より昭和51年度、52年度については上記(1)に準ずる。
3、昭和55年4月1日以降会社が一方的に契約を破棄し且つ従業員の雇用について何の方策も示さず放置して従業員に多大の不安を与えた事を心より謝罪致します。慰謝料などについては今後組合と話し合っていく。
4、現時点において会社は越谷市との委託契約の意志がなく且つ雇用の保障をなしえない。従って東京ワックス従業員全員の越谷市立病院における雇用関係が明確になるまで4月1日以降の賃金を保障する。
5、牛島はつ子、宇田川政喜、村松たまおに対する「解雇通知」については本日団交出席者のいずれもその事実を知らない。「解雇通知」を命令し作成した者を明らかにし命令者を処分する事及び「解雇通知」以降の賃金を支払うこと、ただし村松たまおについては労使で検討する。支払は4月30日までにする。支払方法は組合が指示する銀行口座に振込む。
 1980年4月12日
東京ワックス株式会社 三浦守正 (捺印)
東京ワックス労働組合委員長 水上美之作 (捺印)

「会社は過去のピンハネ分、つまり市立病院で得た4年間の利益をすべて吐き出すといったが、一体いくらくらい払うつもりかね」と藤本が聞いた。
「経理内容をあっさり公表する約束したからね、幾らもないのかも分らないよ」と青木。
「それじゃ、弁償すると言っても金は出さん積りじやろか」と水上が心配した。はじめての団体交渉で興奮気味の組合員も、このやりとりを聞いて不安気な表情を示し始めた。
「とにかく今まで、無茶苦茶安かったんだから、少しは弁償してもらわないとね」と笠原が皆の気持を代弁するように言った。
 ピンハネや慰謝料については額を明らかにしえなかったが牛島らの不当解雇については撤回させ、過去数ヵ月分の賃金を獲得することができた。泣き寝入りせず頑張れば損はしないんだといぅことを皆が具体的に知った。物取りも組合の成果であり、団結の証しとなる場合もある。この意味で、第1回の団交で組合員たちは初めて組合の存在意義を知ったとも言える。
 4月10日に初めて正式の対市交渉が山崎事務局長と厚見管理課長を相手として持たれた。この交渉の中で、病院側は「過去の違法劣悪な労働条件について調査し、今年度は委託制度存続を前提にして、労働条件の改善がなされるよう新たな予算措置をとる」と回答してきた。
「病院が出来た当時、市では公立病院の管理費の平均から考えて年間5,300万円くらいの予算を考えていた。それで数社の指名参加願いがあったので競争入札したところ、4,300万円台で2社が格別安かった。業務内容や資本規模等を考慮して、そのうちの東京ワックスと契約を交わした。それ以降も、入札価格や業務内容で同社以上の会社がなかったので、今まで随意契約で任せてきた」
 厚見課長はこのように東京ワックス落札の経過を話したが、4,300万円で当初34人の従業員を抱えられるものかどうか、子供でも計算したら分ることである。「無責任」「委託差別」と言われても仕方あるまい。
 厚見課長の話では、現在交渉中の業者は3社。いずれも一応は業界での大手ビル管理会社だという。「就業規則もはっきりしており、労働法に従って労働条件もキチンとしている会社を選びたい。東京ワックスは強く辞退を主張しており、市としてもこんな事態を招いた責任上やらせるわけにはいかない」
 直営化を要求する共闘会議としては、市の「業者選定」をやめさせることはできないが、結果としてすべての業者に指名願いを出させなければよいと判断した。このためには、名前の上がっている業者と何らかの形で接触し、現在の紛争状況と組合の要求を説明し、自発的に遠慮してもらうのが、上策ということになった。市が交渉中の業者名を知り、同時に間接的に業者をけん制するため、情報蒐集活動を開始することになった。
 この日の夜、第2回目の東京ワックスとの団体交渉が病院の組合事務所で開かれた。会社側の顔ぶれは前回と同じであるが、三浦専務が社長からの委任状を示して「誠意をもって、お話をしたい」と言い、机の上に大きな風呂敷包みを置いた。「会社には何も隠すものはない。あらいざらい明らかにして、経費との差額があればすべて皆さんにお返しします」と、前回とうって変って自信たっぷりに答えた。
 三浦が持参した資料は、全員の給与台帳と市立病院関係の経費伝票であった。経費はお茶代やガソリン代に至るまで出金伝票に記載されている。その場で組合側がその是非を判断して計算できるようなものではない。給与台帳について、2、3の組合員の給与明細表とつき合わせたところ間違いのないことが分った。

三浦 委託料はずっとすえおかれていて53年、54年度で合計8,600万円。経費は両年度で約8,570万円ですから、その差額は約30万円です。これは前回のお約束通り皆さんにお返しします。
「ふざけんな!今までのピンハネがたった30万なんて信じられるか」という怒声が、共闘会議のメンバーから湧きおこった。
三浦 そう言われても、本当に30万円しか差がないんですから。これには本社の管理費や人件費、利益は含まれていないのです……。
 再び怒声と野次。小母ちゃん達も「何言ってんのよ」と開いた口がふさがらないと憤慨した。
山本 50年の契約に際して、病院当局は年間5,000万の予算を組んでたんだ。それをあんたとこと旭ビル管理が4,300万円で入札したんだろうが、本来なら5,000万円の金が労働者に賃金として支払われることになっていたのだから、その差額の700万円は労働者からピンハネしてきたのと同じじゃないか。4年間で3,000万円の損失を労働者が蒙むってきたのですから、それだけのものを償ってもらいたい。
 三浦の赤ら顔がみるみる紫色に変っていった。組合員たちも3,000万という金額が突然出てきたので急に騒がしくなった。この要求額は事前に確認していたものではなかった。この日の病院交渉でダンピングの中味が明らかとなったので、山本や安原が一つの目安として会社側にぶっつけようという事になったのだ。この場で突然それを持ち出したのは、組合員の中には「会社も儲かってなかったんだから仕方ない」という諦めムードがあるのを一掃したかったからである。アドバルーンとして3,000万円という金額は予想以上の効果があった。三浦からはそれまでの開き直ったような様子が消え、組合員は活気づいて発言し始めた。
三浦 そんな金額なんて、とても無理です。私じゃ要求としても受けきれません。
青木 やっぱりあなたじゃ交渉にならないでしょう。決定権のある社長に来てもらわなくちゃ、らちが開かないでしょう(三浦黙ってうなずく)。次回には必ず社長に来てもらって下さい。
 来れないなら深谷の本社へこちらから出向きますからね。
「そうよ、みんなでバスで行くからね」「深谷の町中にビラを配って歩いてもよいわよ」と交換手や清掃員たちが三浦を責めたてた。三浦はついに「私の責任で必ず社長に来てもらうようにします」と約束した。大きな拍手が組合員の中からまき起こった。大半の者が何年も働いているのに社長の顔を一、二度しか見たことがない。社長が来たら今までのひどかったことを直接ぶちまけてやりたいと、組合員たちは日頃から話し合っていた。
 この日の団交では、会社が意識的にダンピングしてきたこと。それは競争入札という制度で自治体から押しつけられたものであることが明白になった。三浦は「会社側としては競争入札をやめてもらいたい」とはっきりと確認書に記した。

6.初めてのストライキ

 4月16日、春闘統一行動として公務員共闘による全国的ストライキが行われた。越谷市職でも自治労本部の指令に従って2時限ストが予定されていた。
 東京ワックス労働組合でもこれに同調してストライキをもって直営化要求を市当局に突きだし、市職労働者に支援を呼びかけることになった。このため、前日に全組合員がスト批准に賛成し、病院事務局に通告した。
「全員というと交換もストをやるんかね。ストやるのはそっちの勝手だから好きにしたらよかっぺが、救急連絡を止めることだけは困るからな」と厚見課長が気色ばんで文句をつけた。
 厚見とのこんなやりとりの後で、山崎局長が強く「保安要員を置くこと」を求めてきたので、文書をもって申入れてもらうことにした。組合もこの時点であまり事を荒立てないということで、交代で1名の保安要員を置くことにした。「救急連絡」と言っても、一般の患者からの救急連絡は電話を受けてからしか分らない。受信してから、一般連絡や事務連絡だからと言って断わる訳にもいかない。なしくずしに交換業務をやることになってしまう。もっとも、日中に一人の交換手が応答できる数は限られているから、通常の円滑な業務に支障があることは間違いない。それに病院の職員も救急・保安要員を除いて時限ストをやっているから、それなりに十分効果があるということになった。山崎事務局長が委託差別見直しに努力していることが分っていただけに、局長の申入れを無下に断わるわけにはいかなかったのである。
 16日午前8時、市役所玄関前の広場に約1千名の市職組合員が集まった。地区労傘下各組合の代表や越委労・埼委労東1分会も参加していた。
「すげえな、これだけの労働者が集まると一寸した壮観だな」とヒロキがうなった。
「ねっね、何を言ったら良いと思う。水上さんは何を喋るの」と藤本が緊張気味に傍の水上を振り返った。
 市職から今日の集会の来賓として埼委労東1分会を代表して藤本に、東京ワックス労働組合を代表して水上にあいさつするよう頼まれていたのである。
 県労評の浜田議長に次いで登場した藤本は、暑いくらいの春の陽をうけながら、トレード・マークの「東京クリーナー」の警備外套をひるがえし、手を後に組んで半身に構えて朗々たる口調で演説を始めた。
「この敷島の糞土に受苦的労働によって虐げられた多くの委託労働者がいる。この私もその端くれに位置する埼玉自治体委託者労働組合、そしてこの地において旬日前に結成されたばかりの東京ワックス労働組合がそれであります。とりわけ、市立病院の清掃業務に携わる労働者の多くは戦前、戦後を物言わぬ民としてひたすら、国家、社会のために受苦的労働を強いられ、委託差別に泣かされてきたのであります。しかし、今や彼らは立ち上がった。決然として労働組合を結成し、ピンハネ、ダンピングを欲しいままにしてきた、労働者の生血を吸う委託業者を叩き出し、直営化を勝ちとる決意であります。県労評のご指導、支援を受けながら、直営化を未だ勝ちとることはおろか、留守番電話による無人化攻撃を受けている埼委労一人では担い切れない闘いであります。万場の諸兄姉、働く仲間の支援・協力によってこの敷島の糞土を揺がす委託差別撤廃の闘いを勝利させてもらいたい。高壇、頭上からではありますが、心は平伏低身の思いで切にお願い申し上げる次第です」
 組合の決起集会としては聞きなれない古色ゆかしい大演説に対して、戸惑ったような拍手が湧き起こった。
「さすが藤本さんね、でもシキシマのフンドってなあに」と交換手の一人が聞く。「演説が立派すぎてワシらにはよう分らん」と中台も言う。清掃員たちも大きな拍手こそしたが、意味はよく分らないといった風であった。
 「敷島のというのは、日本を意味する沈詞で、糞土ってのは仏教用語で、汚れた糞まみれの世の中。つまり今の日本中が腐っているってこと言いたかったんじゃないの」とヒロキが解説した。
 壇上に委員長の水上と交換手の馬場、斉藤の2人が並んで立っていた。水上は、今までの低賃金と組合を結成した経過を話した。交換手は、半ば欺されたような形で市立病院に就職したいきさつや、会吐の法律違反やダンピングの実情を訴えた。三人とも緊張していたが、藤本のように恰好をつけて話すことはできない。それだけに必死で訴える様子が感動させたのであろう。一言つまるたびに激励の大きな拍手が湧き起こった。
 司会の正木書記長が、「市職としても島村市長の合理化攻撃に反撃するためにも東京ワックス労組の直営化要求を支持して共に闘っていきたいと思います。委託のことは職員に関係ないと言うんでなくして、明日は我が身ということで、ぜひ共に闘っていきたいと思います」と再度の激励の拍手をうながした。
 万雷の拍手の波が市庁舎にぶつかり、木魂のように越谷中に広がっていくようだ。
「よかったね、バアちゃん。みんながこんだけ応援してくれるんだからみんなで元気出して頑張ろうよ」と渡辺が鈴木ミネに大きな声で言った。
「もち論だよ。じいさん残して死ねるか。まだまだ働かなきゃなんないんだから」とミネは腰を伸ばして周りの女たちにキッパリと言った。
「何だ埼委労って」と苦虫をかみつぶしたような表情で島村は側に立っている深堀秘書課長を振り返った。眼下の玄関前の総決起集会から嵐のような拍手が市長室の窓ガラスを震わせていた。
「越谷署の草刈さん(公安刑事)の話では、県立高校の警備員組合だそうですが、はねっ返りの若い者が牛耳っているらしい。県庁に押しかけては座り込みや団交強要をやっているらしいですね」と、深堀が地元の公安刑事から得た情報を市長にささやいた。
「市職の中にもはねっ返りはいるんじゃないか。何とかせにゃならんな」と島村は険しい表情で呟いた。
「委託も放ったらかしだったから、連中につけ込まれたんでしょう。連中がはね上がったらそのうち叩くチャンスも出て来ると思います」と深堀はずるそうな眼で市長の顔色を窺った。秘書課長に抜てきされるや、深堀は日曜祭日に島村の家を訪ねて、草むしりや車洗いを手伝ったことは周囲で広く知られていた。まさに、信長のゾウリを懐に入れて温めた藤吉郎以上の忠勤振りである。このようなやりとりが、この日あったかどうか推測の域を出ないが、深堀が市長の手となり耳となって行動していたことは様々の事実によって裏付けられている。(巻末資料参照)
「まあ何千人が集まろうと、本当に要求だけ取るまで闘い切らねば結局はアドバルーンに終ってしまう」と佐々田麗門人が突然真顔で言い出した。「そうじやないですか、藤本さん。あなたは先程、立派な演説をされたが、どれだけの人が高度成長に汚された糞士に訣別し、受苦の民と共に闘おうと決意してくれたと思いますか。お座なりの拍手で有頂天になっちゃいけませんよ」
「そりやあ、そうですがね。やはり、多くの労働者が集まって気勢を上げるのはそれ自体良いことでしょうが」
「いやあ、私にはそうは思えませんよ。頭数が多けりや闘えるというものではない」
 麗門人や藤本猿田彦は、ストの後で市職組合員が中央の解除指令であっという間に職場に帰ってしまった後の、おびただしいビラやタバコの吸い殻を片付けていたのだった。麗門人に反論されてしばらく黙っていた猿田彦は手を休めて「一句浮かびましたよ」と言いだした。

腰軽の盛りの春の吠えいくさ
   ぬか六越えん夜警のやん八

「難しそうな歌ですね。ぬか六ってのは何ですか」
「毎年春闘の季節になると労働界のお偉方が大幅賃上げのラッパを勇ましく吹き鳴らすが、政労間のマスコミ向けの争いだ。六パーセントの賃上げくらいで安易に満足なんかせずに、夜警だけでも、やけっ八になって八パーセントくらい勝ちとって見せようじやないかってな意味ですよ。ぬか六ってのは抜かず六発≠チていう精力絶倫のたとえなんですよ」
「さすが、教養がありますね。六発やるくらいの元気がないと大幅賃上げも出来ないという意味なんですね」と、真面目な顔をして青木が相ずちを打ったので夜警たちは大笑いした。

7.恥じて逃げ出す右翼総会屋

 4月18日、第3回目の対会社団交が開かれた。この日は初めて東京ワックス労働組合員自身が作ったビラが病院内で配られた。今までの情宜ビラはほとんど、原稿作成から印刷まで共闘会議で作られ、東京ワックス労組との連名で出してきた。東京ワックス労組単独のビラも初めてであり、何よりも4人の電話交換手たちが相談して作成し、印刷まで手伝ったのは初めてである。組合結成後、わずかに2週間で、何も知らなかった労働者が一人歩きできるようになってきたのである。率直に支援を呼びかけたこのビラは職員や入院患者にも評判が良かった。
 昼休み、職場の窓から外の駐車場を見ていた山本は奇妙な男たちを見た。病院に似つかわしくない黒い背広を着た男たちが今しも3台の車から下りたってきたところであった。その中に東京ワックスの三浦専務や吉田課長が混じっていたからだ。
「ひょっとしたら暴力団を連れて来たんじゃないか」と感じた山本は清掃控室に電話を入れ、病院当局にも連絡しに行った。
「山崎局長、会社がへんな男を何人も連れて来たんだ。どうも暴力団らしい。団交に立ち合って下さいよ」
 山本が急いで団交会場の組合事務所に行った時、丁度安原がやって来た。
「ほら、あれだよあれ、どうも暴力団じゃないかと思うんだ」と山本が安原に状況を話した。その時、駐車場の隅に止めてあった3台の車のまわりにいた10人余の男たちが一団となって階段を目ざしてやって来た。すでに顔馴染みになった三浦や吉田の前に立って、眼付きの鋭い恰幅の良い男が大股で歩いて来る。濃紺の白縞のスーツにえんじのネクタイ、胸元から赤いハンカチが覗いている。そのまわりに精悍そうな若者が数人つきそっている。
「まてっ、お前らは何者だ」と、安原が大声をあげて東京ワックスの一団の後から階段をかけ上がり、三浦のそばにいた首領格らしい男につめ寄った。
「てめえこそ何だ、この野郎」とまわりの若者たちが怒声をあげて安原をとり囲む。
「何よあんたら、ここをどこだと思ってるのよ」とすでに暴力団が来ているという話を聞いていたのか、気丈夫な清掃員が男たちに食ってかかった。
「会社の人間ですよ。今日は副社長が来たから社員が心配してついてきたんですよ」と三浦がニヤニヤして虚勢を張った。
「ふざけんじゃないぞ、会社の人間かそこらのゴロつきか見ただけで分るんだ。社員というなら身分証明書をみんな見せてみろ」と山本が三浦に詰めよった。
「とにかく、会社の人間だろうと何だろうと責任ある交渉員以外は入ってもらっちゃ困る。会社の取締役以外は絶対にお断わりする」と安原は、すでに入口付近で心配そうにオロオロしている小母ちゃんたちの前に立って、男たちを睨みつけた。
 男は傍の会社役員と覚しき大柄な男に「どうします」と聞いた。「交渉に来たんだから全員が入らなくてもいいでしょう」と大柄な男がもったいぶってうなずいた。
 暴力団風の男達が何か言いかけたが、縞のスーツを着た男が「いいからお前ら下へ行ってろ。俺一人で大丈夫だからこんなガキら」とドスを利かして命令した。
 管理課長の厚見がそこへやって来た。山本は、「この前の団交で労使間題に右翼や暴力団を介入させるような業者とは契約しないと約束したじゃないか」と噛みついた。
「オラが連れてきた訳じゃなし、暴力団かどうか分らないべ」と厚見は相変らずトポけている。
「それじゃ、正体がはっきりするまで課長も団交に立ち会って下さいよ。第三者を介入させないと約束したんだから、それくらいは当然でしょっ」と安原。
「まあ、立ち会いくらいならな。オラは何も言わないよ」と厚見も渋々了承した。
 この頃になってようやく、埼委労の若手組合員(当時)が何人かやってきた。程なく市職の三役や緊急動員で何人かの若手組合員たちが駆けつけてくれた。非番の看護婦の姿も幾人か見られた。「暴力団来たる」の知らせで支援の側も殺気だっている。後の方で、西部地区の夜警たちや麗門人、太田崎らが気合いを入れるためかプロレスごっこを始めた。
「それじゃ始めましょう」と山本が平静さを取り戻して言った。「今日は、会社側は社長を連れてくるという話だったが、誰方が社長さんですか」「今日は社長の具合が悪いので、ほかの役員がみんな来ています」と三浦が言った途端に、「ふざけんじゃないぞ」「社長はどうした、社長は」「仮病なんか使うなよ」と野次が一斉に飛んだ。
 大柄な男がたって、呟やくような声で、「決して嘘じゃありません。その代わりに息子の私が責任を持って交渉させて貰います。副社長の古郡です」と自己紹介した。
「私は弁護士の小林霊光です。会社側の代理人として交渉させてもらいます。今日はとにかく、円満に話し合いで解決したい。会社側としては精一杯誠意を示す積りですから、一つお手柔かに願います」と物馴れたあいさつをした中年の男は、スキのない身なりに弁議士バッチをつけている。さしずめ、商売繁盛の悪徳弁護士って感じだな、と安原は小林の太い眉と底光りのする、落ちくぼんだ眼を見て第一印象を判断した。
 暴力団の首領格らしき男は「総務部長の花木です」と名乗ったが、安原は信用しなかった。眼付きの鋭さ、身ごなしの一つ一つが素人らしからぬ凄味がある。若い者をアゴで指示する様子といい、どう見ても場数を踏んだ暴力総会屋か会社ゴロといった雰囲気である。花木は若い男たちの身分を聞かれて「みんなうちの社員ですよ。本社詰めの総務課が4人。あとは前橋と東京の営業所の人間だ」と答えた。

山本 赤字の会社にそんなに総務課の人間が沢山いるはずがない。それに花木さんは総務部長というお話ですが、お宅の会社には総務部長さんが2人もいるんですか。そんな大会社には見えませんがね。
花木 いや、総務部長は私一人じゃないですかね。
青木 ほう、そりやおかしい。前回の団交で三浦さんは、賃金や一時金の査定は総務部長兼任の自分が責任をもってやってきたとおっしゃってるんですよ。
 花木は素早く三浦を見たが、三浦はうつむいて冷汗を流しているように見えた。「何だおかしいじゃねえか」「嘘つくんじゃないぞ」と、支援者からの野次が飛ぶ。
 団交の中で花木は会社の内容をまったく知らないことが分った。就業規則を病院の従業員の誰も見たことがない。これは明らかに労働基準法違反である。
山本 一体、お宅の会社では就業規則はあるんですか。
三浦 もち論ありますよ。どこの現場でも採用時に見せているはずですがね……。
安原 花木さん、あなたは見たことがありますか。詳しい内容はどうなっていますか。
花木 ……俺は見たこともねえよ、そんなもの。
 突然問いつめられて花木はまいったという表情で、笑いながら意外なことを言い出した。
花木 実は私は政治結社大和会≠フ花木勉という者です。争議がこじれて困っているから、助けてやってくれと小林先生に頼まれて来たんですよ。
山本 厚見課長、これは重大問題ですよ。どうするんですか。
厚見 第三者は入れないことになってるんだから、花木さんに席を外してもらえば良いんだろう。それで交渉を進めたらよかんべ。
安原 それじゃ、花木元総務部長さんには隣の部屋で待機して貰うことにしましょう。いいですね古郡さん。
 右翼を頼んで組合の要求を押し潰そうとした会社(というより小林弁護士)の思惑は完全に外れてしまった。しかし、交渉の内容は前回から少しも進展しなかった。社長が地方出張中ということで連絡もとれず、息子の副社長には決定権がないようだった。
水上 会社はワックスをこれだけ使ったというが、ワシらはいつも足りんでやいやい言って、やっと持ってきてもらう有様だから信用できないです。
笠原 どうしても間に合わないから、こっちでダンボールを集めて売ったお金の中からワックスを買いに走ったこともあるんですよ。
 差額があるかどうかで、話はややもすれば細かいところでのやりとりになりがちであった。現場の実感から言えば、金額は小さくても会社のゴマ化しがあまりにも目立つのである。だが、お茶代や文房具などの微細な支出の是非を追求してもラチはあかない。
山本 経費の明細はともかくとして、管理課に強制されてダンピングした結果、低賃金しか払えなかったわけだから、いずれにせよ会社と病院に責任がある訳じゃないか。
厚見 山本、何を言うんだべ。病院の方は、ちゃんと5千万の予算を用意したのにワックスの方で、これでやっていけます。法違反もしませんし、仕事にも支障を起こさねって言うから任せたんだベー。こっちの責任追求するなら、オラは帰るぞ。
安原 病院当局の責任は、改めて追求しましょう。厚見さんもムキになってムクれることないよ。
 理由はどうあれ、委託事業費を安く見積って落札したのは会社なんだから、適正な見積りなら当然法違反も犯さずちゃんとした給料は払えていた筈だ。その分だけ従業員に損失を与えたことは会社として認めますね。
 会社は責任を認めたものの、補償額については回答を出し渋った。いったん休憩を取ることになって、小母さん達が、清掃控室から大量のおにぎりを運んできた。交渉の合い間に何人かが交代で用意していたものだ。病院の看護婦や近所に住んでいる市職の女性組合員から菓子やサンドイッチの差入れもあった。長時間の団交の疲れをお互いにねぎらいながら、頬張ったおにぎりは塩辛い味がした。
「誰か、涙や鼻水をたらして握ったんじゃねえか」と市職の組合員が冗談に言ったので皆笑いこけたが、涙は案外本当だったのかも知れない。
 ヒロキが一皿の握り飯と湯呑みを持って隣室に入っていった。すでに、何人かの埼委労組合員や市職の役員が花木と、談笑していた。ヒロキが飯と茶を出すと、古郡らはかたくなに遠慮したが、花木は「腹が減ったというより、疲れるよな」と大きな口を開けて握り飯を頬張った。
「いやまいったよ。あんな簡単にバレてしまうなんて思わなかったよ」と花木が笑いながら言った。
「アカの若い連中が暴れてるって聞いてたんで、骨の一本も折ってやれば大人しくなるだろうと思って来たんだ。それが俺の親父やお袋みたいな年の人がやってる。それも日給2,600円なんてうちの若い者の10分間の稼ぎだよ。こりややっぱり会社が悪いやね」
 古郡や三浦はうつむいて黙っている。小林は苦虫を噛み潰したような表情であった。「何だなあ、1千万も出せば組合は勘弁してくれるんだろう。早いとこ話をつけてしまえよ」と花木は屈託なさそうに言った。
 だが、再開後の交渉ははかばかしく進まなかった。古郡や三浦ははっきりした回答を示さず、愚図愚図しているばかりである。再開後はオブザーバーとして出席が認められた花木や小林弁護士はじれったそうにしている。夜になってから支援にかけつけた井上弁護士がもどかしそうに口を開いた。
井上 古郡さん、いいですか。会社が儲かっていようとなかろうと、はっきりした違法行為が幾つもあるんですから、基準法違反や最賃法違反で訴えたら、会社側は刑事責任まで問われるのははっきりしているでしょう。
 小林さん。あなたと私はどうも立場が違うらしいが、私の言っていることは法律的に間違っていないことはお分りでしょう。あなたが責任をもって回答したらどうですか。それくらいの権限は代理人としてあるでしょう。
 誰かが「それくらいのことはしろよ。高い弁護料取るだけが能じゃないぞっ」と野次った。
「誰だっ、今野次った野郎はこっちへ出てこい」と小林は血相を変えて怒鳴った。
「誰でもいいだろうが。あんたも雇われ弁護士なら、それくらいのことをしたらどうだ」と山本がやり返した。
「何をっ、貴様」と、小林が席をけって山本に詰め寄った。野次が飛びかい、会場は再び騒然とした。だが、安原と花木が平然として座り込んでいるので、座はようやく落着きを取り戻した。
青木 小林さんも弁護士だからムキになってもらっては困りますよ。どうしても今日、具体的な回答が出せないというなら仕方ない。あなたも副社長も決定権がないということだから、次回には必ず社長に出席してもらってやり直しましょう。今日のところは、基本的には過去の労働債権を支払うという意志と、今年度の事業委託がどうなろうと、組合の同意なく解雇しないということを確認してもらいたい。
 会社側だけでなく、東京ワックス労組の組合員たちも疲れ切っていた。これ以上の交渉を全員で続けるのは困難であった。
 花木は真っ先に事務所を出て、車の中でゴロ寝をしていた若い者を叩き起こし、古郡や小林らを乗せるとさっさと帰ってしまった。
 すでに夜11時近かった。バスはおろか春日部から先に電車もなかった。市職の組合員たちが車を用意して来て、幾組かに分れて送ることになった。朧月が春の宵闇の中でぼんやりと光っていた。疲れと不安とで誰も口をきく元気もなかった。
「あん時は家へ帰っても、みんな寝ていてね。そーっと入って布団にもぐり込んだよ」
 農家の朝は早い。何人かの農家の主婦たちは当時の苦労を懐かしむように言っている。
 だが、妻や母を心配して夜遅くまで帰りを待っていた家族も多かった。笠原や渡辺は母や夫たちにその日のことを面白く話してきかせた。
 伊藤あきの末っ子は都内の会社に勤めていて、「組合があるから給料が上がるんだよ」と励ましてくれた。
 千葉とよは警察官をしている息子から「組合なんかに入ってストなんかするんじゃない」と叱られた。
「だけど会社はいなくなるし、皆と一緒にやっていかないと仕事できなくなるじゃないか」と、とよは遠慮がちに息子に言った。この日はそれで済んだが、夜遅くなるたびに息子に文句をいわれることは、大正生れのとよにとって辛いことであった。
 東京ワックス従業員の一人ひとりの生活環境や家庭は様々であった。幼い頃に子守に出されたり、他家へ売られていった人もいる。人にも言えぬ辛酸をなめつくして今日まで生きぬいてきた者も少なくなかった。今は比較的恵まれている者も、戦前・戦後を通じて人並み以上の苦労をしてきた者ばかりである。
 だが、いくら苦労をしても心まで卑屈になってはいない。人間らしい生活を望む気持ちと誇りだけは、東京ワックス労働者の多くが持っていた。だからこそ、度重なる深夜の団交にも誰一人として黙って帰る者はなかった。「ここで負けてたまるか」という最後の意地を一人ひとりがギリギリまで持ち続けていたのである。
 この団交の後、今まで組合に入らないと頑張っていた責任者の樺沢も組合に入ることになった。東京ワックスが過去の責任を認め、残留の意志がないことがはっきりした以上、樺沢としてもこれ以上孤立を続けることが困難だと判断したのであろう。この日を境にして、組合員には少々のことでは負けないぞという自信が生れてきた。

8.東京ワックス観念す

 4月22日、越谷地区労幹事会は「東京ワックス労組支援」を正式に決定した。4月9日の幹事会では、結成直後ということもあり「時期早尚」で見送られていたのだが、4月16日の統一行動でのアピールが利いたものか、満場異議なく認められた。
 当時越谷地区の争議組合として地区労が全面的に支援していた「東武・越谷自動車教習所労働組合」(全自交・委員長斉藤高)と同じく、全国的な支援が約束されたのである。共闘会議の支援労働者も増えつつあり、運動は除々に広がっていった。
 4月24日、新業者導入について病院当局と団体交渉を持つ。山崎事務局長と厚見課長から、「東京ワックスの契約辞退に伴って、4月末をメドに業者選定を続けてきたが、県内業者は組合を恐れて引き受けてくれるところがない。荒川に本社のある「鞄世」(内海静雄社長)だけが指名願いを出してきた恰好になったので、25日に見積り合せをした上で5月1日より新業者導入を図りたい」という申し渡しがあった。
 この3週間の組合員たちの必死の訴えにもかかわらず、島村市長があくまで委託制度存続を事務当局に命じたものであろう。山崎局長は苦し気に「市の方針では」と繰り返し述べざるをえなかった。
 あくまで委託制度を存続させようとする市当局に対して、組合は次のように要求した。
 @ 業者選定・委託契約にあたって組合の同意を得ること。
 A 少なくとも直営化に準ずる大幅な労働条件の改善ができるような委託料の引上げ。
 B 不当なピンハネや倒産、賃金不払いの恐れのない会社を選ぶこと。
 C 前記については組合独自に調査・会社側との協議を行い、組合が納得するまで業者導入を強行しないこと。
 この要求には「良い業者なら委託でもよい」というニュアンスがある。従来の「直営化=公務員化」という要求から見れば明らかに後退している。だが、組合は「直営化」要求を取り下げてはいない。戦術的に後退したように見えても、これらの要求をキチンと追求していけば、必ず直営化につながるという確信が共闘会議側にあった。その根拠とは、
 @ 「良心的な委託会社」など制度的にも現実的にもありえない。「健全経営」は過大なピンハネなくしてありえない。ピンハネのない「良心的企業」があるとすれば、採算を度外視するか、本業以外に不正な利益をあげているからである。
 A 従って、鞄世が多くの委託会社と同じようにピンハネ企業であるか、もしくは何かあくどいことをしているか証明すれば、当局が契約資格としている「良心的で健全な企業」でないことになる。
 B 仮に可もなく不可もない会社であるとしても、組合活動が他の事業所にまで及ぶようなことになれば、あえて火中の粟を拾う業者は出てこない。
 このような委託会社についての判断は、埼委労と雇用関係にあった県下の主要業者の今までの対応から分析したものである。事実、日世以外の業者ほどこも正式に指名参加願いを出してこなかった。
 だが、東京周辺には1千軒以上のビル管理企業がある。大手を中心にしたビルメン協会に加入していない業者も多く、右翼や暴力団が関係する会社もある。その中には敢えて火中の粟を拾うことを業とする企業もなしとはしない。事実、この当時の鞄世の中心的な経営陣はこのような好戦的体質を持っていたのである。
 共闘会議側でもこのような例外を考えなかったわけではない。しかし、当初から一切の業者選定を認めないということでは事務当局の立場を頭から否定することになり、一般市民の理解が得にくいという判断であった。このため、敢えて直営化一本槍ではなく、業者選定を認めておいて、結果的に契約する業者がまったくないという事態をつくり出す。この方が無理なく直営化を実現できるという判断であった。今から考えると、この判断には会社に対しても、市長の基本姿勢についても甘かったといえるが、事態解決に必死で努力している山崎事務局長らの苦労を敢えて無視できなかったのである。
 業者導入の予定を明らかにしてもらいたいという組合側の要求に対して、病院当局は翌日になって5月1日の予定を10日からに延期すること。病院当局立ち合いのもとに、業者との事前協議(説明会)を早急に開くと回答してきた。島村市長は5月1日を主張したが、十分な協議のもとに円満に業者導入を図りたいとする藤倉助役、山崎事務局長らが説得したということであった。

 翌25日昼休み、東京ワックス労組20名と市職労、埼委労の支援合わせて数十名が病院玄関前のロータリーに集まった。組合結成から連日のように病院内外でビラ配りをしてきた。だが、病院内で公然と看護婦や臨時職員らと団結して行動するのは初めてである。何事だろうと入院患者や外来患者たちが病室の窓からこの小さな集会を見下ろしているのが見える。
 看護婦の浮田らがマイクを握って、委託労働者のあまりにひどい状態を知った驚きや、病院内での仕事の重要性をアピールしてくれた。78年9月には慢性的な欠員があり増員闘争をしたこと。その時、市長が欠員に見合ったベッド数を削減し、病棟を閉鎖するため警官隊の力を借りて強制的に入院患者のベッドを移動させようとしたこと。市長の命を受けて点滴中の患者を病院の管理者たちが、病棟移転させようとしたのに対して看護婦が泣きながらベッドに取りついて阻止したこと、など島村市長の人を人とも思わぬ強権的な性格などが次々に暴露されていった。
 これに続いて、職場毎、病棟毎に東京ワックス労組員がマイクをもって、入・外来患者に支援と理解を求める呼びかけを行った。この集会によって、患者や一般の職員が委託問題について具体的な関心を持つようになったのである。
「組合の役員だけでなく、知っている看護婦さんたちが参加しているのを見て、組合全体が委託労働者を支援していることがはっきり分って、身近なものに感じるようになった」と、消毒係のある職員はこの集会の印象を今でもこのように述べている。

 午後1時から、院内会議室において第4回目の東京ワックスとの団体交渉が開かれた。共闘会議の他に、越谷地区労の堀井議長や越谷自動車教習所労組の斉藤高委員長も参加し、東京ワックス労組の闘いほようやく地域的、全県的な関心を呼び起こしつつあった。
 すでに闘争の長期化が予想され、市当局の業者導入の予定も5月10日が最終期限とされた。東京ワックスに対して何としても過去の償いを具体的に認めさせ、病院当局に対しても元請責任を認めさせなければならなかった。組合員は連日の交渉や行動にもめげることなく、今日こそ大幅な償いを勝ちとるまで団交をやりぬく決意であった。共闘会議では、過去の委託差別を病院の委託料の低さに責任転嫁し、自己の契約責任・使用者責任を逃がれんとする東京ワックスを追いつめるため、事務局長・管理課長の立ち合いを断固として要求した。山崎局長は「問題の早期解決のためにあえて仲介の労も辞さない」と労使交渉に当局が出席することに同意した。
 出席を約束されていた社長は病気のため出席できないということであった。その代り、会社は前回団交で「大和会」を連れてきたことについて謝罪し、「本日はいかなることがあっても会社の誠意を示して、解決に向かうよう努力します」と古郡副社長は述べた。
 だが、「長年にわたって皆様にご迷惑をかけ、契約辞退で病院や皆様に混乱と不安を与えたことを重々反省して、過去の法違反などを誠実に償いたい」と古郡が長々と弁明して、提示した和解金はわずか百万円であった。
「3千7百万円でなければやらせないと言われたら、業者としては赤字でも引き受けるしかなかった。お詫びはするが払えないものは払えない」と三浦は開き直りともとれる答弁を続けた。
「副社長さんは父親や母親が(自分の)小さい頃に2人で掃除の仕事を始めた。自分も手伝ってきたと言われとるが、あんたは大学まで行っとるんでしょう。ワシらの子供は誰も大学に行かせられなんだですよ。そのうえ年寄りを安く使ってきて何の弁償もせんて、あんまりひどいじゃないですか。2,300円でどんな暮しをして来たか知っとるんですか」と、62歳になる清掃員が立ち上がって、涙を流さんばかりに声を震わせて訴えた。
「どうしても払えんていうなら、皆で本当に熊谷に行って、どれだけひどい目に会ってきたか町中の人に知ってもらってもいいのよ」と小母さんらが叫ぶ。
「百万いうても、守衛や交換さんもいれたら、みんなで30人いるんですよ。1人3万円ぐらいもろうて、昔のことを忘れてくれって言われても忘れられませんよ」と、水上がキッパリ古郡の堤案を拒否した。
 山崎局長が「これは病院が口出しすべきことじゃないが、3回も今まで団交してきてこれでは少しも解決しそうもない。病院としてもこのままでは困るから、一寸話させてくれんか」と発言した。さすがに東京ワックスの頑迷さに手をやいたという様子である。
「山本さん、こうなったら味覚糖の件を暴露して、二重契約で告訴して当局の管理責任、市長の契約責任まで刺し貫ぬいて決着を迫るしかないんじゃないか」と、安原が山本や青木に目くばせして言った。
 味覚糖事件というのは、春日部の製菓会社・味覚糖に月2度の割合で定期清掃(洗いワックス)に病院の従業員が派遣されていたことである。給料は病院事業所からもらい、病院の資材をもって行く。完全な二重契約であり、このことが公になれば、会社側は刑事責任を追求され、一切の自治体委託から締め出しをくうであろう。病院当局としてもこのような病院財産を横領、契約違反を見逃していた管理責任が問われるであろう。しかも、このような二重契約は味覚糖だけではなかった。このことのバクロ追求を恐れたからこそ会社は一方的に契約辞退をしたのである。それだけに、会社側の契約辞退の意志がはっきりしないうちは大っぴらにせず、会社団交においてもあえて口をつぐんできたのである。

安原 払えないとおっしゃるなら百万でも構いませんが、会社は民事責任だけじゃなくて、刑事責任まで問われても良い。市長は市財産の横領を見逃していたということで行政責任を問われても良いというわけですね。
厚見 おい安原さんよ。刑事責任だの、市長が横領を見逃していたのと隠やかじゃない話だぞ。
青木 もち論、隠やかじゃありませんよ。東京ワックスが市と民間会社で二重契約し、病院の人間を他所で働かせて、しかもワックスや、ミガキ砂まで病院の物を他所で使っていたということになれば、市有財の横領ということになるでしょう。市長にしても、そんな泥棒会社を知らずに5年間も委託業務を任せていたということになれば、当然重大な管理責任を問われるでしょうからね。
古郡 私にはさっぱり何のことか……。
安原 副社長が知らないっていうんですか。それじゃ専務が独断でやってきたのか。おい三浦、お前が勝手に社長印を使って、味覚糖や佐藤医院と契約したって言うのか。どうなんだ。
 安原に大声で追求されて、三浦は震えだした。小さな業務契約まで副社長が知らないことは十分あり得る。しかし、東京ワックスとして不正な契約をしてきた責任を免れることができないのが三浦には分っていたのであろう。
水上 副社長さんが知らないというなら、私が教えてあげますよ。私と笠原さんとで月に二度、味覚糖へ行って洗いワックスをしてきたのは、吉田さんの命令ですよ。吉田さんが車で来て、病院の材料を持っていったこともあるし、2百円の手間賃を貰って電車で行ったこともあります。余分な仕事をしても給料はちっとも余計に貰ってませんよ。
渡辺 佐藤病院だって、ここの掃除が始まった時からずっと月2回2人も3人も行ってたでしょ。わたし佐藤さんの奥さんにガミガミ文句いわれてコキ使われて一銭も貰ってませんからね。
 口々に不正な二重契約の事実を暴露されて、三浦はひきつけを起こしたかのように頬をぴくぴくと震わせた。古郡も青ざめて頭を抱えてしまった。
青木 どうしてそんな大それたことをしたんです。そうでもしないと4千3百万ではやっていけなかったからでしょう。
三浦 東部地区は吉田に任せていましたから、吉田が探してきたんです。病院だけでは大変な赤字なもんですから、それくらいなら、病院の方がひまな時にやればいいと……。
山本 お聞きの通りですよ事務局長。管理課では、当初23名で病院中の掃除をしろ、5名で電話交換しろ、しかも4千3百万でやれと押しつけた。会社はとてもやっていけないから、他所から仕事をとってきて、当初は全科開業してなかったから、多少人も余ったかも知れないので病院の人間を他所へ回した。2年目、3年目には忙しくなってきたのに予算は抑えられる。人員も減らせということで、交換も4名。清掃も18名になった。それでは会社もやっていけないから不正行為を続けた。これが、病院の責任でなくて何なんですか。ワックスの社長が刑事責任に問われるくらいじゃ済む問題じゃないでしょう。根本に委託差別があるから、このような不正劣悪な労働条件が起こるんだ。委託制度そのものが業者にも労働者にも地獄を味わわせてるんじゃないか。
 三浦と古郡は観念したように床を伏せたまま何も言わない。山崎と厚見は苦虫をかみ潰したような表情でため息をついた。
 ことここに至って、ついに東京ワックスは観念した。隣室に引き上げた会社はかなり判断力を失っていた。厚見や山崎も事態の重要性に驚いたのか、会社側の結論を促した。組合員は長い待機の間に「ガンバロウ」の歌を歌った。青婦部の役員で「宴会部長」の異名がある栗本が歌唱指導して、何度も歌っている内に、段々大きな声で歌えるようになってきた。今夜もすでに10時を回った。家の者にどう言うか、皆それぞれに悩みながら、不安を吹き飛はすようにいつまでも大声で歌い続けた。
 長い協議の後に会社が示した回答は「経常利益(ピンハネ分)、労働債権、慰謝料を含めて5百万円で一切の解決金としたい」というものであった。今度は組合側が別室に移って協議する番であった。
「5百万ならいいんじゃないか」「組合に払うというんだから21人で分けれは1人24万になる」という意見もあった。しかし、何年もの間、安い給料で辛い思いをしてきたこと。人に聞かれても恥ずかしくて、幾ら貰っているか言えなかったことなどを考えれば、「とても我慢できない」という思いが強かった。
 それにしても、最初の回答が30万円であったことに較べれば大きな前進であった。頑張れはそれなりの償いをさせられるんだという自信を皆が持ったことは大きい。今日のところは、5百万円の回答があって、それを拒否するというのではなく、不満として保留しょう。目前に新業者導入が控えているから、当面はその阻止に全力をあげよう。ワックスとの解決は、新業者導入を阻止してからでも遅くない、ということになった。一応その線で確認書を交わすことになった。
「東京ワックス従業員については組合の同意なく解雇しない」「55年度も委託事業を継続する場合は労働条件について、組合との協約成立を前提とする」という前回からの保留条項について、会社側は再び確約を保留した。
 すでに10時を回って、18日に続いて2度目の夜半の帰宅となった。だが、大幅な前進を勝ちとっただけに、組合員の表情は前回の消耗感と疲労が重なった程の重苦しさはなかった。
「早く解決してあげなけれは、年寄りが可哀そうだ」と山崎が誰をせめるともなくポツリと呟やいた。


第3章 水郷を襲う強権の津波

1.ハイエナ♀驪ニ登場す

 対東京ワックス交渉は一つの山を越した。連夜の深夜団交でみせた団結の力を新会社導入阻止に向けて集中すべき時であった。
 共闘会議ではこの1ヵ月間の闘争を総括し、9日を期限とする日世導入阻止に向けて方針討議を行った。そのねらいは、当局ペースの導入を引き延ばし、「組合と合意しない限り新会社を入れないこと」を確約させることであった。そして、東京ワックスとの契約切れによって、委託会社なき就労の事実をつくり上げ、雇用責任・業務管理責任を市当局につきつけ、何らかの形での直営化を勝ちとることにあった。
「しかしどうしても市が一方的に契約を交わしたらどうするのか」
「新会社と雇用契約を交わさず、自主就労を続ければよい。この空白が長期化すれば、市が雇用責任をとらなければならなくなる」
「しかし、市が新会社に業務を押しつけてそれを組合が拒否すれば、今の従業員が解雇されることになるのではないか。」
「何年も最賃ギリギリで病院のために働いてきた年配者を簡単に首切れるだろうか。県でも学校警備を無人化したくても、2百名の高齢者の団結には勝てないんだ」
「しかし、畑知事は一応革新の出身だが、島村はゴリゴリの保守でウルトラ超過激派だからね」
「解雇するなら、無期限ストで完全に業務拒否するしかない。委託は関係ない、どうでもいい仕事だっていうんだから、交換や清掃をストップして目にもの見せてやればいい」
 慎重論、主戦論が飛び交ったが、結論は容易に出ない。「とにかく、広く世論に訴えて闘争への理解の輪を広げ、市長を孤立させねばならない。マスコミや議会対策、そして広汎な市民への情宣を強化しよう」と、結局は方針のあいまいなままに運動を大衆化しようということになった。この日から再び連日、駅や市役所、病院でのビラまきが始まった。
 病院から日世との説明会を5月2日行うという知らせが入った。「説明会の前に会社に乗り込んで、会社の実情を聞き出し、争議状況を説明して契約を思いとどまらせよう」という意見が埼委労側から出された。
 だがこの頃、埼委労に対し、夜間の電話取次ぎ、受信業務を剥奪し、「留守番電話」で置きかえようとする攻撃がかけられていた。「留守番電話設置阻止」の檄が森田委員長から飛ばされ、東部1分会、2分会が22日合同で対県交渉を行い、その後も各地で情宣活動や署名活動をやっていた。共闘会議に日常的に参加していた青木、藤本、ヒロキ、阿藤、安原らは二つの闘争を抱え昼は休みなく活動し、夜は夜警として夜更け、早朝の学校警備員として疲れ切っていた。
 越谷市職労の役員や活動的な組合員もまた事情は同じであった。職場への合理化、昼休み窓口設置問題、参議員選挙などの相次ぐ攻撃がかかっており、連日のように職場オルグや団交が行われていたからである。
 このため、「説明会の前に日世を叩く」という方針が見送られて、2日の説明会の話を聞いてからということになった。だが、この数日のズレによって日世の進出意志が決定的になったのであった。
 5月1日、越谷地区のメーデーに東京ワックス労組が参加した。埼委労東1分会からも当時分会長の飯島老人を先頭に何人もの老警備員が参加し、東京ワックス労組の年配者と肩を並べてデモ行進した。東京ワックス労組の誰もが、生れて初めてのデモであった。すでに初夏の暑い陽射しが、軒の低い宿場町にはさまれた旧日光街道にも遠慮会釈なく射しこんでいた。汗まみれになって大きな声でシュプレヒコールを叫び、道行く人にビラを渡す。「委託会社は出て行け」「市長は元請け責任をとれ」などと書かれたプラカードが肩に喰い込む。この日の集会では、委員長の水上、書記長の馬場、埼委労の藤本の三人が並んで壇上に立ち、東京ワックス闘争への支援を要請し、万雷の拍手で激励された。

 5月2日、ついに、「鞄世」が登場した。全員にピリピリ緊張した空気が走る。厚見課長が、内海静雄社長、早乙女専務らを紹介した。
 2人の第一印象は良くなかった。内海は色黒のズングリした男で、ゲジゲジ眉毛に奥目のドングリ眼。一見して純情なヤクザの若頭風であった。早乙女は一寸形容しがたいくずれた表情の中年男であった。ふてぶてしさと世の中を見くびったような、なげやりなところが同居している。いわばうらぶれた会社ゴロとでもいった風態である。
 果せるかな早乙女がペラペラと喋り始めた。曰く「日世は従業員本位で明るく働ける会社です。お年寄りの人でも安心して働けるといって、遠くの事業所からわざわざ会社に給料をとりに来て、私共と話して帰るのが楽しみだというおばあさんもいるくらいです。今度、皆さんのご了解を得てうちの会社で働いてもらえれは、決して今までのようなご苦労はおかけしませんから、云々」
「そんな無内容なあいさつは結構。今日は、会社側のきれい事を聞きにきたんじゃない。日世という会社がどういう会社か、我々の要求を受け入れてくれるのか、労働条件や就業規則がどうなっているのか、こちらの聞くことにだけ答えてくれればいいんだ」と、山本が早乙女の話の腰をぽっきりと折った。
 様々な質問をして分ったことは次のようなことである。日世は社長の内海がアルバイトの硝子ふきから始めた会社であり、昨年暮に総合ビル管理会社として、資本金1,600万円で設立されたばかりであること。主なビル管理の事業所としては荒川区役所、小管浄水場、草加市役所などがあること等々。
 労働条件は事業所ごとに(委託料がちがうから)多少ことなるが、初めての人でも日給3、200円くらい。都内では4,000円くらいだという。償与は夏、冬各1ヵ月分近いものは出す。保険は全員加入を原則としており、社会保険組合に加入して事務的にもきっちりしている。話だけ聞いていると、平均的な委託労働者の条件以上のものは出しているようであった。
 だが、定年制について質問をするとにわかに歯切れが悪くなった。清掃員の定年は60歳。それ以上で、継続雇用を希望する者には嘱託として1年ごとに契約する。給料は基本給の3割減ということであった。
「定年なんて絶対認められないからね」「それなら今いる大半は雇わないっていうのと同じじゃない」と小母ちゃんや年配者たちが色めきたった。

早乙女 これは会社の一般的な就業規則ですから、ここでも杓子定規にするというのではなく、今おられる皆さんは、ずっと同じ給料で働いてもらいますから。
安原 今年はよいとしても、そういう規定があるなら、いずれ定年だからといっておい出されないとも限らない。終身雇用、同一労働条件を前提にした独自の労働協約をここで結んでくれないと困る。
早乙女 しかし委託契約は、市と会社の問題であって、協約が結ばれないからといって契約するなといわれても会社の経営権、決定権がそれで拘束される訳にはいかないんじゃないでしょうか。
山本 労働協約が結ばれない限り雇用に応じるわけにはいかない。自分の給料や条件が分らないのに、採用して下さいと頼める訳ないじゃないか。
内海 それは、契約ができて、うちが雇うということになってから話し合えばいいのじゃないか。
青木 市との契約後に労働条件が折り合わなければどうなるのか。会社はワックスのように契約を破棄するのか。
内海 そんなことはしません。納得してもらえなければ仕方ないじゃないですか。無理に働いてもらわなくても良いんですから。
 内海社長のぶっきらはうな言い方は、今となっては何でも無遠慮に物を言う彼の率直な性格がら来たものだと考えられる。だが、そのヤクザッぽい風貌(これは今も日世の社員自体が認めている通りである)と相まって、平然と労働者を使い捨てる暴力的なものとしてしか受けとれなかった。組合員や支援者たちに、会社に対する不信と怒りが爆発した。会場は騒然として野次が飛びかい、厚見たちは「困ったことを言う」というような表情を浮かべていた。
内海 まだうちがやらせて貰うと決った訳じゃない。こんなガアガア言われたって困るんだ。
安原 それでは会社の最終態度は決っていないというわけか。委託を受けるのはいつ最終的に決定するのか。
 第2回目の協議会は5月7日(火)と決められた。それまでに会社側は態度を決め、委託を引き受けるなら午後1時に出席するということであった。
 話し合いの最後になってこの会社が労働者の収奪(ピンハネ)によって成長してきた典型的な労務供給会社であることが分ってきた。だが委託料の大幅引き上げによって、日世が社内基準を緩和してでも市立病院においては組合の要求を一定程度は満たすという「誠意」を示してきている。この見せかけの「良心的ポーズ」をつき崩さなけれは、雇用契約を拒否して自主管理を要求して実力行使するのには無理がある。共闘会議は日世という会社の内容をもっと知る必要がある。そのためには本社交渉、事業所訪問をして労働者たちと連帯を勝ちとるため、連休明けの6日に労働者の半分がストを打って都内まで出かけようということになった。

2.業界アウトサイダーの本性

 5月6日(火)午前8時、東武越谷駅に執行委員6名、青木、安原らの特別執行委員、若干の組合員と共闘会議の労働者が集まった。
 東武北千住から営団地下鉄千代田線に乗り換え、町屋駅で下りる。さらに現在では東京で唯一残っている都電荒川線に乗って熊野神社前に向かう。
「都電なんて久しぶりだね」と、何人かのばあちゃんたちが感激したように言う。
「都電どころか東京なんて年に一、二度しか来ないもんね。ほんとに家や車が多くて、目が回っちまったよ」と越谷の農家育ちの秋谷がびっくりしたように言う。「こんなことで東京の下町見物できるなんて、思っても見なかったよ」
 このばあちゃん達と若者との奇妙なおのぼり集団は、荒川右岸の下町を物珍しそうに眺めながら鞄世の本社へやってきた。
「これじゃまるでしもた屋じゃないか」とヒロキが驚いたように叫ぶ。どんな立派な会社かと思っていた本社社屋は、その辺りに立ち並んでいる普通の民家とまるで変りがない。1階は資材倉庫になっているらしく、狭い非常階段のわきに「株式会社日世」という看板が掲かっているのは2階への入口を示していたのだ。
「やあ、皆さん何ですかおそろいで」と奥から説明会の時に来ていた川前と名乗った管理課長がにやにや笑いながら出てきた。

安原 病院の会議室できれい事ばかり聞いていてもらちがあきませんから、今日は会社見学に寄せてもらったんですよ。大層ご立派な本社ですが、土地建物は会社のものですか。
川前 とんでもない借り物ですよ。家賃もバカにならないんだけど、ビル管理会社はこんな木造の方が親しみがあって良いでしょう。まあ、立ち話も何ですからどうぞお上りになって下さい。もっとも、社長も専務もおりませんから大した話はできませんがね。
 川前との話は清掃業務が中心だった。お役所の仕事はうるさいばかりで金にならないとか、常勤の清掃より定期清掃の方が儲かる。日世では屈強なアルバイトを日給1万円で雇って、1日に何ヵ所ものワックス洗いをしている。「うちでは、これを特掃班と呼んでいますが、大学の応援団の学生アルバイトなども結構いるんですよ」と川前は意味あり気に笑った。
 組合代表は、説明会での会社側の労務姿勢について厳しく抗議し、「市立病院との契約を思いとどまるよう社長と専務に伝えるように」と申入れた。
 応接室の壁には、自民党代議士の政治団体の名で日世に対する「感謝状」が額に入れて掲げられていた。「貴社は長年にわたって環境整備に尽力されたのでここに表彰するものである」などという文句がわざとらしく書かれている。政治献金に対する礼状ででもあるのだろう。日世という会社が、利権的な代議士の力を借りて、公共事業体の管理業務の委託を広げてきたことを明白に物語っていた。
 日世を出て荒川区役所へ向かう。熊野神社前の停留所に向かうまで「日世は高齢者使い捨て止めよ」というビラを配りながら、停留所へ歩いて戻った。
 再び都電に乗って荒川区役所へ行く。市職の佐々木委員長が先に組合事務所に来て待っていてくれた。ここで日世が今年の4月に業務委託を受けた経過や日世の評判等を聞く。荒川区や草加の指名決定の裏には、自治省出身の自民党A代議士が動いたからだという。東京都水道局からは、死亡した従業員をそのまま雇用し続けたように見せかけていたのが発覚して、今年から水道局関係の指名から外されてしまったという、とんでもない事実まで明らかとなった。とにかく、事ごとに政治家の名前をちらつかせたり、労働基準法を守らず従業員の定着率が悪いことなどで、都内の自治労での評判は良くないという。
 昼休みには、区役所の中にある「日世従業員控室」を訪問する。意外なことにどう連絡を受けたのか早乙女が先回りしていた。早乙女の了解を得て、日世での待遇や仕事の内容を聞く。早乙女がいるせいか、余り多くを語りたがらない。大半の者が、前の会社から引き続き働いていた関係で、「日世のことはよく分らない」という人が多かった。
 早乙女は相変らずにやにや笑いながら、「仲良くやっていきましょうよ。皆さんが動けば動くほど委託料は上がるんだから大いにやって下さいよ。今年は市の言いなりで請けても、越谷市には隠し財産が一杯あるから、これからどんどんふんだくるつもりですよ」と会社の腹の中を少し見せながら、さかんに「共闘」のポーズを見せた。
「とにかく自治体の言いなりになったんじゃ、業者も従業員も細るばっかりでしょう。業界団体に入っていないと言われるが、あんなしみったれた談合でこそこそ委託料のつりあげをしようたって無理だ。表面はなごやかだが裏では足の引っ張りあい。うちは談合なんかせずに、正々堂々と必要経費は要求していく主義ですからね」
「これは一筋縄でいく会社しゃない。自治体当局には自民党代義士を使い、組合とこじれれば裏から手を回して懐柔してくるつもりだろう」と青木や安原は、日世が業者談合と抜けがけだけで世渡りする多くの委託会社と一味ちがう政治力をもった会社であることを、改めて知らされた思いであった。
 荒川区役所での話し合いを終えると一行は再び町屋から、北千住に戻り、草加市役所へ向かった。ここもまた日世がこの年から庁舎清掃業務を請けおったはかりで、10名足らずの清掃婦が働いているという。
 草加市役所の中を手わけして清掃員たちを探す。何人かの清掃員たちに話しかけたが、「仕事中だから」「私は新しく入ったばかりだから古い人に聞いて下さい」と何かにおびえたように、なかなかうちとけて話そうとしない。
 代々の業者に仕え、10年近くも草加市役所で働いてきたAさんを探しだし、労働条件や日世のことを話してくれるように病院の小母さんたちが頼んだ。だがAさんは、「別に話すこともない。私らあといくらも働けないんだから、組合なんかつくる積りもない。仕事中に邪魔しないでもらいたい」と、仕事の手を休めずにつっけんどんに答えるだけであった。
 それでも、何人かの人たちから聞いた限りでは、給料はまちまちで、お互い同士知らないまま、「あの人は私より多いんではないか」と疑心暗鬼しているようであった。
「会社から話すなと連絡が来てんじゃないか」
「それにしても、私らと同じ身分で、大した給料ももらってないんだから、話ぐらいしてくれてもいいじゃないかね」
「みんな顔付きが明るくないもんね」と小母ちゃんたちは、日世の従業員たちのおどおどした暗さを感じたらしい。
「日世に雇われたら、物も言えなくなってしまうんだろうか。それなら、いくら給料は安うても、好きなことが言えただけ東京ワックスの方がましだね。私は絶対日世に雇ってもらいたくない」と笠原や渡辺が同じような感想を述べた。
 越谷に戻って、市職の組合事務所で共闘会議の総括が行われた。水上が小母ちゃんたちの意見を代表して、「私らあんなひどい会社に雇われたくない。こうなったら、市長さんに何とかお願いして日世との契約を思いとどまってもらわねば」と決意を述べた。一同も異論はない。
「それでは、明日から9日までの3日間市役所前に座り込んで、市長との直接交渉を要求し、日世との契約を絶対阻止するまで頑張るということでいいですね」と、安原が東京ワックスの組合員に念を押した。
「いいです。よろしくお願いします」と、小母さんたちが声を揃えて、いつものとぼけた口調で決意表明した。
「明日は組合員の半数がストを打って午前中は座り込みと対市交渉。午後は日世との団交です。8日は午後から半数がストを打って座り込みと東京ワックスの団交です。9日は再度半数がストを打って対市長交渉。夕方5時半から総決起集会です。これだけやっても、市が日世との契約を強行した場合は、10日から無期限ストで業者導入を阻止していきます。この3日間は、半分の人数で仕事を続けていかねばなりませんから、全員一人も休まないように頑張って下さい」と青木が、今後の大まかな行動予定を再確認して、東京ワックス労組役員たちは全員の日程を分担をするため病院へ戻っていった。
「いよいよ決戦だね」と山本が夕方になって病院からやって来た。「終業時に水上さんが3日間の分担を決めていたが、みんな熱気が入ってる。日世がいかにひどい会社か自分の目で見てきたことを、みんなに一生懸命話していたよ」
「埼委労も東1分会は全力動員。西部地区からも若手はできるだけ来てもらう積りだ。市職の方も明日からの座り込み、大丈夫でしょうね」「役員総動員という訳にはいかんけど、専従者と病院や清掃の非番者、青年婦人部で休みのとれる人を毎日交代で張りつける。だが、毎日の動きが激しいので役員でも全体の流れがつかみきれていない。情宣を強化する必要がある」
 埼委労の組合員からすれば市職の取り組みの体制は今一つもの足りない。この1ヵ月、毎日毎日病院に通いつめて闘ってきた者からすれば、もっと大衆的な取り組みが欲しいところだ。青木は仲間をさとした。
「市職は大きな組織だし、課題も多い。我々だって、東1以外の役員は全然来てくれない。明日からの行動も委員長や三役に呼びかけているが難しいだろう。埼委労本部だって、結局は県警備員のことしか考えていないのだ。そういう意味では、自治労としては、委託の問題にこれだけ取り組んでくれているところは他にないよ」
 全国の自治労の中では、下請け化に反対して直営を守り抜いた例はいくつかある。だが、越谷市職のように下請けされていたところの組織化を勝ちとり、直営化要求の闘争を闘っているところは極めて少ない。いったん下請け化されたり、もともと下請けの委託業務の労働者の組織化は総評全国一般の各組合に任されている。そういう意味では、越谷市職は全国的にも例のない闘いを委託労組と共にやって来たことになる。越谷市職は、この他にも地域の問題や障害者運動にも早くから取り組み、組合事務所には様々な市民、労働者の出入りも多い。組合事務所に一歩足を踏み入れた時、その開放的な雰囲気を誰しも感じるであろう。様々な不十分さはあっても、越谷市職の支援抜きにこの闘いは勝利しえなかったのは事実である。

3.市役所前にテントを張る

「早乙女、俺は越谷をあまりやりたくねえよ。あの連中は無茶苦茶だ。会社の回りにベタベタビラをはりやがって、みっともないったらねえぞ」内海は越谷に向かうご自慢の電話つきのダットサンの中で専務の早乙女にこばした。
「何を言ってるんです。せっかくここまで来たんじゃないですか。弱音を吐いちゃ困りますよ。今年は5月10日からだから5千万ほどしかいきませんが、来年は年間7千万の物件ですよ。これだけまとまったものはざらにない。会社の利益もそうだが、信用がまるで違ってくる。今さら後にはひけませんよ」
「そう言っても、組合が強すぎるよ。下手して会社をぶっ壊されちゃ元も子もないんだぜ」「そんなことありませんよ。たかが労働組合じゃないですか。火つけて燃やそうなんて言ってる訳じゃない。いくらでかいこと言っても、基本は経済要求なんですから、どっかで折り合いがつきますよ。裏から手を回せば、何とかなるんじゃないですか。いずれにせよ。午前中に市長の腹をもう一度確かめて、今日の説明会ではどんなことがあっても引き受けると言い切るんですよ。そうすりや奴らも諦めて条件交渉になっちまうんですから」と、早乙女は内海の弱腰をなじるように、確信あり気に言い切った。
「分った。ま、お前がやれるって言うんなら大丈夫だろう」
 だが、越谷市役所に着いた時、2人が見たものは、彼らの想像をはるかに越える東京ワックス労組のすさまじい意気込みであった。玄関前に大きなテントが張られ、組合員や支援者が忙しそうに出入りしている。何人かの組合員が市民にビラを配っている。
「おい、何だあれは」と内海は異様な物を見たように早乙女を振り返った。
「テント闘争って奴でしょう。ほら、水俣病の窒素や都庁のとこでよく座り込んでいる奴ですよ。別に珍しいもんじゃないですよ」と早乙女は事もなげに言ったが、昨日会社に押しかけて来た次の日には、座り込みに入った組合側の行動力には舌をまいた。
 裏口からこっそりと市庁舎に入り、内海らはまっすぐに助役室へ入った。藤倉助役は窓の側に立って、眼下のテントを見ていたらしく、内海と早乙女が入って来たのを見て、気ぜわしそうに話しかけてきた。
「連中はいつからあんなこと始めたんですか」。あいさつが済むと早乙女は助役に早速聞いた。
「今朝方から始めて、始業前にはもう座りこんでいたらしい。困ったもんだ。わしが注意しても聞き入れんし、かと言って力ずくで追い払う訳にもいかん」
「彼らの要求は何ですか」
「これだよ。ここに書かれていることは本当なのかね」と藤倉は1枚のビラを示した。

政治家使って割り込み(ビラ)

 越谷市民の皆さん!……病院当局が「良い会社」という鞄世は表面では「働く者の生活を第一に」と言いながら、東京都水道局から労基法違反、死亡者の雇用続行によって、入札からおろされたという札つきの悪質業者で、社内でも1人1人給料をかえて労働者を欺して使うという、悪知恵の働く会社です。今年から「地元優先」を無視して割りこんだ草加市や荒川区では、自民党の天野議員も動いたといわれ、ビルメン協会にも入っていないアウトサイダーの業者です。
 市は雇用責任を免れたい一心で、とんでもない業者を入れようとしているのです。……
 市長は労組と話し合え、10日に業者導入すれば無期限スト決行!

 市民の皆さん! 労働者の皆さん! 委託制度のもとで高齢者が何の保障もなくコキ使れて始めて運営される市立病院や庁舎管理とは何でしょうか。
 市があくまで「お前らは関係ない」というなら民間労組の権利をもって市立病院の業務一切を拒否せざるをえません。ご支援とご理解をお願いします!
 越谷市立病院の清掃・電話交換・守衛で働く東京ワックス労組/悪徳ピンハネ業者、 追放!
 越谷市立病院の直営化を求める共闘会議/越谷市職労/埼委労/支援越谷地区労

 早乙女は一瞬返事をためらった。会社としての言い分はあるが水道局に指名願いを出せなくなったのは事実だし、天野議員に紹介状を書いてもらったこともある。まったくの事実無根とは言えなかった。だが「とんでもない。こんなことはありません。まるでデタラメですよ」と言って、表現上のあいまいな点を2、3あげつらって藤倉にはビラの内容がまるで嘘であるかのように説明した。助役は会社の弁明を頭から信用してくれたようだ。
「それは分ったが、いずれにせよお宅と契約すると組合は無期限ストをやると言ってる。この前の公務員ストでも電話交換手が1名しか仕事しなくて混乱した。無期ストになれば交換はもとより清掃にだって支障は出てくる。お宅としてはどうする積りかね」
「委託先にご迷惑をおかけすることは絶対ありません」と内海がキッパリ言った。「奴らがうちでは仕事をしないと言うなら、代りの人間を会社で手当してでも業務には絶対に支障を来たしませんよ」
 社長もようやく腹を決めた様だ。会社の恥部を公表されて怒り心頭に発したらしい。だが、組合とてすんなりとピケ破りを認めるだろうか。作業員以外にも外部から応援を頼まなければならないだろうと、早乙女は頭の中でめまぐるしく計算を働かせた。
「会社側がスンナリ仕事できれは良いんですが、こじれたら相当の人数も要ります。通常の事態ではないのですから、とかく出費もかさむし、最終的には組合の条件要求を相当呑まねば解決できません。事務局とつめてきた契約金額では難しい事態になってきましたが、市の方ではその点考慮してもらえるんでしょうか」と、早乙女はわざと渋い表情で探りを入れた。
「市長はどうしても業者にやらせると言っているし、他の業者は組合があるというだけで指名願いも出してこない。お宅に何とかしてもらうしかないんだから、何とか穏便に行くなら多少の出費もやむを得ないだろう。市長が社長をしているコミュニティセンターの仕事もあるし、ほら、あそこに見える水道企業団の管理だってある。病院だけではもうからないだろうが、悪いようにしないからぜひ引き受けてもらいたい」と藤倉は窓の外のストを見下して言った。
(思う壷にはまってきた。市長も社長もその気ならなんとでもなる)と早乙女は内心ほくそ笑みをもらした……

 ※ このような会話が言葉通りあったかどうか定かではない。だが、当事者たちの言動を総合した場合、いずれかの場面でこのような内容のやりとりがあったことは間違いない。対話の相手が島村市長や山崎事務局長であった場合もあるという。

 テントは前日の夕方に運び込まれていた。早朝から共闘会議の若者がテントを張り、8時には組合員の半分が集まり、ビラ配りを始めた。
 藤倉助役が数名の管理職を連れてやって来たのは午前9時頃である。渋い表情をしてテントの撤去を促がしたが、「力ずくで撤去すると言うなら市長を先頭に立ててやってこい」と野次られた。必死で訴える清掃員らの勢いに押されて藤倉は「退去を命ずる」と言うことができずに引き下がってしまった。こうなれば、テントは公認されたようなものである。
 長いコードを引っ張って、庁舎内から玄関を通して電気コードを引っ張り、電気釜で飯を炊く。市民がびっくりして見ている前で握り飯をつくり、早朝から何も食わずに働き通しだった若者たちがかぶりついた。
 昼前には埼委労東1分会の飯田分会長が、年配者を2、3人連れてやってきた。兄が大阪の学校警備員労組の書記長をしているSも激励に来た。後にSは本部派として青木らと、たもとを分つのだが、当時は小母さん達の闘いに熱い連帯を表明していたのである。
 暖かい陽射しの下で、組合員たちはテントの中に敷いたじゅうたんに座り込み、屈託なげにお喋りをしていた。昼休みになって佐々木たちが出て来て、市長交渉申入れの経過を報告した。
「市長は委託労働者と会うつもりはない。あくまで委託会社の労使間題で解決しろと言うだけだ。助役や事務局長が会うだけでもと説得したらしいが、過去の法違反は東京ワックスの問題で市は関係ないとつっぱねているようだ」「こうなったら根くらべ。市長が折れてでるまで座り込みを続けるしかない。こちらに道理があり、市民が理解してくれる限りいずれ出てこざるを得まい」
 東京ワックス労組組合員の卒直な感情としては、とにかく市長に出てもらって「今まで迷惑をかけて済まなかったと謝ってもらいたい。今すぐ直営化できないとしても、市自身が元請けとして委託労働者の身分や生活に何らかの保障をしてもらえばいい、というものであった。だが、市長は「直営化」という言葉を反射的に嫌悪し、「俺は関係ない」とダダッ子の様に言い張っているのだ。そこには、苦労知らずの坊ちゃん育ち、たえず周囲の者を見下して育ってきた権力者のおごりが見られた。組合員が要求しているのは、その「おごり」を捨て、自分の親のような年配者のことを親味になって考えて欲しいということであった。
 そこが為政者や大企業の経営者には分らない。労使間題や公害紛争がこじれるのはこのような「おごり」が彼らにあるからである。「力の対決」は往々にして権力者の意地と面子によって、被支配者の「気持」が踏みにじられるところから生じる。ベトナムやイランの闘いで権力側の論理が最後に破綻したが、それは力あるものの「おごり」の故であったのだ。
「とにかく市長さんに会わせてもらうまで頑張ろう」と、小母ちゃん達は力強く確認し合って、午後からの日世との団交にのぞむことになった。
 午後1時から市庁舎の地下会議室で病院当局の立ち合いの下に行われた日世との2回目の説明会は最初から対決ムードであった。
 社長の内海は冒頭に「市からの要請があり、このたび市立病院の総合管理の委託を引き受けることになりました」とあいさつし、早乙女は「会社に雇用されることを希望する方とだけ労働条件についてお話したい。組合員以外の方は当社と関係ないのでご遠慮願いたい」と労組と共闘会議の分断を押しつけてきた。会場はたちまち野次に包まれ、内海や早乙女も紅潮して大声を上げて怒鳴るように答え、激しい応酬が続いた。

労組 市に対して直営化を要求して交渉中だ、日世は手を引け。
日世 市から要請があったから皆さんを雇用しようとしている。嫌な人はやめて貰ってもよい。
労組 市と契約するといってもさせない。日世にそんな資格はない。
日世 会社としてはあくまで委託契約をする。明日にでも契約は交す。組合がストをやっても会社としては仕事を続ける。
労組 スト破りは許さない。仮に契約しても誰も日世の従業員としては働かないだろう。
日世 関東は広い。人はどこからでも集めてこれる。
 日世は平然としてスト破りを宣言し、強行方針が市長の了解のもとに決定されたことを暗に表明した。労働条件についても「会社の決めること。会社の規定に従ってもらう」と労働協約を事前にとり交す意志のないことも明らかにしたのである。
 ついに「会社側は皆さんがうちの会社に入らないと言うなら話し合いをしても仕方ない」と交渉打ち切りを宣告。内海や早乙女は勝ち誇ったように立ち上り、すがりついて訴える組合員を押し除けて会場を出て行った。
 安原が内海を睨みつけ、「市長の口車に乗って無理を通そうとしても駄目だ。泥沼化すれば、いずれ市は日世内部の労使間題だと言って責任を取ってはくれないぞ」と喩した。内海はふてくされたように、「そんなことは分っている。分っていても会社としてはやらなきゃ仕方ない」と本音を述べ、誰が会社をそそのかしているかを明らかにした。
 佐々木らは事務局長、管理課長に対し「全員雇用と我々には約束しながら日世は人を他所から連れてくると言っているではないか」と約束違反を追求した。山崎らは「それは組合が雇用に応じないという場合の話で、日世との雇用に応ずる人は誰でも市が責任をもって雇用させる」と弁明した。
佐々木 ストライキは労組としての当然の権利。市が日世と契約を交して従業員を追いだそうとしても、5年以上現に病院で働いてきた労働者の就業の事実は法的にも十分争える。
山崎 だから、日世の従業員として働いてほしい。
正木 スト破りを公言しているとは穏やかではない。市職が動員指令を出してピケットを張ったらどうする積りか。
厚見 市長のことだから、前の病院争議と同じように警察に排除を要請するかも知れない。
山本 そんなことになったら病院中が大混乱になる。市民や患者にまで迷惑をかけたらどうするのか。
山崎 事務局としてはそのような事態だけは避けたい。何とかならないだろうか。
佐々木 とにかく市長が委託労働者に会って卒直に訴えに耳をかすことだ。制度的には今すぐ直営化は無理でも、何らかの形で元請け責任をとることが明らかにされれは今年は日世との雇用に応じてもよい。
山崎 それなら何とか助役とも相談して、事態が収拾できるように努力したい。
 山崎は必死であった。この4月に事務局長になるまで、職員課長として、市職との交渉窓口で苦労を重ねてきただけに、組合の要求や行動が市長の言う程筋の通らないものではないことを知っている。その反面、市長の組合嫌悪も徹底しているだけに、並み大抵のことでは市長を引き出すことができないのも知っていたのである。結局山崎はこの当時の心身の無理がたたって長期療養を要する身となり事務局長を辞任する。市長は非情にも、この辞表を慰留するどころか、職員の身分まで解任してしまうのである。
 共闘会議では、この説明会を総括して、@市長の方針としてはあくまで委託制度を再検討する気持がない。A会社のスト破りについては市長も了解している。市長は事務当局が約束した(いかなる事態でも全員雇用の)約束を破っても良いと考えている。B会社は、本社従業員や外部の助っ人を動員してでもスト破りをする積りだ――と市および会社の姿勢を分析した。
 強硬方針の張本人は市長一人。市の幹部は最悪事態を避けたいと動揺している。社会的に市長の不当さを広くアピールするため、契約後の無期限ストではなく、強力な大衆運動で組合の反対意志を広く社会的に明らかにし、市長を孤立させて行こうということになった。
 このため、市職が委託問題で越谷全市に新聞の折込みチラシを配布すること。ストライキを繰り上げ、契約前に全面ストを打ち、市民・患者の協力を求める。市会議員に事情を話し、各政党に混乱回避の要請を求める――という方針を全組合員の討議のもとに決定した。
 夜に入って山崎事務局長にスト通告書を手渡し、重ねて「契約延期」「市長交渉」を申入れた。
 市長の強硬方針がどのような事態を生むか思い知ってもらうために、「明日の交換ストでは保安要員を置かない。一切の交換業務を拒否する」という通告に対し、山崎は「何としてでもそれだけは止めてもらいたい。とに角、市長との話し合いが出来るよう全力を尽す」と焦燥した表情で答えた。説明会後の市幹部の協議では、市長はあくまで「会社に任せろ。俺は会う必要はない」の一点張りであったという。

4.日世、スト破り要員を募集

 この夜遅くまで病院の組合事務所に何人かの共闘会義の労働者が残っていた。明日からのストライキに備え、立看板やビラを作っていた。夜中過ぎてから、突然電話がけたたましく鳴り響いた。「誰だろう」と青木が受話器を取り上げると山本の興奮した声が飛び込んできた。
「大変だっ、日世が従業員募集の広告を出したぞ。うん、読売の広告だ。二段抜きの囲みになっている。越谷市立病院勤務の正社員急募とはっきり書いている。男女清掃員若干名、警備若干名、電話交換手若干名となっている。その分だけの従業員のクビを切ろうということははっきりしている。今からそっちへ行く」とまくしたてるように言って山本は電話を切った。
「若干名募集と言うのは、組合をやっている労働者だけ首を切るということか、全員解雇して会社の人間を補充するのに足らない分だけ募集するのかはっきりしない。いずれにせよ、この広告を出すためには何日か前から準備しておかなくちゃならないから、病院当局が全員雇用を約束している間から解雇策動をしていたことのはっきりした証拠になる」と安原。
「組合との最終交渉の前に広告を出している以上、組合が雇用拒否をしたから部外者を入れるという理屈もなり立たなくなる。雇用する前から最低でも若干名の解雇を準備していたことになり不当労働行為にもなるし、市自体の背信行為も追及できる」と青木も色めき立った。
「これで一挙に態勢ばん回だ。今からすぐ局長や課長を追及しよう」と山本が勢い込んで連絡を取ったが、山崎は助役らと交渉中と見えてまだ自宅に帰っていなかった。厚見は就寝中であった。
「厚見さん、おやすみの所悪いけど会社側の意図がはっきりした。そう、スト破り要員を募集してたんだよ。何日も前から準備してね。知らないって、ふざけちゃ困るよ。あんたらが全員雇用なんて言ってる間に着々と解雇準備をしてたんだ。責任とって貰うからね、今すぐそっちへ行くから申訳ないけど起きていて下さいよ」
 山本、加藤、阿藤の3人が直ちに、市内にある厚見の自宅へ出かけた。厚見の自宅は平方にあり、先祖伝来の自作農であった。市長宅以上の敷地で邸内にテニス場まであるほどだ。厚見は、島村市長とは縁戚関係にもあり、「俺は市長だって間違っていると思ったらけんかしてでも何でもはっきり言うよ」と日頃から自慢している程である。
 深夜の訪問にもかかわらず厚見は家人を起こして湯茶の用意をして待っていた。
「俺はもち論知らねえよ。会社がスト破りの積りで募集しているかどうかまで分んねえよ。昨日の話し合いの前に決めていたとしたら問題だが、それは会社としての一般的な準備だと言われたら市としても関与できないよ」と、厚見はのらくらと責任逃れをした。だが、厚見がこの事実をはっきり知っており、手を貸してまでいたことは、山本らも知らなかった。
 厚見の態度が煮え切らないことを帰って来た阿藤らから聞いた共闘会議は思案した。厚見がどうごま化そうと、会社側の不法策動の明白な証拠だ。助役や市長にしてもここまでの細かい対策を知らされてはいるまい。何としてでもこの事実を広くバクロし、今日、明日に迫った契約だけは延期させねばならない。すでに、初夏の早い日の出が迫っていた。「今から事務局長の家へ行こう。疲れているだろうが、こっちも首を切られるかどうかの瀬戸際だ。遠慮なんかしてられない」と安原は立ち上った。山本らが厚見と話しているうちに、明日のビラの一部を書き替えて「全員雇用(=市との約束)は真赤な嘘」と直し終ったところであった。
 山崎の自宅は市立病院から1キロほど離れた元荒川の堤防沿いにある。広い河川敷に畑が広がっている小さな村落の中に、洋館建の古いが趣きのある家で、教員をしていた父の代に建てられたものである。
 寝静まっている家人に遠慮して安原らは2階の書斎に入った。山崎は真赤に充血した眼をしょぼつかせて、信じられないというように日世の求人広告を食い入るように見つめた。
山崎 これが本当なら、日世は前からストを想定して用意していたことになるね。
安原 それはおかしい。無期限ストというのは昨日のビラで始めて公にしたんだ。説明会のとっくの前から解雇準備していたとはどういう訳か。
山崎 理解できない。説明会で決裂したから、万一の用意をするというなら、それなりに分らないでもないが……。
山本 市長が日世に解雇しろと言ってるんじゃないか。
山崎 そんなことはない。全員雇用という大方針は助役や市長にも確認されている。
青木 それなら、日世が単独で解雇を考えていたことになる。全員雇用を前提として業者を入れるというのが市の方針なら、日世はその資格がないことになる。本日噂されている日世との契約を延期して、何とか市長交渉が持てるようにしてほしい。
山崎 分った。これからすぐ助役と合って何とか話し合いができるようにもう一度申入れる。少なくとも今日の契約はギリギリまで延はす。だが、9日がタイムリミットだから、市長交渉が実現しなくても契約せざるを得ないかも知れない。
 山崎宅を出ると陽は完全に昇っていた。山崎の誠意は分る。だが、それがどれだけ市長を動かせるか疑問であった。山崎は困惑と疲れでげっそりと頬を落ち込ませていた。「市長に山崎ほどの思いやりがあればこんなことにならないよ」と青木が嘆いた。
 この日、越谷市全戸に「市立病院を悪徳ピンハネ会社の巣にするな」というビラが各新聞の折込み広告として配布された。越谷市職が東京ワックス労組支援のために数十万の費用を投じて「島村市長は正々堂々と東京ワックス労働組合と話しあえ!」と呼びかけたものである。
「さあいよいよね」
「どうなるかしら、ちょっぴり心配ね」
 午前8時半、電話交換手たちは緊張して守衛たちが扱っていた夜間電話から交換室にスイッチを切りかえた。
「はい、こちらは市立病院です。本日は委託労働組合のストライキのために電話はおつなぎ出来ません」
「病院ほ平常通り診療しておりますが、電話はおつなぎできません」
 全面的な電話交換ストが始まったのだ。昨日まで組合では「緊急連絡」だけは受け入れる積りであった。だが、前夜半に判明した日世の「スト破り従業員募集」の新聞広告に驚き怒った交換手たちが、「首を切られるっていう時に黙ってはいられない」と自発的に全面ストをすることを決めたのだ。本当の救急患者は消防署や警察を通じて救急室に無線連絡される。病院の電話が通じなくても「人命に関わる」ようなことはあり得ない。診療をしていることは一々丁ねいに説明して分ってもらうことにしたのだった。
「よかった。文句言われないわね」
「折込みビラがきいてるのよ。励ましてくれる人もいるわよ」
 だが中には、市長の取巻き連といった市民から心ない苦情を受けることもあった。だが、あまりにもひどい労働条件や市長や会社が首切りを画策していることを説明すると黙ってしまう者がほとんどであった。
 病院当局はもとより市当局は大きなショックを受けたようである。病院と一切の連絡がとれなくなったからである。このストの後で、病院中に本庁とのホットライン用に外線電話がわざわざ引かれたが、この当時は直通電話がなかったのである。市民から市役所に対して「病院スト?」の問い合わせが寄せられ、市長が激怒しているという話が伝わってきた。山崎や厚見からも「何とかならないか」という申入れが何度もあった。
 共闘会議では「全面ストの惰宣はできていない。たとえ30分でもその効果は大きかった。これ以上やれば市民の批難もこちらにだけ向けられるだろう」と交換手たちを説得した。市民からの問い合わせに対して、必死になってストの理由を説明して休む間もなく緊張した応対を続けていた彼女たちはこらえ切れないように泣き出した。
「とにかく強行契約されたら断固として全面ストを打ち抜く。今から徹底的な情宣をやる。その時は覚悟して全員で頑張ろう」と共闘会議はようやく交換手たちを説き伏せることができ、9時過ぎには事務所に対する内外線の取り次ぎだけは拒否し、一般外来・病棟への応対は正常化した。だが、業務開始30分間のストの波紋は想像以上に大きく、日刊紙等も「午前中は電話交換業務が混乱した」と誤り伝えた程である。
「これからどうなるんだろうね。私たち本当に首になるんだろうか」と斉藤が涙の残った顔で不安気に呟いた。
「市長や日世がここを出て行けと言っても、私は絶対出ていかないからね」と馬場も化粧を直しながら言った。
「そしたら私達もつかまっちゃうのかしら」と誰かが心配そうに言った。
「皆にそんなことはさせないよ。強制排除されるなら、俺一人でもここへ立てこもって交換台は守りぬく」と、早朝から管理職とのトラブルを防ぐため、交換室の当直を続けていた支援の猿田彦がき然として言った。だが、さすがにその声は緊張でふるえていた。
 その緊張に耐えかねた様に猿田彦は、7階の交換室の窓から外を見下した。前庭に大株の赤白のつつじが咲き誇っているのが見えた。小さなさつきは、つぼみこそふくらんでいたが、まだ咲く気配はなかった。
「一首浮かんだ」と猿田彦は叫んで、手許のメモ用紙に狂歌をひねりだした。

千金の花の季節の過ぎぬれば
  さつき待ちつつ自腹切るらん

猿田彦 千金の花(桜のこと)も散ってしまって、今はつつじを見ながら、さつき咲く頃には逮捕されるのかと自腹切る覚悟を固めたよ――ってな意味。まあ、花の移ろう様を見ながら弾圧を覚悟したっていう花ずくしですよ。
交換手 さすが、風流人は余裕あるわね。
猿田彦 いや、この通り本当はガタガタ震えてるんですよ。
 とわざと、ぶるぷる震えながら腹を横一文字にかき切るまねをして見せる。このこっけいな仕草に、交換手たちも思わず吹き出し、はりつめていた空気が急になごやかになった。
「あんまり無理しないで、最後まで頑張ろうよ」と馬場も元気を取り戻し、交換手たちは普段の通りに仕事を続けた。
 水上委員長らは朝一番から市役所の中を駆け回っていた。ビラ配りを終ると再び各職場を回ってスト協力を呼びかけた。庁舎内の記者クラブを訪ねて「スト宣言」と経過について精一杯話して来た。開会中の議会を訪れ、各党の議員控室を回って、市長の横暴さと苦しかった東京ワックス時代の実状を訴えて回った。自民党の議員たちも話だけは聞いてくれたが、「直営化」の申入れには「理事者(=市長)の決めることだから」と返答を避ける者が多かった。
 この日、朝一番で組合員が応募者を装って日世に問合せの電話を入れた。その結果、午前10時から市役所の向い側にある福祉会館で面接が行われることが分った。調べてみると、この「会場使用願い」は、病院の厚見課長から出ていることが分った。共闘会議は直ちに「募集説明会粉砕」を決定し、応募者向けのビラを急いで作って、福祉会館に組合員と共に向かった。
 10時前に、すでに何人もの応募者が集まり始めたが、会社側はまだ来ていない。水上を初め小母ちゃんたちが口々に応募者に紛争や日世について話をし、「スト破り要員として私たちに敵対しないでほしい」と頼んだ。びっくりして、「こんな所へ勤められない」と帰る人もいたが、「会社からちゃんとした話を聞きたい。交通費だって貰わなくちゃ」としっかりした計算を示す交換手応募者もいた。清掃や守衛は年配者が多く、面倒な事は嫌だという風だったが、中年の交換手たちは「この近くで交換手なんてめったに募集しないから、喜んでやってきたのに」「スト破りなんて関係なく、雇ってもらえるんなら」とまで言う者もいた。
 定刻を相当に過ぎてからようやく内海、早乙女らがライトバンに乗って現われた。組合員が周りをとり囲み、福祉会館の入口で即席の糾弾会を開いた。宣伝カーのスピーカーを市庁舎に向け、市長室にまで聞こえるようにボリュームを一杯に上げての青空討論会である。
共闘 会社は昨日の説明会で最終態度を示すと言いながら、すでに募集広告を出していたのはどういう積りか。
会社 2日の説明会の後で、会社としては委託を受けようと決定して、万一やめる人が出ては困るということで手配した。
共闘 万一やめるとは何だ。誰もやめるとは言っていない。全員雇用か全員拒否しかありえないんだ。第一、雇用拒否は昨日の時点で初めて通告したもので、その前に募集を行うとは、最初から解雇しようとかかってるんじゃないか。それに、会社が受けると言っても契約前で、日世に落ちるかどうか決まっていない。
会社 みなさんが雇用を拒否するなら、会社としては当然人員を確保して業務を遂行する義務があるし、採用した人はこちらが責任を持つ。
 追求の途中に厚見が来る。悪事露見に気付かず、他人事のように内海らの追求を眺めている。
共闘 課長にお伺いするが、今日の面接会場はあなたの名前で借りられているそうじやないか。
 スト破り要員を採用するための手助けをするとはどういうことか。
厚見 (たちまちたじろいで)スト破りの手助けなんてとんでもない。近くで面接会場がないというから、福祉会館を紹介したまでだ。
共闘 嘘つけ、会場は厚見課長の名前で借りられているんだ。
厚見 オラが借りたおぼえはない。ただ、会場が空いているかどうか聞いてやっただけだ。
共闘 それでは会社が勝手に名前をかたったのか。誰が手続きを行ったのだ。
 会館側の話では確かに課長の名前で申込みがあったが本人かどうかは分らないという。いずれにせよ正式な使用願いは出ていない。結局、誰が申込んだか分らないままでは、福祉会館での面接はできないことになった。交通費等を後で払うからという名目で、会社は一人一人に連絡先を聞いて、この日の面接は中止となった。後に会社側では何人かの人間を採用したと言っているところから、後日に会社にでも呼び集めたのであろう。

5.ワックス、7百万円で身売り提案

 昼前にようやく日世を追い返し、あわただしく昼食をかき込んで午後から東京ワックスと第5回目の団体交渉にのぞむことになった。
 前回交渉で観念したのか、日世の契約が目前に迫って責任のがれできると思ってか、古郡副社長、三浦専務ともこの日はすこぶる低姿勢であった。最初に従来からの要求について「解決金は550万円、牛島ら2名の未払い賃金を本日支払いたい」旨の提案があった。
共闘 解決金はとも角、組合の同意なく解雇しないことを確約してもらいたい。
会社 市からは5月9日をもって契約解除という通知を受けている。その後は新会社(日世)に引き継げということで、全員新会社にお願いすることにしたい。いったん当社は解雇ということになるので、解雇予告手当を全員に払いたい。どうか円満に新会社に移ってもらいたい。
共闘 市がどんな業者に委託しようが、ワックスが病院事業所の従業員として雇用した以上、雇用責任は法的には残る。現実にワックスでは市立病院以外に30人の従業員を病院以外で雇用できるのか。
会社 この近辺ではとても無理です。清掃の少しくらいなら何とかなるが……。
共闘 それ見ろ。やはり解雇するしかないのだろう。病院勤務を前提にして採用し、委託を辞退したのは会社の一方的な都合だから、理由は労組結成しかない。そんな不当労働行為による解雇は法律的に争っても通らない。第一、何年も裁判を続ければ会社の社会的ダメージは大きくなるはかりだ。
会社 ですから、解決金は出せるだけ出します。一時払いでは無理だが、半年くらいの期限があれば、私たちの役員手当をすべて返上して700万円までなら、何としてでも出します。それでどうか日世に移ってもらいたい。
 交渉は難所にさしかかった。金銭的には700万が限度かも知れない。解雇予告手当約200万、解雇無効未払い賃金もあわせると1千万円近い出費である。管理費十数パーセントといわれる業界では2年間の会社の管理費に匹敵する金額である。解決金についてはこの程度で良いのではないか。「会社も可哀そうだからね」と小母ちゃんたちはつい情にもろい面を見せた。だが、日世の強行就労が明白になったいま、東京ワックスから解雇され、「雇用なき就労」を行う訳にはいかない。だが、いくら話をしても古郡も三浦も、「お願いですから日世に移って下さい」と頭を下るばかりだ。おそらく当局からこの点は強くダメ押しされているのであろう。このまま物別れになれば、東京ワックスは解雇通知を出してくるだろう。いずれにせよ、市長が望む「雇用なき不法就労」は避けられそうもなかった。
 何度かの休憩の間に、組合の全体集会が持たれた。その席上で、現場責任者の樺沢がこの間の沈黙を破って猛烈な勢いで喋り出した。
樺沢 これ以上いくら反対しても、市は日世と契約してしまうだろう。ワックスも9日までしか身分の保障ができないといってるのだからこれ以上は無理だ。日世と契約した方がいいんではないか。
 樺沢は組合員をじろっと睨みながら、確固として喋り続けた。当初組合結成に反対した樺沢は、第3回団交で会社側が非を認め、当局も組合に雇用を保障することが明白になってから組合加入を申出てきた。しかし、その後ろめたさがあってか、団交や組合会議でも沈黙を守り続けてきたのである。だが、事態が再び組合の窮地に至った今、組合員の一部にある動揺を見すかしたように「現場責任者」としての威勢をもって組合に揺さぶりをかけてきたのである。事実、何人かの組合員が安堵したような眼付きで樺沢を見上げ始めた。
 この時、安原が猛然と大声をあげて樺沢を罵倒した。
「そんなに日世に行きたかったら、あんた一人みんなを裏切って行けばいい。今まで現場責任者として会社に何一つ言えなかったお前が、みんなを誘って、また委託地獄に引き戻そうとしてもそうはいくか。お前なんかが今さら寝返っても組合は痛くもかゆくもない。だが、お前は小母ちゃんたちを裏切った痛みで一生苦しみ続けるんだ。そうなっても誰もお前を助けてくれないぞ」。会社側に対しては痛烈な罵倒を浴びせることはあっても、安原は今まで組合員の誰にも大声をあげることはなかった。それだけに、この樺沢に対する激しい怒りは、組合員全体が叱られているようなすさまじいものであった。
「あの時は本当に恐ろしかった。でも、私らあんまり不安で気持ちがぐらついていたのが、あれで一遍に吹き飛んでしまったよ」とある清掃員は回顧している。
 樺沢は青ざめてぶるぶる震え出した。水上や笠原が「責任者として無責任だ」と樺沢を批判した。樺沢は「分りました。私の言いすぎでした」と言って再び沈黙した。どんな事態になっても日世との契約には応じないということが確認された。
「どうする。このまま徹夜交渉をやってもワックスは解雇を撤回しないぞ」
「ワックスとの金銭的な問題については、組合員も700万で了解したのだから問題はない。資材についてもすべて組合に譲渡するということで、組合が業務を続ける上で何の支障もない。賃上げ要求にしても、相当の委託料引き上げが日世との間で話されているのだから折り合いがつかない訳はない。だとすれば、ワックスとしても現在の時点ではどうしても契約を辞退しなければならないということはないんじゃないか」
「それでは、ワックスに再契約させるというのか」
「当面の時間稼ぎにもなるし、最悪の場合でも日世を相手に市長の強硬方針と対決するよりやりやすいのではないか」。混乱した中から何とか最悪事態だけは避けたいという雰囲気が共闘会議の中から出てきた。
 7時間に及ぶ交渉の合間に、共闘会議は組合員に対して「@日世との契約に応じ、屈辱的な敗北の中で管理された労働を選ぶか、Aあくまで直営化を要求し、自主就労で職場管理を続けて市長と対決するか」の二者択一の状況をくり返し説明した。どれにせよとは言わなくとも、東京ワックスのひどい労働条件、日世のあくどい暴力的な体質を自分の目で見、耳で聞いた以上、組合員の判断は後者にあった。だが、何の運動経験もなく、社会的経験も乏しい者が多い中で、「会社に雇われなくても仕事ができる」状態を想像しろというのも無理であったかも知れない。できれば、最悪の事態だけは避けたいという気持を共闘会議の誰もがもっていた。
 だからこそ、いったん契約辞退をして今日の混乱をつくり出した東京ワックスに再契約させようという矛盾した提案が受け入れられた。交渉を打ち切って、市職労三役が東京ワックスを連れて助役との交渉に出かけていった。この交渉の結果は、この夜のうちに執行委員会を開いて再度協議することになり、いったん全員が家に帰ることになった。
「今さらワックスにやらせるなんておかしいんじゃない」とヒロキを初め、何人かの埼委労の若手組合員から異議の声があがった。これに対し青木らは、
「少なくとも日世よりは闘いやすい。今日、市職あてに日世で働いていたという人から連絡があった。内海という男は業者の談合の席で、日本刀をちらつかせて談合をぶち壊したという豪の者だ。どんな無茶をやるか分らない。
 ※こういう通報があったのは事実である。だが後日、会社側のA氏は「それはうちがある事業所と委託契約した時、そこの労働組合が押しかけてきて、社長が応接室に飾ってあった日本刀を御身用に握りしめてガタガタ震えていたという話が、誤り伝わったんじゃないか」と「真相」を明らかにしている。
 ワックスなら、どう逆立ちしたって別の人間を送りこんでスト破りをするような力はない。少なくとも、最悪事態回避で助役や事務局長が市長を説得して時間稼ぎをする余地があるのではないか」と希望的観測を述べた。
 だが、この希望的観測はあっという間に崩れた。佐々木委員長らが戻ってきて、「助役は何を言ってるんだという態度だ。古郡はワックスの辞退が混乱を招いたといって一喝されてしゅんとしていたよ。市側の感情からいえばワックスがすべて悪いということになるんだろう。こちらから助役を説得する余地はないよ」ということであった。
「東京ワックスも、こうなったらうちでは責任をとれない。日世へ行ってくれの一点張りだ。一人一人に話して納得してもらうなどと言いだして様子がおかしいので、市職の組合員にあとをつけさせたが、平和橋のあたりでまかれてしまった。どこへ行ったか分らないが、日光街道へは出ていない以上、市内のどこかを回っているらしい」。東京ワックスと日世は一体となって従業員の切りくずしを始めたらしい。
「こうなれば、なしくずしに脱落者が出る前に日世との契約に応じて、その中で組合の団結を強めて会社側の管理支配体制を覆すしかないんじゃないか」という意見が、一部の市職役員から出てきた。
「冗談じゃない。今日の組合全体会議で樺沢が身分移管を提案して、皆から裏切り者扱いされた。そんなことを我々の側から言える訳はない」と埼委労(=当時)の組合員が一斉に反発した。
「しかしこのまま行けば、全員がクビになるのは必至じゃないか。そしたら誰が小母ちゃんたちの生活を保障するんだ。1ヵ月や2ヵ月なら市職から給料を立て替えることができても、裁判闘争で何年もかかれば、とてもそれだけの負担はできない」
「裁判闘争でちんたら解雇撤回をやるなんて考えていない。会社側のスト破りについては、病院内の管理職がそれぞれの職場で会社側に協力しなければできることではない。問題は市長が警察導入を要請して強制排除に出てくることだろう。これについても段階的、柔軟な実力闘争で、とにかく会社側の就労の実効をなくせば、誰も清掃できないことになって、病院中ゴミだらけになって混乱する」
「とにかく、組合員は今必至になって闘っているんだ。仮に万事窮すということになっても、明日の夜ギリギリまで待ってもらいたい。小母ちゃんたちが最後まで死力を尽して闘って始めて、敗北から立ち上がる力も知恵も湧いてくる。それを我々が先走って、これ以上は闘えないだろうから止めろなんていうのは、小母さんたちを見くびることになるんではないか」
 共闘会議の中で苦しい討議が続いた。解雇や強制排除は避けたい。かと言って、ここであっさり日世を認めてしまえば、会社・市当局から組合潰しの攻撃や合理化が押しつけて来られるのは、目に見えていた。
 夜10時近くなって渡辺と笠原がやって来て意外なことを言い出した。「さっき、Kさんのところへワックスの専務らが来て、日世との雇用契約を結ぶように説得した」というのである。「Kさんは、この近くに住んでいるから助役との交渉の後で寄ったのだろう。他の人のところにも行く恐れがある」と山本が懸念した。
 円満に日世への移籍が行われないと、より一層市当局のワックスに対する責任追求は厳しくなるだろう。窮地に立ったワックスが日世に代って従業員の説得に乗り出したものらしい。そういえば、今日の樺沢の態度もワックスか日世からの要請によって移籍を提案したとも受けとれる。「そういえばEさんは、樺沢が面接して採用した人だからね。樺沢も切り崩しに動いてるかも知れないわ」と渡辺も言った。それでなくとも、連日の慣れない行動による疲れと先行き不安から、小母さん達の間に内面の動揺がない方が不思議だ。
「それじゃ、今から皆のとこへ回って、樺沢や会社が来たかどうか確かめてみましょう」と彼女達が提案した。
「来てなくても、みんなを励まして回るだけでもいいんじゃない」と笠原らも賛成した。遅くまで残っていた交換手たちも参加して、三通りのオルグ団が結成され、それぞれに共闘会議のメンバーが車を運転して添きそっていくことになった。
 栗原や中台に連絡をとったところ、「会社の人間は来てませんが、樺沢のとこに行くんなら私も行く」ということであった。樺沢糾弾班は病院の山本らがつき添って行った。樺沢の自宅には灯が着いてはいたが、中台らが声を掛けると灯は消え、呼べども叩けども何の応答もない。山本らは一しきり大声で「樺沢さん、皆を裏切らずにちゃんと仕事に来て下さいよ」と呼びかけて樺沢宅を後にして、春日部の組合員を訪ねて激励した。
 草加に住んでいる三人の組合員の家には渡辺と交換手の馬場らが回った。伊藤あきは「私は大丈夫だよ。会社が来たって帰ってもらうよ」と気丈に言った。だが、牛島はつ子は「病気で寝たきりのおじいさんが心配しないように、団交も早く返してもらって済まないね。おじいさんだけが気がかりだけど、私は大丈夫よ」と力なく笑った。
 結局、会社が訪問したのはKさんだけであることが分った。市役所帰りにちょっと寄ってみたというだけだったのだろう。だが、この日樺沢糾弾と組合員オルグを執行委員たちが自発的に行ったことの意義は極めて大きい。組合結成後わずか1ヵ月にして、執行委員や組合員の考え方や行動力は外から見ている者には分らない程たくましく成長していた。「これなら、強制排除されても頑張れるかも知れないな」と青木や安原は、帰ってきた執行委員の報告を頼もしく聞いた。佐々木や山本らも、組合員がここまで頑張れると思っていなかったろう。「こうなったら、小母ちゃんたちの生活はどんなことがあっても市職で支えていくよ」と、佐々木委員長も腹をくくったように言った。

6.病院の電話が通じない

 東京ワックス労組のストは2日目を迎えた。この日、全国紙埼玉版、埼玉新聞等に「委託労組のスト」が大々的に報じられた。
 共闘会議はこの日、契約阻止を掲げて最大動員をかけ、早朝から契約担当者の厚見課長、山崎事務局長を徹底マーク。さらに、話合いを拒否し続ける島村市長宅に交渉申入れと抗議を行うべく宣伝車を差し向けた。
 午前7時、水上と中台を大袋駅で出迎え、駅頭で市長糾弾をアピールして市長宅へ向かう。島村市長の自宅は大袋の自作農家の集落の中でも一際目立つ門構えと広大な敷地によって、一目でそれと分るものであった。
 安原と水上が開け放たれた門内に申入れに入り数10メートル進んで母屋の裏玄関に回って案内を乞うた。市長夫人と覚しき上品めいた中年婦人が出てきて「島村は外出しました」と悪びれる風もなく平然と答える。居留守かとも思うが、筋の通った返事に退きさがらざる得ない。だが、門内には公用車らしき黒塗りの車と自家用車が停められたままである。
「こりや絶対中にいるよ。一発かましていこう」と安原は言って、スピーカーのボリュームを一杯に上げ「島村市長は逃げ隠れせず堂々と出てきて委託労組と話し合え。昔の地主よろしくふんぞり返って貧しい人々をいじめておいて俺に関係ないでは済まないぞ。年寄りをバカ野郎呼ばわりすることが市長様のやることか」とぶち上げた。
「安原さん、もう行こうよ」と水上が警察でも来やしないかと心配して促した。宣伝カーは市長宅を数分で切り上げ、周辺を何度か回って、元大袋村村長の長男の非道ぶりを宣伝して回った。
「僕は声が枯れたから大和さんやって下さいよ」と安原は交換手の大和にバトンタッチした。交換台で物馴れた応答をしている大和も宣伝カーは初めてと見えて、ギコチない口調で、ストライキヘの支援と、市長交渉への協力を市民に訴えた。しばらく市内を回っているうちに、原稿がなくても、自分の言いたいことを言えるようになったのは、さすが交換手というところだ。
 昨日の説得が利いたのか、組合員の多くは朝から元気な姿を見せた。だが、樺沢は姿を見せない。水上らが自宅に問い合わせたところ、「えらい人に相談に行っている」という家人の返事であった。恐らく、会社側に寝返ったのであろう。
 この日、新聞報道によってほとんどの市民が病院の委託ストを知った。こうなれば大きな混乱はないだろうという判断で、午前8時半から11時頃まで救急連絡も含む一切の交換業務をストップした。救急連絡と言っても、いわゆる一般外来の救急患者であり、救急車の出動を必要とする本当の救急連絡は、警察・消防署への通報によって救急車に無線連絡されるものであり、「救急患者」の連絡が取れないということではないのである。だが、1日千数百本もの外線が入る病院の代表電話の交換ストップの影響は前日の比ではなく、市当局には市民からの問い合わせ(中にはストへの苦情も)が殺倒したものと思われる。ある市会議員が知合いの入院患者に連絡をとろうとして断られ、「俺は市会議員だぞ、ストなんか関係ない。どうしてつながないんだ」とわめき散らしたという。彼らが市民の代表でも何でもなく特権意識の囚(とりこ)になっていることを物語る小話(エピソード)である。
 ついにたまりかねたのか、藤倉助役が病院へやって来て組合と話をするという。助役は副院長室に入って代表としか会わないと主張したが、「これだけ心配している組合員と話さないとはどういうことか」という追及に、控室のドアも開け放して二つの小さな続き部屋一杯に組合員と共闘会議の労働者が埋めつくして話合いが開かれた。

共闘 この事態の混乱を市はどう収拾する積りか。
助役 とにかく、ストライキはやめてもらいたい。病院の診療活動に支障をきたすようなストは困る。
共闘 助役は前回の交渉で、医療に関係のない補助的業務だから委託に出した。従ってそこでの労使紛争は市には関係ないと言ったではないか。にもかかわらず、委託ストで診療に差しつかえる。ストは止めろというのは、前言はまったくの嘘っ八ということになるではないか。
助役 直接の診療業務ではないが、交換ストは重大な支障を来たす。補助業務でも場合によれば基本業務に支障をきたすことがあると訂正する。それでも委託は今一つの理由である行政合理化のため不可欠だ。委託業者に任せた方が市で直接雇用するより安上がりになるのは事実だ。
共闘 そのような安上がり行政によって、労基法違反や最賃法違反の不当労働行為が行われていることに、どう責任をとるのか。
助役 今までの事態について、基本的には業者の問題だが、委託料が低すぎたことが労働条件の悪化を招いた点については是正したい。
共闘 委託料さえ上げれば不当行為がなくなるというのは間違っている。現に日世は都水道局から不当なピンハネで労基法違反を犯したり、死亡者をごま化して委託料の欺し取りをするなど、業務でも札つきの業者であることを知っているか。こういう業者に委託すれば必ず問題は起きるし、労使紛争も決してなくなりはしない。
助役 日世は責任をもって業務に支障は来たさないと言っている以上やらせて見るしかない。
共闘 スト破りをやり、従業員を解雇しょうとしている会社が、円滑に業務遂行できると思っているのか。市が勝手に日世と契約しても労組は雇用契約には応じられない。あくまで東京ワックス従業員として解雇に応ぜず職場の自主管理、ストライキを強行する。
助役 そうなれば、市としては業務に支障をきたすストライキを認める訳にはいかない。
共闘 それでは、かつての病棟移転闘争のように警察を導入してスト中の労働者を力ずくで排除するというのか。
助役 本意ではないが、それも止むを得ない。
共闘 事務局長はどう考えるのか。
山崎 病院の管理責任者としては、どんなことがあってもそういう事態だけは避けたい。
共闘 それではもう一度市長と膝詰め談判して強制排除はやめて、話し合いで解決するよう努力してほしい。
助役 努力はするが、市の方針としては今日中に日世と契約は交す。良い会社か悪い会社かやらせてみなければ分らないではないか。
 話せば話す程、「物分り良さそう」な顔をしている藤倉助役自身にも根深い委託差別が染みついていることが分って、組合員たちの間に助役に対する幻想も薄れてきたようだ。市職三役が、さらに詰めよって、「強制排除は避ける」「来年度の委託制度について見直す」「今までの不法行為について一応の謝罪を表明する」ことで何とか市長を説得するよう強く要請。助役も再度の努力を約すかわりに、交換ストだけでも解くよう要請した。
「最低の誠意と言っても、市長は謝罪したり元請け責任を認めようとしないだろう。それでもここは助役を信頼した形で一歩譲歩した方が、市民の理解は得られる」という判断で、労組は午前11時「緊急・保安連絡スト解除」ということで、外来、病棟への外線からの取り次ぎを正常化した。しかし、内部からの外線取り次ぎと事務系の一切の取り次ぎだけは拒否し続けた。市民から見れば一応市立病院への電話が再開されたことになるが、内部の職員から見ればストは依然として続いており、外線にかけるには公衆電話を使うしかなかったが、市職組合員の多くほ不便をしのんで協力してくれた。
「事務当局が契約当事者」という慣例に基づいて、その日の午後は、組合員や共闘会議メンバーが厚見課長の席の周りでたむろし、山崎局長の行動にも監視をおこたらなかったが、2人とも夕方過ぎるまで病院の外へ出ることはなかった。
 厚見は「オラなんか監視したって契約は阻止できんべ」とニヤニヤ笑いながら、まとわりつく警備員達と雑談に余念がなかった。
 この日、新聞報道を見て心配して多くの人々が駆けつけてくれた。地元社会党の高橋議員、元県評オルグの金井重子、地区労のオルグや越谷教習所争議団の人々であった。
 特に金井は、長年にわたる婦人運動、組合運動の経験を交えながら、小母ちゃんたちに親しみのある激励の言葉をかけた。「私はね、女性が、とくに皆さんのような年配の方々が労働組合をつくって自分たちの生活と権利を守ろうと頑張っているのはとても素晴しいことだと思うの。今、労働者には政府や大企業からとても厳しい攻撃が来ている時に、これだけ年とった人も頑張っているのだということを、多くの未組織労働者が知ってくれたことは大きな意味がある。皆さんもとても大変だと思うけど、最後まで頑張ってはしい」
 金井は同時に「越谷の委託闘争が、県中央にも大きな反響を呼び起こしている。それに伴って、警察の動きも活発化している」と注意を与えてくれた。
 助役との交渉の後で、このような情勢の変化に対応して支援労働者の中から、組合員に対して次のような提起が突然あった。
「市長はも早一切の話合いを拒否し、ストライキを実力で排除しょうとしている。東京ワックスとの契約が切れた以上、日世との雇用に応じなければ不法就労ということで排除されてしまう。そうなれば、長期の裁判闘争しかなく、東京ワックスとの契約が打ち切られる以上地位保全の訴えも通る可能性がうすい。この際はみんなが団結して日世に移って会社の管理強化と闘い、団結を固めて長期に直営化をめざすべきではないか」という趣旨であった。
 たしかに、真っ向からの暴力的対決は避けねばならない。問題は、そのギリギリまでどのように闘い、労働者の一人一人がどういう思いを獲得するかである。それを先走って、あれこれの収拾を上部から提起するのは間違いである。まして、共闘会議としてはあらゆる重大方針については、全員討議にかけて当該労組に提案してきた。この手順を無視して、いきなり大衆的動揺を与えるような発言をすることは、今までの運動の基盤を損なう恐れさえあった。
 青木や安原は、だが性急に反論はしなかった。組合員の多くが当惑気な表情で彼らの意見を聞いていたからである。この時点では、支援者が心配するような動揺は組合員の中には起きていなかったのだ。

7.轢き逃げで深夜の会社追及

 樺沢が仲間を裏切ったことが分ったのは、その日の夕刻である。この日の朝、水上が樺沢の自宅に電話した時「偉い人に相談しに朝早く出かけた」という家人の返事であった。夕方になって水上が再び電話したところ樺沢が図々しく出て来た。
水上 樺沢さん、今朝はどこへ行ってたんですか。こんな時だから一人でも休まれると困るんですよ。
樺沢 そんなこと言う必要はない。ワシも生活がかかってるんだ。給料も貰えないような所へ行っても仕方ないよ。
水上 日世へ行かないというのは組合の決定だし、給料は組合でちゃんと払うんだから来て下さいよ。
樺沢 ワシはもう組合をやめたんだから、そんなこと言われる筋合いはねえんだよ。
安原 (電話を代わる)樺沢さん、ワックスが解雇すると言っても組合は認めない。市立病院がある限り東京ワックス労働組合は永遠に続くんだ。そんなこと言ってるとあんたの働くところはなくなるよ。
 樺沢は捨てゼリフを吐いて電話を切った。裏切りに対する怒りの声が次々に起こった。組合では樺沢を除名し、病院では働かせないことを決議した。裏切り者に対する憎しみが団結を固め、闘いのエネルギーとなることがある。故意に敵をつくることは良くないが、この時の組合員の怒りは日頃から自分の仕事と生活のことしか考えていない会社の下級職に対する一人一人の腹の底からの怒りであった。
 その夜の全体会議は怒りと不安がないまぜになった重苦しい雰囲気で始まった。市職の青年婦人部や看護婦、支援労働者が続々と詰めかけて来た。
 あれだけの反対がありながら島村市長は契約を強行したのだ。それもどうやら深堀秘書課長が内海の車に同乗してどこかへ出かけたことが目撃されている。事務当局を立ち合わせず、秘かに庁舎外で内密に契約を結んだらしい。「ストをやるような組合員はおいておけない」と市長が語ったことがある新聞記者から伝えられた。ストライキを続行した場合、直ちに警察導入、強制排除の拳に出てくることは明らかであった。
「日世という会社は信用できない。何をされるか分らないから雇われたくない」
「毎年こんな騒ぎになるなら不安で仕方ない。何とか市に責任をもってもらいたい。今すぐ無理でも、せめて市長から一言でも安心できることを言ってもらいたい」
 組合員の意見はこのようなものであった。組合ができた途端に会社が逃げだし、この40日余、死ぬような思いで頑張ってきた。「はい今日から新しい会社の従業員ですよ」と言われても簡単に納得できない――というのが多くの組合員の率直な心情であった。
 これに対して共闘会議の側から様々な意見が出された。焦点は「雇用契約に応ぜず、職場の自主管理(雇用なき就労)を続けて行政責任を明確にさせる」というところにあった。
「だが、強制排除されたらどうするのか」
「長期の解雇撤回、就労闘争にどこまで耐えられるか」
「財政的見通しはどうか。雇用保険は1年しかもたない。それ以上のカンパ活動、集団アルバイトの可能性はあるのか」
「不当解雇の法廷闘争の見通しは、原職の地位保全の仮処分は認められるか否か」
 東京ワックス労働組合はもち論のこと、越谷市職労や埼委労(=当時)、埼学労、埼教労などの支援労働者にとっても、法律上の知識や民間労組争議団の伝聞はあっても、自分自身にとっては未知のものであった。誰もが確信ない。「だが、ここで安易に新会社に応じれば、島村市長の姿勢を永久に変えることはできない。また、それ以上に新たな合理化・組合つぶしの攻撃がかけられてくるのは陽の目を見るより明らかだ。先の見通しはなくても、頑張れるだけ頑張ってみよう」ということで、ようやく労組と共闘会議の意見がまとまった。
 この結論をもとに、井上弁護士が裁判闘争の見通しについて語った。
「地位保全の仮処分はすぐ出るかどうか分らない。だが、少なくとも市に対しては裁判の結論が出るまでは就労を認めよと主張することはできる。会社が変ったからといって、今働いている皆さんは市立病院の仕事ということで採用されたのだし、実際に他所で仕事をするといってもできない。事務当局が全員雇用を確約しているという事情もある。難しいかも分らないが、仲間の弁護士の応援を求めて全力で法廷闘争をしたい。皆さんが一人もくじけずに頑張って就労し続ければ、裁判所も既成事実として認めざるを得ないのではないか。一人の首切りも許さぬため私も全力をあげたい。ここで皆さんが頑張りぬくことが、多くの下積みの労働者や年配の労働者に大きな勇気を与える。これはもう一種の世直しという気持で頑張ってもらいたい」
 井上の激励に小母ちゃん達は目がしらを曇らせながらうなずいていた。市職の佐々木委員長も、市職が保障して労働金庫から争議資金を借り入れるメドが立ったと報告した。
 会議が終って、組合員たちは明日からの就労闘争に備えて早目に帰ることになった。春のおぼろ月が、傘をかぷって今にも泣き出しそうな空模様である。
「昨日、支援の人から日世に入れと言われた時は情なくて泣いちゃったよ」と交換手たちが、ようやくふっ切れたような表情で話していた。
「まあ井上さんがあそこまで激励してくれたんだから、共闘会議もまとまるんじゃないか」と藤本が安心したように髪をひねった。「埼委労の留守番電話阻止闘争も、三役交渉とかで県とナアナアで話がつきそうだし、これで明日からの自主就労に全力を挙げて取り組めるぞ」
「安心するのは早いんじゃない。こじれないうちに収拾しょうという動きはまた出てくるよ」とヒロキが気がかりそうに呟いた。
 会議が終ってしばらくすると、笠原から電話があった。案の定、東京ワックスから内容証明付きで「解雇通知」が送られてきたというのである。水上に連絡をとって「全員に確認して、受けとった人は明日持って来るように、今日来てない人は明日以降は受け取り拒否するように」全組合員に確認を取ってもらうことにした。
「社長が来たぞ。今、事務室で局長と話している」と山本が丁度そこへ飛び込んできた。
「宣戦布告して叩き出してやろう」と、その場にいた者は総立ちになって事務室へ向かった。帰りかけていた内海は共闘会議のメンバーが入ってきたのを見て傲然と胸を張った。
「どうだ」と言わんばかりの面構えであった。
「何しにきたんだ。局長や課長もいない所で一体誰と契約したんだ」と山本が詰め寄った。
「私らは市と契約をしたんで、病院とする訳じゃない。だから局長にご報告に来てるんですよ」と早乙女が相変らずとぼけた返事をした。
「お前らが勝手に契約したって、労働者が働かなければ契約不履行になるんだよ」
「皆さんが働いてくれなくても会社はちゃんと仕事をしますよ。そのために人を雇ってある。第一東京ワックスから解雇された人が働くのはおかしいですよ」
「どうしてそんなこと知ってるんだ。ワックスとぐるになって全員解雇しょうというのか。局長どうなんだ」
 山崎は苦痛に顔を歪めている。「全員雇用」を約束しておいて、東京ワックス労組員が解雇されれば市の責任が果せないことになる。年配者たちの行先を思う心情がありありと表情に現われていた。
「そこなんだ。何とか日世と雇用契約を結んでもらえないだろうか。今後のことは何とかもう一度市長に頼んでみるから、今年だけでも日世で働いてくれよ」
「局長はそう言うが、労働協約も結ばれていない。労働条件も就業規則も知らされていないのに誰が安心して働けるんですか」と市職の塩田副委員長がやんわりと山崎を責めたてた。
「だから、それは明日にでも話し合ってくれよ。会社だって全員雇用すると言ってるんだし」
「もち論ですよ。私らは全員雇用するって言ってるのに、あんたらが雇用させないんでしょう。従業員はうちで働きたがってるんじゃないんですか、本当は」と早乙女。
「そんなこと言ってるのは樺沢一人だ。樺沢が今日、本社まで行ったのは分ってんだ。今まで威張りちらしていた現場責任者に従業員の切り崩しをやらせようったってそうはいかんよ。組合では樺沢を除名した。奴が明日でも病院にのこのこ顔を出したら、組合員に吊し上げにされてしまうんだ」
「とにかく、明日からうちで仕事をさせてもらうんですから今日は失礼しますよ」と早乙女は内海をうながし、局長に頭を下げて事務室を出ようとした。
「何を言ってるんだ。そんなことさせないぞ」
「お前らが暴力団を雇おうが、誰に頼もうが、東京ワックス以外の誰もここで仕事はできないんだぞ」
 労働者たちは早乙女と内海をとりかこんで口々に追求した。2人とも口を閉じて足早に救急玄関から駐車場へ向かい、走り込むようにして待たせていた車に飛び乗った。
「おい、その車で深堀とどこへ行ったんだ」
「こそこそどこへ行って契約したんだ。待てよ、はっきり答えろよ」と何人かの労働者が車の回りを囲んだ。
「おい早くやれ、早く」
 内海が慌てたように運転手に声を掛けた。2、3の者が車の前へ立った。その時、車が急にバックし、後にいた山本を轢きそうになった。山本はあわてて飛びのいたが、バンパーにしたたかに足を打たれてひっくり返った。
「何をするんだ。轢き殺す気か」
「人を轢いてこのまま帰ろうってのか」
 後から来た者も血相を変えて車の回りを取りかこんだ。
 早乙女が観念したように、ドアのロックを開けて外へ出て社長を促した。「ここじゃまずい」と言っているようだ。病棟のあちこちの窓が開いて「何ごとならん」と患者たちが顔をのぞかせていた。
「運転手もつれて来い。ちゃんと謝らせるんだ」
「山本さん、すぐ救急へ行って治療してもらった方がいいわよ」と組合員が山本を促して救急室へ向かった。
 病院のガランとしたロビーで謝罪を要求する共闘会議と会社側の奇妙な団交が開かれた。
 騒ぎを聞きつけて山崎局長が事務室から下りてきた。早乙女がしきりに弁明している。山本が救急室から戻ってきた。膝頭を強く打撲しているという。早乙女がひたすら陳謝して「治療費をもちますから」などと必死でもみ消しに努めている。内海はふてくされたように、やたらにタバコを喫っている。
 結局、運転手に「始末書」を詳しく書かせて、「山本君の傷の様子次第で処置を決める」ということで、とりあえず一件落着させた。
 この一部姶終を見ていた山崎は「自分の責任で明日は強制排除しないよう市長や助役に頼んでみる」と言いだした。「明日一日で何とか解決のメドをつけてほしい」と苦悩に満ちた表情であった。
 この事件は、いかに会社側が後ろめたい思いで契約を交わしたか。運転手をあごで使い、自分の目的のためには周りの様子すら気違うことのない内海らの自己本位的な性格が伺えた。それと共に、執こく真相を糾明しようとする共闘会議の団結と力を会社側にまざまざ見せたという点で、契約成立で勝ち誇った会社側の出鼻をくじく鋭い打撃となったのである。

8.自主就労・幻のマル秘大作戦

 5月10日、ついに「雇用なき就労」の第1日目が始まった。前夜から泊り込んだ数名の労働者たちと、朝一番で駆けつけてきた労働者が病院の中へ大きな「自主就労宣言」を張りだした。
 8時前には組合員たちも出勤してきた。今日から「雇われるべき会社」はない。自分のために自分自身で働く「自主就労」である。会社の責任者もいなければ、業務命令もない「自主管理」である。だが、小母ちゃんたちにはこの「画期的な意義」より、不安の方が強いのであろう。どの顔も緊張したように表情が固かった。
「駅前に日世の車がとまっていて、川前らがたむろしてました」と電車通勤の者が報告した。彼らもまた「実力就労」しょうというのか。結局、この日は樺沢以外に2、3の者が「家庭の都合」や「具合が悪い」という理由で休んだ。たまたまの不都合だとは思うが、ここへ来て休む者が出てきたことは、当該組合員より支援の労働者に不安を与えたようであった。だが、休む者が出ようと仕事と闘いは続けるしかない。
 支援の労働者も交え、駐車場、玄関先から重点的に仕事を始め、来たるべき日世の「就労部隊」の警戒を続けた。
 8時すぎ、玄関先に1台のライトバンが現われる。車体には「日世」と大きな文字。中には数名の人間が乗っている。急を聞いて何人かの支援労働者が駆けつけた。車の前にまわりをとり囲んで大手を広げる。ライトバンは急停車して、あわててバックで玄関前のロータリーを逆に回って逃げだした。
「何てことはない。就業しましたというポーズづくりだ。もう今日はこれ以上こないだろう」と皆で大笑いした。
 午前8時半。電話交換業務の始まりだ。
「お早うございます。市立病院です。本日から新会社導入に抗議して自主就労を行っています。ご用件をどうぞ」とさわやかな声で交換手たちが応答を始めた。
 市民たちの反応は普段と変らない。「自主就労」と言われてもピンと来ないのか。ストではないと知って安心したのか、文句を言う者はまったくいなかった。
 だが、10時頃になっておかしな電話が一つかかって来た。
「ご用件をどうぞ」と言っても取り次ぎを要求しない。
「お前らそこで何してるんだ。そこは市の病院だぞ。勝手に入りこんで何やってるんだ」「仕事してるんですよ。ご用件をおっしゃって下さい」「バカヤローッ、お前たちは不法就労してるんだぞ。一体どこの会社に雇われてるんだ、言ってみろ」
「私たちはまだ東京ワックスの従業員ですよ。市が新会社と契約したからって、私たちが認めなきゃならないことないでしょう」
「何言ってるんだ。そんなことは許されない。今すぐ、そこから出て行け」。言いたいことを言って、この怪電話は切れた。
「あれっ、あの声はひょっとして市長だったんじゃないの。口惜しい、文句言ってやったのに、気がつかなかったわ」と電話を切った後でこの交換手が叫んだ。
 この日取り次いだ千数百件の外線電話のうち、故意に中傷したり罵声を浴びせかけてきたのはこの1本だけである。この時のやりとりを深堀秘書課長が録音テープで聞いていたのが確認されている。越谷市長の品性を見事に表現しているこのテープの公開を望むものである。
 多くの電話は普段と変らなかったが、「ストですか」とか「自主就労って何ですか」という問い返しは少なからずあった。この一つ一つに交換手たちは自分達がなぜ自主就労しているか懸命に語った。通常でも喋りっばなしの交換業務はどこでも時間制で交代になっている。それが一休みもなしに喋り続けるのである。この日の終りには4人とも声もかすれ、汗まみれになってぐったりと疲れ果てた。だが、精一杯やったという満足感があった。
「こんな必死でやったなんて、初めて交換台に座った時以来よ」
 午後から「強制排除」に対する対策が話し合われた。警察が入れば「清掃員控室」から当然追い出されるであろう。万一の事態に備えて、組合員は清掃機材や材料を控室から院内の組合事務所へ移した。ここを拠点にして長期の「自主就労」を柔軟に行うためである。
 仮に日世が従業員の頭数を揃えてきても、病院内部の清掃をその日から滞りなく行うことは不可能である。エネルギー室や営繕・洗濯場などの別棟、外来食堂や看護宿舎などが広大な敷地に広がっている。どこをどういう手順で仕事をしていくか、一朝一夕に分るものではない。病棟にしても、女性患者が多いため男の清掃員は病室の中へは入れない。看護婦や入院患者たちから白い眼で見られて、日世の従業員が仕事をすることができるだろうか。婦長や職制に教わらねば、どこをどう掃除してよいか分らない。だが、当局側の管理職が委託会社の従業員を「指揮監督」することはできない、それは違法な「労働者供給事業=人夫出し」と判定されるからである。
 日世の従業員が病院内に入っても実際上の業務を行うことができない。院内の清掃の大部分は、市職組合員や患者の協力によって今迄通り東京ワックス労組の組合員がやることになるだろう。これを「不法就労」として病院の外へ叩き出すことが物理的にできるだろうか。病室の中や便所や外来医局の中から、大勢の患者や職員たちが見ている前で機動隊が入って「強制排除」できはしない。そんなことをすれは、世論やマスコミも黙ってはいない。長期化すれは、反発は市長に集中するであろう。
 結果として、東京ワックス労組による「委託業務」は続けられ、市長と病院当局が「異常事態」の責任をとらざるを得なくなる。ことは社会的な道義問題にまで発展するであろう。いかに島村が独断専横をほしいままにする権力政治家であろうと、機動隊による病院占拠を長く続けることは不可能である。
 このような見通しがあったからこそ、あえて「無期限スト」を中止し、「自主就労」によって実質的に業者導入を無効にしてしまおうという「柔軟戦術」をとることにしたのである。「モップ1本で、私らは、10年以上も市や病院の清掃をして来たのですから、どんなことがあっても仕事だけはしていきますで」とある清掃員は曲った腰を張って毅然と言い切っている。
 電話交換手の場合は「ゲリラ的に就労する」ことはできない。人眼に立たない電話交換室に警官隊を入れて組合員を排除することは難しい事ではない。
 日世の従業員を中へ入れ、病院当局がその一画を「部外者立入禁止」にしてしまえば、組合側は立ち入ることができなくなる。交換台さえ「奪還」すれば、警官導入で患者に異常感を与えても、対外的には「新業者に委託して正常化した」と強弁することもできるだろうというのが島村の腹である。
 一日中「自主就労中」ですと応答される程、市長の面目が丸潰れのことはない。委託業者がいなくても業務が行われていることが天下に知られたら、業者委託の大義名分が成り立たなくなるからである。
 一両日中に電話交換室は当局と警察の手によって占拠されるであろう。清掃と違って自主就労しようにも生産手段がなければどうしようもない。
 1本千円のモップと1台何百万もする交換台とのちがい、労働自体が生産手段である清掃と設備を要する交換業務との違いでもあった。
 事実、この紛争が終ってしばらく経ってから、管理課長は始息なスト対策を行った。夜中のうちに、交換台にあった切り換えスイッチを夜中のうちに守衛室に移してしまったのである。
「スト対策のためにやったのではないが、ストになっても困らなくなったのは事実だね」と、厚見課長は当局の本音をもらしている。恐らく市長直々の命令でやったのであろう。
 だが、このような小手先の手段で、組合の抵抗を封じ込めると思っていたのであろうか。ここでは公には出来ないが、当時もとっておきの「マル秘大作戦」があったのである。この大作戦によって、当局が交換台を警察の手で占拠したり、守衛室に切り換えても、何の効力もなく「自主就労」は実行されたはずである。
 それでなくても、数百本の内線電話の業務分担と担当職員名を間違いなく記憶し、入れ替りの激しい入院患者や、当直業務の不規則な医師を間違いなく電話口に呼び出すためには、半年近くの経験を必要とする。
 にわか仕込みの会社側の交換手たちが、このような「マル秘大作戦」を受けながら通常の交換業務を行うことは、とうてい出来ないことである。
 去年暮に入社したばかりの大和にしても、ようやくこの4月頃から他の三人のベテラン交換手たちと同じようなスピードで応答ができるようになったばかりである。
 土曜日の午後、清掃員や交換手たちは何度も打ち合わせをして細かな「自主就労」「業者就労拒否」の戦術を練った。現場の者だけが知り得る効果的な「ゲリラ戦術」の数々は、市長室にふんぞり返っている島村や強権だけを頼りに人を威圧することしか知らない警察幹部たちの意表をつくものであった。それは、最新鋭の科学兵器の大量投入によってもベトナム人民の士と生活から生まれたゲリラ戦術の数々と、抵抗する人民の心を破壊することができなかったアメリカと同じである。
 来年度に予想される「越委労追い出し」に備えるため、数多くの素晴しい作戦もあったが、ここでは残念ながら公表する訳にはいかない。
 後日の笑い話の中で、この時生み出された奇想天外なアイデアが、職場の中でふいと話題になることがある。
「強制排除させた方が面白かったかもね。そしたら本当に市長が私たちに頭を下げたかも知れないよ」
「あの時は必死だったからね。腹はくくってしまったけど、警察が入って追いだされたらどうなるだろうという恐ろしさも強かったよ」
 数々の運動を経験してきた者から見ると、この時の「病院ゲリラ」はおよそ前例のない柔軟で泥臭い、それだけに確実に当局の「強制排除」を瓦解させたであろうという確信がある。だが、このような「戦術的見通し」によってのみ人は動くものではない。軍隊や警察組織とそこが違うのである。不安と憤りに揺れ動く心が戦略を方向づけ戦術を決定する。こうして、人は知らないうちに自分の人生や価値観を変える大きな転機を自分自らの力で生み出す。その結果が吉と出るか凶と出るか、その時点では判断することができないことも多い。そういう意味で、このような戦略的意義のある戦術が次から次へ現場から生まれてきたことは、この闘いがそれだけ生活や仕事と分ちがたく結びついていたことを物語っている。
 島村市長の「強制排除」という恫喝にびっくりし、「何の経験もない小母ちゃん達では争議は闘えないだろうと」勝手に心配した人々は、この時の組合員たちの不安と開き直りの交錯した奇妙な明るさを具体的に知ること、「想像すること」ができないのである。人は本当に困った時、必死の闘いに直面した時、必ず危機を脱する方法を自ら思いつき、それによって大きく変ることができるのである。知識や理論はこの経験の後からついてくるものであって、決して知識や理論の有る無しによって人が闘うものではない。
 山崎事務局長から「今日の強制排除は何とか思いとどまってもらった。だが、市長は11日の月曜になっても自主就労するなら強制排除する。これ以上は引き伸ばすことができない」という悲痛な最後通牒がもたらされた。「市長は追いつめられている。彼にとっても警察導入は大きなカケだ。こちらが苦しい時には相手も苦しい。我々は強制排除されてもゲリラ的に自主就労を続ける手段が残っている。だが市長は警察導入を長びかせれば長びかせるだけ不利になって来る。感情的には、今朝一番でも強制排除したかった島村が、今日・明日と引き延ばしたのは我々が屈服するのを待っているのだ」
「ここが正念場だ。こちらが団結して一歩もしりぞかないという決意があれば、良心的な幹部は動揺し市長は完全に孤立する。ここ数日の踏んばりだ。皆苦しいと思うが、ギリギリまで職場を守っていこう」
 共闘会議側の激励に対して、組合員たちの反応は複雑であった。黙ってうなずく者、目を伏せたまま考え込んでいる者。すでに何人かの者が休んでいる。その人たちも含めて、それぞれが必死になって自分の生き方を決定しようと苦しんでいるのだ。
「せっかくここまで頑張ってきたんだから、今やめてしまっては元も子もない。とにかく明日は全員がちゃんと出ておくれよ」と笠原が大きな声で言いだした。
「病人の具合が悪いとか、どうしても用事がある人はちゃんと言って下さい」と水上が提案した。だが、誰も休むと言う者はいない。最悪の事態を予想しても、人間らしい意地を通したいという気持で全員の心が一致していたのである。
 交換手たちは最後の交換室の整理をした。その日使っていた連絡メモや内線変更帳など、どうしても無くてはならない書類はそれぞれが持ち帰ることにした。
「もう明日で終りだね」
 斉藤はおセンチ気味に交換台の上を片付けながら呟やいた。他の三人も同じ気持なのか、黙って部屋の片付けを続けた。

9.事態収拾を決意する

 明けて5月11日(日)の朝、全国紙の地方版、地方新聞は一斉に「自主就労闘争」を報じた。どの新聞にも、「このような不法就労は認められない。断固たる措置をとる」という市長の談話が出ている。島村はいよいよ宣戦布告をしてきたのだ。
 前夜、勤務のなかった安原は病院内で夜を明かした。8時前になると組合事務所に組合員たちが出勤して来た。
「新聞見ましたか、市長がこんなこと言ってるが、来るなら来てみろってんだ。病院中逃げ回ってやらあ。それでいいんでしょう」と中台が、力みこんで言う。普段は大声で話す癖が、小母ちゃん達から嫌われているのだが、こんな朝はいかにも頼もし気に聞こえる。
「駅前に今日も日世の車が停まってたけど、やっぱり今日も来るんでしょうか」と牛島が心配そうに言う。
 8時過ぎに弁護士の井上が思いつめたような表情をして、清掃室にやって来た。そして井上は、共闘会議のあるメンバーに意外なことを言い出した。
「警察も本格的に動き始めた。特に埼委労の君達が狙われている。病院への警察導入と共に埼委労や市職にも捜査の手が伸びるかも知れない。もし君らがやられたら闘いはどうなる。自主就労と言っても小母ちゃん達だけでどこまでやれるだろうか。地位保全の仮処分にしても、刑事事件になると裁判所は速決しないだろう。ここは今一度考え直す必要があるんじゃないか」
 この数日間、何度も病院に駆けつけ、小母ちゃん達を激励してきた井上だけに、安原もそこまで事態が切迫して来たのを改めて知る思いだった。
「考え直すといっても、無条件で日世と雇用契約を交せば全面屈服だ。とても応ずることができない」
「無条件じゃもち論だめだ。だが、小母ちゃん達の身分保障や元請け責任について少しでも前向きの確認を取るということでどうだろうか。とにかく、職場を失ってしまって刑事弾圧も受けるということになれば、解雇撤回も長期化してしまうことは君もよく知ってるだろう」
 井上が、小母ちゃん達の将来を親味に心配していることは痛い程分った。
 青木らはぼちぼち集まってきた支援者と共に、日曜のガランとした病院の廊下の掃除を手伝った。ただ見ているだけでは大したこともなさそうだったが、モップを洗い絞るのにもコツがいり、腰をまげて力を入れてふき掃除をするのも決して楽でないことが分った。「何もないのが警備の勤め」という宿直業務を1、2年やっているだけで若い夜警たちも体がなまっているのか、ひっきりなしに背筋を伸ばしている。
「そんなこっちゃ最低賃金も貰えないぜ」と、やって来た山本が夜警たちをからかった。
 この日の掃除は午前中に終え、大詰めの全体会議を開くことになった。埼玉各地から自治体合理化に反対している労組や労働グループも応援に来てくれた。埼学労も正式に支援決定し何人もの仲間が駆けつけた。モップやワックスの缶が積まれた組合事務所の中で、小母ちゃん達が握り飯をつくったり、茶を沸かして甲斐甲斐しく遠来の支援者を接待した。
 山本、青木、安原、佐々木ら東京ワックス労組特別執行委員がそれぞれの立場での経過報告と個人的な意見を述べた。青木、安原らは、「とも角、強制排除の威しに屈してはならない。強権発動を行っても、より一層、混乱し長期化するという状況を作ってしか、島村を反省させることはできない」と主張した。
「それは分る。だが、長期化した場合、どこまで東京ワックス労組と日常的に行動を共にし、その就労を支援し、生活を保障することができるか。短期的には年休をとっても長期的には無理だ。何とか、強制排除だけは避けられないだろうか」と、佐々木は市職の意見を代表して苦しそうに収拾を提案した。
「日世には雇われたくない」「何とか市長に今までのことを反省してもらいたい」「今年は良いけど来年はどうなるのか」と、組合員から様々な不安が出された。
「職場を失っては労働組合としては闘えない。若い活動的な労働者なら争議団を作って闘い、各地に支援やカンパ要請もできるが、年配の人が多くては難しいのではないか。一揆的な考えではなく、日世であろうと、どこであろうと組合の団結を固めて、長期に自主管理体制を確立していけば良い」と「一歩後退、二歩前進」を主張する者もいた。
 市職の佐々木委員長から、助役が話し合いに応じてもよいと言っているという報告があった。
「実は今朝、山崎事務局長から話したいということで、僕と加藤君が局長の自宅に呼ばれた。松尾庶務課長も来ていて、何とか最悪事態をさけたいというんだ。そのために助役との交渉を設定してもよいと言ってる。何とか解決の糸口を見出したいが、どうだろうか」
「仮に日世と雇用契約を結んで収拾するにしても、無条件でという訳にはいかない。今まで5年もの間、委託地獄を放置して来た市の責任を明確にし、今後の制度再検討をはっきり市長自身に約束して貰わねばならない。もち論、今までの組合に対する暴言や敵対的な言動について率直に謝罪して貰わねば皆の気持が収まらない。この点の確認さえあれば、今年度に限り、日世と雇用契約を交し自主就労を中止しても良いのではないだろうか。行政責任を市長に認めさせれば全面敗北ではない」と青木や安原らは最低限の譲歩できる線を提案した。この点で組合員の多くも同意を示した。
「それでは、市長の謝罪もしくは元請け責任の明確化と委託制度の根本的見直しを前提に、全員雇用と労働条件の大幅改善、労働慣行の尊重を約束させるということでどうだろうか。市長の謝罪はむずかしいにしても、今までの違法劣悪な委託条件を改善するという言質が当局から確認できれば事実上の謝罪といえるんじゃないか」
 佐々木委員長の最終的な提案について異論はなかった。交渉の仕方は市職三役に一任ということにした。如何に対立するように見えても自治体の労使関係の中では必ず交渉の窓口は開かれる。「共闘会議」方式は運動の大衆化という意義はあるが、使用者側には決して好ましいものではない。彼らは常に「トップ交渉」を設定し、物分りの良い幹部との直取引を追求するものである。そこでは運動のエネルギーや闘争参加者の心情はモノ(労働条件、経済条件)におきかえられ、「どこまで取ったか」ということが唯一の判断基準となる。何がしかの人生と生き方をぶち込んで苦しい闘いをした大衆の心情というものは「トップ交渉」では切り捨てられるしかない。このような危険性を承知で共闘会議はあえて「三役交渉」に事態収拾を一任した。それは、越谷市職労三役が闘争者の心情を常に汲み取って闘ってきたこと。東京ワックス労組、共闘会議の大衆的構成からしても、一般的な「トップ交渉」による独断的な交渉にはならないという確信があったからである。市職労の側から、「交渉経過は絶えず報告する。決定は共闘会議の場で行う」という提案がなされた。
「お願いします。頑張って下さい」と東京ワックス労組組合員もようやく喜色をよみがえらせて市職三役に交渉を一任した。
「これで何とかなるんだろうかの」
 三役を交渉に送り出してから、気のぬけた様な雰囲気の中でばあちゃんがぽつんと呟やいた。
「あの市長が助役や事務局長らの言うことを聞くのかしらね」
 交換手たちも半信半疑という面もちだった。明日は強制排除と覚悟していた張りつめた気持が急にはぐらかされて虚脱したような表情である。
「わたしらこれからどうすればいいんでしょう」
「とにかくこれで少しは時間稼ぎができるだろう。少しでもキチンとした仕事をして、会社がなくても立派に仕事ができることを内外に明らかにすることだ。今まで病院で仕事をしたことがある人。知りあいで応援してくれる人。誰でもいいから来てもらってほしい。我々の方でも少しでもお手伝いするが、とにかく自主就労の体制を取り続けることだ」
 水上たちの心配に対して、「今は仕事を続けることだ」としか青木たちは答えるほかなかった。
「交渉は決裂するかも知れない。そうなれば明日は必ず警察が介入して強制排除されるだろう。その時は抵抗せずに城を明け渡すしかない。警察が入るとすれば早朝だろう。泊り込める人は組合事務所か、近所に分散して泊って明朝6時には結集してもらいたい。今日これなかった人には、委員の人が分担して電話でいいから全員に話をしてもらいたい」 だが、夕方になっても誰も帰らなかった。病人を抱えた2、3の者以外は「助役交渉」の結果を待って夜遅くまで待機していた。近くに住む市職労の女性組合員や、看護婦宿舎に住む看護婦たちからの差入れも届いて、重苦しい中にも賑やかな夜は次第に更けていった。

10.市長、再び和議成立をご破産に

 佐々木、塩田、正木、加藤らの市職執行部が助役室へ入ったのは、すでに日が傾いてからであった。
 藤倉助役・山崎事務局長らから、「とにかく日世と雇用契約を結んでほしい」という申入れがあった。佐々木らは「とも角、警察を入れずに自力で解決しょう。市の姿勢次第では契約に応じてもよい」と切りだした。
助役 市長が個人的に何と言ったか知らないが、市としては現在の従業員は全員雇用を前提にしている。とにかく一日も早く雇用契約を結んでほしい。
市職 市が今までの違法な低賃金を反省し、何らかの形で責任を明らかにすること。委託制度について再検討することを約束してもらいたい。
助役 業務委託した以上、そこの労働条件は労使間の問題で市は関与できないのが原則だ。ただ、今迄は委託料が低すぎて、業者としても法違反を犯さざるを得なかったということで、市としても契約内容上の責任は感じている。ただ、委託制度をやめるということは、行政合理化の責任上約束することはできない。
市職 今すぐ委託を廃止して直営化しろと言っているわけではない。そういうことも含めて、来年度以降の、委託の在り方を再検討する。そのために事務レベルでの協議を継続するということでどうか。
助役 協議の結果どうなるかは約束できないが、労使間交渉ではない話合いを継続するということは、やぶさかではない。
 話合いは比較的スムーズに進んだ。助役・事務当局としては警察官を病院に導入して強制排除すれは、2年前の病棟移転騒ぎ以上の大混乱となる。それだけは何としても避けたいという願いがあった。市職としても、できることならそのような事態(結果として来るであろう全員解雇と刑事弾圧)を避けたいという思いである。
 問題は、どのような形(文章表現)で市の責任を表現するかということであった。市長の率直な謝罪は難しい。「私から市長に謝罪しろとは言えないよ」と藤倉も困った様子であった。「過去の劣悪な労働条件等を惹き起こした原因として、業者委託契約の内味に問題があった。今後は、元請け責任を自覚して、このようなことが起こらないように委託契約の内容を慎重に検討する」という趣旨で、ようやく文案がまとまったのは夜明け前であった。
 助役らが市長に経過報告をして了承を求めるということで、いったん休憩になった。支援の労働者の多くは泊り込み体制に入ったが、青木・安原らは交渉経過を知るべく市庁舎内の組合事務所に詰めていた。
「99パーセント合意に達した。後は市長がOKと言いさえすればよい」
 佐々木らは眠そうな眼をこすりながら組合事務所に入るなり嬉しそうに報告した。前夜に東京ワックス労組の組合員たちが握ってくれた握り飯をほうばりながら、佐々木らもほっとしたような様子であった。
 小1時間ほどして、助役から連絡があり、佐々木らは再び助役室へ向かった。
 部屋の様子がおかしい。休憩前のなごやかさはなく、助役・事務局長らは重苦しい表情であった。助役は佐々木らが席に落ち着くのを待って、苦し気に話し出した。
「先程の話は御破算にしてもらいたい。市長の同意が得られなかった……」。藤倉も苦し気であったが、山崎の眼は充血し、これから起きる事態を考えて苦悩に歪んでいた。
「今までの局長の苦労が水の泡だ。それじゃ余りに局長が可哀そうじやないですか」
 佐々木は山崎の顔を見かねて思わず藤倉に言った。その途端に山崎が「ウォーッ」と声をあげて泣き出した。
「……佐々木君、それでもう十分だ。有難とう」
 山崎は男泣きに泣きながら、佐々木らに申し訳なさそうに言った。病院の直接責任者として、最悪の事態を回避し、市にとっても労働者にとっても何とか妥協の道を見出そうとして、ここ数日不眠不休で市内部の根回しをしてきた努力を、島村市長が理解してくれなかった口惜しさもあったに違いない。
「市長がそういう態度なら、組合としては責任が持てない。強制排除には応じられないが、話し合いは最後まで応じる用意はある。市の方で態度が変ったらいつでも連絡してもらいたい」
 佐々木らは、も早助役や事務局長と話すのが辛くなって席を立った。
 警察導入回避でまとまっていた妥協案が、市長に一蹴されたのだ。恐らく市長はこの日、何が何でも実力で自主就労をぶっ潰し、組合員の解雇を目論んでいたのであろう。すでに埼玉県警に出動要請を出していたのである。それを助役や事務局長が組合に譲歩するような妥協案をまとめてきたので、恐らく怒鳴りつけて話し合いをぶっ壊したのであろう。
 2年前の病棟移転問題で、島村市長は病院事務局の猛反対で警察導入を見送り、管理職を総動員して入院患者のベッドの移動を強行しようとした。だがこの「自力排除」は看護婦たちの身を挺しての反対によって失敗した。島村はこの時から、「平和的解決」では自分の思い通りにならないことを身に染みて悟ったのであろう。「委託労働者や市職を甘やかせておけばキリがない」という権力者の思い上がった使命感である。或いは、父平市郎が組合や革新政党に振り舞わされて任期途中で辞任に追い込まれた怨みを晴らす、逆の意味での父親(ファーザー)コンプレックスが働いていたとしか思えない逆上ぶりと言うほかない。
 組合事務所でウトウト待機していた全員が叩き起こされた。も早、この日の警察導入は避けられなかった。全員に厳しい緊張感が漂った。近辺に宿泊している者を直ちに呼び出す手配が行われた。
 病院の組合事務所にとって返し寝ているものを起こす。急をきいて共闘会議の労働者が続々と集まって来た。すでに東の空は白々明け始めていた。
 頑張ろう
  突きあげる空に
   黒鋼(がね)の男のこぶしがある
    燃えあがる女のこぶしがある
     闘いはここから 闘いは今から
      頑張ろう…………突きあげる空に
 闘いの正念場で必ず歌われる「ガンバロウ」を何度も何度も歌いながら、全員が強制排除に備えての配置についた。
 緊急事態を訴えるでっかい立看板や病院内掲示を書く者。2人ずつ組みになって車で周辺パトロールをする者。炊き出しをする者。市職組合員の有志に非常呼集をかける者。夜勤の看護婦詰所に事情説明に行く者。時間を追って集まる者が増え、人の動きは慌しくなって来た。
 午前7時。いつもより1時間早く組合員が出勤して来た。佐々木らが全員を集めて詳しい交渉経過を報告した。
 市長が全員雇用できないと言いだした以上、も早交渉の余地はない。年配の労働者を何年も病院のため下積みの仕事で安い賃金で働かせておいて、何の痛みも感じない島村市長に対する怒りで全員の腹は決った。
「追いだされても、追いだされても仕事は続ける。不法就労だといわれてもオラたちにはそれしかできない」と水上が皆の決意を代表して述べた。共闘会議も徹底抗戦=長期に粘り強く就労闘争をやることで全員が一致した。
「機動隊が越谷市に集結し、病院に向かって動き始めたら全員が玄関前に集合する。病院内に突入しそうになったら、全支援者は玄関前で抗議集会を1日行う。病院が機動隊に制圧された後は、このような抗議行動を病院内外で連日行う。徹底した市中情宣によって、この異常事態を社会的にバクロする。いわば非暴力抵抗闘争をしつこくやり続けることだ。くれぐれも、不法占拠、暴力事件デッチあげの口実を与えないよう慎重に行動する。昼からは、病院、市役所、駅頭、市街で『強制排除抗議署名』を行い、夕方は駅前で大抗議集会を開く」
 共闘会議では遅くまで協議した当日の行動方針を全員に再確認した。島村の「強制排除」を空ぶりに終らせ、事後の刑事弾圧の口実を与えず、島村の強権・警察政治の実体を患者、市民に徹底的にバクロし、長期の警察管理によって市民の反発を島村市長一人に集中しようという方針であった。
 陣地を放棄し、城内に敵をさそい込み、周辺の決起と城内カク乱によって敵を孤立させるという古典的な大衆包囲作戦である。かつての日本軍もベトナムのアメリカ軍も、古くはロシア出兵のナポレオン、ヒトラーもすべてこの戦術によって包囲討伐されたのである。
 確かに何人かの組合員はこの日も「恐ろしくて」来れなかったのは事実である。助っ人に頼んだ元の従業員も来てはくれなかった。
 だが、この1ヵ月、家庭内での仕事を犠牲にし、息子やしゅうとに気兼ねし、病身の夫を気づかいながら必死で闘ってきた最初から病院にいる清掃員たちや交換手たちは全員張り切って来ていたのである。「強制排除」と聞いても、警察は「正しい者の味方」だと思っているだけに「私たちは間違ったことはしていない」と恐れてはいなかった。かえって、生じっかに運動し、自身や周辺で「弾圧」を受けた者ほど警察力を過大に評価し恐れるものである。東京ワックス労働組合員には「恐いもの知らず」の強さがあった。
「いよいよね、武者ぶるいしちゃうわ」
「ここまで来たらもう恐さも通り越しちゃったよ」
 交換手たちは声を上げて笑った。
 午前8時を過ぎても警察の動く気配はない。助役や事務局長が必死で市長を説得しているのであろうか。事務局長はもち論、管理課長、庶務課長、院長らはすべて市庁舎に集まっている模様。恐らく、最終決断をめぐって協議が重ねられていたのであろう。
 8時20分、業務を開始した交換手たちはこの日の朝から「自主就労宣言」を一時棚上げし、普段通りの事務的な応答を始めた。直接的口実として市長の怒りの対象であった「自主就労中です……」という宣伝的応答をやめることによって、市長は社会的には排除の口実を失う。それはまた、助役や局長の「和平交渉」の成果としての組合側の譲歩を示し、市幹部良識派の発言力を増大させる。このような狙いが効を奏したのであろう。市長と警察は警官導入の口実とキッカケを失って、ジリッジリッと時間は経っていった。
「病院の回りを変な車がうろついている」という連絡があった。何人かが駆けつけてみると案の定、駐車場の端に停められた車の中から2人の若い男が病院の様子を伺っている。ヒロキが身分と用件を問いただすと、彼らは、「お前らに言う必要はない」と威高丈な刑事根性を丸出しにした。ハンドマイクで「私服刑事が警察導入の下見に来ています。市民、患者の皆さん、この車のナンバーをよく見ておいて下さい」と病室に向かって宣伝を始めると、私服は「お前の顔こそ覚えておいてやるからな」と捨てぜりふを吐いて慌てて逃げて行った。
 10時頃になって、市中パトロールに出ていた労働者から、「浦和方面から来た機動隊が越谷に入った」という連絡が入って来た。
 ついに県警の機動隊がやって来たのだ。組合事務所にいた者の間に緊張感がにわかに広がった。周辺の連絡係を集めて、越谷署、駅前などに重点的な張り込みを行ってもらう。
「来た、来たってよ、どうしよう」
 連絡を受けた馬場が仲間に叫ぶように言った。全員が赤いハチ巻きをしめ、腕章をしている。ついに、最後の瞬間がやってきたのだ。胸がキュンと絞められるように痛くなり、ドウキが激しくなる。斉藤も鈴木も大和も同じ思いなのだろう。外線からの呼び出しの声が急に遠くなっていくようであった。
「あの時は本当にもうお終いだって思った。共闘会議からいつ退去するように言われるか気がきでなかったものね」と馬場や斉藤は当時の気持を語っている。
 だが、昼近くなっても部隊が動く気配はない。市役所の裏に装甲車が1台停まっているが、中に機動隊員のいる様子はないという連絡が入った。日世の車は相変らず駅前に来ているが、会社の人間は駅前のレストランに入って朝から何杯もコーヒーを呑み、ケーキをばくついているという連絡もあった。外勤の市職員から北越谷の駅前に機動隊の車が停まっていると通報があった。
 病院への人の出入りが慌しくなった。議員や新聞記者が現われては病院の様子を見ていく。社会党や地区労からも激励に何人もの人が現われ、心配そうに市職の役員と話し合っている。
「青木さんどうだろうね。今一度市と交渉を持ったら。市長が全員雇用を保証しない。ストや自主就労をやる組合員はいらないっていってるらしい。現に、段々来る人が少なくなっていっている。このままいけば樺沢のように組合を辞めて日世に走る者も出てくるだろう。そうなれば残って頑張ってきた人が全員クビになる心配もある」
 井上弁護士が心配でたまらないといった様子で、青木や安原らに話しかけてきた。
「市長の本音としては市職や我々に踊らされていると奴が考えている組合員を追いだしたいんでしょう。そんなことは絶対させない。これ以上崩れる心配はありません。組合員一人ひとりの考えを聞いて下さいよ。向こうが問答無用と言ってるのに交渉の仕様もないでしょう。それより、こうなったら今すぐにでも地位保全の仮処分の申請をしましょうよ」と安原。
「もち論、その準備はしている。だが一旦職場を排除されたら、地位保全や就労命令が出るまでに相当の時間かかかる。それより、何とか全員雇用を再確認させた方が、皆も安心じゃないのか」
「でも市長は、組合(=市職)とも話さないと言ってるんでしょう。助役や局長と話しても仕方ないのだから交渉もできないでしょう」
「いや、市職と話さなくても、議員が申入れれば話は別だ。市政の実力者と言われるFや高橋努議員、元議員の吉岡さんになら会うんじゃないかと思うんだが……」
 安原は青木と顔を見合わせた。助役交渉は共闘会議で討議して市職三役に一任した。共闘会議の一員としての彼らが組合員の真意をそれなりにつかんでいたからである。だが、井上弁護士はともかく、議員ということになると話はちがってくる。議員には議員固有の関係が市の執行部との間に生まれてくる。早い話が、議員歳費の値上げに表向きは一貫して反対している某政党でも、いったん決定されれば値上げ分を何喰わぬ顔をして貰っているのである。議員と市の執行部にはそれなりの利害関係の一致がある。もしも島村のような権威主義・事大主義の市長なら労働組合とは話をしなくても議員となら社会党であれ、何党であれ会うことは会うだろう。
 だが、そこで一方的に譲歩を迫られた場合、何らかの形で交渉をまとめなければならない立場にある彼らが、最低条件まで追いつめられないという保障はない。代表交渉と言っても、運動者自身の中からの代表ではなく、代理人交渉になってしまうことを覚悟しなければならない。これは、個々の代理人の良し悪しの問題ではなく、誰が代理人になっても現場感覚とのズレが一定程度出てくることはさけられないのである。
 このような危倶はあっても、やはり交渉を求めずにはいられなかった。もはや市長が強行策を捨てるとは考えられないが、少なくとも強権発動だけは喰い止めねばならない。時間を引き伸ばせば、強制排除はそれだけやりにくくなる。こちら側がこぶしを振り上げてない以上、向こうが一方的にこぶしを振り上げる訳にはいかないものである。少なくとも交渉している間だけでも強権発動はできないだろう。長びけば長びくだけ「空白の期間」は既成事実化する。ここは粘れるだけ粘るしかない。
 かくて、社会党議員と井上弁護士を中心にして新たな交渉団が結成された。交渉条件は「全員雇用の再確認」「労働慣行の尊重」「委託制度の再検討」の3点であった。
 だが、助役・事務局長を相手としてこの日の夜から始まった交渉は果せるかな難行を極めた。市長の強行方針は変らない。委託制度は飽くまで変える積りはない。雇用については会社側の問題であると市側が今度は強く出てきたのである。

交渉団 どうして市長が全員雇用が保証できないと言っているのか。市の言い分ではそれは労使問題であり、市としては全員雇用する業者を選定したはずではないのか。
市当局 当初はそういう確認であった。だが、9日から新業者と契約したのにそちらが雇用に応じないため事情が変っている。
交渉団 事情の変化とは何か。
市当局 たとえば、組合が雇用に応じないため会社は従業員を雇用した。この人たちを首にするわけにはいかない。
交渉団 現実に業務は支障なく行われている。話がついた時点で日世が全員雇用する気なら、従業員を採用する必要がなかったのではないか。
市当局 組合では最初無期限ストと宣伝していた。これでは業務責任が果せないから会社としては従業員を新たに手配してしまっている。
交渉団 それは日世がスト破りしようとしたからで、こっちは関係ない。現従業員の全員雇用は当初からの確約ではなかったのか。
市当局 それはそうだが、現時点では新たな問題が起きている。これを解決しなければ現従業員の全員雇用に応じられないというのが会社の言い分だ。市長はいずれにせよ労使間題は会社の問題で市として関与する必要はないと言っている。全員雇用の話は会社側と直接話し合ってもらいたい。
 市当局の元請け責任を明らかにし、委託制度の再検討を何らかの形で約束させた上で、雇用契約の内容へと進めるべき交渉の手順が逆になって、全員雇用か否かと会社・市側のベースに完全に引き込まれてしまった。日曜までは警察導入したくないという事務当局の思いをついて組合側が有利に交渉を進めてきた。だが、この朝から立場は逆転した。すでに強権は発動され、強制排除が全員解雇を意味する大きな圧力となって組合側の屈服を迫ってきている。
 島村市長のやり方はいつもこのように、事務レベルで煮つめてきた平和的交渉を白紙に戻し、行政論、政策論を棚上げにして強権的に自分の提案を相手に呑ませるという攻撃型行政である。
 しかも今回は、市として文書で再三確認した全員雇用を業者のせいにして破棄しようとする破廉恥さである。本来なら、「業者と話し合うべき筋合いではない」とこの提案を蹴って強権排除だけは避けつつ、じっくりと市長の非を社会的に追求すべきだった。そのための組合側の主体的条件も客観的状況も次第に有利になって来つつあった。
 だが、この時点ではこのような彼我の社会的関係の変化を冷静に判断するゆとりが交渉団にも共闘会議にもなかった。「強制排除→全員解雇」か「全員雇用」かという島村市長お得意の二者択一を迫られては「雇用第一主義」を路線として掲げている政党の議員が「まず雇用を確保することが先決」と判断するのもやむを得なかった。共闘会議側にしても「ここまで来れば一時的に追い出されてでも意地でも市長の強権に反対する」という考えと、「クビになったらお終いだ」という考えとの間で最後まで揺れていたのも事実である。
「とにかく職場の確保が先決だ。日世がいくら暴力企業であろうと、いったん雇用したら労使紛争で簡単にクビにする訳にはいかない。組合と共闘会議ががっちりスクラムを組んでいれば会社の一方的な職場支配に抵抗することができる。市の元請け責任の追及はそれからじっくり構えても遅くはない」
 良識的にはこれが労働組合の一般的考えである。だが、島村市長にはこのような良識が通用しないことは、半年後の東部清掃第二工場の民間下請け化とそれに続くデッチ上げ刑事弾圧、組合破壊攻撃を見ても明らかである。良し悪しは別にして、島村市長は父平市郎市長のような事なかれ主義で市政の懸案事項の解決を後へ後へ伸ばすという曖昧さを持ってはいない。根っからの権力的思考と土木屋としての機械的な合理主義によって、自分の信念を曲げない一徹さを持っている。このような増長慢な男には良職や人道的な考えは通用しない。力ずくで対決し、自らの血を流してでも市長自身に味わわせるしかないのである。
 事実、この時の曖昧な解決は、その後の越委労の粘り強い雇用なき自主就労によって組合側の勝利に終った。だが島村はこの時強権を持って組合を潰し切れなかったことを「反省し」、東部清掃第二工場民間下請け化に際しては自らの「信念」を押し通した。共同理事者たる草加、吉川、松伏、三郷、八潮の5市町長や工場事務局の反対を押し切って、又もや強権介入の切札をちらつかせつつ、労働者の既得権を一方的に奪って労働者の中に動揺と分裂を引き起こし、ついにはデッチ上げの刑事弾圧をもって諸合理化を強行した。それ以降もこの勢いに乗じて、「昼窓(=昼休みの窓口業務)」を強行し、越谷市職の誇る民主的な給料体系「通し号俸」制に揺さぶりをかけている。現在は「病院赤字解消」のため病院身売り(=職員解雇)をちらつかせつつ大幅な人員削減を目論んでさえいる。越委労に対しても一切の話合いを拒否し、過去の病院当局との確認すら反古にするという強硬姿勢をとってきている。
 助役室に内海と早乙女、川前らが勝ち誇ったように入ってきた。
内海 今さら全員雇用なんて言っても、雇用を拒否してきたんはそっちじゃないか。そのためにこっちは高い金を払って募集広告を出して、何人もの従業員を雇ったんだ。今さらその人たちを解雇すれば新たな解雇問題が起こる。その責任をあんたらがとってくれるのかね。市で雇ってくれると言うならよいんだがね。
 内海は攻撃的であった。確かに会社としては公けに9日時点での雇用は拒否された。委託業者として、契約責任を果すために従業員を募集するのも一理ある。委託業者を認め、「雇って下さい」とお願いすれば彼らが開き直ってくるのは当然だ。
交渉団 雇った雇ったというがその証拠を見せてみろ。9日の日だって何人も来ていない。駅前で待機していると言ったって、新しく雇った人間か元々の会社の従業員か分らない。雇用者のリストを見せよ。
早乙女 初日に追い払われたから、従業員の安全のために現在は自宅待機させている。氏名を公表すれば組合に攻撃されるから見せる訳にはいかない。嘘ではない証拠に助役さんが直接電話をしてもらえば分ることだ。
 藤倉助役が早乙女からリストを貰って市長室に入って何人かにわざとらしく電話をした。
藤倉 確かに採用が決定されて自宅待機している。市立病院の電話交換として採用されたのだから、今さら取り消しと言われても困ると言っている。
市職 応募者にははっきりと紛争中だ。採用されても雇用の保証はないと組合で説明している。無理やり会社が採用を決定しても拘束力はない。
交渉団 清掃は他に配転することも可能なはずだ。交換手には事情を説明してこの間の賃金と相当の慰謝料を払えば納得してもらえるのではないか。
早乙女 その金は市が保証してくれるのか。異常事態のために会社の管理者全員と主だった従業員が何日もの間、持ち場を離れて待機した。そのため重大な他の契約にも支障が生じて会社の損害は甚大だ。
藤倉 どういう形で払うかは別にして、雇用が確認された者についての経費は、契約後の出費と見なさざるを得ないだろう。
内海 金をもらえばいいっていうもんじゃない。今後の労使関係が安定するという保障があるのか。団交と言っても従業員以外の者が大挙して押しかけてくるという状況では労使関係は安定しない。事ごとにストをやられれば契約業務を果せない。仕事をする気のない従業員まで会社としては雇えない。
 会社側はついに本音を出してきた。新従業員を雇ったとか、そのための雇用保障や経費増大など、ただの言いがかりに過ぎない。仲間を裏切り会社に尾を振る従業員以外は要らないというのが会社の本音である。会社のと言うより「ストをやるような労働者は要らない」と新聞記者に語った島村市長の代弁を会社側が始めたのである。話合いは難行した。夜すでに遅くなって藤倉助役は「私は疲れているので失礼するが、ここで話し合ってもらって結構だから煮つまったら連絡してもらいたい」と言って中座した。代表団と内海らとの間に全員雇用をめぐつて激しいヤリトリが再び始まった。
 その時、深掘秘書課長が隣室の市長室との扉を開けて入って来た。
「いつまでもここで話していては困る。出て行ってもらいたい」
「何を言ってるんだ。助役の許可を得て交渉しているんだ。あなたにそんなことを言われる筋合いはない」
「ここも秘書課長としての私の管理下にある。助役がどう言おうと管理上困るんだ」
「てめえ、俺がバッチがないからってなめると後で吠え面かかしてやるぞ。公務上の立場でかってなことをしている証拠は一杯あがってるんだ」
 前市会議員の吉岡が深堀を睨みつけた。深堀には色々良くない噂がある。吉岡の二言で深堀は黙って引っ込んでしまった。おそらく市長の本音を会社側が不用意にさらけ出してしまったので、慌てて話合いを止めさせようと出て来たのであろう。この時のタイミングから言っても、彼が市長室の壁にはりついてお得意の盗聴作戦をしていたかも知れないのである。
「市はあくまで全員雇用を前提として日世と契約したのではないのか。日世がその前提を破棄するのなら市が嘘をついたことになるがどうか。局長や総務部長はこの前提を破るということなのか」
 交渉団は、厳しく市の責任を追求した。しかし、最終的な契約の場に山崎は立ち会っていない。市長側(恐らく深堀秘書課長と助役または総務部長)がどのような暗黙の指示を日世に与えて契約したか定かではなかった。
 局長や総務部長は「もう一度市長の最終態度を確かめる。出来れば市長に交渉の場に出てもらう」と市長交渉の要望に答え、一時休憩することになった。すでに夜明け前であった。
 交渉団がうとうと仮眠している間もなく、事務局長から、「何とか市長に交渉に出てもらうことになった。午前7時から再開する」という連絡が入った。
「いよいよ正念場だ。市長と日世がグルになって労組の切り崩しを図っているのは明白だ。こうなれは全員雇用と元請け責任明確化の2点にしぼって決着をつけるしかない」
 交渉経過を聞いた山本や安原らは交渉のギリギリの譲歩内容を確認して、再び交渉団を送り出した。
「埼委労の動きがおかしい。昨日開かれる予定だった書記局会議が流れたというのに、浦和の事務所に誰もいない。今日の夜になって明日執行委員会を開くという連絡が一方的に入った。議題も何も知らされていないが、僕と柳沢(=当時埼委労執行委員)だけで行ってくるから今日はそちらへ行けない」
 この前夜から勤務に入っていた青木から奇妙な連絡が入った。5月に入ってから埼委労の動きがおかしい。大衆運動で始まった「留守番電話導入阻止」闘争の確認がいつの間にか「三役交渉による県当局への導入中止のお願い」にスリかえられ、事務局会議も執行委員会も開かれていない。大詰に入った東京ワックス労組の闘いにも、青木らの再三の支援要請にもかかわらず、埼委労三役も書記局からも誰一人として参加しようとしなかった。
「青木さんと柳沢さんはどこへ行ったの」
 5月6日から埼委労東1分会(=当時)の若手グループ全員と西部地区の若干の有志は連日病院へ詰めていた。勤務のある日もギリギリまで病院におり、夜勤明けと共に一番で病院へ来た。それだけに、東京ワックス労組の組合員とも全員が急速に親しくなった。特に、黙々と「援掃」に精を出していた青木や柳沢の姿が見えないことで組合員たちは不審気に聞いたのだ。
「今日は埼委労の執行委員会があるんだ。あの2人は執行委員のお偉いさんだから今日は来れない。本部が支援に来ないのはけしからんと追及して、闘争が長期化した場合の支援体制を確認してくるって言うから心配ないよ」
 ヒロキが交換手たちに気楽そうに説明した。何たるお人好しであったのか?!この闘いの大詰を迎えて、全国でも唯一の委託労働者の横断組合埼委労は、闘いの支援はおろか、中心になって心血をそそいで闘っている者を「統制処分」にせんと、秘かに本部書記局員を中心にして陰謀を巡らしていたのである。

11.玉虫色の4項目確認書で解決

 5月13日(火)午前7時、越谷市長・島村慎市郎がついに交渉の場に姿を現わした。東京ワックス労組が組合を結成し、市長に話合いを申入れてから実に40日ぶりである。この40日間、東京ワックス労組員が解雇と生活の不安におびやかされて必死で市長との話合いを求めてきたのに対し、島村は「バカヤローッ」「関係ない」としか組合員に語らなかった。切羽つまってやったストライキや自主就労したのがけしからんと、警察の力を借りて強制的に排除しようとし、その思惑が外れると、会社をダシに使って解雇策動を続けてきたのである。
 だが、東京ワックス労組の粘り強い団結と、市職・埼委労東1分会(=当時)を中心にした共闘会議の大衆的支援。そして、市職三役、社会党市議など交渉団のしぶとい交渉によって、ついに島村は姿を現わした。
「委託会社の労使問題には市は関与しない」と言い続けた島村にとって、藤倉助役や山崎事務局長らの必死の説得で組合(代理人)の前に登場せざるを得なかったこと自体が敗北である。島村は潔く「敗北」を認めて、市の元請け責任を明確にし、紛争の根本的解決のために、低賃金と委託差別に耐えて市立病院の清掃や電話交換業務を守ってきた東京ワックス労組員に一言の謝罪とねぎらいを行うべきであった。だが、性来の傲慢さと坊ちゃん育ちで我まま一杯に育った島村は、この土壇場に来ても往生際の悪い責任のがれを繰り返すだけであった。
交渉団 会社側はストをやるような組合員は雇用できないと言っているが、これは全員雇用を前提にした業者と契約を交すという、市当局の確約を反古にするものではないか。
市長 説明会の前までは会社も全員雇用と言っていたのではないのか。契約成立後に組合が雇用に応ぜずそういうことを続けたから、会社が雇えないと言いだしたのだろう。それは会社の判断であり、市が関与するところではない。
交渉団 それはおかしい。市長はある新聞記者にストや自主就労するような組合員の雇用は保障できないと言っているではないか。これは労使間題に対する不当介入ではないか。
市長 自分の個人的意見を聞かれたから答えたまでで、市としては労使に不介入の態度は変えていない。会社と組合が話し合って解決するものならそれに越したことはない。
 自分の発言を鋭くつかれて狼狽した市長は会社側の面前ではっきりと不介入を言明した。会社側としては雇用に応じないと市当局の確約(=契約の前提条件)を勝手に破棄したことになる。ストライキを口実に雇用拒否すれば、不当労働行為になる。交渉団はこの矛盾を鋭く追及した。
市長 市としては病院の医療活動に支障がない限りストしようが何しようが関係ない。市としては前従業員が希望するなら日世が雇用すべきだと考える。新しく雇用した従業員をどうするかは会社の問題だ。いずれにせよ、私はこれ以上関知できないから労使の代表で話し合って早く決着をつけてもらいたい。
 島村は「もうどうでもいいや」という感じで部屋を出て行った。助役や局長は残って交渉をまとめることになった。市職三役は市長がふり上げたこぶしをついにしぶしぶ下ろしたと判断した。こうなれば解決は時間の問題だ。
「市長が関係ないって言うんなら日世だけが雇用拒否することはできないだろう」
 共闘会議では交渉経過を聞いて、和解条件を話し合った。
「問題はどういう条件で解決するかだ。今までの労使慣行、とくにこの間の自主的な職場運営を認めさせること。そのためには労働協約をあらかじめ決めてから雇用契約を結ぶことを大前提にしてもらいたい」と、安原らは注文をつけた。これが最低の譲歩内容であった。
「市長が出て来たって、よかったね」
「今日中に解決するかね」
「会社の方は金の問題だけなんだから、何とでもなるんじゃないか。夕方までにはケリがつくんじゃないか」
 出勤してすぐに、交渉経過を聞いた小母ちゃん達は不安そうだったが、とにかくここまでくれば待つしかない。10日以来4人ほどが休んだままである。執行委員たちも疲れがたまっていたが休むわけにはいかない。
「ねえ、何とか仕事を手伝ってくれないかい。身体の方はもういいんだろう。少しの間だけでもいいからさ」
 笠原はかつて病院で働き、具合が悪くなって辞めたTさんを病院内で見かけて声をかけた。Tさんは辞めるつもりはなかったのだが、何ヵ月も休めば辞めさせられるのは分っていたので、そのまま来なくなっていたのだ。時々病院には来るが、身体の方は良くなったというので助っ人を頼んだのだ。
「でもねえ、会社に雇われてないのに働いたってお金もらえないんじゃないかい」とTさんは気のりなさそうに言った。「そりや、あんたらが一生懸命やっているのは分っているけど、毎日こんな調子じゃねえ」
 笠原たちは、他にも何人もの人に声をかけていた。一度でも清掃で働いた人、近所でパートに行っている人や、少しでも暇のありそうな人に頼んでみた。だが、誰も手伝ってはくれなかった。腕章をしながら働いている彼女たちをみて、恐ろし気に首を振るだけだった。
「仕方ないよ。私らだって成行きで必死にやっているんだから、今さら手伝ってくれったっておっかながるのも無理ないよ」
 近所付き合いが良く顔の広い秋谷も諦めた風であった。普段の時なら、手伝ってくれそうな農家の主婦たちも秋谷の頼みにも「済まないね」と言うだけだった。
「ここんところは埼委労の若い衆に手伝ってもらって、来てる者だけでやるしかない。解決したら皆も来てくれるだろうから、もう少しの辛抱だよ」
 水上は10人ばかりの清掃員を見回して皆を励ました。湯沢の近くの雪深い山国に育ち、1年の半分は東京へ出稼ぎに出てきて製本屋の手伝いを長年やってきた水上は、越後人特有の辛抱強さを持っていた。「こうなったらオラ一人になっても皆のために仕事だけは続ける」だが几帳面な水上にとっては、紛争のこともさることながら日に日に汚れが目立っていく病室やロビーのことが何よりも気がかりだった。
 再開された交渉は遅々として進まなかった。会社側も必死だ。「組合員だけならともかく、交渉のたびにワーッときてやられたら円満な労使関係は保てない。市職や埼委労(=当時)を介入させないと約束してくれるなら全員雇用に応じ、東京ワックス労組を交渉団体としてよい」と内海が言いだしたのである。これが内海や市長の本音であったのだろう。
 もともと市職労の出身である高橋、吉岡や井上弁護士がこのような条件を呑めるわけはない。しかし、「この条件を呑まなければ労使関係の安定は保てない。従って雇用に応じるわけにはいかない」と会社側は強硬であった。
「佐々木君どうするかね。当該だけで交渉していくのは無理だろうか」
「今すぐは無理でしょう。短時間の間に組合員の成長は著しいものがある。だが、現在の地点で共闘会議の支援ぬきに海千山千のハイエナ企業とわたりあうのはまだ出来ないでしょう。雇用されても組合がつぶされてしまってはどうにもならない」
 井上は佐々木や野田を別室に呼んで相談した。何とか良い知恵はないだろうか。
「第三者を介入させないと言っても、組合が正式に交渉権を委任したものは団交の席上では当事者になれる(労働組合法第6条)。交渉に参加させないとか委任しないとか明文化しなければ、労使関係一般に第三者を介入させないと約束してもいいんじゃないか。第三者と書いたって、委任を、受ければ当事者資格が発生して第三者でなくなるんだからね」
「彼らがどのように解釈しょうが、法律的には市職役員や埼委労組合員(=当時)に交渉を委任していいんだから間題はない。もともと、彼らが組合の委任を受けている市職や埼委労(=当時)の人間を第三者として排除しようとしていること自体が間違っているんだから、後で文句を言って来てもけっぼれば良いんだ」
「だがそれにしても、もう一度共闘会議全体で確認しておく必要がありますよ」と佐々木は埼委労やその他の支援団体を集めることを提案した。
 彼らが、このような苦しい交渉を続けていた時、外では予想もつかなかった異変が起こっていた。埼委労執行委員会が、この間東京ワックス労組の結成から支援に全力を挙げて取り組んでいた青木衆一ら4名を「統制処分」したのである。
 この日の夕方おそく、埼委労執行委員会に出席していた青木、柳沢の2人が清掃控室に戻ってきた。普段でも痩せた2人の表情は険しく、眼は憤りの余り異様に輝いているように見えた。
「今日僕たちは埼委労の執行委員会で権利停止の処分を受け、僕は一切の役職を解任されました。藤本君、安原君、ヒロキ君の3名は組合員としての権利停止、要するに一切の活動をするなという処分を受けました。
 理由は、勝手に共闘会議に参加し、警察の強制排除によって埼委労そのものを弾圧させる危機まで追いやったということです。そして、これ以上の活動は許さないということです。そうなれば、私たちは埼委労として共闘会議に参加することもできないし一切の支援もできない。
 私は、この重大な局面で小母ちゃん達を見捨てることはできない。どうしても処分するというなら埼委労を脱退する≠ニ宣言して来ました。これからも、今迄通り皆さんと最後まで闘い抜くつもりです」
 一瞬、組合員達は大きな驚きにうたれた。今の今まで青木らが埼委労の一員として闘ってきたものとばかり思っていた。県下で430名の組合員を擁する委託労働者組合の委員長である森田が組合の結成大会に参加して激励し、金一封までおいていってくれたのではないか。それを今更知らぬ顔をして献身的に活動してきた青木らを処分するという。小母ちゃん達には想像もできないことであった。
 電話交換手たちも、「ワーッ」と泣き出した。何人かのばあちゃんたちも涙ぐんでいる。(巻末資料参照)
「僕も、衆一君が処分され脱退するのなら、執行委員として行動を共にしてきたのだから、僕もやめると言ってきました」と柳沢もうわずった声で報告した。
「青木さん、がんばって下さいよ。今度は私らが応援するけんね」
 鈴木ミネが青木の手を握りしめて激励した。組合員たちは一斉に拍手をした。
「こうなったら、青木さんらに組合に入ってもらって、一緒にやりましょう」と水上が呼びかけた。「休む人も多くて困ってるから、埼委労はやめて私らと一緒に働いて下さいよ」
「ありがとうございます。でも警備員はやめませんよ。仕事のことでお手伝いできることは何でもします。こうなったら、どこまでも皆さんと一緒に闘って、闘う者を処分しないような委託労働者の大きな組合をつくっていきたいと思います。よろしくお願いします」 ※この後10月になって青木らは、埼玉学校委託労働者組合(=学委労)を結成する。今後ここでは便宜上、現在の学委労組合員はすべて学委労と表記する。
「交渉の重大局面につき、至急共闘会議を開きたい」という佐々木からの連絡が入ったのは、丁度青木らが全体会議で「処分」報告をし、涙ながらに団結を誓い合っていたところであった。
「いよいよ大詰だ。埼委労の我々に対する処分が明らかとなれば、市長は再度強硬姿勢に転じてくるかも知れない。こうなっては相当の譲歩をしても今夜中に決着をつけるしかないのかも知れない」
 青木は沈痛そうに呟やいた。(埼委労本部は自分たちが弾圧を受けないように東京ワックス闘争に関係ないことを誰に証明するために我々を処分したのだろうか)と深い憤りと疑惑を抱いて、迎えに来た市職組合員の車に乗り込んだ。
「ふむ、いよいよ決断をせねばなりませんね」と、車に乗った猿田彦があごをなでて言った「また一首浮かびましたよ」

決着(ふんぎり)をつける積りの箱車
 戦(いくさ)きりなき霧の夜かな

「おや、今度のは随分わかりやすいですな」と安原がひやかした。
「もうここまで来れば、気どっても仕方ありませんからね。まあ、狂歌としてはひねりが貧しくて余り良いできじゃないんですが」
「いや、当意即妙、あまりひねくり回さず我々の心情が出てて良い句です」と青木が愁眉を開いて言った。
 まさに、この夜は朧月夜に霧が立ち込め、自動車のヘッドライトにぼんやりと川向うの市庁舎が浮かびあがっていた。
「理屈は分りましたが、第三者というのはやはりまずい。法律的には問題ないのだろうが、後で欺した、欺さないということになりますよ。それより、労使以外の他の者≠ニいうことにすれは、労使双方(から委任された者を含む)以外の他の者ということになって、欺したと言われることにはならないでしょう」
 安原や青木は、佐々木らから交渉経過を聞いてこのように指摘した。すでに東京ワックス労組では収拾の具体的方法については共闘会議および委員長一任をとりつけて来ていた。
「私は詳しいことは分りませんが、それで今後とも、市職労や学委労の皆さんに応援してもらえるのなら、私はそれで結構です」と水上も同意した。
「よし、それで決まった。後は、労働協約を雇用以前に結ぶかどうか。雇用契約の形式をどうするかだが」と井上。
「労働協約を雇用契約以前に結ぶという従来の主張では会社は難色を示すでしょう。できれば、契約と協約は同時に、時間的に少々後先になっても基本的には一体のものとして確認されればよいでしょう」
「雇用の形式は会社の言う個別面接は必要ない。すでに誰がどのように働いているかは市当局が知っているのだし、面接した上で、誰を不採用にするという訳じゃないから、形式的な集団面接で良いでしょう。どのみち、一人ひとり氏名や住所、家族構成を明らかにする名簿は提出するのだから。集団面接の上で、契約そのものは井上さんに一括して委任するという進め方でどうでしょうか」
 雇用契約の日時はあくまで確認書を交わした時点でないとだめだ。5月10日からというのは市と会社の契約であって、何日かの空白があって解決したのだから、この空白の期間は絶対に譲れない。この4日間の空白が、後の「4日間の未払い賃金」請求事件の根拠となった。
 交渉は最後の詰めが勘心である。特に「確認書」や「和解文」「空白の4日間」については、後日に紛議をひき起こさぬよう、しかも自分側が有利になるよう一字一句が互いに論議され、つばぜり合いの交渉が行われる。交渉団が腹案をもって再び市長会議室に戻った後、青木らは組合事務所で待機することになった。
「私はこれで帰りますけえ、もし重大なことが起こったら、いつでも連絡して起こして下さい」
 水上が青木や市職の誰彼に会釈して帰って行った。
「水上さんも随分頑張ったからね。疲れてるんだろう。めっきり白髪が増えたんじゃないか」
「こっちは一つ終ってもまた一つ、埼委労との闘いが待ってるよ。こっちは病院のような大衆闘争ではなく、埼委労の夜の帝王¢且閧フしんどい組織戦だからな」
 学委労の若手夜警達は気の重い笑いの中で明日からの「処分撤回」闘争に思いをはせた。夜の帝王≠ニはある県立高校の教員が酒に酔って老警備員にからみ、皮肉まじりにののしった警備員の蔑称であった。
「そう言えば、埼委労の中の者から中山書記長や小林副委員長らがさっき越谷に向かったという連絡があった」
「なにっ、中山は何しに来るんだ」
「埼委労は越谷市職とはけんかしたくない。処分前にKが越谷に来て事情を調べた上で、弾圧を回避するために処分した。今後とも市職と共闘し、東京ワックスへの支援は続けたいということで報告しに行くということを、さっきまで書記局会議で話していたと言うんだ」
「ふざけるんじゃないぞ。闘いの真最中に権力が喜ぶような処分を下しておいて、今さらワックス支援だなぞと、どの面下げて言えるんだ」
「結成大会に委員長が顔を出しただけで、東1以外の役員や本部書記局の誰も何度要請しても一度も顔を出していないじゃないか。中山さんや小林副委員長が今さら越谷に来れた義理か。来たら追い返してやる」
 憤激の声が学委労の面々から次々に飛んだ。「ニードロップでもくらわせてやるか」とレイモンドが、おどけたように空手の必殺術を実演したので、大笑いとなった。
「まあ待ってくれ。KやI書記次長らも一人ではよう来ないから、中山さんや副委員長をかついでカッコ付けに来ようというんだろう。市職としてどう応対するか確かめてみようじやないか」
 青木が怒りまくる夜警たちをなだめた。事情を聞いた市職の渉外役のTが困った様子で提案した。
「埼委労とは今までも共闘関係があるし、皆さんとは埼委労が処分しても共闘会議の大きな柱として今後もこの闘いはやっていかねばならない。埼委労の書記長が見えても、うちの三役は今上で重大な交渉中だから中座させる訳にはいかない。ここは私が埼委労のお話を承った上でお引き取りを願うから、任せておいて貰えないだろうか」
 Tに頭を下げられては仕方ない。市職には市職の立場がある。市職とはワックス闘争を続ける上で共闘関係を保っていかねばならない。埼委労の東1処分の発案者であるKやIに対しては組織内で決着をつければよいことである。ここは一つ我慢しておこうと学委労の面々は憤りを抑えて別室で待機することにした。
 10時近くなって現われた中山らはTに対して「交渉に参加させてもらいたい」と尊大な申入れを行った。Tは「何を言いだすのか」と思ったが、「交渉団は共闘会議の全体会議で十分討議して選出したもので、私だって参加できないのですから」とていねいに断ったという。
「もしご心配なら、どこかこの近くで待機頂ければ解決し次第、ご連絡いたします」
 熊谷から来ている中山はもう帰る術もなく、市内の何処かに空しく宿をとったという。結局、翌朝になって彼らは「最終合意に達して、今文書確認を市長に求めている」という返事をもらってすごすご引き上げた。
 何度かの休憩をはさんで交渉は延々と続き、すでに3回目の午前零時がまわり、三日連続の徹夜交渉が続いた。今や交渉団も会社側も眼が血走り、頭はもうろうとしていたが、「労使間のあらゆる問題については、労使双方が誠意をもって自主的に話し合い、解決するものとし、他の者の介入を許さない」という文言を巡ってしのぎを削る交渉をくり返した。一つの表現が相手から提案されたり、修正されたりする度に、双方が個別に協議した上で交渉が強行されていった。
 いつの間にか夜が白々と明けて、東の空から太陽が昇り、市長応接室の窓から初夏の陽射しが一杯に入ってきた。最終的な文案に合意が達したのは、午前8時半の始業時間を過ぎていた。
 助役が市長に最終確認を求め、OKのサインが出て労使双方と確認者(佐々木浩委員長)、立会人(山崎満州男事務局長、高橋努市会議員)が署名捺印をし、確認書を交換し終ったのは午前10時過ぎであった。
「それでは、今日は両方ともくたびれ切っているから、明日、病院で井上弁護士に立ち会ってもらって、集団面接した上で、集団で雇用契約を結び労働条件について話し合って下さい」
 山崎が、双方の労をねぎらってあいさつし、交渉団はよろけるようにして地下の組合事務所に引き上げて来た。
 万事解決の報せを受けて、東京ワックス労組組合員と共闘会議のメンバーが続々と組合事務所に詰めかけて来た。佐々木と井上が交互に長い交渉経過を改めて報告し、「確認書」のコピーが配られた。
「長い交渉でした。私も労働委員会での仲裁や和解交渉で徹夜は何度もしましたが、三日間ぶっ続けの交渉は初めてです。市職の三役も高橋さんや吉岡さんも皆頑張ってくれました。直営化という要求からすれば、不満な点は一杯あるでしょうが、ともかく市長と日世がぐるになって警察を導入して職場から皆さんを排除して首を切ろうとした。ともかくそれだけは阻止した。これからは皆さんがもっともっと団結して、会社の組合潰しと闘い、市に対して粘り強く直営化を要求して行って下さい。この確認書はそのほんの手がかりです。私たちにはこれが精一杯でした。皆さんがこれからもっと頑張ってこの確認書を上回る成果をあげてもらいたい……」
 井上は感きわまったように絶句した。ワックス労組の組合員で嬉しさの余り泣き出す者もいた。堰を切ったような拍手が組合事務所一杯に沸き起こり、いつまでもいつまでも続いた。
「ほんと疲れちまったよ。身体のあっちこっちがぬきゅぬきゅ、ぬきゅぬきゅして気持ち悪かんべ。ちょっくらサウナでもいって垢を落すべえよ」
「まあ、それくらいならバチも当らねえだろう。丸3日間以上寝てないんだからな」
 佐々木と野田は報告会が済むと連れだって市内のサウナに出かけた。初夏の陽射しの中で陽炎が燃え立つようにアスファルトにたちこめ、旧日光街道沿いの宿場町の低い屋並みが目の前にかすむようであった。

「青木さん、どこもかしこも真黒じゃ。人手は足りんし、どうしようか」
 病院に再結集した組合員の目には、この10日余り掃除が行き届かず、汚れた廊下や病室が飛び込んできた。警察がいつ入るか分らない恐ろしさの中で座り込みや団交に1日中飛び廻りながら、少しでもあいまをぬって必死で掃除してきた積りであった。だが、この10日間、一度も洗いワックスをしていない床は、誰の目にも黒ずんで汚れていた。
「今日から早速やりましょう。幸い、今日は大勢の仲間が来ている。今夜の勤務まで間があるから全員で手伝おうじやないですか」
 藤本が張り切って腕まくりをした。モップやサニーなど初めて手にする若者たちだったが、頭数だけは揃っている。小母さんたちに仕事の要領を教わりながら、下手くそだが、馬力だけはかけて夕方まで働いた。闘争が病院の床に残した傷跡は刻一刻とうす紙を剥ぐようにきれいになっていった。
「私らもやればできるんですね」
 夕方になって、藤本が我ながら感心したように言ったので小母さん達は笑い出してしまった。
「これくらいで何言ってんだね。明日からはもっともっと頑張ってもらうんですからね」 事実、この援掃は6月上旬の完全解決まで1ヵ月近く続くことになった。


第4章 委託の方(はこ)舟

1.排除策動はねのけ、組合管理貫く


 それは奇妙な1日であった。勝ったのか、負けたのか、分らない妙に落ち着かない気持で時間が流れて行った。
「強制排除」されずに「全員雇用」を確保したのは勝利であろうか。小母さん達は率直に喜んでいた。だが考えてみれば、「雇用」は当初から病院当局が約束していたのだ。組合が日世導入を拒否したからこそ、10日からの「自主就労」が始まり、島村市長がこれを「不法就労」ときめつけて勝手に排除しょうとしたのである。
 だが、たった1日が経っただけで、職場の空気は明るいものとなり、組合員は生々と仕事をしていた。
「この状態を続けることだ。ここで会社の言いなりになってしまえば、会社の都合次第で倒産や業者交代、ピンハネなどの不安が再燃してしまう。形の上では日世の従業員であっても事実は逆だ。組合が会社を選んだのであり、雇用させてやるのは組合の側なんだ。会社が考えている業務体制を拒否し、皆が安心して働けるような管理体制を、自分達で作っていかねばならない」
 青木や山本は、この日くり返し「確認書」の意義を組合員たちに説き続けた。「まかり間違っても、一人ひとりが会社に頭を下げて雇って貰うのではない。井上さんを代理人にして、会社側が一括して雇用義務を確認したのだ。雇用契約は形式的なものであってお願いします≠ニ言う必要もない」
 翌15日(木)、各紙埼玉版は「委託紛争」の解決を報じた。渡辺や笠原らは近所の主婦から「解決して良かったね」と祝福された。すでに前の日に組合から連絡を受けた欠勤中の者も、早朝に新聞を見て再び安心して働ける状態がきたことを改めて実感した。新聞報道は「解決」と言いながら、暗に組合の敗北を示唆していた。
 「従業員たちは同市職員組合などの応援で市に直接雇用などを要求していた。……市の態度は変らず、職場を失う恐れが出たため、組合側が引き下がった形となった」(朝日新聞)
 日世は恐らく勝ち誇ったように病院に乗り込み、「雇ってやる」という立場で、一方的な労働条件を提示してくるであろう。そうなっては組合員の相当の部分が再び「雇われ人」の考えに戻ってしまうであろう。この日の「雇用契約」をどのように結ぶか、組合にとっても会社にとっても、今後の労使の力関係を決定する正念場≠ナあった。共闘会議は引き続き、総動員体制を敷いて、日世の来るのを今や遅しと待ち構えていた。
 果せるかな、午前9時頃に病院に現われた日世は「勝者」のおごりそのままに、我が物顔で雇用契約を結ぼうとした。
 午前9時、病院に現われた内海社長はエレベーターの横に貼られていた「解決のお知らせ」というビラを剥がし取った。それも「あいつらこんなもの貼り出しやがって、まだ争議気分でいるのか」とわめくなり、乱暴にセロテープを剥がしたため、漆喰が剥れてしまった。そのビラを厚見管理課長に見せて、一しきり息まいたあと、内海は早乙女や川前らを従えて清掃員控室に乗り込んで来たのである。
 内海らがそこで見たものは、清掃控室を埋めつくした共闘会議の労働者と組合員の姿であった。学委労組合員たちの野次の中で、交渉委員であった市職の佐々木委員長が全員の立ち合いを要求した。
「話が違う。第三者は介入させず、従業員とだけ面接することになっているはずだ」
 内海や早乙女はことの意外な成り行きに顔を真赤にしてがなり立てた。だが共闘会議側は一人一人が越委労からの「交渉委任状」を手に振りかざして、交渉当事者であることを主張した。
「労働組合法の第6条を知らないのか。組合には交渉を委任することができるんだ」
「誰がこの間の清掃業務をやって来たんだ。日世じゃないぞ、組合と支援の俺たちが自主的にやって来たんだ」
「一杯はめられた。これじゃペテンだ。井上弁護士や高橋議員を連れて来い」と、わめき散らすと、内海らは控室を退出して副院長室に逃げ込んだ。
 厚見課長から呼び出された井上弁護士が間に入って協議を重ねた結果、雇用契約は井上が全員の代理人として一括して契約し、その後に労働協約を決めるための団交を共闘会議の立ち合いのもとで行うことになった。だが、井上弁護士が招じ入れられた副院長室は川前の手で内部から鍵を閉められ、井上が監禁された形となった.このため、部屋の外からこれに抗議した共闘会議が契約の場に押しかけ、自ら作った「混乱」を口実に、日世は雇用契約も交さず病院を抜け出し市庁舎の中に逃げ込んだ。
 日世が市長側とどのような協議を行ったか定かではないが、ついに日世は姿を見せなかった。山崎事務局長や厚見課長が市当局や日世と連絡をとりあったが、会社は固くなに共闘会議の介入を拒否して雇用契約そのものを拒否した。
 共闘会議側もあえて交渉を求めず、会社の不当性を宣伝し続け、事実上の自主就労が再び続いた。学委労は勤務明けの若手警備を毎日交代で病院に派遣し「援掃」を続けた。紛争中はあちこち汚れが目立っていた病院の中も、日増しに元の清潔さを取り戻した。
「今月の給料はどこから貰えるんだろう」
「東京ワックスからのお金は貰えるんだろうか」
 会社に雇われていないという不安、使用人感情をぬぐいさることは容易ではない。だがこうした状態の中で、徐々にではあるが職場の自主管理は具体化していった。今まで責任者に任せていた出勤薄、職場ごとの「業務日報」の作成なども、組合員の一人ひとりがやることになった。
 5月22日、久しぶりに東京ワックスとの団体交渉が行われた。会社は古郡公恵社長の謝罪文を示し、全面和解を強く求めた。解決金の総額は700万円。但し、支払いは解決時に200万円、それ以降は毎月100万円の分割支払いを認めた。清掃器材や交換手、守衛の細々とした備品や消耗品、制服など一切が組合に譲渡された。これによって、東京ワックス労働者全員が5月9日付で「円満退社」することになった。
 日世との雇用契約が結ばれていない状態で東京ワックスを退社すれば、名実共にどこの会社にも属さない「不法就労」状態になる。市当局の出方次第では「強制排除」の策動が再燃する恐れがあったが、組合側は日世の雇用責任を明確にし早期契約に持ち込もうとしたのである。
 5月26日、東京ワックス労働組合は臨時大会を開いて、名称を「越谷委託労働者組合(略称・越委労)に変更し、組合員の資格を「越谷地区に勤務もしくは居住する委託労働者」と改めた。この大会では水上美之作委員長を再選し、埼委労を脱退した2人の県立高校警備員を新たな組合員として認め、青木(前埼委労組繊強化部長)を副委員長に選出した。
 果せるかな東京ワックス労組が越委労と名称変更したのを機に、日世と市当局は再び越委労を排除しようとしてきた。病院紛争のその後の状況を民社党の船底議員から質問、されて、島村市長は、次のように答えている。
「東京ワックス従業員が会社を退職し、越委労という横断組合を結成して、どこの会社にも雇用されない形で不法就労≠オていると聞いております。このような状態は速やかに解決されねばならないと考えております」
 市当局の考えていた早期解決は、越委労と日世との雇用契約を促進するものではなく、その逆に再び労働者を職場から排除しょうとするものであった。
 5月31日に病院当局の立ち合いのもとで行われた団体交渉において、内海社長は「越委労というようなどこの誰が従業員か分らないような横断組合の組合員を雇う訳にはいかない」と言いだしたのである。さらに驚くべきことに、市当局まで「日世の企業内組合を希望する」と言いだした。自治体当局が委託会社の労使間題、組合の団結権そのものに支配的介入をするというおよそ考えられない不当労働行為であった。「横断組合だから雇う必要はない」という思いつきが、島村市長そのものから出て来たのは明らかであった。
 越委労はこれに対して「会社はなくても仕事が出来る」と宣言し、労金から借りた200万円で用意していた5月分の給料を会社・当局の眼前でこれ見よがしに全員に配った。
 三日後に会社側は「埼玉県地方労働委員会に相談した結果、このケースで越委労を認めなければならないとは即断できないと言われた」と称し、団体交渉そのものを拒否して来た。
 労働委員会に組合が問い合わせた結果、会社側の相談では雇用を前提にした業務契約の経過や内容をまったく会社側が話していなかったこと。雇用前に労働条件に関する団交に応じる必要があるかどうかの問い合わせに対しての返答であることが分った。組合側の説明で事情の分った担当者は「雇用義務があるなら、企業内組合であろうと横断的組合であろうと会社は団体交渉に応じねばならない」と、組合の正当性を確認した。
 組合では直ちに、日世従業員であることの確認と就労権を求めるため東京地裁に地位保全の仮処分$\請を行った。再び強制排除の構えに入った市当局の論拠を打ち破り、就労権を合法的に確立するためであった。
 組合を代表して申請に行った水上委員長や馬場、大和らの誰もが初めて裁判所の門をくぐったのである。地裁民事部のある高等裁判所の古めかしい建物を見て、水上らは「身がすくんでしまう」「これじゃ普通の人間は裁判と言うだけでひるんでしまうね」と、口々に権威の象徴の印象を語った。
 この訴訟は、翌日の日刊各紙に大きく取り上げられた。朝日新聞は「市議会で『不法状態を速やかにただす』など、自主就労≠フ同労組員を排除する同市の姿勢が表面に出てきたため、地位保全の仮処分を申請した」と、訴訟の背景を明確に報道した。読売新聞でも「3日開かれた同市議会病院特別委員会で、市側が労組員を強制排除する可能性を示唆した」と、島村市長の解雇策動を指摘し、市当局は社会的にその不当性を明るみにさらけ出されて窮地に立った。
 この日、東京ワックスが5月9日の団交の席に持参して全員が受け取りを拒否したため、法務局越谷分局に供託されていた「解雇予告手当」を東京ワックスが取り下げ、一人ひとりに支払われた。
「この前、給料を貰ったばかりなのに、また1ヵ月分貰えるのかね」
「東京ワックスから臨時ボーナスを貰ったようなもんよ。今までまともにボーナスなんか貰ったことがないから良いんじゃないの」
 小母さん達は率直に喜んだ。5月10日から13日までの4日分については、日世との「雇用確認」以前のため組合からも立て替え払いしていない。紛争中は深夜の帰宅のためのタクシー代や食事の準備ができなかったりで出費が重った。日頃からつましい生活をしている者にとって、生活的にも苦しい日々が続いていたからである。
 委託制度の下では、業者が年々変っても、従業員は何の補償もなく解雇される。良くても職場が確保されるだけで、解雇手当も退職金も支払われることはない。新しい会社は新規雇用とみなして、勤続給も昇給もないのが普通である。委託業界において「解雇予告手当」が支給されるのは画期的なことである。このため会社側の出費は200万ほどになる。ダンピング、低賃金の慰謝料700万円と合わせて1千万の出血を東京ワックスは強いられた。定期的な業者交代の度に、解雇予告手当や退職金などを労働者が勝ちとっていけば、不当な競争入札によるダンピングの防止にもつながるであろう。

 さらに同じ日の夕刻、全員に対して日世から「雇用契約通知」と称する内容証明と、「労働条件」を明示した速達が送られて来た。「雇用確認書」の破棄の不当性を報道されたため窮地に立った会社側が形式的にではあれ、「雇用意志」を表現しなければならなくなったのである。だがその内容は、一人ひとりを本社に呼びつけ、一方的な労働条件の下に雇用契約しようとするものであった。
 「正当な理由なく来社されない時は雇用契約締結の意志なきものと判断し通告人がそれなりの手続きを取らせて頂きます」
 この威高丈な文面を見て、組合員の怒りは一層高まった。これでは「雇用契約と同時に労働協約を交わす」という解決時点での約束にも違反する。組合では山崎局長や厚見課長と交渉して、「井上弁護士に委任して一括して雇用契約を結んだ後、引続いて労働協約の交渉を行う」というところまで譲歩して、病院当局と雇用手続きの合意をみた。この席上、厚見課長から「31日の話合いで、横断組合とは交渉しないと日世が拒否し、病院当局もこれを肯定するような発言をしたのは間違いであった」という謝罪があった。島村市長の言う「不法状態」の原因となった「越委労とは交渉義務がない」という会社・病院当局の論拠は、完全に崩壊した。もはや、日世には全員雇用を拒否する何らの理由も残されていなかったのである。

 6月9日、事前の確認に基づいて集団的面接と一括雇用契約が事務的に行われた。井上弁護士が組合員全員の委任状を示し、公正証書を巻いて雇用契約にサインした。労働条件については「別に定める労使合意による労働協約に基づいて」という一札に従って、契約後直ちに団体交渉が行われた。
 この団体交渉において、共闘会議は労使間の力関係、双方の立場を明らかにするため、この間の紛争について次のような総括を明らかにした。
「委託契約とは、本来委託者である自治体が為すべき業務を受託業者に肩代りさせようとするものである。もともと.自治体業務自体が公益的労務提供業である以上、生産・流通業と異なりそれ自体の生産的利潤はなく、下請け化された業務は自治体職員より安価な労働力によっておきかえられる。委託業務が本質的に労務供給事業(人入れ稼業)にすぎないのである。
 電気技術者や電話交換手等の専門的技術といえど、その技術自体の価値やノウハウを会社が保持しているものではなく、労働者自身が修得した技術であり、会社は単に技術者≠派遣しているだけである。事実、電話交換業務においても、業務遂行に必要な機材はすべて自治体側が負担しており、会社も従業員も設備そのものには一指も触れることができないのである」
 聞いていた内海のこめかみがぴくぴく動き、早乙女は何か言いたそうに口をもごもごと動かした。山崎と厚見は渋い表情である。「そうだ、そうだ」「一銭だって会社にやる金はないぞ」と野次が飛ぶ。安原は会社に対してだけでなく、組合員にも委託制度がなぜ間違っているのか、なぜ会社に頭を下げる必要がないのか分りやすいようにゆっくりと話を続けた。
「先はど社長が今日からうちの従業員などと言ったが、とんでもない間違いだ。今日から日世を名義上の雇用主にしてあげるんだ。
 雇用の内味である委託事業の経済的実体は、労働者自体にあるからだ。日世が市と契約できたのもそうだ。労組結成によって東京ワックスが契約を解除して逃げだした。直営化を恐れた市当局が『どこでもいいから』と、県内外の業者に声をかけたが、ピンハネ余地のないことを知ったすべての業者は指名願いに応じなかった。組合と敵対してでも、労務提供を約束した日世が自動的に指名されただけだ。日世には年間7千万円の業務委託を円滑に行うだけの、社内体制も人員も就業規則もないことがはっきりしている。
 要は我々の闘いが不十分であり、契約の強行を阻止できなかったため日世が業務委託を受注したのであり、日世の正当な企業努力によるものではない。今まで人並み以下の賃金しか払えず、業者に二重契約や法違反せざるを得ないようなベラボウな委託料を押しつけ、労働者の必死の訴えをバカ野郎呼ばわりして、自分の独断を権力づくで押し通そうとした市長のおかげで、日世に落札されたものにすぎない。だからこそ、私たちが日世の下での雇用を拒否し自主的に就労してきても、委託業務には何の支障もきたさなかったのである。
 我々は現時点で力関係の結果、百歩ゆずって日世の委託契約を認めた。だがそれは決して日世の雇用権、事業権を無条件に認めた訳ではない。この1ヵ月余の経過から明らかなように、労働者の、労働組合の協力ぬきに会社は業務契約を完遂することはできない。それは我々労働者自体の労務提供によってしか委託事業は遂行されないからである。
 委託事業者はすべて、この本質的な構造をわきまえ、労務提供者に対して謙虚であらねばならない。その立場は五分と五分である。形だけの謝罪や、見せかけの待遇改善では労働者を欺すことはできない。この5年余の辛酸と血の出るような闘いによって勝ちえた委託料は、組合の同意ぬきにビタ1文も使う資格も権利も日世にはないのである。業務運営や管理体制についても同じ、業務の主体が労務者本人にあることを名実共に肝に銘じてもらいたい。このことを日世や市当局が正しく認識できるかどうかに、この1年の委託業務の首尾がかかっていることを、今一度しっかりと腹に入れておいてもらいたい」
 この総括は日世や市当局に対してだけ述べられたものではない。この2ヵ月あれ程の心苦を委託業者から味わわされながら、長年の習慣でつい会社の経営者に対して「お願いします」と頭を下げかねない小母さん達に、自分の立場をはっきり知って貰うためにも述べられたものである。
 この1ヵ月間の姑息な組合敵視の目論見を完全に打ちくだかれた内海社長は、「どうも申し訳ありませんでした。これから組合と話し合って仲良くやっていきたいので、よろしくお願いします」と、潔く頭を下げ、この間の不当労働行為について謝罪文を書いた。内海は立場が違えば大いに争いもするが、自己の誤りに気づけば潔く訂正する率直さも持っている。
「市長に言われて皆を追い出そうと努力したが、追い出せなかった以上、皆と仲良くやっていくしかない」というのが、当時の内海の心情であったという。
 内海が率直に謝罪したため、労働条件の交渉はスムーズに運んだ。そして年間ベース約7千万円、5月10日以降の委託料約6千万円の内訳は、労使間で細かく協議のうえ決定されたのである。
 大まかな労働条件としては、基本給は一律10万円の月給制にする。職務手当は平均1万円とし、勤続1年につき千円の較差をつける。電話交換手には1万8千円の技能手当、守衛には超勤代相当額の宿直手当を支給する。有給休岐は法定通りとし、過去2ヵ年分を本年度に消化する。
 労働時間についても大幅に改善された。完全週休制(当時は月3日)とし、土曜は昼までとする。日曜・祭日の出勤については、法定割増分を支払い振替休日をとる。勤務時間は午前8時から午後4時半、午前10時と午後3時の休憩はいずれも30分(当時15分)とする。日曜については午後2時半終業とする。電話交換手については、この週41時間制に基づいて、午前8時半から午後6時まで、2名交代制とする。土曜・日曜については従来通り、土曜午前2名、土曜午後と日曜は1名で行う。守衛についても従来の変則勤務を大幅に改善して、連続勤務の解消を行うことが約束された。
 このため、人員についても大幅に補充された。当初の清掃業務では定期清掃(洗いワックス)を除いて定員18名と確認された。その後の第2回団交では、すべての業務を病院従業員が行うこととし、定期清掃要員と年給消化要員等を補充して21名定員制が確立した。電話交換手についても1名補充して5名体制、守衛についても2名補充して9名体制が協約化された。
「これでやっと人並みの暮しができる」
「今までは幾ら身体が辛くとも休めないので無理をしてきたが、これからは少しは骨休めできるかしら」
 小母さん達は率直に喜んだ。今までは月に3日しか休まずに働いても手取り7万円にしかならなかった。それが、完全な週休制になり労働時間も短縮されて賃金は3〜4万円の大幅アップになったのである。もっとも、今までは年収70万円以下ということで扶養控除の対象にならなかったのが、独立生計者して社会保険も完全加入となった。大幅な控除が行われて手取りは9万円そこそこにしかならず、実質的には2万円前後の賃上げにしかならなかった。しかし、年間償与は数倍(年間2ヵ月分)になり、年末年始の特別手当や生理休暇なども取れるようになり、委託労働者としては破格≠フ労働条件を獲得したのである。
 これと共に職場の自主管理体制は今まで通り維持されることになった。現場責任者がいない分だけ、1人ひとりの責任と自覚が求められるようになり、協調と分担を強化せねばならなかった。
「この間の紛争で、苦労してつくり上げてきた職場の自主管理を、もっと徹底化させ、会社そのものの組合管理を進めて、委託制度を骨抜きにしよう」
 越委労と共闘会議は、この間の争議で勝ちとって来た成果≠フ内味をこのように総括し、早くも次の目標に向かって動き始めたのである。
 組合結成から「5・14和解」に至る40日の戦いは、無我夢中の行動の日々であった。これに対し14日から6月9日までの1ヵ月足らずは厳しい心理戦であり、生活と仕事の場での塹壕戦であった。この自主管理≠めぐる心理戦に勝ちぬいたことによって、越委労は単なる「賃上げと雇用」を頭を下げて願い続ける受身の労働組合ではなく、すべての委託労働者の解放の一里塚となる積極的な地平を獲得することが出来たのである。
 組合として今一つの大きな成果は会社側が計画していた管理体制を打破して、事実上の組合管理体制に一歩を進めたことである。会社が指名した現場の総括責任者を拒否して、「市の交渉役としての現場代理人は認めるが、総括責任者は置かず、部門別責任者を各現場の中から選出する」という協約を勝ちとった。
 委託会社においては通例、会社を代表する現場代理人を委託者に対する契約上の業務責任者として置き、日常業務はすべて現場責任者に任せる。このため、後に問題となった(株)ビルメンの現場代理人Tのように、事実上は社内請負いのような形で独立的な経営権をふるったり、市庁舎の現場責任者Mのように個人的に事業所を思うままに左右する人間が生まれてくる。日世の場合のように、本社スタッフを現場責任者とする場合は、管理体制の強化が予想される。
 いずれにせよ、会社側の意を体現した現場責任者、とくに川前のような下に対して傲慢なイエスマンを認めれば、職場の自主管理は損なわれ、労使関係はぎくしやくする。組合は現場責任者の設置には実力で反対すると宣言して、会社もついにこれを諦めた。

2.運動の拡大と深まる矛盾

 日世との雇用契約が結ばれ、労働協約が締結された翌日、戸田みやが入組した。戸田は以前に病院で働いていたことがあり、紛争中は笠原らが何度となく手伝ってくれるよう頼んでいた。だが、警察官の息子から反対され、「会社がないから給料は貰えない」と思い込んで、二の足を踏んでいたのである。
「解決したから樺沢さんから来るように言われたので」と、戸田は突然出勤してきた事情を語ったが、樺沢は組合を除名されて病院には来れないこと、人員の補充は組合推せん者でなければならないことを聞かされて面喰ったようである。
「これからはどんなことがあっても勝手に休んだり、組合の足を引っ張るようなことはしない」と、戸田は皆に訴えた。もともとは同じひどい条件で働いていた仲間である。皆は快く戸田を職場に迎え入れた。
 そのほかにも、争議中から個人的に組合員に就職希望を表明していた松島ミエ子や草加の鉄工所で足踏みプレス工をしていた大塚与五太らの新しい仲間の参加があった。いずれも全員の面接で、職場や組合のことを詳しく話した上で会社に推せんして採用を認めさせた。この人事権の把握は自主管理の大きな柱となった。
 このように職場の自主管理が軌道に乗り始めたのと呼応するように、病院紛争の余波は思わぬ所へも広がっていった。
「ビルメンの人が組合に入りたいと言ってきてるんですが」と、大野キヨが6月末に報告して来た。越谷市の施設管理業務はもともと浦和市にある(株)ビルメンテナンス(柏崎福治代表)が一手に引き受けていたものだ。市立病院開設にあたって、当初見積り5,000万円で入札したビルメン等に対し、埼玉県下でダンピング業者として悪名高かった東京ワックスや旭ビル管理などが4,300万円で入札し、東京ワックスに取られてしまった。だが、越谷市庁舎、社会福祉会館、東部清掃工場などはビルメンが長年にわたって独占的に受託してきた。大野や栗原はもともとビルメンの従業員であり、昔の仲間に病院紛争の話をしてきたのである。
 大野の紹介で6月28日に越委労は初めて東部清掃工場を訪れた。この工場は島村越谷市長が管理者となって草加市、八潮市、三郷市、松伏町、吉川町の6市町が共同運営するゴミ焼却とし尿処理の工場である。従業員の大半が越谷市職員で、各市町が運営費を分担するものの越谷市の財政負担は大きく、人事権は事実上島村管理者にあった。このため、78年に島村市長は清掃工場職員の身分を「組合職員」に一方的に移籍しょうとした。このため、清掃労働者は大衆団交や構内デモによって決起し、「組合採用→委託化」を阻止したことがある。
 だが、この東部清掃組合には設立当初から4名の委託労働者がいた。工場の玄関ともいえるし尿・ゴミの計量所に各1名の男子。場内施設の清掃に2名の女子労働者がおり、長年の間低賃金で働き続けて来たのである。
「もともと計量の仕事は市の職員がやっていたのだが、一人で長時間にわたって計量所で缶詰めになって1日何百台もの車の計量・確認をやらなければならず、ノイロ−ゼになってしまった。このため単純労働≠ニいうことで委託に出されてしまったのです」
 清掃従業員控室で当時ゴミの計量を担当していた折原は驚くべき委託差別≠フ実情を明らかにした。
 清掃員の労働条件も著しく悪いものであった。病院の清掃員を下回る2,500円の賃金でこの春まで働かされていた。本庁舎では毎日2時間の残業が強制されるなど、労基法違反の行為が数々あった。
 栗原、大野と共に4名の労働者と懇談した共闘会議の労働者は、ある意味では市立病院を下回る委託差別の数々にびっくりしたのである。病院紛争の勃発によって、この春から賃金こそ男子3,800円、女子3,000円〜2,700円に引き上げられたものの、様々な法違反はまったく改善されていなかった。
 このため、病院での闘いとその成果を聞いた4名の労働者は、その場で組合加入を表明して、越委労東部清掃工場分会(分会長・田島辺之助)が結成された。
 越委労では、直ちに(株)ビルメンテナンスに団体交渉を申入れた。病院紛争の経過を詳しく知っていた柏崎社長は、不自由な足をひきずって再三にわたって団体交渉に応じて「4名で月40万円の委託料の大半はこの春からすでに吐き出しており、組合の協力によって委託料が引き上がらねば労働条件の改善は難しい」とざっくばらんな労使協調≠申入れてきた。
 共闘会議では、病院並みの労働条件の改善と過去の最賃法違反、労基法違反などに伴う逸失利益の補償を会社の責任で即時に行うことを強く要求した。
 結局、4名の組合員については7日から日給を一律4,000円とする。土曜半休、人員1名増、有給休暇などの条件を獲得した。本庁舎などの18名の非組合員については、これに準じて11月の労働協約締決後に改善されることになった。「過去の逸失利益については、合計82万円が会社の支払い限度であることを組合は認め(要求250万円)、その他のものについては市が会社に契約変更をして是正すべきものと考える」ことで合意した。
 この労働条件の改善については、会社が要した費用は合計で800万円にものぼり、年度末の補正予算で相当の部分が補てんされた。病院当局と同じように「財政合理化」の名のもとで委託料の引き下げが行われた結果、委託会社が様々な法違反を犯さざるを得なかったことが、ここでも判明したのである。このような違法な委託契約を平然として業者に押しつけてきた越谷市長を初め、自治体の財政担当者の「委託差別」の責任は重大なものである。
 東部清掃工場の組合作りがスムースに運んだのに対して、本庁舎・福祉会館の組織化は難行した。東部清掃分会員や越委労組合員が何度も足を運んだが、平均年齢で病院よりさらに年配者の多い職場では、組合結成の話になるといつまでもお互いの顔を見合わせるだけであった。
 当初においては、現場責任者のMが陰に陽に組合づくりを妨害した。現場代理人の高橋は老かいな管理者であり、義理人情を巧みについて「組合に入らなくても給料は上げる」と、小母さん達をつなぎとめた。もち論、何人かの小母さん達は、栗原や森田の話に心を動かせたが、何人かの男子従業員が固くなに組合加入に反対した。
「こんな年寄りが組合に入って赤旗ふるなんてみっともない」というのが、この老人達の口癖であった。病院の清掃員以上に、本庁の小母さん達は「男への従属」感が強かった。さらに、従業員の大半が市の福祉事務所の紹介でビルメンに入っており、「市のお世話になっている」という意識が強かった。
 本庁の人々がためらっているうちに、東部清掃分会と会社の交渉がまとまり、11月から労働者の待遇が大幅に改善された。「組合に入らなくても給料が上がる」という成果≠眼の当りにして、本庁の労働者は組合を避けるようになってビルメン全体の組織化は頓座してしまった。
 だが、81年、82年の労働条件の改訂に伴って病院や東部清掃分会との間にあった格差は、再び目立つようになって来た。会社側の細かな誤魔化しが増えて来たからである。特に本庁では、午後5時以降に事務室内の清掃をする関係もあって、毎日2時間の残業がほぼ義務化されている。この長時間労働の改善や社会保険の整備などは、労働組合によって団結しない限り改善されない。島村市長の下請け合理化が年々厳しさを増している以上、「組合に入らなくても同じ」という甘い状況ではなくなりつつある。現に、本庁ではこの2年間で10名の人員が6名に削減されてしまった。
 7月5日、越委労は「闘争報告集会」と題して、病院内で大々的な勝利パーティを開いた。この間、様々な支援を寄せてくれた越谷市職の組合員、水道臨職の検針係の小母さん達、看護婦を初め越谷地区労、越谷自動車教習所の争議団など地区の仲間も数多く参加してくれた。この日、結成されたばかりの東部清掃工場分会の紹介が行われ、ビルメンの中で頑張って来た森田が全員の割れるような拍手を浴びた。
 病院闘争は表面的には「勝利」し、組織拡大も果しつつあった。連帯の輪も広がり、埼玉県下各自治体労働者からの激励や関心も高まって来ていた。
 だが、この頃から内部的には様々な矛盾が目立ち始めた。最初の不協和音は、男女同一賃金に対する不満であった。東京ワックスではどこの委託会社でもそうだが、男子や女子の中でも清掃経験者は一般の清掃員より賃金が僅かだが多かった。現場責任者や補佐は最下級の職制としての手当も与えられていた。
 闘いの中では男女の肉体的差別や経験年数の有無は問題にならない。権力に対して必死で闘う者、会社にこびず仲間を裏切らない者に男女や経験の有無は関係ない。越委労では全体の大幅な条件改善の中で、一挙に男女同一賃金を実施した。だが、闘争の終結によって日常性が回復した時、長年の間につちかわれてきた農村型の男尊女卑意識が再び頭をもたげてくる。
「男たちが仕事が終った後ビールを飲みながら給料の不満を言っている」という訴えが、清掃員たちから出て来た。確かに、同一労働と言っても、高い所に上がって螢光燈をみがいたり、ポリシャーを操作するのはどうしても男達や若い小母さん達に頼ることが多い。少なからぬ力仕事も男たちが率先して引き受けていた。だがそれは闘いの中でも力ある者が闘いの矢面に立つようなもので、仲間からの尊敬や信頼の対象になっても、「金で差をつける」ことは許されない。
「女たちがどんな苦労しているのか分っているのか」
「男たちだけで仕事が出来るものならやって見ろ」
 激しい反発が女達から起こり、男達も「力ある者も弱い者も一致して協力するために」男女同一賃金の原則を再確認した。
 だがその一方で、何年も苦労して昔から働いてきた者と比較的最近入った者や闘争後に新たに入ってきた者の賃金が同じではおかしい、という意見が出てきた。病院開設以来働いてきた者には女性が多い。彼女達の提案は男女の別なくベテラン達の支持を集め、「勤続1年について千円の格差」を職務手当につけることになった。在籍4年以上の者は1万2千円、新たに入った者は8千円というわけである。共闘会議では異論も出たが、市職労などは現実に年功序列制であり、良く働いてきた者ほど劣悪な労働条件で頑張ってきた人達である。「少しくらい慰労的な差があっても良いのではないか」と、共闘会議では同意した。だが、電話交換手達は「共に闘ってきた仲間のうちで差はつけらない」として、開設以来の三人と前年10月に入ったばかりの大和の給料に一切差をつけなかった。電話交換手では以来、増員や退職に伴う新規補充者も、一貫して同一賃金を守りぬいている。
「勤務手当の格差」を認めたもう一つの理由は、「ワックス解決金」の分配を巡って意見の調整がつかなかったからでもある。総計700万円の解決金のうち、200万円については将来の闘争準備金として積み立て、500万円を個人の労働債権および慰謝料として分配することになった。だが、この配分をめぐって最初からいる者と、ここ1、2年以内に入った者との間に利害の違いが生じた。
 過去の「逸失利益」という点から見れば、長年いた者の債権額を多く考えても不自然ではない。だが組合づくりの最初は過去の債権を得るために結成されたものではない。過去の法違反や市の元請け責任を明確化するために東京ワックスに対する慰謝料請求を行ったのである。そして、数回の深夜団交も含めて東京ワックスに対しては、全員が一致して闘ったからこそ当初の30万円が700万円になったのである。在籍年数の多い少ないは問題にはなり得ない。
「でもストや自主就労の一番つらい時に出て来なかった人はどうするの。組合を脱退した樺沢に権利がないのと同じように、解決してから出てきた者には貰う資格がないんじゃないの」という意見が出てきた。これは難しい問題であった。確かに樺沢の面接によってここ1、2年のうちに入って来た清掃員の大半が5月10日以降何日か休んだのは事実である。だが、それまでは病夫の看病などやむを得ない理由がある者を除いて、全員があらゆる行動に参加してきた。わずか数日のやむを得ない心の動揺を誰が責めることが出来るだろうか。警察導入の危機はあったものの5月14日以降も事実上の自主就労、市長の言う「雇用なき不法就労」は続いていたのであり、「借金してまで給料を貰うのは申し訳ない」と、鈴木ミネが嘆いたような不安な状態の中でも誰一人組合をやめる者がいなかったのである。
 だが、この論争は金銭問題は苦手という共闘会議側の体質もあって、徹底的に切開し切れず、「ワックスの金が全部入ってから改めて考える」という中途半端な形で棚上げして後にしこりを残した。11月末にワックスから最後の分割金が入金した時に、何の全体的な討議もなく、会計担当者が「当時の在籍者全員で平等に」分配してしまったのである。
 次に大きな問題になったのは、「現場責任者」の権限を巡って起こった。闘争中の自主管理体制をさらに強化するために、「現場責任者は置かず、全員が自分の持場の責任者としての自覚を持つ」ことが確認された。だが、「形式だけでも現場責任者を置いてくれ」という病院当局と会社の強い要望で、委員長の水上が兼任することになった。このため、ややもすれは職場の日常的な段取りや調整を責任者に依存してしまうという風潮が出てきた。こうなれば、「責任者」の業務上の権限や負担が大きくなってくる。それによって「責任者手当」の問題が出てきた。樺沢やビルメンのMのような「責任者は要らない」、「全員で仕事を分担しよう」という意見が出されて、各病棟ごとに代表を出して「業務連絡会議」を開いて全体的な調整を行うことになった。
 現在では、現場責任者は毎年交代し、組合役員との分離が原則化している。留任は避けて交代で皆が「責任者」になろうというわけである。
 このような全体的な職場管理を巡る問題のほかに、様々な個人的な問題も出された。「陰口が多い」「病院の職員や患者に対して仕事中の私語が多すぎる」「患者や子供に対する応対が乱暴で組合のイメージを悪くしている」「入院患者から貰った物を自分たち(のグループ)だけで分けている」等々。中には、組合内部の分断を図るためか、管理当局から公然と名指しで仕事振りや言動に対して注意が与えられる者もあり、清掃控室の中は重苦しい空気が漂った。
 個人的な言動を全体の中で取り上げるのは勇気のいることである。「批判⇔自己批判」の習慣のある若い労働者の集まりではない。長年にわたって上から管理され、不満の持っていきようもないため、従業員同士の間でも職場や相性によって幾つかのグループが生まれ、グループ化していないため全員から攻撃を受けやすい者もいた。「正当な注意や批判」がややもすれば感情的になり、それが新たな対立をかき立てることもあった。
 個人的言動に対する管理課の陰然たる介入に対しては、組合はキッパリと抗議した。例えば、高齢の男子清掃員がレントゲン室の廊下を掃除していて、女性の患者からのぞきという誤解を招いたことがある。腰の曲った実直なSさんが「のぞき」などする訳はない。レントゲン技師や医師が内窓を通りかかっても気にしない女性が、「清掃員にのぞかれている」と病院当局に通報したのである。ここには明確に医師以外の委託労働者、清掃員に対する「差別の眼」がある。組合ではこれに抗議して、当局の差別感そのものを謝罪させた。
 確かに、闘争解決後、委託労働者に対する見方は微妙に変ってきた。当初は、「低賃金で可哀そうに」という優越感と憐憫の入り混った表情で同情していた患者や一部の職員の中から、「高い給料貰って」という中傷の声が出てきたのだ。それが、個人的な仕事ぶりに対する批難とあいまって、組合員の耳にも届くようになってきた。
 越委労では、これらの一連の問題のすべてを大衆討議にかけた。今日批判した者が明日は批判された。時には罵声や憤りの嘆き声が飛び交うこともあった。7月、8月の暑い季節に、じっとりと汗ばむ地底の控室の中で連日くり返された討議は重苦しいものであった。新しく入ってきた者の中にはいたたまれずに眼をそむける者もいた。だが、それでも越委労はこの苦しみに耐え、一人ひとりがお互いを認め合うまで討議を重ねた。
「ここでくじけたら、何のためにあの闘争をやって来たのか分らなくなる。これでは自分本位の我利我利亡者と同じで、自分が闘ったことの意味も一生分らぬまま、わずかばかりの成果をご生大事に抱えこむ惨めな人生に終ってしまう」
 青木や水上らはこのように互いに励まし合った。聞きたくない話を根気よくほじくり返して、全員の気持がそれなりにようやくまとまりかけた時には、外はもう秋風が吹き始めていた。

3.寒風来たる

東部清掃第二工場下請け化

 越委労の暑い夏はようやく終り、涼しい風が吹き出す頃には、組合員の顔にも再び生気が戻ってきた。東部清掃工場分会の対ビルメン交渉も10月の終りにはほぼ全面的な合意に達し、市立病院並みの労働条件を確保することが出来た。
 この頃、草加市と八潮市との境に建設中だった東部清掃第二工場の運営を、下請け業者に委託するという話が伝わってきた。
 越谷、草加、三郷、八潮の4市と松伏、吉川の2町の首長が理事となって運営されている東部清掃一部事務組合(管理者・島村越谷市長)では、し尿処理が限界に達し草加市に第二工場を建設していた。第一工場は4市2町が費用を人口割で分担し、越谷市の職員を派遣して運営されていた。第二工場においても、78年3月に越谷市職と島村管理者との間で交わされた確認書では、八潮市が職員を採用して派遣することになっていた。このため、2市では職員採用の一次試験まで行っていたのである。
 ところが80年9月24日の理事会で、島村管理者が「第二工場を下請け業者に委託する」ことを突然提案し、強引に採択させてしまった。この提案は、東部清掃従業員はおろか、中島助役や管理職にも事前に知らされておらず、越谷市職では直ちに下請け化反対闘争を本格的に開始することになった。
 越委労でもこの島村管理者の暴挙が問題になった。「このような自治体固有の業務まで下請け化されれば、委託労働者の直営化など夢のまた夢となってしまう」と、越委労では判断し、「第二工場下請け化絶対反対」を決議した。とりわけ越委労が問題にしたのは、島村管理者の一時の方便でか「2年間だけ委託化してその後に直営化する」というその場しのぎの発言であった。2年後に直営化された時、それまで働いていた委託労働者が市の職員として採用される可能性がなく、路頭に放り出されてしまうのは必至である。このように、下請け労働者を人として見ないという差別観は、越委労が結成された時、市役所でビラまきをした労働者に、頭ごなしに「バカヤロー」呼ばわりした姿勢と共通するものであった。
「私たちは、島村市長をはじめ埼玉県東部4市2町が未だに安易な下請け政策=委託差別を続けていることに抗議し、新たな委託合理化を直ちに白紙撤回することを要求し、ストライキを12月22日に行うことを決定した」(越委労ストライキ報告書)越委労では、東部清掃分会(田島辺之助分会長)はもとより、市立病院分会の労働者も加わって、連日の職場討議や抗議集会にも参加してきた。12月22日のストライキは当初、東部清掃の公休出勤拒否闘争に呼応し、当時市職が進めていた年末の物ダメ闘争を、計量ストによって支援せんとしたものであった。公休出勤拒否によりついに貯蔵槽のシャッターが壊れ、ピットの外にゴミの山があふれ出した。連日のマスコミ報道で管理能力のなさを問われた越谷以外の3市2町の首長は和解の方向に動き、島村市長は孤立した。12月22日の公休出勤拒否を口火にして、年末年始にゴミの山が自分の町にあふれ出ることを恐れた三郷市長や草加市長は、何とか事態の収拾をはかると約束した。この動きを評価した越谷市職は22日の闘争を中止した。
 だが、島村市長の委託差別を知りぬいていた越委労は、単独でストライキを決行した。午前8時半から1時間半にわたって越委労は、学委労や水道臨職(検針・集金の個人委託)など越谷のすべての委託労働者と共に敢然として、し尿・ゴミの計量・搬入業務を拒否して「委託労働者による委託合理化粉砕」のストライキを、おそらく全国で初めて打ち抜いたのである。これは市職=自治労さえ抑えこめば下請け合理化は意のままだと考えていた自治体管理者にとっては、大きな誤算であったことと思われる。
 だが、島村市長は実父の平市郎元市長が東部清掃の公害問題で市職・議会から追及されて辞任した私怨を晴らすべく、3市2町の反対を押し切って、正月明けそうそうの理事会で強引に下請け化を決定したのである。

市職つぶしの大弾圧

 東部清掃第二工場の下請け化強行決定に反撃すべく、越谷市職が年始明けの闘争準備を進めていた81年1月18日、島村市長の命を受けた埼玉県警は大弾圧を開始する。
 1月18日未明、佐々木委員長以下9名の市職役員が、深堀秘書課長に対する「暴力行為・傷害容疑、公務執行妨害容疑」で不当にも逮捕され、厳冬の中で24日間もの間拘留されたのである。
 この「深堀秘書課長暴行事件」は、巻末資料で明らかなようにまったくのデッチ上げである。80年秋期賃上げ闘争ストライキの前日、職員課長の結婚式に出席して酒をたらふく飲んで市役所に帰った深堀秘書課長が、酔にまかせて市役所に貼られていた市職のビラを剥がしたのが「事件」の発端である。
 この現場を見つけた市職役員が抗議したが、深堀は、抗議した市職役員の声もきかずビラをはがし続けた。この正当な抗議活動を「暴行事件」にデッチ上げるべく、市長の指示(?)で市立病院に向かった深堀秘書課長は、通常の担当医の珍断にあきたらず、別の医師の珍断を受け、「2ヵ月の重傷」をデッチ上げたのである。
 だが、この翌々日、東部清掃工場の下請け化に反対して市役所を訪れた越委労組合員は、ピンピンしていつもの通り罵声を浴びせてきた深堀秘書課長と口論したのである。この日、深堀はいつもの通り車で出勤し、越委労の前に包帯一つせずに現われた。2、3日前に深堀とささいなトラブルがあったと市職から聞いてはいたが、「2ヵ月の重傷」はおろか、かすり傷一つしていない、いつも通りの「元気なワンパク坊や」の姿そのものであった。深堀や県警察本部がいかに「暴行事件」をデッチ上げようと、深堀秘書課長の「無傷な姿」を越委労組合員が何人も目撃している事実を覆す訳にはいかない。越委労組合員が確信をもって、「事件はデッチ上げだ」と公言する所以である。

女子職員首絞め事件

 越谷市職に対する大弾圧に対し、越委労も全力をあげてこれを支援した。逮捕された市職役員の老母の一人が越委労の清掃員であったこともあり、また「深堀暴行」がデッチ上げであることを何人もの組合員が目撃しているだけに必死であった。
 3月23日、「公害に反対する市民の会」や「不当弾圧被害家族会」の有志らと越委労は、独自に「第二工場下請け化」に執ように反対して市庁舎前で集会を開き、市長への抗議文を手渡そうと市長室へ向かった。
 市長が不在ということで、秘書課員に抗議文を渡そうとしていたところへ市長が庁内から戻ってきて、市長室に入ってしまった。このため、抗議団は口々に市長に面会を求めたのである。
「事件」はその時起こった。
「うるさい、お前らからの抗議なんて受ける筋合いはない」と、我鳴りながら出て来た島村市長は、市職役員で被逮捕者の妻であるTさんを見つけるなり、飛びかかって首を絞めたのである。
 この突然の「首絞め」に周りにいた「市民の会」や「家族会」の仲間が抗議し続けるや、なおもTさんの首を絞め続けた市長を、越委労の水上委員長らが必死になって制止して市長を引き離したのである。
「なんて恐ろしいことをする市長さんだ」
「おっかないよ、これじゃ.何も市長さんに言われんようになる」
 越委労の小母さん達は、「事件」の直後にもなお「胸がドキドキした」とこの時の情景を述べている。このためTさんは、市長を「傷害罪」で越谷警察署に告訴し、同時に損害賠償請求の民事裁判を起こした。越委労では水上委員長をはじめ、何人もの組合員が「証人」として法廷に出て証言する積りであった。
 だが、島村市長は81年7月11日に浦和検察庁へ書類送検され、現場検証まで行われたにもかかわらず、82年3月2日、不当にも「不起訴」処分になった。
 だが「真実は曲げることはできない!」。何人もの越委労の組合員が、Tさんの首を絞め上げた島村市長を見ていたのだ。いかに警察が島村市長とぐるになって、「在りもしない深堀への暴行」をデッチ上げ、「現実に在った市長の首絞め」を不起訴にしようが、二つながら越委労の多くの組合員が「事実の証拠」を目撃しているという事実を否定することは出来ない(巻末資料参照)。

81年契約更新で再び解雇攻撃

 相次ぐ弾圧の中、越谷市職は自治労本部や埼玉・東京周辺の各市職労の支援を受け、また職場末端からの怒りの声に支えられて必死で闘ってきた。だが、9名の分散留置に対する救援活動と組織防衛に全力を挙げていた越谷市職の虚をついたように、島村市長は東部清掃工場のほぼ全面的な下請け化を強行し、懸案だった昼休みの窓口業務開設をも断行したのである。
 このような市長の強行姿勢を反映してか、81年度の委託契約と雇用契約の更新にあたって、日世は新たな攻撃をかけてきた。
 3月になって、再三にわたる団交要求を無視してきた日世は、市と隠密裡に委託契約を交わした。4月1日、清掃控室に前触れもなく現われた日世の管理課長松本和正は、小母さん達を睨みつけて、「今日から皆さんは日世の社員ではない。雇われたくない人はさっさと出て行ってもらいたい」と、威高丈に宣言した。
 結局この発言は、松本個人の勇み足ということで会社側が謝罪して一件落着した。だが、島村市長の威圧的な姿勢と会社側の攻勢が、小母さん達を萎縮させたのも事実である。賃上げは物価上昇率をはるかに下回る4バーセント・アップにとどまったが、「ストライキなんかやって首を切られるよりはましだ」という空気が職場に蔓延した。
 81年はそういう意味で越谷市職にとっても、越委労にとっても、市長の攻勢に押しまくられて、組織防衛に窮々とする1年でもあった。
 この年の11月の市長選に際して、市職も越委労も全力を挙げて島村再選阻止に起ち上がった。だが、越谷市職が推せんした黒田前市長は、当時の革新抬頭ムードもなく、保守陣営の島村一本化の強力なカネとカンバンによる選挙の前に、下馬評以上の大敗を喫することになった。保守市政を倒すには、従来の政党の連合による固定票の結集だけでは不可能である。越谷市のように市民の大半が「新住民」である新興都市には、それにふさわしい超党派的なフレッシュな人材と、それを支える強力な市民基盤があれば、かつての革新自治体ブームのように保守市政を打倒することは、今日でも不可能ではない。だが、組織防衛に追われる市職では、そのような「新しい波」を作り出すことは、出来なかったのである。
 市長選の大勝によって、島村市長は勢いづき、長期安定政権から中央政界入りの野望に燃えた島村市長の大攻勢が、81年末から始まった。それは、「財政再建」を口実にした、全面合理化であり、越谷市職・越委労の基盤そのものを解体せんとする本格的な攻勢であった。

4.執ような人員削減攻撃

 長く辛い日々の間に越委労の内部において、再び様々な内部矛盾が蓄積されていた。市長や会社側の力のみが大きく組合員にのしかかり、ややもすれば団結の力でそれをはね返すのではなく、消極的な自己保身で嵐をやり過そうとする「庶民の処世術」が再び頭をもたげてきた。このような状況においては、職場や労働条件に対する不満は、会社や元請けである市当局に向かわず、内にこもってくる。
「あの人がいるから、市や会社から攻撃される」
「私は一生けん命働いているのに、適当にやっている人と同じ賃金では損だ」
「自分は特別だから皆と同じではつまらない」
 このような意見が必ず出てくるものである。現に東部清掃分会では、1年の間に2人の清掃員が仲間うちから様々な欠点を追及されて辞めていった。確かに、職場の仲間から見て様々な欠点や誤りがあったことは事実である。だが、基本的に同じ仲間であるという認識、どこまでも仲間を擁護しつつ欠点は相互に補い合っていくという作風が欠けていたことも否定できない。欠点をあげつらって、それを除去すれはいいという考え方は、権力者や資本家のとる態度であって、労働者仲間がとるべき態度ではない。
 だが、市当局島村市長の権力的なやり方を眼のあたりにし、消極的な職場防衛、自己保身に走れば、必ずこのような「内部粛清」の動きは出てくる。旧埼委労東1分会の若手組合員が、病院闘争支援の「やり過ぎ」によって、埼委労全体の弾圧を招来するという単純なデマ操作によって処分されたのと似たような構造が、そこにはあった。
 1982年2月、島村市長や病院当局はこのような内部の乱れに乗じて、会社をそそのかせて新たな人減らし合理化攻撃をかけてきた。その発端となったのは、厚見管理課長の人減らし提案であった。
 2月初め、82年度の委託業務に関して話合いを要求したのに対して、次のようなやりとりが組合と病院当局との間で行われた。
厚見 今年度に関しては、委託労組だけでなく病院の経営改善を全体的な原点に戻って議論するという方向の強硬な市長方針が出ている。要はすべてにわたって採算原点(損益分岐点)に戻して洗い直せというわけだ。とにかく今のままでは医療収支だけで年間13億7千万もの赤字が出る。皆さんが電燈を小まめに消してもらっているのは感謝しますがね、それじゃおっつかねえですよ。
組合員 電気だけじゃなく、暖房なんかも暖かすぎる所のスイッチは消して歩いて、患者さんに憎まれ、そこまで病院に奉仕しなくても≠ニ言われるくらいですよ。
厚見 それも感謝しますがね、累積赤字が32億近くもあって、このままじゃ今年も5億くらい赤字が増える。こういう中ではとにかく、これ以上赤字を増やさないことが至上命令だから、皆さんにも我慢してもらわなくちゃね。
組合 それならそれで、組合に対して率直に赤字状況を説明して協力を求めたらいいじゃないか。話はしない。人は減らせと一方的に言われても納得できないよ。
厚見 話さないというんじゃなくて、委託の人に話すのは委託の会社が言うのがスジだと。これは、市長がそう言うんだから、しようがねえで。委託の労使関係には絶対に介入するなと机叩いて言われたら、オラはお手上げだよ。
組合 じゃどんなことがあっても、市長は委託問題には介入しないという訳だね。
厚見 ああそうだよ。お前らがそういう所(話合いの場)へ出て行く自体が、間違っていると言われてますよ。
組合 それじゃ今後はストをしようが、自主管理しようが、警察の力を借りて追い出すようなことはしない訳だね。
厚見 警察の力借りるなんてことは我々(病院当局)が考えることじゃねえべさ。労使の紛争によって、医療行為が実行出来ない場合どうするかという判断は、私は今は研究しなければ分らないよ……。
組合 医療行為が妨害されなければいい訳だね。
厚見 そうですよ。妨害されなければ労使紛争に介入する性格じゃないよ。することが違法であり、すべきものじゃないですよ。
 この話合いで明らかとなったのは、
@市当局は今後、委託労働者とは一切話し合わない。
A市当局は今後、いかなる「覚書」も交わさないし、これまでに組合と交わした「覚書」や「確認書」はすべて反古にする。
B労使間の争議行為には介入しないが、医療行為の妨げになる場合は、介入出来るかどうか法的に検討していく。
C市当局は委託労働者の人員削減を考えているので、82年度は委託料を上げない。賃上げしたければ人員削減せよ。そのために病院が少々汚れても構わない。
D事務当局には当事者能力がないので、市長方針の真偽については直接市長の口から聞いてもらいたい。
――驚くべき無責任・無節操である。管理課長や病院事務局長として、今までの委託差別、法違反の反省から出発して、「労使紛争」や「委託の在り方」「委託経費の節減」に前向きに努力しようという姿勢が、まるでかき消えてしまっている。
「これじゃなんのために山崎さん(前事務局長)が身体と職責を賭けて、委託問題の改善に努力したか分らない。(役人としての)人一人殺しておいて、あまりにも無責任じゃないか」。組合役員から話を聞いた市職の山本は憤慨に耐えないように言った。
 2月24日、越委労は島村市長あてに右の真偽を問うべく「公開質問状」を発した。これに対して、深堀秘書課長は「そんなもの捨ててしまえ」「委託如きが来るところじゃない」などと、公務員としての公正義務に違反する差別発言をくり返した。
 3月4日に「回答」をもらうべく市長室を訪ねた執行委員たちに対して、深堀に代わって島村市長が「うるさい」と、怒鳴りながら出てきた。「女子職員首絞め事件」が不起訴になったことが「大々的」に報道された翌日とあってか、島村は今まで以上に「恐い者知らず」の威高丈な姿勢に終止した。
「お前らとは関係ないんだ」「病院へ行けばいいでしょう」「(争議になれば)俺の方はきちんと法的に整理がつくんだ」「警察を呼ぷなんて軽い話だよ、軽い話」などと、終始くわえ煙草で、女性が大半の執行委員や組合員を喝しつけたのである。だが実際は、市長の足元は小刻みにふるえ、「秘書課室」の中へ入って、廊下で応対した特別執行委員の安原らに、「そこから一歩でも入れば訴えてやる」「庁舎は俺の管理下にあるんだ、すぐ出て行け」とわめき散らす「小心な権力者」にすぎないのであった。
 だが、このような島村市長の委託差別、高齢者切り捨て政策は、ついに委託会社からの「人減らし合理化案」となって出てきた。3月13日、かねてから社長の出席が確約されていた団体交渉の場に出席した松本取締役は、「70歳定年制」「定員3名削減」を骨子とした全面的な合理化案を出してきた。この交渉の中で松本は、「人員削減、能率給・職務給の導入は従業員からの要望」という、驚くべき発言を行った。
「年寄りが多くて若い者に負担がかかるという話が会社にあった。仕事のできる者とできない者が同じ給料では割が合わないという声が出ている」と、公然と組合員を中傷したのである。これに対して、組合員や支援労働者は口々に「誰が言ったのか」と迫ったが、「本人の名誉のためにそれは言えない」と、松本はあい昧な態度をとり続けた。
「そんなことを仲間うちから言う訳はない」
「年寄りだってみんな頑張っている。皆が一生けん命働いているのは病院だって認めているではないか」
「きれいすぎて困る。汚れてもいいから人を減らせと厚見課長が言うくらいなんだよ」
 このようなやりとりは、3月17日に内海社長が出席して開かれた団体交渉においてもくり返された。
「誰も仲間うちの告げ口をしたり、賃金に差をつけろと希望している者はいないはず」
「みんな同じ給料でいいから、誰も首にしないで下さい」
 口々に訴える組合員に対して、内海は「現場の女の人からではない」ということだけは認めたが、あくまで「密告者の存在」だけは主張し続けたのである。
「ワシがやめたらみんなの給料が上がるんだったら、ワシがやめたい」
 鈴木ミネは泣きそうになって休憩中に青木に秘かに打ち明けた。
「何言ってんだよ、ミネさん、おばあちゃんがやめたら皆やめなきゃならなくなる。定年に近い人は一杯いるんだよ。今これを認めたら、来年はもっと大幅な合理化が出てくる。自分を責めるんじゃなくて、皆のためにも絶対やめるなんて言っちゃだめだ」
 鈴木ミネは明治末に生まれて、小さい頃から人に言えぬ心酸をなめつくしてきた。戦後は「女土方(どかた)」として鹿島コンビナートや新宿副都心の現場に多勢の女性労働者を率いて参加した。現在でも病気の老夫を抱えて、「生活をかけて」働いている。耳こそ遠いが、足腰も達者で、そのキビキビした働きぶりは高齢の入院患者たちに大きな励ましになっている。元気で働く高齢者の姿が何よりも患者たちに勇気と生きる希望を与えていることを、島村市長は考えたことがあるだろうか。医療というのは、薬と技術だけで成り立っているものではないのだ。
 幼い頃から、地主の家の生まれ、我がまま一杯に育った島村慎市郎。彼が自分の養父にコップを突き出し、「水」と言うだけであごで養父を使い、井戸の水を汲ませてきたことは有名な話である。この生まれながらの「差別者」なら平気で自分の妻や母に対しても暴力をふるい、年寄りを切り捨てることが出来るであろう。
 だが、さしもの「ハイエナ企業」日世の内海社長も人の子である。ガラスふきのアルバイトをしながら苦労して学校を出て、高齢者と共にビル管理業一筋で生きてきた内海には、泣かんばかりに訴える老いた労働者の首を切ることはできない。
「働けなくなったら、自分で身をひきますよ」という痛切な訴えについに、
「分りました。70歳定年制は撤回します」と、言わざるを得なかったのである。

 眠れぬ一夜を過した清掃員たちは、翌日交渉員から「70歳定年制は撤回」という朗報を聞いて歓声をあげた。だが、詳しい交渉経過を聞くうちに、将来の厳しい見通しに再び緊張がみなぎり始めた。島村市長の委託差別、高齢者いじめが続く限り、「人員削減、労働条件切り下げ」の攻撃はくり返し、隠微な形で行われるであろう。
 今年度の「合理化」が、組合の団結で阻止されたことが明らかとなれば、市長は「日世頼むに足らず」と会社丸ごと契約から外し、暴力的に組合をつぶし、会社ごと病院から叩き出すことを画策するであろう。「深堀暴行事件」をデッチ上げ、市職三役らを「処分」し、暴力的な合理化を強行してきた島村市長の姿が、越委労の一人ひとりにはっきり焼きつけられている。
 だが、「恐れてはいられない」「大人しくしていれはやられるだけだということがよく分った」と、全体会で一人ひとりが決意を語った。
「仲間を守り、自分の生活を守るために」越委労は、再び島村市長の暴力政治、差別政治に立ち向うことになった。
 この2年間、様々なためらいや動揺はあった。今も一抹の不安はある。だが、「病院赤字解消」の大合唱が「超党派」で唱えられる時、まっさきに賃金をおさえられ、首切りの危機にさらされるのが自治体の下請け労働者である。一人ひとりの労働者が改めてこの厳しさを身をもって知ったことが大きな成果であった。
 事実、3月31日の契約更新の席上、内海社長は厚見管理課長(市長側近人事として庶務課長兼任)から、はっきりと来年度の「絶縁」を宣告されたという。
「議会や市長は、来年度ほさらに大幅な合理化・経費削減を考えている。病院の委託事業費も2、3割の削減が必要だ。日世がこのような(人員と経費の)削減を出来ないなら、来年はそれの出来る新会社に代ってもらうしかない」
 越委労の中でも高齢者の多くは、何の生活保障も財産も持ってはいない。「働けるうちは働き続けるしかない」典型的な明治生れの無産者である。これらの真面目に働き続けてきた労働者の生活と生きる権利を踏みにじることは、誰にも出来ない。いかに、島村市長や厚見管理課長が「委託切り捨て」を画策しようと、越谷市立病院にしがみついて生きていくしかないのである。
 だが、来年度には、本書で記した以上の凄まじい合理化、厳しい闘いが宣言された。力及ばずとも、闘い抜くしかない。
 行政改革の嵐吹きすさぶ委託差別の暗夜に、小さな「委託労働者組合」の旗の下に身をすり寄せた「委託の方舟(はこぷね)」に辿りつくべき岸辺はあるのだろうか。
 毎年毎年、全国各地の自治体下請け労働者の間にくり返される「委託騒動」の、これはほんの一つの例かも知れない。だがこの物語りは、「委託労働者組合」の旗ある限り、全国の自治体委託労働者たちの暗夜の一燈として語りつがれ、闘いつがれていくであろう。
(1982年4月5日 止筆)


<資 料>
組合つぶしをはねのけて

 刑事弾圧・首切り処分撤回闘争の記録

自治労越谷市職労反弾圧現地闘争本部
自治労越谷市職員組合

はじめに

 81年1月18日早朝、埼玉県警によって、越谷市職員組合の委員長以下9名の役員が不当にも逮捕されました。自治労史上にも例をみない大刑事弾圧でした。そして、9名をとりもどすまで24日間かかりました。3月7日には、副委員長以下3名が起訴され、3月31日には、反動島村市長によって、委員長以下4名に「免職」、4名に「停職」、1名に「減給」の処分が強行されました。
 この弾圧・起訴・処分の一連の攻撃は、島村自民党市長と警察、検察権力が一体となった「組合つぶし」以外のなにものでもありません。
 東部清掃第二工場をめぐる「民間委託」阻止のたたかいは、島村市長を完全に追いつめ、81年11月の市長選挙での決定的な争点として、市民の前に現われることが必至となりました。これに恐怖した島村市長は、「合法的」に警察を介入させ、一気に組合つぶしをはかったのです。
 越谷市職はこれに、負けませんでした。私たちは固い団結を守りぬきました。そして、現在、「島村市長打倒! 裁判闘争勝利! 不当処分撤回!」、を組織の総力をあげ、闘っています。
 この小冊子は、これまでの越谷市職の闘いに対するお礼と、今後ますますの御支援、御理解をお願いしたく、作成しました。不充分な内容とは思いますが、私たちの闘う決意をお汲みとり頂ければ幸いです。
1982年1月

パート・1

不当弾圧の経過

1.突然の民間委託

「直営」か、それとも「民間委託」か。これが刑事弾圧の背景にあったものです。
 80年9月24日、東部清掃組合(管理者、島村越谷市長)の理事会が開かれ島村管理者は、越谷市職との間で78年3月に合意した、新(第二)清掃工場の直営方針を、突然、全面業者委託に転換することを提案し、決定してしまいました。
 越谷市職は、この一方的な「委託決定」の撤回を求めて4市2町60万住民に公害のない街を!≠ニ訴える一方、10月から第一清掃工場では6波に及ぶ土・日超勤拒否という実力行使を背景に、業者委託阻止闘争を展開しました。
 この闘いを有利に進めるなかで、12月6日には「一部委託」の回答を引き出し、12月10日には、実質直営とも言える白石三郷市長の解決案£示までこぎつけました。
 新清掃工場の「民間委託」は、他のすべての首長からも支持されず、島村管理者のスタンドプレーとなりつつありました。追いつめられた島村管理者は、このままでは81年11月の市長選挙であぶないと判断し、ついに埼玉県警と一体となり、「組合つぶし」を実行するに至りました。
 その口実が、ストライキを翌日にひかえた11月27日、80年賃金確定交渉が妥結寸前までいった交渉の休憩時(夜9時頃)、結婚式帰りでしこたま酒を飲んで市役所に舞い戻った深堀秘書課長らが、酒の勢いを借りて、組合のビラはがしをしていたことに対する組合員の抗議でした。

2.つくられた傷害罪
 ところが、数日後、秘書課長は、市立病院の医師を使って、「2ヵ月肋骨骨折」の診断をとり寄せ、12月6日、越谷警察署に告訴したのです。もちろん、当人は11月28日から休むことなく平常どおり出勤し、階段をかけ上がっている姿も皆見ています。
 県警は、労使間題に公然と介入するため、2ヵ月も経った81年1月18日、集団暴力事件にデッチ上げ、「傷害と暴行」なる罪状で佐々木季員長以下9名もの役員を逮捕しました。そして、役員の大量逮捕による組合の機能マヒ、「組合つぶし」を強行したのでした。
 島村市長は、警察に役員を逮捕させた直後、この機とばかり一挙に「昼休み窓口業務実施」と「第二清掃工場の業者委託化」を強行してきました。

3.ねらいは組合つぶし
 逮捕から21日目の2月7日、東部清掃の業者委託反対闘争の先頭に立っていた塩田副委員長、正木書記長、矢沢組織部長の3名を狙い、検察庁は不当にも起訴をしました。
 また、当初の「傷害罪」では公判維持が困難とみて、逮捕時とは違う罪名=組合活動を思うがままに規制できる「公務執行妨害罪」を、あらたに付け加えてきました。これは、有罪となれば、禁固刑以上に処せられ、公務員の失職規定にかなう「首切り策動」でした。そして、佐々木委員長をわざとはずした起訴判断は、巧妙な「組合つぶし」といえます。
 そして、3月31日には、島村市長自らの手による「組合つぶし」の仕上げである、処分攻撃が逮捕者全員に出されたのです。

パート・2

様々な闘いを経て

1.市職のプロフィール
 1958年(昭33)の市制施行時の約5倍の23万人にふくれ上がった、埼玉県東南部、都心まで電車で1時間弱のところに位置する、越谷市。職員数2,600名。
 この街に、あたり前の労働組合をめざして闘ってきた、組合結成20年になる越谷市職員組合があります。
 越谷市職は、狭山差別裁判反対闘争を労働者の課題と受けとめ、あらゆる差別を許さない≠アとを運動の基本にすえ、反動勢力と闘ってきました。
 その成果として、差別・分断を排し、生活に根ざした、「通し号俸給与体系の確立」があります。また、臨時職員やパート職員の定数化闘争、現業職場の業者委託反対・直営化闘争あるいは委託労働者との共同闘争など、組織をあげて闘っています。
 それと同時に、越谷市職は住民の生活と権利∞健康と福祉≠守る闘いを地域の最先頭で闘い、地域に定着した労働組合として、確固たる地位を築き上げています。
 市立病院を実現するための闘い、それに続く病院看護婦増員闘争は、全国の自治労の仲間からも注目されました。また、職業病闘争を闘うなかで、保育所保母の配置基準についても、独自の基準をつくり上げています。
 越谷市職員組合は、水道委託職員と病院臨時職員を含め、1,850名です。そして、執行部、青年婦人部、現業評議会の3部で組織をつくり、県内で初めて誕生した、越谷市消防職員協議会とは、兄弟関係にあります。
 越谷地区労には、副議長と事務局長を送り出しています。

2.自民党市長の登場

 島村市長は77年11月に登場しました。時あたかも公務員攻撃の真只中のことです。「技術屋で行政能力がない」「市長の器ではない」と言われながら現職黒田革新市長有利の予想を裏切り、不動産業者の後押しで、僅少差で当選を果したのでした。
 島村市長は、父親が市長時代、黒田氏(当時市議)や市職に任期途中で市長の座を追われたという恨みをもっていました。そこで、市長として特段に打ち出してきたのが「通し号俸」の全面改悪、職場の廃止や合理化などの市職攻撃でした。
 就任直後の77年2月末、すでに組合と島村市長との間で最終的合意のあった、「給与改定条例」の12月議会提案を一方的に破棄したのです。その理由は、自治省から「指導文書」が届いたから、というものでした。このことは、翌日の大衆行動で撤回させましたが、労使の合意よりも自治省の指導を優先させる自民党市長の本質をさらけ出し、組合員から大きな不信を買いました。

3.身分移管反対で全面勝利

 78年に入っても島村市長の姿勢は改められませんでした。そればかりか、清掃差別を巧みに利用し、清掃工場の113名の「身分移管」攻撃をかけてきました。
 越谷市にある東部清掃組合は、越谷市から職員を派遣し運営されていました。
 ところが、島村市長は78年1月
 @市職員の派遣を解き、東部清掃組合独自の職員へと身分移管する。
 A新規職員の採用は、東部清掃が独自に行なう。という方針を打ち出しました。
 これに対し私たちは、分限免職をすることであり、賃金や労働条件の切り下げが起こる。清掃差別を行政自ら固定化し、助長させるものである、清掃行政の広域化を更にすすめるものである等の理由から、「身分移管反対」「清掃差別糾弾」「広域清掃行政反対」のスローガンをかかげ、派遣続行の闘いに起ち上がりました。
 東部清掃の仲間は、これまでの管理職による職場支配や差別の実態への怒りを吐き出しながら、精力的な他職場オルグや署名活動を展開しました。
 文字通り、「身分移管攻撃」は、単に東部清掃職場にかけられたものではなく、全職場にかけられた職場廃止や委託合理化のスタート台であったのです。
 島村市長は、私たちの声を聞くことも署名を受けとることも一切ありませんでした。
 私たちは「身分移管撤回」を直接、東部清掃組合の理事会へ、申し入れることにしました。
 同時に、建設が予定されている新(第二)清掃工場について、清掃事業のあり方からして、「直営」で行うべきである、と積極的に主張していくことになりました。
 多様な戦術と大衆行動の結果、理事会と市職との大衆団交を勝ちとり、島村市長はついに、次のような確認書を市職と締結するに至りました。
 3ヵ月間闘いぬいた東部清掃の仲間は、自分の生活を支える職場をこれまで以上に守り、向上させるため、労働安全衛生委員会をつくり、現業評議会を結成させる中心的な役割を担うなど、一人ひとりが「身分移管反対闘争」の自信を「仕事」の中に生かしています。
 東部清掃第二工場の運営形態は、関係市町が職員を派達し行なっていくことが、この時点で管理者、越谷市長、越谷市職員組合との間で明確に約束されていたのでした。

1978年3月24日

確認書

 本日の交渉において,下記事項について双方とも確認しあった。

1.越谷市に所在する施設においては,現在の東部清掃組合に派遣をしている定数内で市職員を派遣する。
2.新工場については,原則として越谷市職員の派遣をさけ、関係市町から職員を派遣するように理事会に提案する。
3.東部清掃組合採用職員2名の市職員への身分移管については、本人の意思を十分尊重して決定していく。
4.その他については、市当局と越谷市職と協議して決定していく。

越谷市長 島村慎市郎
東部清掃組合
管理者 島村慎市郎
自治労越谷市職員組合
執行委員長 久保正明

4.看護婦37名増員を勝ちとる

 越谷市立病院の看護婦確保は、はかどらず、開院(76年)以来慢性的な欠員が続きました。そのため月8回の夜勤という採用条件さえ守られず、月平均10回以上という職場の実態でした。
 現場の看護婦は、新潟県職労のニッパチ闘争に学び、「自分たちの健康と人並みの生活が守られなくては、患者さんにより良い看護などとてもできない」「自分たちの人間としての権利を守ることが、患者を守ることだ」と確信し、人員増を要求して起ち上がりました。
 産休や育児時間、生休や年休などの諸権利が行使できるように、権利行使要員を含んだ看護婦大量採用による十分な看護体制を、と訴えるわたし達に対し、当局がとった解決策≠ヘ唯一、患者にしわよせする「病棟閉鎖」という卑劣な手段でした。病棟を閉鎖して職員定数抑制、人件費削減を行ない、病院赤字を解消しょうというやり方は、患者切りすて、医療行政の放棄以外の何ものでもありません。
 これに対し組合は、人員増で病棟の充実、入院待ちの解消をと、当局に提案しました。そして、夜勤制限という実力行使を決意し、増員実現のため11月から、病棟の看護婦は、月8回以上の夜勤はやらないと申しあわせ、自分たちの手で勤務表をつくり上げ、当局に迫りました。
 しかし、島村市長には看護婦不足の実態を知ろうとする姿勢はまったくなく、組合との交渉打ち切りを病院当局に指示する有様でした。
 11月1日には、病棟閉鎖の「院長通達」を出させ、同16日には、事務職員、医師、管理職を大動員して点滴中の患者ごとペット移動を強行しようとしたのでした。(入院患者に何の説明もないままに)しかも当日は、病院のまわりに警察機動隊を待機させていました。
 しかし、現場の看護婦は、団結のスクラムを組み、体を張ってペット移動を阻止しました。
 こうした島村市長のやり方を目の当りにした患者さんから「ペット移動反対の嘆願書」まで現われ、入院患者を中心にたった2日間で約500名の署名が組合に届けられる結果になりました。
 夜勤なしの状態に突入する寸前の11月21日、やっと事の重大さに気づいた島村市長は、ようやく交渉の場を設定しました。
 そして、権利行使要員を含む「37名の増員」を認めさせることができ、約2ヵ月に及ぶ闘いに終止符を打ちました。

5.越谷版ウォーターゲート事件

 島村市長の医療に対する無理解と強硬姿勢によって、暗礁に乗り上げた市立病院看護婦増員闘争を解決するため、78年11月18日、組合三役と助役との間でトップ交渉≠ェ助役室でもたれました。
 このトップ交渉を隣室の市長応接室で盗み聞きして、小型テープレコーダーに録音していたのが、深堀秘書課長です。彼は、島村市長に忠誠を誓い、「秘書課長」という役職を、あたかも市長の私設秘書でもあるかのように誤解し、立ち回ってきました。そして、保身と立身のためには、物事の理非、正邪を問うことなく、ただ市長に迎合するだけの人間でした。
 このことを端的に表わしたのが、盗聴事件でした。トップ交渉に参加していた組合役員に発見されてしまった彼の行為を、島村市長も盗聴行為≠ニ認めざるを得ず、市長自らが覚書に署名をしなければなりませんでした。
 この78年の盗聴事件で、島村市長が組合に文書謝罪をしてからというもの、深堀課長の組合敵視はますますひどいものとなりました。まさに、島村市長の組合弾圧を手助けするための尖兵になり下がったのです。
 労使間のトラブルの影に、つねに深堀秘書課長の姿がみられました。それにもかかわらず島村市長は、彼を温存してきました。この両者の関係こそが暴力事件デッチ上げの基盤だったのです。

覚書

 1978年11月18日に行なわれた市立病院問題に関する交渉の際に、ひき起こされた事態に関して以下のとおり覚書をとりかわす。



1、甲は、誠意をもって団体交渉(助役交渉)に臨んでいた労使双方の姿勢を無視するが如き行為(交渉の隣室においての深堀秘書課長の盗聴行為)をしたことについて、心から陳謝する。
2、甲は、今後の労使関係の正常化について努力し今後一切このような行為をしないよう当事者に対し、適正な処置を講ずる。
3、甲は、問題のテープを責任をもって処分する.
4、甲乙双方は、本件に関して当事者間に附随的に発生した事実に関して法的措置等の手続は一切とらない。また、責任は追求しないし不問とする。
5、この覚書は、甲乙双方が責任をもって管理し、内外ともに公表しない。

1978年11月19日
申 越谷市長 島村慎市郎
乙 自治労越谷市職 執行委員長 久保 正明

(注)市当局が、深堀課長に対し、なんらの「措置」も講ぜず、加えて不当弾圧処分にふみきったため、あえて公表するに至ったものです。

6.確定闘争つぶしに妨害者を動員

 79年は春闘段階から「通し号俸防衛」を組織の最大闘争課題にすえ、自治省や自民党市長の攻撃に負けない体制づくりを目ざしました。職場集会を精力的に開く中で、充実した年休闘争、強固なストライキ体制確立への自信が生まれ、いつでも大衆行動ができる組織をつくり上げました。
 確定闘争の山場の11月、島村市長は、保守系市議候補者や一部反動自治会長を動員し、第2波目の年休闘争に妨害を加えてきました。しかし、私たちは、この妨害をはねのけ年休闘争を貫徹し、統一ストライキを打ちぬきました。その結果、給与体系を守りぬき、79確定闘争に終止符を打ったのです。
 一方、同じような給与体系をひき同じ賃金水準にあったとなりの草加市職は、今井保守市長の別動隊である反動的「市民」組織によって給与表公表攻撃がなされ、1月決着≠ゥら3月決着≠ヨと越年を余儀なくされました。
 こうして島村市長は、「通し号俸」破壊の信念≠、市長選の前年の80年に向けたのです。

7.委託労働者と共同闘争

 越谷市立病院で民間下請けされている労働者(清掃・電話交換・守衛)は、1日2,530円(最責法違反)、公休日は月3日(労基法違反)、健康保険未加入(健保法違反)などという劣悪な労働条件で働かされていました。
 そこで、越谷市職などの支援のもと、80年4月4日、越谷委託労働者組合(当時東京ワックス労働組合)を結成しました。この組合結成を知った東京ワックス(株)は、即日病院当局に対し、契約辞退を通告し、逃げ出そうとしました。
 その後の組合との団交に会社は右翼争議屋を使い、組合つぶしをねらいましたが、組合員と支援が一体となって、これをはねかえし、今までの労働者いじめを謝罪させ、ダンピング契約・ピンハネ分を「争議解決金(700万円)」ということで勝ちとりました。一方市当局には雇用の直接責任を追及し、直営化を要求して交渉を行っていきました。
 ところが、業者優先・下請け推進の島村市長は争議の原因が委託制度・競争入札制度にあることに目もくれず「新業者導入」に固執しました。あまつさえ、島村市長は自らの責任回避のため、新会社「(株)日世」と委託契約を結び、労働組合を結成した組合員を「市との契約会社が変る」ことを理由に全員解雇しょうとしました。越委労は抗議のストライキを2日間打ちぬきましたが、市長は秘密のうちに日世と委託契約を結んでしまったのです。
 越委労は雇用関係のないまま仕事する自主就労闘争に戦術を切り替え、市長や会社のやり方のきたなさを訴えつつ職場を管理した。島村市長はこの闘いに激怒して、病院に警察機動隊を入れて越委労・支援を排除し、病院の中で大混乱を起そうとしました。
 すでに市長に要請された機動隊が越谷署に待機しているなかで、5月11日夜から市職三役・社会党市議と助役・病院管理職で事態解決のため3日3晩の話しあいを続けた結果、全員雇用、労働関係法の遵守などの合意ができ確認書を取り交しました。

8.80確定闘争

 80賃金確定では、さらに巧妙で強力な攻撃が用意されていました。初任給の引き下げと東部清掃の「民間委託」(下請け化)がそれでした。
 草加では今井市長によって3月に通し号俸給が改悪されていました。これを受け、越谷の保守議員から「草加でやれて越谷ができないはずがない」と迫られた島村市長は、正面突破を避けた中期戦略をかかげ、通し号俸給改悪、それも、初任給に照準を合わせた「復元処置撤廃」(初任給切り下げ)という巧妙な賃金体系破壊を画策したのでした。
 越谷市の初任給は、77年6月議会で、1号俸切り下げられました。その後、組合との交渉で、6・6短の「復元処置」を設け、通し号俸の賃金体系を守っています。
 島村市長は、市職攻撃の尖兵である民社党議員なども使い、この「復元処置」を今年中に撤廃するようにと、6月議会で質問させたりしました。
 組合は「復元処置撤廃」が、単に「一部」の新採用者の不利益ではなく、「全体」にかけられた賃金体系破壊、賃金引き下げ攻撃であることを、職場の仲間と確認しあいました。
 時期を同じくして80年9月24日、突如東部清掃第二工場が、全面的に「民間委託」されることを、私たちは知ったのでした。
 こうして、80賃金確定は「賃金体系改悪阻止」「第二工場民間委託阻止」の2大方針をかかげて闘うことを余儀なくされました。
 私たちは、組合員の間に定着した年休闘争とストライキで「80確定勝利」を闘うことになりました。そして、団交を拒否して逃げつづけている島村市長に対する組合員の怒りはピークに達し、年休闘争2波目では、参加していた400名全員が、越谷駅から一つ隣りの新越谷駅まで電車に乗り、島村市長がいるコミュニティセンター会議場まで抗議行動を起こしました。
 第3波の年休闘争も成功し、また、東部清掃の闘いも現場組合員の実力闘争で圧倒的に有利に展開され、島村市長はとことん行政能力の無さを広く市民の間にさらけ出すことになりました。
 ストライキを翌日に控えた11月27日、全権を委任された新井総務部長は、午前10時すぎから組合側と精力的に交渉をすすめ、あとは臨時職員の諸要求の詰めを残すところまで来ました。そして、午後9時頃に休憩をもつことになりました。
 交渉会場から降りてきた組合員の前に現われたのが、酒に酔い組合のビラをはがしていた3名の管理職でした。
 これに対して、組合員は抗義をしました。深堀秘書課長(現企画課長)はビラはがしを自主的にやめたものの、自分のビラはがし行為の正当性を主張しつづけました。市民生活部長と財務課長は非を認めて、すぐその場から離れました。
 午前中から組合との交渉にあたっていた総務部長もかけつけ、事情の説明を聞いたうえで「深堀君あやまってくれ。俺の気持もわかってくれ。組合にあやまってくれ」と、深堀課長をたしなめました。
 ところが、深堀課長は総務部長の言葉にまったく耳を傾けず、無視する始末でした。80確定の決着をいそいでいた総務部長は、何とかこの場を収拾しなければならないと判断し、組合に遺憾の意を文書で表明するということを約束し、組合も了解しました。そして、再開された団交の中で、妥結をし、80確定闘争に終止符が打たれました。

9.民間委託反対の闘い

 東部清掃組合は、4市2町(越谷、草加、三郷、八潮市と松伏、吉川町)でゴミ・し尿処理を行なう一部事務組合として、65年から越谷市内の第一工場で業務を開始しました。管理者は越谷市長、他の首長は理事をつとめています。
 人口増により第一工場の処理能力がいっばいになったため、草加と八潮の境に、第二工場の建設を78年頃から始めました。
 第一工場は、越谷市で採用された職員を派遣し運営されています。第二工場についても、78年3月に越谷市職と島村管理者との間でとり交された「協定書」に基づき、草加と三郷で職員派遣を行なうことになっていました。東部清掃組合議会でもこのことはすでに承認され、予算も組まれていました。そして、第二工場を勤務地とする条件で、両市では、職員募集がなされ試験も終わり、採用者の発表を待つだけでした。
 こうして第二工場は81年4月の完成・稼動を待つばかりとなりました。
 ところが、突然、「協定書」も関係市の努力も、島村管理者によって、葬られることになったのです。
 80年9月24日、東部清掃組合の理事会が開催され、島村管理者は「第二工場は民間業者に委託」を提案し、強行決定してしまいました。この「直営」から「民間委託」への方針転換に、理事や東部清掃の中島助役をはじめとした管理職や清掃労働者は、仰天しました。
 私たちはあまりに突然な「民間委託決定」に、ただちに執行委員会を開きました。そして、次の観点から反対していくことを確認しました。
(1)協定書を一方的に破棄することは、信義に反する。
(2)すでに、第二工場で働く職員が採用され、現在、第一工場で研修中である。
(3)住民生活に直結した清掃事業が利潤を目的とした業者に委託されると、変なゆ着でゴミの不法投棄やし尿タレ流しなど、公害の心配がある。
(4)入札制度により、さらに低賃金、無権利の委託労働者をつくり出すことになる。
 そして、業者委託決定の「撤回」をくり返し要求し、島村管理者に団体交渉を申し入れました。しかし、私たちの再三再四の申し入れに対し、話し合う必要ない、と、拒否しつづけました。私たちはやむなく10月15日から自治労中央本部指令を得て、超勤拒否の闘いに突入しました。
 自治労埼玉県本部は、関係3市2町の職員組合を招集し、対策を協議し、4市2町60万人に真相を知ってもらうために、積極的な宣伝活動をとり組みました。一方、4市2町の社会党議員団が、越谷を始めとした首長に「民間下請け反対」を申し入れると同時に、住民宣伝を展開しました。
 これらの行動により、ついに、島村管理者を除く全首長が、「直営」の立場に立ちかえり、管理者への説得に廻りました。
 東部清掃の「民間委託」をめぐる労使紛争は、連日、マスコミに大きく報道されていました。「協定書」を破棄したことや業者委託にこだわる理由がくるくる変わることについて、各新聞論調も島村管理者に不信を示していました。
 現場市職組合員による超勤拒否闘争を背景にして、理事である3市2町の首長と東部清掃組合の中島助役らが「理事会決定撤回」を、島村管理者にくり返し説得しました。
 こうした動きに対して危機感をもったのは、島村市長をとりまく側近でした。次期市長選が1年後に迫っていたことから、市長が市職から追いつめられていると判断し、「市職に強硬に対応し、第二工場の業者委託を強行しろ。そうしなければ2期目の選挙は推さぬ」と保守系議員や市長側近は、島村市長に威嚇をかけていました。
 窮地に立たされた島村管理者は、前々市長であった父親の轍を踏まないために謀略を考え出しました。それが、組合つぶしでした。
 (前々市長である島村平市郎氏は東部清掃の公害問題で、市職の追及にあい任期途中で、辞任に追い込まれた)
 協定破棄が原因で起ったゴミ処理の停滞を焼却業者を導入して超勤拒否闘争をつぶそうと考えたのです。無論、市職の反対にあうことを考えに入れ、警官隊に守らせながらのことです。そして、その時起こるであろうトラブルをフレームアップして刑事事件にデッチ上げ、一挙に、「委託阻止」の闘いと市職そのものをつぶそうと企てたのです。
 ところが、この強行策は、現場の管理職とすべての理事から猛反対にあってしまいました。そして、島村管理者ひとりに任せておいたら事態の解決はできない、と判断した5名の理事たちは、管理者を除いて会合をもち、三郷市の白石市長が中心となり、紛争の「解決案」をまとめあげました。これが後にマスコミから白石案≠ニ呼ばれ、長びいた第二工場業者委託紛争を一挙に解決できるものでした。
 しかし、理事会の席で島村管理者は、「皆さんの考えは分りました」といい残しただけで、この案さえにぎりつぶしてしまったのです。
 この時、島村市長の頭の中に、刑事事件のデッチあげによる第二清掃工場民間委託強行突破のスケジュールがすでに確定していたのでした。

確認書

東部清掃組合第二工場の民間下請に関する本日の団体交渉で下記のことを確認した。

1、1980年9月24日の理事会で、従来の方針を突然変更し、第二清掃工場の民間委託を決定したところであるが、従来から清掃業務は直営化が正しいとの認識に立ってきているので、この決定については、東部清掃組合事務局一同反対である。
 具体的理由として、
(1)清掃業務は自治団体の固有の事務であること。
(2)市職員組合との確認書があり、これは相互に守るべきものであること。
(3)第二工場建設に伴い、地元からの、職員採用についての経過があること。
(4)直営方針に従い議会答弁してきた経過からみて、理事会決定は議会軽視につながること。
(5)民間委託は、職業安定法違反(人出し稼業)になり、技術的に見ても直営方式が良いこと。
2、民間委託反対の要望書を東部清掃事務局管理職連名で東部清掃管理者及び各理事全員に提出する。
3、委託を実行してゆくための一切の事務手続については、これを凍結する。
4、今井草加市長及び鈴木八潮市長と、市職員組合との話し合いの場を今月(10月)中に設定する。

1980年10月2日
東部清掃組合
助役 中島与兵衝
事務局長 会田智彦
技監 下平一郎
管理課長 植竹佐吉
施設課長 角田義久
越谷市職員組合
執行委員長 佐々木 浩
越谷市職現業評議会
議長 川島勇次


パート・3

反撃の闘い

1.組織防衛と救援活動

 役員9名の大量逮捕という自治労運動、県内労働運動史上まれにみる大弾圧の中、あるいは県内9ヵ所(草加・越谷・春日部・岩槻・大岩・浦和・上尾・蕨(わらぴ)・武南(鳩ヶ谷))に分散拘留された各役員に対する差し入れなどの救援活動は、市職を支援する地域の仲間と県本部・各拘留先市職の協力を得て、即座に万全の体制ができあがりました。
 残った役員は「9人を1日も早く取りもどさせ家族の手に職場に・私たちのもとへ」を合言葉に団結を固めました。また、「いっさいの処分を許さな」いことを目標に反撃行動を開始しました。
 加藤副委員長を委員長代行とする臨時執行体制を発足させ、全役員(執行部・青婦部・現評)が一丸となって、毎日ビラを発行しました。また、年休の役員が班を編成し、毎日、午前・午後と息つく間もなく職場に入りました。そして、拘留されている9名の様子を伝えながら、刑事弾圧のねらいと不当性を訴え、組織動揺を防ぎながら、さらなる団結を訴えて回りました。組合事務所にもどってからは、その日の反省と弁護団から接見内容の報告を受け、翌日の行動を決め、確認し合ってから帰途につくという、寝食を忘れた生活がつづきました。
 警察は9名の逮捕にとどまらず、その後、16名の役員に対し任意出頭攻撃と家族に対するいやがらせをしつこく繰り返し、団結の乱れをねらってきました。しかし、誰一人応じる者もなく、役員はひたすら組合を守りぬくことの一点に集中し行動しました。これを支えたのは、拘留されている9名のガンバリでした。
 朝は9時から夜も10時を過ぎるまでという長時間の厳しい取り調べにも負けず、必死で闘いぬいている9名と残された役員の気持ちがひとつになることができたのです。
 テレビや新聞で、役員逮捕を知った職場の組合員も19日から9名の即時釈放のため自発的に、しかも積極的に行動しました。特に、逮捕された役員の職場を中心に、カンパ活動や差し入れなど、組合員の一人ひとりが不当な組合つぶしに負けられないという気迫をこめて動き出しました。
 逮捕後3日目の1月20日の支援者会議(各職場のまとめ役を中心にした会議)には、200名が参加し、組織強化のため職場連絡委員会づくりの方向性が出されました。
 1月22日には自治労中央本部の中央執行委員会において、藤井副委員長を本部長とする「現地闘争本部」が設置され、沖縄市職の首切り処分撤回闘争とならんで、自治労120万の闘いへと、大きく輪が広がりました。
 自治労県本部の指導はもとより、県評地区労、社会党などの力強い支援によって運動はいっそう盛りあがりました。
 全国の自治労の仲間をはじめ、支援労組・団体から組合と逮捕された役員の家族のもとに、激励のハガキや電報・手紙そして檄布も送り届けられ、勇気づけられました。
 1月26日の拘留理由開示裁判傍聴行動(於浦和地裁、バス2台)を成功させ、ひきつづき同夜の説明会には600名の参加を勝ちとりました。そして、逮捕以来わずかな期間のうちに17名の新規組合加入者を勝ちとり、組織動揺どころかむしろ組織の拡大に自信を持ちました。
 1月29日には第1回職場連絡委員会が200名の参加で開催され、9名の仲間の即時釈放と島村市長が公言している断固たる処置≠許さないための具体的な行動を決定しました。家族を中心に「島村市長に反省をもとめ、市職員9名の即時釈放を要求する署名」行動を決め、連絡委員が取りまとめ役になり、組合員1人に1枚渡し、1万人署名を目標にしました。
 その結果、今までにない程署名の回収が良く、第1次集約(2月5日)の段階で7,000名を越える署名を集め、翌6日に島村市長のところへ届けに行きました。
 島村市長はどうしても受け取りませんでしたが、市長に対し、組合の組織力と市民とのつながりの探さをはっきりと見せつけることができました。この家族を中心にした署名活動は、刑事弾圧の不当性と島村市長のファッショぶりを、確実に、地域住民に伝えることができました。
 また、組合員ばかりでなく、不当にも逮捕された役員の家族も「家族会」を結成し、島村市長に抗議するなど精力的に行動しました。
 拘留期限の切れる2月7日は、四週五休制試行以来初めての土曜日の午後の集会でしたが、1,000名規模の抗議集会とデモを成功させました。
 当日、3名の起訴と6名の釈放(処分保留)が報告されました。この3名起訴は、さらに巧妙な組合つぶし攻撃≠ナした。県警と島村市長は、3名の起訴と6名の処分保留により、組合活動全体を封じ込め、役員をいつでも処分(起訴)できると恫喝をかけてきたのです。
 私たちは、3名起訴に対し、自治労弁護団と共に裁判闘争を闘いぬく決意を固め、また、今後予想される行政処分に対し、これを絶対に許さないことを確認し合いました。
 2月9日には、夕方から、不当拘留報告集会をもち、7日に釈放された委員長以下6名の役員から、取り調べの様子について報告を受けました。
 6名はそろって「組合役員をやめろということが取り調べ内容のほとんどであった」と報告し、今回の刑事弾圧がまったく、組合つぶしを目的としていたことが、参加者全員の前で一層はっきりとさせることができました。
 2月10日には起訴された3名も保釈を勝ちとり、1月8日の不当逮捕以来24日ぶりに、ようやく9名全員を私たちの手にとりもどすことができました。

2.3・7大集会

 2月20日に第3回職場連絡委員会をもち、一人の首切りも許さない団結をつくり上げ、「行政処分と職場合理化を阻止し、島村市長に打ち勝つ3・7大集会」を成功させるために、全力をそそぐことを確認しました。
 2月25日には「首切処分反対、2・25団結集会」をもち、180名を越える組合員が参加しました。
 3月5日には、業務委託反対でストライキを打ちぬき、不当な首切り処分を受けた沖縄市職の照屋委員長を囲み、交流集会をもち反弾圧の闘いを学びました。
 関東甲信越の3・7大集会は県評、地区労の支援もうけて市役所玄関前広場を約3,000人の参加者で埋めつくしました。集会後のデモは越谷の労働運動史上最大のものとなり、市民の関心を集めました。

3.不当処分を粉砕するぞ

 私たちは大衆行動の連続で団結力を誇示しましたが、3月31日、ついに反動島村市長は、佐々木委員長、塩田副委員長、正木書記長、矢沢執行委員の4名に対し「懲戒免職」残りの5名の役員に対し「停職・減給」という、まったく不当な行政処分を強行してきました。1月18日の不当逮捕に始まった組合つぶしの総仕上げとして、処分権を最大限に利用(濫用)した島村市長を、絶対に許せません。
 この処分強行により、私たちの闘いは「島村市長打倒・裁判闘争勝利・不当処分撤回」へと突入しました。
 5月の第20回定期大会では、役員体制強化がはかられ、大成功のうちに終えました。
 また、裁判闘争は、毎月1回のペースで進行し、常にバス3台を連らねて、浦和地裁まで傍聴にかけつけるとともに、浦和駅頭で広く県民に呼びかけも行なってきています。
 法廷にのぞむ3名は、これら支援者・家族会の人たちに支えられ、元気に闘っています。
 私たちは、裁判闘争勝利、不当処分撤回の闘いを、組織の総力をあげて闘いぬきます。
 長崎県福江市職・沖縄市職の不当処分全面撤回の勝利に続き、この闘いを私たちも日本の平和と民主主義、そして何よりも地方自治を守る闘いとして位置づけ勝利させます。
 同時に、私たち越谷市職は団結を更に強化して、今後一切の組合つぶし策動を許さないことを全国の仲間の皆さんに固い決意をこめて宣言します。

これまでの公判経過

 1981年(第1回公判)
 5月28日 冒頭責見陳述 不当起訴された塩田、正木、矢沢の3人がこの起訴は「島村市長と埼玉県警、検察が、当時清掃工場の民間委託と80確定をめぐって島村市長が孤立化した形勢を逆転しようと、図った権力側の弾圧である」と約2時間にわたって意見陳述した。
(第2回公判)
 6月28日 弁護団による意見陳述 自治労弁護団の鎌形弁護士をはじめとする5弁護士が、@埼玉県警の治安警察的体質の暴露、A公訴権の乱用、組合活動の正当性と市長の組合敵視などを陳述。
(第3回公判)
 7月14日 3警官に対する証人尋問 藤間敏(県警警備課)をはじめ、事件にたずさわった警察官が作った文書作成の経過、手続、真偽について尋問した。
(第4回公判)
 7月28日 検事側証人尋問 島村慎市郎(市長)「公務執行妨害罪」を成立させるために、深堀秘書課長のビラはがし行為に、市長命令があったことを強弁。
(第5回公判)
 9月8日 検事側証人尋問 証人(島村市長)の都合で中止
(第5回公判)
 10月20日 検事側証人尋問 深堀武夫(秘書課長)市長命令を受けて、ビラはがしをしたこと、結婚式の帰りでも酒に酔っていなかったと主張。3被告に「暴行傷害」の具体的行為をあてはめて、活劇風に供述。
(第6回公判)
 11月24日 弁護人側反対尋問 証人・島村慎市郎 市長のこれまでやってきた労使協定の一方的破棄等、組合敵視政策を背景に、ビラはがし行為の「公務」のあいまい性を追及。
(第7回公判)
 12月22日 弁護側反対尋問 証人・島村慎市郎 前回に引き続き、ビラはがしの「公務」のあいまい性を追及。又、深堀秘書課長が市長の組合敵視の尖兵の役割を担ってきていることを「盗聴行為」などの事例で明らかにした。
1982年(第8回公判)
 2月16日 弁護側反対尋問 証人・深堀武夫

※以降、浦和地裁での公判は月1回のペースで行われている。

越谷市職の闘いの歴史
(1977・3〜1979・11)
〔1977年〕
 3月 1976年10月役員の大量辞任があり、組合の存続をかけて、6人体制で組織を立てなおす。3月に執行体制を確立。
 7月 市立病院栄養科調理員、退職強要(首切り)問題。椎間板ヘルニアで手術をうけ入院、1977年6月に職場復帰することになっていたが、栄養科長から退職強要された。調理員Sさんは、組合とともに立ちあがり、7月18日から、健康を考え外来受付の職場につくことになった。
 8月 「退職勧奨」反対の闘い――76確定の中で出された「退職勧奨」実施について、77年実施は阻止。制度化の撤回はできなかったが、強制、強要させない、実質希望退職制として認めさせた。
 保育所定員闘争と職業病の闘い――「倒れる前に人員増」を合い言葉に定数基準を確立させ、給食調理員を大量増員、保母を各個所に1名ずつの増員を勝ち取る。現在は、職業病に倒れた患者を中心に、審査会認定闘争を闘っている。
 11月 島村慎市郎市長、当選。組合敵視の攻撃始まる。
 〔1978年〕
 3月 東部清掃身分移管反対の闘い――東部清掃は、4市2町で構成されているが、越谷で職員を派遣している。それを、東部清掃が独自に採用し、派遣されている職員を身分移管しようとした。これに対し、工場内デモやステッカー闘争、大衆団交により、組合は、全面的勝利をした。
 8月 下水道処理場の闘い――弥栄処理場の塩素ガス漏洩事故を機に、安全対策と、複数配置をかかげて闘い、職場環境の改善と複数配置を勝ち取る。
 9月 市立病院の人員増闘争――「看護婦の夜勤回数が複数月8回以内」=2・8体制が守られず、欠員状態が続いた。こうした中で、看護婦が立ちあがり、座り込み闘争、夜勤制限闘争の大衆的闘争に対し、警察権力導入の動きがあった
が、導入を許さず37名の人員増を勝ち取る。
 10月 浄水場の廃止、「集中管理反対」の闘い――浄水場の一部廃止、管理センターで遠方制御、集中管理の合理化攻撃に対して、集中管理反対、職場の改善、夜勤回数緩和の闘いを組み、4名の増員を勝ち取る。
 市費事務補助員の闘い――職務内容の明確化、欠員補充などをかかげて闘う。学校事務部会を組織し、活動的部会として成長。
 青婦部再建――76年から1年半の機能停止があった。主に、レクレーション、文化、学習活動を行う。活動家が育っていく。
 臨時職員の闘い――同じ仕事をしているにもかかわらず、臨時ということで、労働条件が著しく悪い。臨職協を結成し、正職化闘争、労働条件改善、賃上げの闘いをする。
 11月 一時金削減、6・6短廃止、賃金体系(通し号俸)改悪に対し、大衆団交、3波の年休闘争(1回づつ3百人を越える参加)、ストライキを配置して闘う。保守系の市議候補、自治会長などが集会妨害に出てきたが、整然と行動し、78確定に勝利する。
〔1979年〕
 1月 消防職員協議会の結成――団結権を奪われる中で、労働条件改善のために立ち上がることもむずかしい状況の中、78年から準備会を結成し組織化、関東で2番目の消防職員協議会を結成した。
 2月 保育所、反所長の闘い――職業病認定闘争の盛り上がりに、危機感をいだいた市当局は、保育所に所長を配置することをもくろみ、市民の反対を押し切って実施する。それに対し、保育所職場委員を中心に、大衆的闘いで、職業病に対する当局の認識を変えさせ、病休代替期間の短縮、所長の権限を越える行為に対する摘発などの闘いを進めた。
 11月 越谷、草加2市が一体となって、通し号俸改悪、一時金削減、6・6短廃止、人勧不実施等の攻撃をかけてきた。市職は、大衆的動員をもって市長への団交申入れ(3波)、年休闘争(3波)、初めての秋闘2時間スト(1,000人)、4時間ストを配置して闘い、通し号俸を守った4時間ストを前に警察が動き、市民課職員の大部分に威嚇の脅迫の電話が入る。1月〜2月にかけて、警察への抗議をする。


あと書き――1982春の状況と展望

 この物語は地方自治体の下請け労働者が、「下請け差別」「現業差別」にこり固った地方権力者に対して、膝を屈せず闘い抜いた記録である。
 今日、「行政改革」の名のもとに、福祉切り捨て、弱い者いじめの政治が全国的に行われ、ますます激化していきつつある。自治体内部において、それは為政者たちの言う「単純労働」「補助的業務」の下請け化(いわゆる業務委託化)の推進として現われる。ゴミやし尿の回収・処理や、庁舎管理(清掃、守衛、電話交換・設備保守)などはもとより、住民票コピーや計算事務などの下請け化・外注化・コンピューター化がどんどん進んでいる。
 全国で何百万人もいる公務員労働者の労働組合は、業務の下請け化・委託化には反対しているが、合理化の大波を防ぐことは容易でない。まして下請け労働者を組織し、下請けの直営化を要求する闘いは、今日では極めて難しくなっている。
 このため、未組織の下請け労働者の労働条件は年々悪くなるばかりで、合理化のしわ寄せを一方的に受けている。高齢者や女性パートが多いことも条件悪化に拍車をかけ、今日では「高齢者事業団」や「管理公社」などによって、委託業者ぐるみで整理されるというところまで来ている。全国どこのお役所や病院に行っても見かける「おそうじ小母さん」の多くが、このような不安定な雇用のもとに劣等な労働条件に苦しめられて働いている。
 この物語は、そのような「おそうじ小母さん」と「電話交換手」たちの権力政治に対するささやかな叛乱の記録である。労働組合の活動経験はおろか、労働組合のある職場で働いたことのあることもほとんどいない。このような労働者が生まれて初めて、ビラまき、デモ、座り込み、大衆団交などを無我夢中でやり抜いた。そして少しずつ、自分たちの労働の意義、闘うことの意味を知り、自分自身の人生の価値を考え直すようになっていったのである。かくて、今も続く職場の自主管理への長い困難な闘いが開始されるに至ったのである。
 1982年度の委託契約は、3月31日ギリギリまでもめ続けた.島村市長が「委託料のすえおき」を指示し、「賃上げしたかったら人減らしをせよ」と大号令をかけ、「ストをするような組合は会社ごと放り出してしまう」という強硬方針を掲げて、病院当局にハッパをかけたからである。そして「委託労働者と話し合う筋合いがない」「過去の市の組合に対する確認書や覚書きは(交すこと自体が間違いだったのであり)すべて無効とする」という、問答無用の「委託切り捨て」を表明するに至った。
 本年度の委託契約は、病院・会社の人減らし合理化を撤回させたかわりに、委託料・賃上げは1パーセントしかアップしなかった。だが来年度はもっと大幅な合理化攻勢は必至である。すでに市長は(組合に抵抗できない)委託会社を労働者もろとも整理し、市長のお好みの某私鉄系列のピンハネ会社を導入しようとしていると伝えられている。
 そして、越委労が当然にもこれに抵抗し、(市と会社の契約解除後も)職場での自主就労を続けるならは、再び権力の手を借りて組合員全員を病院から叩き出そうとしている。厚見管理課長(本年度より病院庶務課長兼任)によれば、本年度も市長にはその意向があったのをかろうじて「時期早尚」として押しとどめたもので、来年度は「市長方針をおさえきれない」という。
 負債30数億の病院経営の悪化は政府の自由開業制と医療費点数出来高払い政策と、土木屋あがりの島村市長の見栄による過大な公共投資(医療より道路・施設を!)のせいである。そのしわ寄せをもっとも弱い立場の下請け労働者に一方的に押しつけるやり方を、越委労は絶対に認めないであろう。
 82年度は、この物語に記された2年前の闘争以上の大闘争となるであろう。それは単に、越委労組合員の生活と雇用を守る為だけではなく、全国自治体のとどまるところを知らない下請け合理化の大津波に抗する激烈な闘いの一つとなるであろう。それは明治近代化政府以来、百年間にわたって連綿として続いて来た「生産力・技術偏重の官僚政治」との闘いでもあるからだ。
 「誰のための政治」「誰のための政府」「誰のための地方自治」か、が生活と労働の現場で生身を削る闘いとして、問い直されるであろう。それは、近代資本主義に対する「無告の民」の造反となるであろう。ささやかながら、越委労の労働者の闘いと命運を共にしてきた者の一人として、この「歴史的な闘い」の重さに身のすくむ思いにかられながら、「モップとダイヤルの叛乱・その1」の筆を置く次第である。


1982年3月31日
竹の子ニュース編集部(水輪三界)
モップとダイヤルの叛乱 定価1500円
1982年5月20日 第1刷発行
編 著 竹の子ニュース編集部
    越谷委託労働者組合
協 力 自治労・越谷市職員組合    埼玉学校委託労働者組合
発行所 JCA出版
     東京都千代田区神田神保町 1−42 日東ビル
     〒101電話03(292)0401 振替東京7−147755
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